さて、3月18日~24日までの災害派遣について報告をさせていただきます。被災地の悲惨な状況が、少しでも伝われば幸いです。
(津波により壊滅した南三陸町。国道45号線から唯一残った町役場を見る。1週間前まではこの場所には街並みがあったのだ。グーグルのストリートビューで見れば、津波襲来以前の街並みが見れます。)
(陸前高田市。この情景をどこかで見たことがあると思った。そうだ、広島の原爆資料館で見た街並みだ。)
(気仙沼市鹿折地区。津波襲来で町が壊滅。そのうえコンビナートが倒壊し、流れ出した重油が引火して火の海に。)
(南気仙沼駅前。破壊された街並み。ここは本当に日本なのかと疑いたくなる。)
今回の活動内容は、東京、茨城、岡山の皆様からお預かりした緊急救援物資を、公安委員会の許可のもと輸送し、各避難所へ届けました。
活動期間は1週間。民間企業の緊急救援物資輸送という目的のもと、災害救援ボランティア推進委員会の会員(防災士)として、現地で時間と燃料の許す限り支援活動を行うというものでした。
被災地で救援物資を降ろした後、気仙沼市役所の災害支援として、空荷になった車両を使用した輸送ボランティアを実施。
地元ボランティアさん達や医療・行政関係者を市内の要所へお送りいたしました。
現地ではガソリンが不足していて、行政側も車両が出せなかったので大変ありがたがれました。
(気仙沼市役所庁舎前で出動待機中。)
災害ボランティアについて、よく耳にする言葉がある。
「ボランティア達が大挙して押し寄せて、結果、現地のリソースを食いつぶし被災地の負担になっていると聞くが?」
確かに過去の震災では何度か目にした光景です。私達は阪神大震災のボランティア活動開始時より、完全自己完結の装備で現地入りしています。
(まぁ釣り以外にも趣味の正月極寒キャンプ等で馴れているので…)
Q.現地ではガソリン不足なようだが、我々のガソリンはどうしたのか?
毎日業務終了後、片道80キロを走り東北自動車道のサービスエリアのスタンドで給油しました。東北道は緊急交通路に指定されており、許可車両以外は流入規制が掛かっていたので、我々のような緊急車両は東北道ではガソリン供給に問題はありませんでした。ただ、毎日のように被災区域を通過して長距離を通うのはキツかったですね。雪も降ったし。
被災地周辺でも緊急車両のみに給油を行うスタンドありましたが、もちろん最優先すべきは地元自治体の緊急車両ですので。我々はボランティアですし。なので、被災現地での燃料調達は一切行いませんでした。(一部マスコミ関係者は消防車の列に割り込んで給油を受けてましたがね。ウチらは現地での給油は不可能であると覚悟して、帰りの分の燃料は携行缶に入れて東京より持参しましたが、結局給油問題が解決したので、必要な分以外は被災者へ提供しました。)
Q.宿泊や食事はどうしたのか?
寝泊まりは東北自動車道のSAで車中泊。その他テントを持参しておりますので、寝るときは車内の荷物をテントへ移動させます。糧食は東京より持参です。飯盒炊爨用の米も用意。東京で入手困難だったカップ麺を、出発前日、妻がスーパーに並んで調達してくれました。(もちろん必要最低限の分量だけですが、買占めをしているようで後ろめたかったとか…スマン)
あと、一関インター周辺の宿が営業を再開したので、風呂に入るためにそこにも泊まりました。
食事に関しては、東北道のサービスエリアが、救援物資を運ぶ緊急車両のドライバーや、これから被災地へ向かう救助活動関係者の為に24時間営業をしてくれたおかげで、朝夜は暖かい食事が食べれました。
朝、出発前に、お昼ご飯用にライスを注文するとおにぎりにしてくれたり、日によっては炊き出しの無料配布をしてくれたりと、彼らも間接的に被災地支援をしてくれていたのです。彼らの「がんばって、行ってらっしゃい!」の言葉に毎日励まされました。
(気仙沼市の救援物資集積場。毎日多くの地元学生たちがボランティアで働いておりました。彼らに伝えました。「戦後、日本は数多くの自然災害に見舞われてきたが、どの街も再生してもっといい街に生まれ変わってるんだ。生き残った君たちが頑張れば、必ず街は再生する。その為には俺たちも手伝うからね」と。)
で、今回、被災地入りの為に飯盒炊爨用の米とカップ麺を用意していった訳ですが、結局ロジスティックの心配がないことが分かり、当然ながら救援物資として、物資不足で困っていた独居老人達に差し上げました。
このように、被災現地でのリソースには一切手を付けずに、自衛隊や消防と同じようにロジスティックは自己完結で活動しました。
これを言うと皆さん「そこまでやるのか」と、一様に驚かれますが、この時期に救援ボランティア活動を行う団体には、ごく当たり前のことなのです。(各団体のボランティアのプロ達が先遣隊として乗り込み、支援活動の道筋を付ける時期なのです。)
今回の派遣では総走行距離2700キロでした。海水が引かない瓦礫の山を走り回りましたが、よくぞ車が耐えてくれたと思います。
当初、派遣がなかなか決まらずにイライラしていておりましたが、出発までの1週間、ほとんど寝ずに情報の精査と物資調達に走り回りました。
なので、派遣許可が下りた時は涙が止まりませんでした。辞表まで用意して出発を強行しようともくろんでいたので。
そして、余震や計画停電におびえながら留守を守ってくれた妻や、1週間の不在を快く送り出してくれた当社の社員達。この人たちも間接的に被災地支援をしてくれていたことに気がつきました。みんな本当にありがとう!
突然の自然災害で、志しなかばで亡くなられた方々の無念を思うと、ご冥福を祈らずにはいられません。
そして被災者の皆さんが一日も早く、笑顔で暮らせる日を迎えられるように願っております。
今回の災害派遣に対して物資面でご支援いただきました皆様:
(株)イタコマリーナ様・サンハルク(株)様・フォーセット様・LEAD様・JB霞内田プロ・立川西通り西商店街様