いつの間にか4月に突入していました。3月9日から始めた日記、まさか毎日書いて次の月を迎えるとは自身考えていませんでしたが、これからもあまり気合いを入れすぎずに綴っていこうと考えています。
さて、今日は日曜日、花見の方も多かったことでしょう。この季節になると、ヒットチャートを桜にまつわる歌〈桜ソング〉が席捲します。桜の花びらがはらはらと散りゆくさまと自らの恋愛を重ね合わせて別れの切なさを歌い上げている曲が多いですね。そこにはいわゆる「無常感」という日本の美意識が流れているのでしょう、悲しさをしみじみと味わう世界があります。しかしそれはあくまで悲しさにひたりつつもどこか客観的な風景です。はかなさにひたりつつも美しい思い出としてそこで終わるのです。しかし花が散るという事実が自身の命の行く末のすがた・問題と重なるとき、それは『無常"観"』として捉えることが出来るようになります。我々はどこまで『観』として考えているでしょうか?その点からもっといい桜に関する歌がないものかと探しておりましたが・・・・・、あるじゃないですか。
「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半(よわ)に 嵐の 吹かぬものかは」
浄土真宗の開祖、親鸞聖人が9歳で得度されたときに詠まれた歌であるといわれます。時期はちょうど今頃、桜が満開の時でした。
さて、今日は日曜日、花見の方も多かったことでしょう。この季節になると、ヒットチャートを桜にまつわる歌〈桜ソング〉が席捲します。桜の花びらがはらはらと散りゆくさまと自らの恋愛を重ね合わせて別れの切なさを歌い上げている曲が多いですね。そこにはいわゆる「無常感」という日本の美意識が流れているのでしょう、悲しさをしみじみと味わう世界があります。しかしそれはあくまで悲しさにひたりつつもどこか客観的な風景です。はかなさにひたりつつも美しい思い出としてそこで終わるのです。しかし花が散るという事実が自身の命の行く末のすがた・問題と重なるとき、それは『無常"観"』として捉えることが出来るようになります。我々はどこまで『観』として考えているでしょうか?その点からもっといい桜に関する歌がないものかと探しておりましたが・・・・・、あるじゃないですか。
「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半(よわ)に 嵐の 吹かぬものかは」
浄土真宗の開祖、親鸞聖人が9歳で得度されたときに詠まれた歌であるといわれます。時期はちょうど今頃、桜が満開の時でした。