イリアーデの言霊

  ★心に浮かぶ想いのピースのひとかけら★

オスカル・クロード・モネ Oscar Claude Monet

2014年08月01日 18時39分24秒 | Weblog

1840年11月14日 - 1926年12月5日| フランス| 印象派
没年86歳

モネは、印象派の中で最も名が知られた同派を代表する巨匠のひとり。印象派を代表するフランスの画家。時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。自然の中で輝く外光の美しさに強く惹かれ、その探求と表現に生涯を捧げる。混合させない絵具での色彩分割とも呼ばれる細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法「筆触分割」により自然界の光(太陽光)と大気との密接な関係性や、水面に反射する光の推移、気候・天候・時間など外的条件によって変化してゆく自然的要素を巧みに表現した作品を手がける。戸外風景を描いた作品が主要であるが、人物画や室内画や静物画なども残すほか、「積みわら」「ポプラ樹」「ルーアン大聖堂」「睡蓮」など画家の代表作となる連作的作品も多い。

モネは印象派グループの画家のなかではもっとも長生きし、20世紀に入っても「睡蓮」の連作をはじめ多数の作品を残している。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。

本人がオスカルの名を好まなかったため、通常は「クロード・モネ」と名乗っていた。但し、改名したのかどうかは不明である。

1840年、パリのラフィット通り45番地で食品雑貨商の家に次男として生まれ、経済的状況からセーヌ河口の港町ル・アヴールに転居。10代中頃には絵の才能を見せ始め、1858年、18歳で対岸で活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンから自然の中に潜む美を学び、同氏と共に屋外での制作活動を始める。またオランダ出身の風景画家ヨハン・バルトルト・ヨンキントの作品からも影響を受ける。翌年、本格的に絵画を学ぶためにパリへ出て自由画塾アカデミー・シュイスに入り、この時、同画塾でカミーユ・ピサロと出会う。1860年に兵役で入隊するも病にかかり帰家、1862年に入ったシャルル・グレールの画塾でルノワール、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールらバティニョール派(後の印象派)と呼ばれる画家たちと知り合い、共にフォンテーヌブローの森で作品を制作した。1863年エドゥアール・マネがサロンに出品した「草上の昼食」、1865年に出品した「オランピア」に示される伝統破壊的な絵画表現に注目、同氏と交友をもつようになる他、同年この4人で同画塾を去る。この頃、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベの作品にも感化を受け、度々サロンに作品を出品しサロンから賞賛と拒否の評価を繰り返すも依然として経済的困窮が続く。1870年最初の妻カミーユ・ドンシューと結婚、1ヶ月後に普仏戦争が勃発したためにロンドンへと亡命、同地でターナーやジョン・コンスタブルらの作品から空気遠近法や色彩の表現技法を研究し、翌年オランダを経て帰国した。

1872年、代表作「印象 -日の出-」を制作した。1874年に開かれた第一回印象派展でモネが出典した「印象 -日の出-」を批評家ルイ・ルロワがル・シャリヴァリ誌で嘲笑する記事を寄稿し掲載されたため、バティニョール派らを始めとした賛同者たちは「印象派」と呼称されるようになる。1879年、最初の妻カミーユが死去。1870年代は未だに困窮が続いていたが、1880年代で展示会が大成功するなど経済的に豊かになる。以降、ロンドンを数回訪れながら精力的に作品制作と展示会(彫刻家ロダンとの合同展も開催している)を開催し、1892年にアリス・オシュデと再婚。1910年代初頭に白内障を患い、一時的に作品制作の意欲が著しく衰えるも手術で回復し、最晩年には最後の大作「睡蓮」の大壁画を手がけた。1883年から借家で住み始め、1890年には買い取ったジュヴェルニーの自宅兼アトリエで1926年12月6日に死去した。


 印象-日の出-(Impression, soleil levant)1872年


 散歩、日傘をさす女性(La promenade, La femme à l'ombrelle)1875年


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