不登校に「理解」や「共感」をもって接近してくる人たちがいる。
たいていの場合は同情にすぎない。その人たちは気休め、自己満足他者不満足型のアドヴァイスや援助を申し出る。うまくいかないと、「あなたのせいだ」と目の前の本人を責める。あるいは、自分好みの信仰や信念をイデオロギ-注入することもある。
本人が本気で抑圧に立ち向かおうとする。冗談ではなく本気で個性的に生きようとする。そうすると真っ先に怒りを示し、やみくもに反対してつぶそうとするのもこの種の人々だ。
この人たちは悲劇に弱い。おそらく恵まれて育ったのだろう。目の前の悲惨に魅入られたてしまう。そして激しく感動する。
大いなる悲劇の主人公の魅力に長期間とりつかれる。ゆえに問題が起こる。
相手が悲劇の主人公ではなく勝利する英雄になったら、あるいはなりそうな予感を覚えると、手のひらを返したように相手に非協力的になり、敵対する。陰湿な方法も含めて足を引っ張り、侮辱し、なまぬるく暑苦しい同情によって相手をスポイルする。そのためにウソをついたり、だましたりすることも日常茶飯事だ。
さらに、そういったことをやらないことを「社会的知能がない」、または「コミュニケ-ション能力がない」といったマイナスのレッテルを貼って排除することもやってのける。
相手が成功すること、自立すること、幸福になることは、すべて気に入らない。ただひたすら悲劇の美学に酔って、悲劇を再生産する。
こういうタイプが社会運動家になると、問題解決をするフリをしているがぜんぜん解決にならないか、むしろもっとひどくなるような政策や方法論を実行してしまう。
実務家になると、職場で弱い立場の人を「立場が弱くて大変でしょう」と「共感」「理解」を装って接近する。そうして相手が気を許したところで、一見そう見えない形でセクハラとかパワハラとかの犠牲にしていたりする。
経験的に言って、幼いころから多少なりとも貧しかったり苦労があったりする環境で育つと、かえってこうならない。悲劇に過剰な幻想や感動を求めないから、あるいは小さな悲劇を大きな悲劇ととりちがえないので、悲劇に吸い取られるようにのめりこまない。周りをまきぞえにもしない。
ところが、恵まれすぎたよい環境で育つと、ある日突然現れた悲劇の情景はひときわ印象的に映るようだ。この世でもっとも美しいものを見た、という錯覚で、何か啓示を受けたような悟りを開いたような気分になるらしい。
そうしてはじめるボランティアや弱者救済運動は、そもそも自己中心で相手を見下しており、視野狭窄と感傷に満ちている。その安っぽさ、いかがわしさは、一定以上の苦労や悲劇目撃体験があれば、たいていの場合見破れる。
たとえば、「サバルタンは語ったとたんにサバルタンではない」などという論理をもてあそぶ文系大学院生などが典型だ。何だ、死者に敬意もなく、生き残ったほうが価値が高いなんていったい何様のつもりよ? 語れないって何?? などと思ってはいけない。そんな話の好きな人たちは、とにかく悲劇が見たいのだ。純粋な、永遠の悲劇を感激しつづけたい、ということだ。
歌舞伎やオペラでは物足りない。かといって現実は複雑だから、貧乏な人のほうが表面的には明るく振舞っていることもある。ふみにじられてもけなげにしたたかに生きる力強さなど見たくもないと彼(女)は思う。ならば、純粋な理論のなかでそういった存在を作ってしまえ! というわけだ(苦笑。)
最近東大のセンセイが流布し、弟子が受け継いでいるあの「当事者学」が、悲劇マニアの手によらぬことをことを願いたい。
たいていの場合は同情にすぎない。その人たちは気休め、自己満足他者不満足型のアドヴァイスや援助を申し出る。うまくいかないと、「あなたのせいだ」と目の前の本人を責める。あるいは、自分好みの信仰や信念をイデオロギ-注入することもある。
本人が本気で抑圧に立ち向かおうとする。冗談ではなく本気で個性的に生きようとする。そうすると真っ先に怒りを示し、やみくもに反対してつぶそうとするのもこの種の人々だ。
この人たちは悲劇に弱い。おそらく恵まれて育ったのだろう。目の前の悲惨に魅入られたてしまう。そして激しく感動する。
大いなる悲劇の主人公の魅力に長期間とりつかれる。ゆえに問題が起こる。
相手が悲劇の主人公ではなく勝利する英雄になったら、あるいはなりそうな予感を覚えると、手のひらを返したように相手に非協力的になり、敵対する。陰湿な方法も含めて足を引っ張り、侮辱し、なまぬるく暑苦しい同情によって相手をスポイルする。そのためにウソをついたり、だましたりすることも日常茶飯事だ。
さらに、そういったことをやらないことを「社会的知能がない」、または「コミュニケ-ション能力がない」といったマイナスのレッテルを貼って排除することもやってのける。
相手が成功すること、自立すること、幸福になることは、すべて気に入らない。ただひたすら悲劇の美学に酔って、悲劇を再生産する。
こういうタイプが社会運動家になると、問題解決をするフリをしているがぜんぜん解決にならないか、むしろもっとひどくなるような政策や方法論を実行してしまう。
実務家になると、職場で弱い立場の人を「立場が弱くて大変でしょう」と「共感」「理解」を装って接近する。そうして相手が気を許したところで、一見そう見えない形でセクハラとかパワハラとかの犠牲にしていたりする。
経験的に言って、幼いころから多少なりとも貧しかったり苦労があったりする環境で育つと、かえってこうならない。悲劇に過剰な幻想や感動を求めないから、あるいは小さな悲劇を大きな悲劇ととりちがえないので、悲劇に吸い取られるようにのめりこまない。周りをまきぞえにもしない。
ところが、恵まれすぎたよい環境で育つと、ある日突然現れた悲劇の情景はひときわ印象的に映るようだ。この世でもっとも美しいものを見た、という錯覚で、何か啓示を受けたような悟りを開いたような気分になるらしい。
そうしてはじめるボランティアや弱者救済運動は、そもそも自己中心で相手を見下しており、視野狭窄と感傷に満ちている。その安っぽさ、いかがわしさは、一定以上の苦労や悲劇目撃体験があれば、たいていの場合見破れる。
たとえば、「サバルタンは語ったとたんにサバルタンではない」などという論理をもてあそぶ文系大学院生などが典型だ。何だ、死者に敬意もなく、生き残ったほうが価値が高いなんていったい何様のつもりよ? 語れないって何?? などと思ってはいけない。そんな話の好きな人たちは、とにかく悲劇が見たいのだ。純粋な、永遠の悲劇を感激しつづけたい、ということだ。
歌舞伎やオペラでは物足りない。かといって現実は複雑だから、貧乏な人のほうが表面的には明るく振舞っていることもある。ふみにじられてもけなげにしたたかに生きる力強さなど見たくもないと彼(女)は思う。ならば、純粋な理論のなかでそういった存在を作ってしまえ! というわけだ(苦笑。)
最近東大のセンセイが流布し、弟子が受け継いでいるあの「当事者学」が、悲劇マニアの手によらぬことをことを願いたい。