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医療観察法(予防拘禁法)関連情報

2005年05月06日 21時52分36秒 | 反ファシズム
AMLに医療観察法関連の情報がありました。以下コピペ。


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皆様へ
山本真理です。
政府は、「医療と社会復帰」という建前さえかなぐり捨てて、施設基準まで切り
下げて強引に医療観察法を施行しようとしています。
医療観察法施行阻止に向けて、心神喪失者等医療観察法(予防拘禁法)を許すな
ネットワークでは14日に拡大事務局会議を開く、会議後にニュース発送作業を行
います。

どなたでも参加できます。ネットワークに未加入の方もぜひ。
拡大事務局会議
   5月14日(土)午後1時から
   文京区民センター
   地図は
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumincenter/index.html
都営地下鉄 三田線・大江戸線春日駅下車 徒歩1分
東京メトロ 南北線・丸の内線後楽園駅下車 徒歩5分
JR水道橋駅下車 徒歩10分

おまけ
大阪精神医療人権センター総会も14日です。詳しくは以下大阪人権センターのサ
イトをご覧ください。
日時 05年5月14日(土)
   午後1時半から午後5時
会場 アピオ大阪
参加費 500円(資料代)
記念講演
「障害者自立支援法案・精神保健福祉法改正の中で」
どうなる精神障害者の権利
講師 伊藤哲寛さん
主催・お問合せ先
NPO法人大阪精神医療人権センター
http://www.psy-jinken-osaka.org/2005soukai.htm
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山本真理
jngmdp at ybb.ne.jp
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/
心神喪失者等医療観察法を許すなネットワークに参加を
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/networknews.htm
ちょっと待て! 心神喪失者医療観察法6・12集会へ参加を
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/annai.htm
fax 03-3738-8815 tel 080-1036-3685(土日以外午後1時から4時まで)



選択肢を縮尺する

2005年05月06日 21時20分58秒 | 不登校
 目の前にある選択肢を等身大で見ると、たった一つしかないように見えてしまう。
 それを二十分の一にした模型を作って見るとどうか。
 選択肢を建物にたとえれば、隣の建物が見えてくるだろう。建物はひとつではないことがはっきりと分かるはずだ。どの建物も老朽化が進んで、誰が入っても危ない状態だと分かるかもしれない。だったら、そこに入らずに建て替える必要も理解できる。
 どの建物も用途にあわない、なので別の建物がほしいとする。そうすれば、まったく別のところに新しい建物を建てることもできる。
 それらすべてが選択の中には含まれる。
 決して政府や大企業が用意してくれたできあいの選択肢にこだわることはない。自分自身で新しい選択肢を作ることもできる。目の前にある手っ取り早い選択肢を選ぶのでは、選択らしい選択とはいえないということだ。
 より広い選択、新しい選択を作り出す選択も含めて選択の自由なのだ。誰にとっても有害な選択肢に抵抗することもまた選択の自由である。いいかえれば、抵抗するという選択もある、ということだ。
 ロクでもない選択肢(たとえば子ども時代の総動員としての義務教育)を廃止することもまた、集団的なもうひとつの選択である。
 メタ選択ーー創造選択、破壊選択ーーの分からない選択の自由否定論者には、一度縮尺を使って選択を見直すことをおすすめしたい。

 過去、身分制の桎梏からの自由を求めて職業選択の自由が提案され、完全ではなかったかもしれないが、実現された。・女性など被差別者はずっと職業選択の自由を求めてきた。
 その昔、奴隷や召使のしていた労働は、労働条件を改善し、賃金と保障を充実させ、<ケガレ>扱いする視線がなくなれば、その(選択した)職業は苦痛ではなくなる。どうしても危険で屈辱的な職業(例:原発の内部の清掃)の場合は、ロボット化するほかないだろう。

 なお、選択と実存の哲学には、「明るい」面ばかりではなく、「暗い」面も含まれるということを忘れてはいけない。自らの選択により、栄光も悲惨もすべてわがものとなることが肝要なのだ。勝利する英雄の神々しさも、悲惨さゆえに人をふりかえらせる魅力も、すべて選択したわたし自身のもの、というのがそもそもの実存主義哲学ではなかったか。その点を選択否定論者はふまえているのだろうか? 
 もしもそれが安直な同情によるものであれば、広い支持を得るのはむつかしいのではないだろうか?(たとえば不登校から「足を洗った」人間による当事者学など。)