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学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

教育再生会議パブリックコメント

2006年11月10日 12時43分26秒 | 反ファシズム
教育再生会議が教育再生についてパブリック・コメントを応募しています。
いったい何通に目を通し、きちんと理解するのか。そもそも実際に読んでいるのかどうか分かりませんが、
送ってみるのもいいでしょう。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/hotline.html

ちなみにわたしは以下の内容を送りました。

今日の教育は学校教育に偏っています。
特に高等教育に極端に偏っています。
大学院重点化構想よりも、小学校・中学校の給食費や文房具費を無料にすべきです。
また高校の学費も無料にすべきです。
それに、フリースクール・ホームスクールなど学校の外で育つ子どもをもつ家庭に、義務教育の税負担分を返却すべきではないでしょうか。
誰もが学校や教育がなければ生きてゆけない社会を、そうではない社会に変えるために政府は責任を果たすべきです。


デモ追記:平和団体のなかの脅迫

2006年10月21日 21時41分50秒 | 反ファシズム
そのデモには、以前京都のある平和団体で知り合った顔もあった。
そのうち何人かは、わたしをうらめしそうな目でにらみつけていた。
件の平和団体のボスは、以前わたしにこう言った。

「お前なんかどうなってもいいと思っているんだ」

これは、もし録音テープなどの証拠があれば、警察にもっていけば何とかしてもらえただろう。しかし、あいにく証拠がない、二人だけのシチュエーションで言われたため、有効な手は打てなかった。

正直、その2人がデモの隊列にいることがわかったとき、参加するのが怖かった。
だけど、幸い傍らには警察もいる。YWCAなど他の団体・個人も多数参加している。
また、交流会では飲み屋や喫茶店など人目のあるところなので、その平和団体のメンバーらもわたしに手荒なマネはできないはずだ。そう判断して恐怖をおさえて参加した。
実際、彼らは手出しできなかった。愛媛県から講師を招き、教員組合や20代の若い世代のグループなども入り混じるなか、外に出したら恥ずかしいマネはできなかったようだ。

こうした市民団体の中の恐怖政治は、公にされ批判されてしかるべきである。

10.15デモの感想

2006年10月17日 11時43分39秒 | 反ファシズム
途中から飛び入りしたデモだった。

苦手な教員組合、以前そこでの嫌がらせにあったために辞めた平和団体、やはり苦手な政党の関連団体などもくわわっていた。なかにはセクトとおぼしき一団もいたのも確かな事実だ。
しかし、あの安部が政権につき、教育基本法のほか憲法・労働基準法などをつぎつぎに改悪しようとしているこの時期、どんな人や組織ともその一点についてだけはつきあう必要があるだろう。
ミニーさんのように自民党が自滅党だと評するブロガーもいるほどだ。
憲法ならびに教育基本法を改正しようとする勢力は、アメリカのネオコンの手先である。アメリカについていって、ずっと戦争をしたい人たちが、推進しているのが今の憲法・教育基本法改正だ。
これはそれこそ極右から極左まで国民的に反対運動を展開しなければならない課題なのだ

主催者の方の努力のたまものだと思うが、誰が入ってもいい雰囲気が上手に作れていたと思う。

追記:安部のキャラクターについては、カナダde日本語のミニーさんの紹介で知ったオーマイニュースの記事がある。
着ぐるみからホログラムへ1
着ぐるみからホログラムへ2



選択の自由を擁護する

2005年08月18日 04時33分46秒 | 反ファシズム
(これは、(元)登校拒否系へのTBです。)

Toled さん、18番の選択批判論、お疲れ様です。

わたしはそれには反対の立場です。もちろん、おっしゃることも分かります。だけど、実際の社会主義圏の失敗を見るに、到底ついてゆけません。また、以前NHK-TVでもやっていたし、知り合いのフリースクーラーからも聞いたのですが、世界のフリースクールの草分け・サマーヒルが、サッチャーの改革によってつぶされかけましたね。そのときの合言葉はThere is no alternative(選択の余地はない)だった。

世の中は広くて、本当にいろいろな人がいます。それを無視して、不登校への差別がヒドイからといって、他の人間の当面の間学校を利用する権利さえ否定するようなことを言ってしまってもよいのか? わたしは賛成できません。

母子家庭で貧乏で、給食というサーヴィスを利用するために学校をやめられない家庭もあります。日本の住環境の悪さを考えると、とりわけ貧困層においては、勉強部屋を確保するために学校に行くほうが便利ということもあります。たとえ金持ちの子であっても、家庭内での虐待を学校で発見し、援助できる場合もあります。

もちろん、純理論的・知的には、常野くんの言うように「学校の廃止」にもってゆくのは一理あります。脱学校志向のわたしとしても、イリイチという伝統を正しく継承するのは大切だと思う。

ただし、少なくとも今、そういう政策はムリだと思います。反発や混乱が大きいからではなく、学校教育にかわる教育や子どもの居場所が確保されないからでもない。いくら正義感や善意からであっても、選択肢をつぶすことは、人と社会の多様な可能性をつぶすことだからです。

それはまさしく学校教育がやってきたことではないですか! 方言を敵視して、方言札を首からかけさせ、沖縄弁をはじめとする各地の多様な言葉を弾圧する。以前、沖縄文庫という沖縄の地方出版の本で見たのですが、沖縄では、三線の天才とうたわれた子どもが、学校進学のために中学・高校と楽器に触ることを禁じられた、という話が村ごとに残っているそうです。これについてどうお考えになりますか? また、砂原茂一さんの岩波新書であったのですが、アメリカのほうで、医師が見放した患者が、家族の判断によって予想以上に長生きした例もあります。(ちょっと手元に本がないので註は後日に。)

あと、サヨクをやるのはいいけれど、もうちょっと注意しないと、危ない方角へ走ってゆくのではないですか? ちなみに、わたしは田舎の保守のコミュニティの出身で、「アカなら死のほうがマシ」的な考えです。以前にも紹介した、宮地健一さんのサイトへのリンクを貼っておきます。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm 
特に、大きな6の20世紀の社会主義思想 http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm#shakai20をおすすめします。

ちなみにわたしは、中卒で現在失業しています。常野くんのように知的にも純理論的にもなれません。だけど、常野くんの話がおかしいということは、知識ではなく感情によって理解できます。
 「地獄への道は善意で埋め尽くされている」という格言を、ここで繰り返さねばならないのでしょうか? 約束の地へ向けて人々を飼いならすのは、たいへん慎重に行わなければならない。それこそが学校批判であり、教育批判であり、子ども差別批判であり、不登校の選択権の主張の根源にあるものでしょう。それを自ら裏切るようなことをしてどうするのですか? 
 そもそも、社会から独立した個人というものが、「かのように」ふるまう虚構であるということなど、折込済みだと思います。そのような個人の権利論の初歩の初歩をいまさら繰り返し確認しないといけないのでしょうか?
あくまでもわたしとしては、個人はそこにあり、選択が可能である「かのように」ふるまいつづける予定です。alterはラテン語で「2つのうちの1つ」の意味。わたしはコーヒーか紅茶かを選べないサービスなどほしくありません。もちろん、腐ったコーヒーと紅茶を出されたら、飲まない「選択」もあれば、責任者を呼びつけるという「選択」もあります。なぜ常野くんが選択否定論を唱えるのか理解に苦しみます。
簡単なメタ認知をいたしますと、選択否定という選択さえ、選択の自由のなかでのみ行えるものなのに……。

選択できるものとできないものとの落差も気になります。というのは、↓のような出身者の意見もあるので。

「母親の胎内で『よし、わたしはあそこに生まれよう』と考えて、この世に生まれてくる人はいない。たまたま生まれたところがであったというだけである。本人には何の責任もない。それなのに、差別は人の心を傷つけ、人を愛することさえ恐れさせるのである。
 何人かの20代の女性たちがわたしに言ったことがあった、『わたしは結婚は見合いと決めています。恋愛をして傷つくのが怖いから……』と。わたしは自由とは選べることだと考えている・選べなかったり、選ぶことをある特定のものだけが制限されているところに問題がある。」(松村智宏「あした元気になあれ--に生まれてよかった」解放出版1996,1997)

これを、結婚もまた社会的な制限によって相手を選ぶのであり……的な論理で批判されるのでしょうか?(ちなみに著者の松村さんは自ら出身だとカムアウトしています。)それこそ、差別主義者の思うツボです。

自分のことを書くと、自分はフリースクールにもっと長期間いたかった。もっとたくさんのフリースクールをまわりたかった。なのに、親によって邪魔され権利を奪われたものです。そのことによって、虚脱状態になったし、差別されてもなんとも感じないような鈍感な性格にさせられているところもあります。それでも、いや、だからこそ、選択の自由を求めているのです。それは、拒否権という消極的な権利の行使も含みます。

自由と平等のためには、なんとしても選択の自由が必要だと考えるものです。

 ウォーラーステイン? それ、ネタですか、ベタですか? 「ウソをついてもバレない」式の話をしても説得力がないと思いますが、どうですか?
 そうそう、わたしはマルクスをまったく読んでいないわけではないです。十代のころ、フリースクールのかわりだと思って関わっていた市民運動の人たちにすすめられて、何冊か文庫本を読みました。だけど、リアリティがなさすぎてついてゆけなかったです。


温情主義の攻撃

2005年05月23日 18時27分52秒 | 反ファシズム
↓ リンクをごらんください。

http://www.futoko.org/cgi/newsread/newsread.cgi?disc=newest&st=38&ed=38

国単位で不登校と不良の子どもに対して、個人情報を守らなくてもよいとするそ-な。

江戸時代、「・」を一般とは別の人別帳に記したのと似たような対応です。

「児童の健全育成」のために、つぶしやすいところから権利を蹂躙してゆく。ひとつ、またひとつと広がった先には何があるんでしょう? 共産主義の次は社会主義、その次は新聞、学生、その次は……教会! と高名な牧師の告白のようにならないようにしたいものです。

医療観察法(予防拘禁法)関連情報

2005年05月06日 21時52分36秒 | 反ファシズム
AMLに医療観察法関連の情報がありました。以下コピペ。


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

皆様へ
山本真理です。
政府は、「医療と社会復帰」という建前さえかなぐり捨てて、施設基準まで切り
下げて強引に医療観察法を施行しようとしています。
医療観察法施行阻止に向けて、心神喪失者等医療観察法(予防拘禁法)を許すな
ネットワークでは14日に拡大事務局会議を開く、会議後にニュース発送作業を行
います。

どなたでも参加できます。ネットワークに未加入の方もぜひ。
拡大事務局会議
   5月14日(土)午後1時から
   文京区民センター
   地図は
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumincenter/index.html
都営地下鉄 三田線・大江戸線春日駅下車 徒歩1分
東京メトロ 南北線・丸の内線後楽園駅下車 徒歩5分
JR水道橋駅下車 徒歩10分

おまけ
大阪精神医療人権センター総会も14日です。詳しくは以下大阪人権センターのサ
イトをご覧ください。
日時 05年5月14日(土)
   午後1時半から午後5時
会場 アピオ大阪
参加費 500円(資料代)
記念講演
「障害者自立支援法案・精神保健福祉法改正の中で」
どうなる精神障害者の権利
講師 伊藤哲寛さん
主催・お問合せ先
NPO法人大阪精神医療人権センター
http://www.psy-jinken-osaka.org/2005soukai.htm
---------------

山本真理
jngmdp at ybb.ne.jp
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/
心神喪失者等医療観察法を許すなネットワークに参加を
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/networknews.htm
ちょっと待て! 心神喪失者医療観察法6・12集会へ参加を
http://popup.tok2.com/home2/nagano2/annai.htm
fax 03-3738-8815 tel 080-1036-3685(土日以外午後1時から4時まで)



未来の告白

2005年03月25日 22時28分09秒 | 反ファシズム
↓ 有名なマルチン・ニーメラー牧師の告白。

「ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが 自分は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安を感じたが 自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と、順次弾圧の輪を広げていき、 そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。 ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。 だから行動に立ち上がったが、その時はすべてがあまりにも遅かった。」


これを現在~近未来予測風に書き直すとこうなりますか。

「ネオコンが不登校を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は不登校でなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ネオコンはひきこもりを弾圧した。わたしはさらに不安を感じたが、自分はひきこもりではなかったので、何の行動も起こさなかった。それから、ネオコンはニ-ト、フリ-タ-、徴兵拒否と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。ある日ついにネオコンは会社を弾圧してきた。そして私は低所得の正社員だった。だから行動に立ち上がったが、その時にはすべてがあまりにも遅かった。」

(著作権フリ-、転載歓迎!)

聖アンナと聖母子

2005年03月05日 04時49分49秒 | 反ファシズム
 大阪府の不登校「半減」政策を知って、いささか憔悴している。なぜこのようなファシズムが大阪の町を襲うのか。大阪がリベラルだと思ったのは単にわたしの錯覚で、実はル-ズなだけだったのか。

 そんなときに、レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」を思いうかべる。
 
↓ 聖アンナと聖母子
http://www.mozart.co.jp/art/it11.htm

 絵画から何を読むとるかは人しだいだが、わたしはこの絵に子どもの独立性を見る。個のの独立といいかえてもいい。
 この絵画で、聖母マリアと、マリアの母聖アンナは、憂いを含んだ表情で、幼子・イエス・キリストを見つめている。聖アンアのひざにちょっと無理な姿勢で座っている聖母マリアは、幼子イエスを抱きかかえようとしている。
 にもかかわらず、幼子イエスは、聖母マリアの腕を逃れ、子羊の背に乗ろうとしている。この子羊は、いけにえを意味する。つまり、やがてイエス・キリストが人々の贖罪を背負って十字架にかけられることを象徴している。
 だからこそ聖母マリアと聖アンナは不安げな、悲しげな表情と目つきで幼子イエスを見つめているのである。
 親や祖父母ならば、小さな我が子・我が孫が、受難の道を歩いてほしくないと願うだろう。それでも、子どもまたは孫は別の人格であり、たとえ苦難の道であっても自らの道を歩むものだ。それを誰も止めることはできない。たとえ母が抱きかかえようとしても、子どもの意思は変わることはない。
 色彩による遠近法を用いた、この見事な構図の絵を見るたびに、ゴルゴダの丘でのキリストの悲劇をよくここまで美しく描けたものだとの驚きを禁じえない。このあたたかでやわらかい色彩がなければ、大きな悲しみを画家は表現できなかっただろう。また絵を見る者は、目をそむけずにはいられなかったにちがいない。
 この悲しい3人を、明るくつややかに描きだすということは、キリストの犠牲が決してマイナスばかりではないことを意味しているとわたしなら考える。それは、悲しみとともに人々に勇気・希望・連帯を与えたのだから。複雑な深みのある洞察が、この絵に広がりを与えているのだ。

 話を大阪府の不登校対策に戻そう。不登校を3年で「半減」するという信じがたい政策を打ち立てた人々は、この絵を見て何というのだろう、と。おそらく「かわいそう」「バカみたい」という感触しか持たないのではないか? 「悪い子」が親や祖母に心配をかけて、経済的に効率のよくない生き方を選ぶなんてケシカラン。おとなしくないだけ、みなと違うだけでロクデモない。社会不適応だ、自己愛が強すぎる、親が甘やかすからだ……。
 そうして、人の独立した意思も人格も選びうる人生の道も、府の政策レベルで塞ごうというのだろうか。なんという安っぽい、人の尊厳を認めない考えなのだろう。
 おそらく、個人らしい個人をつぶしたいのだと思う。不利になると承知のうえで、それでも学校に行かない、わが道をゆく個人を憎んでいるのだ。だからこそ、学校に行かないという、小さな子が子羊の背に乗る程度の遊びとゆとりを許せない。認めることもできない。ただ矯正と閉じ込めあるのみだ。
 人の偉大さ・高貴さをみじんも認めることができない連中の、エゴと見栄と利権のために、房さび国家総動員を繰り返すなど、誰が許すだろうか。子どもの命をもてあそぶ政治家は、次の選挙で落選してしかるべきである。パタ-ナリズムだろうがマタ-ナリズムだろうが、最終的には子どもの意思が勝つのである。でなければ何も展開できない。

 
 
 

 

京都市教育委員会から河合隼雄氏への不明瞭な謝礼金の流れ

2005年02月12日 02時44分13秒 | 反ファシズム
みなさん、すみません。たくさんのメールの中にうずもれてしまって、大事な情報をUPするのが大変遅れました。ひとえにわたしのミスです。
友人から送られた、「心のノート」推進者に関する続報です。

点線以下、転載。

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京都市職員措置請求書

1.請求の趣旨
 ●京都市教育委員会から河合隼雄氏への不明瞭な謝礼金の流れ
京都市教育委員会は、2001年8月、「京都市道徳教育振興市民会議」を発足させ、その第1回会議(2001年8月23日)で、河合隼雄氏を座長に選出した。同「市民会議」は、河合隼雄氏の提唱により、「あなたは自分の国を愛する気持ちを持つことがありますか?」というような「道徳教育市民アンケート」を実施し、市民らから強い批判を浴びている。しかし、同「市民会議」は、こうした市民からの批判や質問に対して、「いっさい回答しない」と決定し、問答無用の姿勢をとり続けた。
河合隼雄氏は、同「市民会議」の第1回会議、同年10月9日の第2回会議、12月13日の第3回会議に出席し、謝礼金として毎回10万円、合計30万円を受け取っている。(その後、河合隼雄氏は、文化庁長官に就任したため、名誉座長となり、以後の会議には出席していない。)
同「市民会議」は、本年6月の最終会議まで、過去15回開催され、市教委事務局職員を除くと、河合隼雄氏以外に13名が委員に就任している。しかし、河合隼雄氏以外の委員謝礼金は、いずれも1回の出席毎に11,111円(所得税の源泉徴収額が1,111円となり、手取り額は10,000円)と一律である。河合隼雄氏が座長であったから特別に高い謝礼金を支給したのではない。河合氏の後任に座長となった小寺正一京都教育大学副学長の謝礼金は、やはり11,111円であり、普通の委員と同額である。
京都市には、審議会や市民参加の委員会などが61(2003.3現在)あるが、委員謝礼金は、毎回5,500円~18,000円の範囲でしかない。座長、会長等に特に高い謝礼金を支払っている審議会・委員会は6つあったが、それも13,000円~21,000円の範囲にとどまっているから、「京都市道徳教育振興市民会議」の河合隼雄氏への謝礼金の突出ぶりは異常である。従って通常の謝礼金を超える分、すなわち、(100,000円―11,111円)×3回=266,667円は、違法・不当な公金の支出と言わざるを得ない。
他にも、京都市教育委員会は河合隼雄氏に対して、きわめて不明瞭な謝礼金などを支払っている。
たとえば、「相談指導法指導者謝礼」という名目で、2001年4月から2002年3月までの12ケ月間、毎月6万円、また同年11月にも10万円、合計82万円が支給されている。しかし、その支出決定書を見ても、何時、どのような内容の指導を受けるのかということはいっさい書かれていない。公文書公開請求の際の市教委の担当者の話では、「電話で相談したり、時々訪問して指導をしていただきました」というが、それを証する文書は何もないという。報償費というのは、実際の役務の提供に対する謝礼であり、具体的な業務内容もなしに支給することはできない。
また、2001年7月から2002年1月までの7ケ月間は、この「指導者謝礼」とは別に、「指導助言謝礼」という名目で、毎月10万円、合計70万円が支給されている。支出決定書では、その「理由」を、「本市教育の推進にあたり、子どもの健全育成に向けた事業展開、子どもカウンセリングセンターの建設をはじめとする子どもたちの心の居場所づくりに関する企画、道徳教育の振興などについて、指導助言を受ける指導者へ謝礼を支払う必要があるため」とし、月1回、午前10時~午後1時までの3時間、指導を受けるとしている。
河合氏が本当にこの時間に来庁して、昼休みの時間にもかかわらずに「指導」にあたったのか、単に昼食をとりに来たついでに「雑談」をして帰ったのかは定かではないが、その内容についても、「文書はない」とのことであった。
この謝礼金は、前述の「相談指導法指導者謝礼」とも重複しているし、そもそもこの時期、河合隼雄氏は、「本市教育のさらなる充実・発展にむけて、専門的・学術的な指導・助言」を行う市教委の「専門委員」に就任している時期であった。「指導助言謝礼」などの謝礼金を別途支給する理由など全くない。
また、市教委が各種団体に呼びかけて結成した「人づくり21世紀委員会」主催の行事でも、河合氏が何回も講演を行っている。2001年8月、2002年2月、2003年2月の3回、彼は毎回20万円を講師謝礼として受け取った。しかし河合氏は、この「人づくり21世紀委員会」の代表であった。主催団体が自分たちの代表に高額の謝礼金を支払うというのも常識では有り得ない。
●「国家主義者」「御用学者」にすぎない河合隼雄氏を、何故、こうまで特別待遇するのか?
京都市教育委員会が、特別待遇を続けて重視する河合隼雄氏は、いったいどのような人物であろうか?
河合隼雄氏は、「心理主義」の立場から、子どもたちの心に国家が介入し、所与の秩序に従順に従う子どもを作ろうとする「心の教育」路線を提唱してきた中心人物である。また、それだけではなく、「天皇への敬愛」を強調して問題となった「期待される人間像」(中教審答申)や、森前首相の「神の国発言」を賛美したり、「国家は義務教育を本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない」「義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務である」(彼が座長を勤めた「21世紀日本の構想懇談会」の最終報告書)というような憲法や教育基本法に違反した提言をまとめてきた。さらに、文部科学省が全国の小・中学生に配布した、道徳の国定教科書とも言える『心のノート』についても、作成協力者会議の座長として、中心的な役割を果たしてきたし、教育改革国民会議や中教審委員を勤めるなど、教育基本法改悪の動きを「学者」の立場から推進してきた。
また、彼は、2001年、自民党国家戦略本部で、「政府や総理大臣が言うと反対されるようなことを、上手に持っていって実現するのが我々学者の役割だ」というような露骨な講演をしたが、もうここまでくると、権力に擦り寄る「国家主義者」「御用学者」という他ない。憲法と教育基本法にもとづいて教育を行うべき京都市教育委員会が、このような人物を特に重視し、何回も講演を依頼したり、指導助言を求めるのは適当ではない。
京都市教育委員会は、河合隼雄氏を特別待遇し、宣伝広告塔のように利用することによって、自らの施策を
権威づけ、彼を文部科学省などの中央政府とのパイプ役として利用しているのである。河合隼雄氏への批判はいっさい許さないと異常なまでに気を使い(たとえば、本年6月13日の、「子ども相談センター・パトナ」の開館1周年・河合隼雄氏記念講演会での、市教委職員による、河合氏に対して質問や異議申し立てしようとした若い女性らへの暴行・セクハラ事件や、「道徳教育振興市民会議」の最終報告書に添付された「市民意見集」では、河合隼雄氏への批判意見に対して、誰への批判か分からないように、同氏の名前を41箇所もすみ塗りして公表など----詳細は別紙「事実証明書」参照)、前述のような、金銭面でも普通では考えられないような特別待遇を続けているのも、その「見返り」を期待してのものであることは明らかである。
 
●門川大作教育長らの損害賠償金の支払いと、河合隼雄氏には不当利得の返還を請求
京都市教育委員会からは、河合隼雄氏に対して、前述の支出以外にも何回も謝礼金等が支払われているが、少なくとも前述の合計2,386,667円の支給は、違法不当な公金支出であることは明白である。
これらの事実は、京都市教育委員会が、本年6月30日に公開した公文書公開決定通知書により明らかになったものである。従って、これらの支出決定に係った門川大作教育長は200,000円、花嶋詳宜総務部長(当時)は466,667円、高桑三男総務部長(当時)は200,000円、在田正秀総務課長(当時)は1,520,000円の損害賠償を行うこと、または、河合隼雄氏は、受領した2,386,667円の不当利得金を京都市に返還するようにとの勧告を求める。

  以上、地方自治法第242条1項の規定により別紙事実証明書を添え必要な措置を請求する。


2.請求者
        住  所  職 業 氏  名   印




京都市監査委員殿                            2004年  月  日

シュレーダー首相の演説翻訳(訂正版・AMLより転載)

2005年02月02日 00時38分58秒 | 反ファシズム
AMLにシュレーダー首相の演説を翻訳した訂正版が投稿されていました。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-January/000320.html
ドイツとEUのファシズムに対する断固たる姿勢が表されています。
点線内、転載。

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Subject:[uketugu]
From:Taichiro Kajmura
Date:Fri, 28 Jan 2005 14:30:59 +0100

To:uketugu at yahoogroups.jp

先に送りました、シュレーダー首相の演説の翻訳ですが、ふたつの不備があり
ました。
一文が欠落し、また訳注にも欠落がありました。以下訂正いたしました。
お詫びとともに、こちらを使っていただくようお願いいたします。転送された
方には重ねておわび申し上げます。訳者

~~~~~~~~~ 

梶村です。

以下は、シュレーダードイツ首相が、アウシュヴィッツ解放60年周年にあ
たっての演説です。
現、ドイツ社会の歴史認識を代表するものとして全文を翻訳しました。ワイツ
ゼッカー演説と比べると、語彙も表現も大変に直裁です。それだけに誤解を許
さない厳しさがあると思います。
どなたでも、梶村訳と明記して転載、あるいは引用をしていただいて結構です。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

アウシュヴィッツ強制収収容所解放60周年にあたって
ドイツ連邦共和国ゲアハルト・シュレーダー首相の演説(訳注1)

ゲアハルト・シュレーダー連邦首相は1月25日の演説で、60年前のアウ
シュヴィッツ強制収容所の解放を回顧した。このベルリンの国立劇場で開催さ
れた国際アウシュヴィッツ委員会(訳注2)による追悼行事には、多くのヨー
ロッパ諸国からの、元囚人と若者たちが参加した。

演説は以下のとおり:

尊敬するアウシュヴィッツ・ビルケナウの生存者のみなさま、淑女、紳士のみ
なさま。

みなさんの前で話すようご招待くださった国際アウシュヴィッツ委員会に感謝
を申し上げます。

私は、このご招待は決して当然のことではないと信じています。現在において
もそうではありません。私たちドイツ人には、人類最大の犯罪を前にして沈黙
するほうがふさわしいのかもしれません。絶対的に反道徳的で無意味な何百万
という殺人を前にしては、政治的言語は役に立たない危険があるからです。

私たちは、いかなる人間の想像力をも超えてしまった把握できないものを把握
しようと望むのです。私たちは最後の答えを無駄に求め続けているのです。

残っているのは、少数の生存者と、その子孫のみなさんであります。

残っているのは、殺人施設の残骸と、歴史資料であります。

その他に残っているのは、殲滅収容所において、悪が示した確証であります。

それ以降、悪はもはや政治的、ないしは学問的な範疇ではないのです。アウ
シュヴィッツ以後に、いったい誰が、悪が存在し、ナチズムの憎しみに駆られ
た民族虐殺に、それが姿を現したことを疑うことが出来るでありましょうか?
 このように確定することはしかし、古い「悪魔のヒトラー」の話に逃げ込む
ことではありません。ナチイデオロギーには前提が無かったのではありませ
ん。人々の思考の粗暴化と道徳的に自制を失ったことが、その前史であったの
です。確実なことは:ナチイデオロギーは人間が望み、そして人間によってつ
くられたのです。

淑女、紳士のみなさま、

赤軍によるアウシュヴィッツ解放の60年後の今、私は民主的ドイツの代表者
として、みなさまの前に立っております。私は、虐殺された人々に対して、ま
た特に強制収容所の地獄を生き延びたみなさまに対して、私の恥を表明いたし
ます。

ヘウムノ、ベウジェッツ、ソビブール、トレブリンカ、マイダネック、そして
アウシュヴィッツ・ビルケナウ、(訳注3)これらが、犠牲者たちの歴史に、
しかしまた、ヨーロッパとドイツの歴史に、これからも結びついた名前であり
続けるでしょう。そのことを私たちは知っております。

私たちは哀悼とともに、また深刻な責任とともに、この重荷を背負っております。

何百万人という子供たち、女性と男性たちが、ドイツの親衛隊隊員と彼らの援
助者たちによって、ガスで窒息死させられ、餓死させられ、銃殺されました。

全ヨーッパのユダヤ人、シンチ・ロマ、ホモセクシャル、政治的敵対者、戦争
捕虜、そして抵抗運動の闘士たちが、冷たい工業的な完璧さによって殲滅さ
れ、または死にいたるまで奴隷化されました。

それまでのヨーロッパの数千年の文化と文明には、これより深い亀裂が起こっ
たことはありませんでした。戦後になってこの歴史的な亀裂の全体的像が把握
されるまでには、かなりの時間がかかりました。私たちはその亀裂を知ってい
ます、しかし私は、私たちがいつかはそれを理解することができるかを疑って
います。過去は、よく言われるように「克服」されようとはしません。それは
過ぎ去ってしまうものです。しかし、その痕跡とその教訓は現在にまで到達し
ております。

強制収容所で起こった悲惨と苦悶と悲嘆は、これからも決して埋め合わせるこ
とはできません。ただ犠牲者の子孫と生存者のみなさまに、一定の償いを実現
することは可能であります。

連邦共和国はこれまでの長いあいだ、男女市民の正義感に依存しながらその政
治と司法においてこの責任に向かい合って来ました。

淑女、紳士のみなさま、

私たちがここで見ているのは、1945年の夏の解放後の囚人たちの(会場に
掲げられた・訳者)写真ですが、若い男女たちがしっかりと抱き合っていま
す。これらのひとたちは、解放後には他の大半の生存者たちと同じく、たいへ
ん異なった道を踏み出しました:イスラエルへ、南北アメリカへ、ヨーロッパ
の近隣諸国へ、かれらの故郷へと。

幾人かはしかし、かつていわゆる「最終解決」が決められた国であるドイツに
残り、またはふたたび、ここへ帰ってきました。

それは、だれにとっても尋常ではない、難しい決心でしたし、ほとんどの人々
にとっては、それは自由裁量ではなくて、完全な希望の欠落の結果だったので
す。しかしながら、彼らの傷ついた人生にも希望が帰って来ました。そして多
く人々がドイツに残ったのです。私たちはそのことに感謝しております。

今日では、ドイツのユダヤ人共同体はヨーロッパで三番目に大きなものです。
そして活気があり、成長しています。新しいシナゴークが建設されています。
いまやユダヤ人共同体は、私たちの社会と文化のかけがえのない一部になって
おり、そうであり続けています。その栄光にあふれ、同時に痛みの多い歴史
は、責務であると同時に約束であり続けています。

学ぶ能力のない反ユダヤ主義者からは、私たちは彼らを国家権力をもって守り
ます。反ユダヤ主義がいまだに存在することを否定してはなりません。それと
闘うことは全社会の課題です。反ユダヤ主義者たちが、私たちの国だけではな
くどこでも、ユダヤ人市民を、圧迫したり、傷つけたりすることに成功して、
私たちの国に恥をもたらすようなことは、二度と許されないのです。

極右勢力と、かれらのうっとうしい標語や落書きに対しては、警察、憲法擁護
局、そして司法が特別な注意を払うに価するものです。しかし、ネオナチスと
古いナチスとの闘いを、私たちすべてが共に政治的に実行しなければなりません。

ネオナチスの不快な挑発と、常に繰り返されるナチスの犯罪を瑣末なものにし
ようとする、新たな試みに向かって断固として対抗することは、すべての民主
主義者の共通の義務であります。民主主義と寛容の敵に向かっては一切の寛容
があってはならないのです。

淑女、紳士のみなさま、

アウシュヴィッツの生存者のみなさまは、私たちに、眼をそらすな、耳をこら
せ、注意深くあれと要求しています。彼らは私たちに、人権犯罪をずばりと指
摘して闘うよう要求しています。これらは、例えば今日、アウシュヴィッツの
追悼施設を自分の眼で確かめている若者たちによって聞き届けられるでありま
しょう。彼らはかつての囚人たちと話し合っています。彼らは追悼施設の手入
れをしたり、その保存の手伝いをしています。彼らは、彼らに続く世代に対
し、国家社会主義の犯罪について啓蒙することに力を貸すでありましょう。

淑女、紳士のみなさま、

現在生存しているドイツ人の、圧倒的多数は、ホロコーストに対する罪を負っ
てはいません。しかしながら、彼らは特別な責任を負っています。国家社会主
義の戦争と民族虐殺を心に刻むことは、私たちの生きた状態の一部(訳注4)
となっております。かなりの人々にはこの一部が堪え難いのであります。

しかしながら、この心に刻むことが私たちの国民的アイデンティティーに属し
ていることが変わるものでは全くありません。国家社会主義の時代とその犯罪
を心に刻むことは、ひとつの道徳的義務であります。私たちはこれによって、
犠牲者、生存者、また彼らの係累に対してのみ責任があるのではなく、否、私
たち自身にとっても責任があるのです。

淑女、紳士のみなさま、

忘れてしまおうとすること、記憶を抑圧してしまおうとすることの誘惑が、大
変に大きなものであることは確かです。しかし私たちはそれに負けてしまうこ
とはないでしょう。

ベルリンの中心部のホロコースト警告碑の石柱の広場(訳注5)は犠牲者たち
に生命も尊厳も返すことはできません。生存者と彼らの子孫たちには、たぶん
彼らの苦悩の象徴となりうるでしょう。私たちすべてにとっては、忘却への警
笛として役に立つでしょう。

ここで、私たちに確かなことは:私たちが、かつて国家権力によって、自由と
正義と人間の尊厳が踏みにじられことを忘れるならば、自由も正義も人間の尊
厳もあり得ないということです。ドイツの多くの学校で、企業で、労働組合
で、また教会で私たちの手本になることが行われています。ドイツは自らの過
去に立ち向かっているのです。

ショアー(訳注6)から、ナチスのテロから、私たちすべてにある確信が生ま
れてきました。それは「二度と許さない」という言葉で最も良く表現されてい
ます。この確信を私たちは守ろうと望みます。すべてのドイツ人も、またすべ
てのヨーロッパ人も、国家共同体全体が、敬意を持って人間的に平和のうちに
共生することを、いつも新たに学ばねばなりません。

ジェノサイド禁止条約は、ホロコーストの直接の国際法規の教訓であります。
それは、異なる門戸、文化的特徴、宗教、および皮膚の色のすべての人間に、
生命と人間の尊厳を世界中で尊重し、擁護することを義務づけています。ここ
においても、あなたがた国際アウシュヴィッツ委員会は、すべての人間の利益
のために、みなさまの特徴ある働きをもって闘っておられます。

みなさまとともに、私は殲滅収容所の犠牲者の前に頭を垂れます。もしいつの
日か犠牲者の氏名が人類の記憶から消えしまわねばならないとしても、彼らの
運命は忘れ去られることはありません。なぜなら、それは歴史の中心に安置さ
れているからです。

(演説おわり)
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

(訳注1)原文は首相府のホームページにあります:
http://www.bundeskanzler.de/Neues-vom-Kanzler-.7698.778869/Die-Nazi-
Ideologie-war-menschengewollt-und-mensc...htm
(訳注2)ナチドイツの強制収容所の生存者によって、戦後すぐに設立された
全ヨーロッパの組織。
(訳注3)二酸化炭素や青酸ガスで工業的に大量殺人を行なった殺人工場施設
があった地名
(訳注4)Teil unserer gelebten Verfassung が原文。大変に翻訳が難しい
のであります。
(訳注5)今年のドイツの敗戦60周年記念日に向けて建設中の「虐殺された
ヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑」。ブランデンブルク門の南の広場に多くの
石柱が立てられる。5月10日に除幕されるが、すでにほぼ完成している。現
状の写真は以下で見れます:
http://www.holocaust-denkmal-berlin.de/index.php
(訳注6)Shoah 「絶滅、破滅」をあらわすヘブライ語。

(訳責は梶村太一郎、Berlinにあります。アウシュヴィッツ解放60周年記念
日に翻訳)

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その他関連記事

うるわしのブルターニュ
http://bretagne.air-nifty.com/anne_de_bretagne/2005/01/post_26.html

Wein Weib, und Gesang
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/6f4bfd74d0eccf57fbfa62184bdb4eb4

らおだ~@上海「戦時下」上海における意見と生活
http://shanghai.tea-nifty.com/laoda/2005/01/post_46.html

ポートフォリオ・オランダニュース
http://www.portfolio.nl/nlnews/archives/2005/01/60.html

熱い友達と冷たい友達

2005年01月23日 23時23分26秒 | 反ファシズム
(2005年1月30日、一部訂正しました。) 
 
友達にもいろいろいる。遊び友達、学友、ブログ友達、メル友、親友、悪友、ライバルとしての友達……。

 いろんなわけ方があるが、自分が友達を見る基準として、「熱い友達」と「冷たい友達」が挙げられる。 
 わたしは「熱い友達」は苦手だ。“熱い友情”を求める、自らも演じる人といっしょにいると息苦しい。窒息しそうだ。気持ち悪い。
 彼(女)はどこか押し付けがましく、あつかましい。あるいは落ち着きがない。常に怒りっぽく、あるいは傍目には理解できない状況で泣き出したりする。ささいなことでおおげさに騒ぎ立てる。それはあとから考えなおしたり他人の意見を参考にすれば、どうでもいいことだったと確認できる。
 「熱い友達」は、沸騰するもの、熱狂できるものが大好きだ。おまけに、友達である自分にも同じような情念の発露を期待する。
 さらに、期待が裏切られるとき、手のひらをかえしたように相手を否定し侮辱する。ここまでやるか、という方法で人を非難し愚弄し、消耗させる。
 つまり、相手の自立性や自律性が気に食わなくてかなわないのだ。相手には相手なりの気持ちや立場や事情があることについては、考慮しない。(そもそも聞かない。聞いても理解しない。)
 それゆえに、相手が自分と同じ意見や趣味や生活水準になるまで、相手の言葉や行動だけでなく、人格や人生すべてをののしることができる。
 しかし実際には、まったく同じ個人などこの世に存在しない。そのため熱い友達は、人間不信が強くなる。いつも他人が自分と同じに振る舞い、同じ「心」を持つかをチェックしなければ気がすまない。疑心暗鬼は高ぶり、わずかの違い、違いともいえない違いに敏感になりすぎる。そのため、人を厳しく統制しようとしてしまう。
 その統制のために、カリスマや異様に激しい訓練や規律を求める。政治的にはファシズムに走りやすい。日常的(ミクロ政治的)にはいじめっ子・バタラーもしくはストーカーになりやすい。
 「熱い友達」は、リンチやいやがらせの被害者・および支援者に対しては、驚くほど敵対的で排他的だ。たとえばレイプの被害者が人権を訴えると「不自然だ」「ヒステリーだ」と大声で訴えを遮断する。リストラされてボロボロになった人に向かって「今どきリストラなんて珍しくもないのに、被害者意識が強すぎる」「あなたには能力がない。努力をしていない。」「正社員への嫉妬でしょう」などと平然と言い放つ。傲慢で人を見下す視線と真理や正義を注ぎ込む熱狂的な暴走は
犠牲者を二重にも三重にも鞭打つ。
 これは一見、「冷たく」に見えるだろう。しかし、この「熱い友達」は、利害が一致するかぎりにおいて、あるいは相手が自分の勝手な期待と幻想のなかにとどまる限りにおいては、親切でなれなれしい。そして、ある出来事をきっかけに、とたんに客観的には残虐になれる。それも、主観的には熱い正義感・使命感・仲間意識によって傍目にはむごいことを行う。
 

 逆に「冷たい友達」は静かで落ち着いている。要するにクールなヤツだ。いつもは人のことをかまわない。ずけずけとプライバシーに踏み込んでこない。人の嫌がることはやらない。もし、そうしてしまった場合には、素直に相手に謝ったり、埋め合わせをしたりする。そうして人の尊厳や自律性を尊重してくれるのだ。
 「冷たい友達」はいつもは他人と距離をおいている。けれど、いざ、というときにはちゃんと人を助ける。まったくの無関心ではなく、チラホラと人を見ているのだ。そして、適度な距離があるからだろう、きちんと人を観察しており、ブレが少ない。
 「冷たい友達」は、熱狂を求めない。過度の情熱、熱心さ、熱中とは縁がない。なので興奮するあまり人に暴力を加えたり、陰湿ないやがらせに歯止めが利かないということはない。
 冷たい分、相手の嫌がることもハッキリとその場で言う。それも激怒の感情や怒鳴る・叫ぶ・キレる・スネるといった幼児的な振る舞いはない。不必要に人を傷つけたり混乱させたりしないのだ。なので、そのときの相手の傷は、最小限ですむ。
 彼(女)は、いつも冷静に物事を観察し思考する。そのため、周囲の「空気」や「雰囲気」に乗せられて愚かな行動をとらない。
 これを逆の方向から説明すると、「冷たい友達」は、自分の正義や信仰を他人におしつけない。熱く燃え上がり自我が溶けあうような状態をムリに作ろうとしない。個性が消えて全体の中に溶解する状況への美意識や嗜好はない。そういったものには、こだわらない。いや、理解や想像すら難しい。
 なので、相手の個人としての独自性と自由が保障される。人のペースやスタイルを理解・尊重できる。彼(女)は人を縛らないタイプなのだ。
 当然、陰湿に他者を攻撃したり、いやがらせを行ったりしない。そうする必要性もそれがいいとか面白いとか自然なことだという発想も「冷たい友達」にはないわけだ。
 おせっかいな干渉、失礼や僭越な行動はない。しかしちゃんと人を見ている。放っておいてくれるけれど見守っているのだ。それで、ここ一番という危機の時に、適切に助けてくれる。それも、人が助けを求めているかどうか、親切が仇にならないかどうかに注意しながら人を助ける。「地獄への道は善意で埋め尽くされている」ことを承知しているのだ。
 いつも他人とベタベタ仲良くしている「熱い友達」とは違って、ささいな違いを気にしない。むしろ面白がる。
 一つ目の理由は、いつもくっついていないので相手の短所を注視せずにすむから。二つ目の理由は、短所は裏返せば長でもあり、それが相手の魅力だと知っているからだ。その特徴が殺されれば相手の自発性や自信や有能さを奪う、それがどれほど生産性が低いだけではなく、人格への冒涜であり、残酷であるか熟知しているからである。
 「冷たい友達」は政治的には個人主義・自由主義・共和主義などになる場合が多い。逆にナチス、ソ連、ネオリベといったファシズムを忌み嫌う。レイプやリンチの被害者の人権を擁護し、加害者の行為を批判する傾向がある。
 甘やかして人をスポイルすることはないが、かといって簡単には人を見捨てたりしない。距離をおいたつきあいが上手なのだ。
 
 もちろんここに挙げたのは最単純モデルである。実際には一人の人間の中に両方の要素がはらまれている場合もあるだろう。状況や立場によって一人の人間が「熱い友達」にも「冷たい友達」にもなりうる、ということだ。

 わたしは「熱い友達」には辟易させられる。彼(女)らはわたしがリストラされたときに、精神主義的・道徳的な説教を熱く行った。もっとがんばれ、やる気がない、そんなことではダメだ……。軍事教練のような口調と表情と身振りで、怒鳴ったり叫んだりわめいたりしていた。こちらの話は聴こうともしなかった。これまでのいきさつを時系列に沿ってきくこともせず、わたしという個人がそこにいるだけでいけない、悪いとありったけのエネルギーで人をののしるのだった。

 逆に「冷たい友達」は普段あまり顔を合わせていなくても、味方になってくれた。もう一度傷を逆なでするような詰問や説教はなしで、静かにわたしを受け入れてくれた。会社がヒドイ、腹が立つということはあっても、わたしに腹が立つと言うことはなかった。加害者を責めることはあっても被害者をなじることはなかた。
 そのかわり、つとめて普段どおりにいっしょにご飯を食べ、おしゃべりをしてくれた。おかげでわたしは、会社の外にも人間関係があり日常生活があることを忘れずにすんだ。アルバイトか正社員かという区別を忘れて、純粋な個人どうしになって、つながれた。

 学校や会社の共同体は、「熱い友達」を歓迎し、「冷たい友達」を排除する。残念なことに、労働組合にも同じ傾向がある。
 そんな中でも、ひとりくらいは「冷たい友達」をもったほうがいい。
 それから、特に社会運動に関わる人たちには、ファシズムを防止するためにも「冷たい友達」タイプの人づきあいを推奨したい。「みないっしょにいるのが自然で幸せなこと」「だからいつもいっしょにいるほうがいい」その論理によって、どれほどグループの外での日常生活を貧しくしていることか。その共同体主義は会社や学校と同じように人にとってストレスなのだ。そして公私混同やどこか欺瞞的なムードを作り出す。そうすると、狭いケージの中で飼育されたニワトリのつつきあいのごとき惨状が待っている。あるいは退屈なだれた雰囲気を引き締めるために、独裁者的なカリスマが登場したときに、一挙にそこになだれこむ。そうすると、自治がファシズムの地獄へと豹変してしまう。

わたしは「冷たい友達」という絆を大事にしたい。オルタナティブ大学には、「熱い友達」を求める人は向いていない。むしろ「冷たい友達」こそふさわしい。
互いに別のテーマを追求する。互いに別の国籍を持っている。互いに別の信仰を持っている。
だけど尊重しあっている。そして、普段は人の自立と自律を尊びながら、いざというときには助け合う。
たとえば、仮にオルタナティブ大学がつぶれそうになったら、ふだんはバラバラに行動していてもそのときには連絡をとりあって寄付を集める、といったことだ。

「冷たい友達」を求める方は、当オルタナティブ大学におこしください。
「熱い友達」を求める方はご遠慮ください。


ここまで書いて気づいたこと・考えたこと

「冷たい友達」では野暮というかイメージがいまいちなので、中間として「暖かい友達」も入れたほうがよかったかなあ。
これじゃファシズムを反転させただけではないのだろうか? 反ファシズムは、時にファシズムからの自由ではない。
それでも、「中間集団全体主義(内藤朝雄)」における友人関係を相対化することはできたのだから、はじめの一歩はこの程度でもいいのかな。
あとは読者がこれをたたき台にして、あんな友達、こんな友情が美しいとか、自分にあっているという風に考え、実行してくれるだろう。読者の自主的・自律的判断を信じて、あなたにこの小論を届けたい。


 

 
 
 
 
 

 

  

精神的自由に関するシンポジウム

2004年12月27日 18時08分36秒 | 反ファシズム
 みなさん、クリスマスより家のPCは復活しました。
 一度直ったPCがすぐさま調子が悪くなったので、もう一度リカバリしたり大変でした。少し機能が縮小したのが気がかりですが、家でブログを書けるのはいいことです。

 さて、心理学・精神分析ならびに精神医学が跋扈するなか、資本・国家にとって都合のよい心づくりと、間違った心(の持ち主)への攻撃と排除が強まっています。

 そのような状況に抵抗する勢力をお知らせします。AML(Alternative Mailing Lists)より転載。
来年、日弁連が、精神的自由についてのシンポジウムを開くそうです。

 忙しい時期とは存じますが、関東方面にお住まいの方行かれてはどうですか?
 多分わたしは行かれないので、こちらの記事にトラックバックかコメントしてくださると嬉しいのですが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日弁連が下記のようなシンポジウムをするそうです。

――――――――――――――――――――――――――――

精神的自由を考えるシンポジウムについて(ご案内)
 日頃より当連合会の諸活動にご理解とご協力をいただき
、誠にありがとうございます。
 さて、この度当連合会では、昨今の精神的自由をめぐる様
々な問題や、教育基本法及び憲法「改正」問題の議論が盛ん
に行われる状況を検証し、憲法が保障する精神的自由の意
義を再確認する必要から、下記のとおり精神的自由(思想、
良心の自由、表現の自由他)に関するシンポジウムを企画い
たしました。
 つきましては、別添のとおり、案内チラシをお送りいたします
ので、是非ご参加を賜りますようご案内申し上げます。


1 日時:2005年2月15日(火)午後6時30分~9時00分
                   (6時開場)
2 場所:弁護士会館2階講堂クレオ
     東京都千代田区霞ヶ関1-1-3
     最寄り駅:地下鉄「霞ヶ関」駅B1-b出口
     (参加費無料・事前申込不要)
3 シンポジウムの内容
  総合司会:田中早苗弁護士
(1) 問題提起(樋口陽一早稲田大学法学部教授)(予定)
(2) 「茶色の朝」の朗読(俳優葛西和雄さん)
(3) パネルディスカッション
・ 吉岡 忍氏(作家)
・ 魚住 昭氏(作家)
・ 高橋哲哉氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)
・ コーディネーター 小池振一郎弁護士
(4)まとめ(佐々木健次人権擁護委員会委員長)
4 本件に関する連絡先
  日本弁護士連合会事務局 人権第一課
  (担当 紺谷(こんたに))
  〒100-0013 東京都千代田区霞ヶ関1-1-3
  TEL 03-3580-9505 FAX 03-3580-2866
E-mail kontaniy@nichibenren.or.jp
5 [主催]日本弁護士連合会
      関東弁護士会連合会
      東京弁護士会
      第一東京弁護士会
      第二東京弁護士会




歪んだ教育がファシストをつくる

2004年10月01日 01時38分32秒 | 反ファシズム
 以前関わった平和団体で、なぜかファシズム傾向が吹き荒れていることを報告した。
 なぜそうなるのか? いろいろな理由が考えられる。最近の若年層の雇用不安定化と地位低下。日本のNPO法がザル法であり、免税特権はなく監督省庁の口出しが多いこと。あるいは、上の世代のサヨクによるイデオロギー注入の悪影響。日本の学校教育のゆがみ。

 今回は、学校にかぎらず広く日本の教育のゆがみがファシストをつくる、という説を立ててみた。というのは、以前何度か報告した平和団体でいかにもファシストめいた言動をとっている人たちは、「自分探し」をしている風情があったからである。つまり、運動を通じて自分自身のアイデンティティや自我を更新しようとしているみたいだったのだ。
 でなければ、運動と直接関係がないか、むしろマイナスになるような自意識の話をしないはずだからだ。例えば、彼ら彼女らからは、次の街頭行動プランそっちのけで「自分のプライドの獲得」について滔々と語ったり、何の脈絡もなく「仲間意識」たるタームが飛び出たりしている。これはやはり、自我・自意識の問題が世界の問題に優先していることの現われである。
 それは、自我不安をしずめる儀礼であり、アイデンティティ確立をめぐる試行錯誤と葛藤の表れだ。「他とはちがう自分」「もっといい自分」を探すために、時に犯罪者を文化スタアに祭りあげる。あるいは、自尊心と自信の弱さをごまかすために、周囲の自分の自尊心のお守りを頼み、自分は幼児や乳児や胎児のように退行してみせる。あるいは、国や社会が「何をすれば許さずに罰するか」を試そうとするかのように、下品・非常識・失礼・傲慢・高慢・暴力的・破壊的な振る舞いや雰囲気作りに奔走する。もちろん、その暴走を心配して注意する周りの人々の気持ちや立場は片っ端から踏み潰す。時に暴力をちらつかせ、批判ではない悪口を用いて、自分の極端なエゴイズムがどれほど周囲に影響を及ぼすかを試みる。面白半分どころか面白さ100%でそれを行い際限がない様は、まるで悪魔のようである。
 
 本稿は、その理由を日本の学校教育を中心とする教育のゆがみに着目して分析を行う。もちろん、他の原因も含めて考慮すべきだ。だが、一度に一人で何もかもはムリである。なので、とりあえず、教育方面からの考察を述べる。

 日本の学校教育
には、大きく分けて二つのゆがみがある。
1.自由・民主主義を教えない
2.自分を肯定させない
3。自分探しを禁じる

もちろん、異論はあるだろう。3つとも教えている、とおっしゃるリベラル派もいるかもしれない。
だが、ここではわたしと同じ世代ーー今の二十代終わり~三十代初頭ーーの受けた教育について語ることにする。それは、管理教育と受験競争圧力の強かった最後の世代でもある。
 
1.日本の公教育ではたしかに自由や民主について暗記させる。国語・社会の時間がそうだった。しかし、もっと本格的な自治についてはどうだろうか? つまり、子どもたちが自分たちの教育課程をコントロールする機会が与えられただろうか? 子供たちが夏休みの期間、どの先生を雇うか、開講科目の選定……を一人一票の権利で決められただろうか? 実際には違うだろう。
また、日本の学校で自由についてちゃんと教えているだろうか? いいかえれば、自由と放縦(わがまま)または自由と反動の違いについて討論する機会はあっただろうか? やはりないのではないか。
 自主的な服従のプラス面とマイナス面について比較・検討する時間はもてたか? それは各自が個人的に格闘する課題にならなかったか? いや、個人的に課題を設けて取り組むこと自体が罪悪視され、侮辱され、さまたげられたのではないか。
 不幸にしてこのような教育を受けた場合、いざNPOを作って自治を行おうとしても、どうすれば自由で民主的な組織運営ができるのか、見当がつかない。つまり、個人的には自由ではなく放縦や反動の行為が多くなり、集団的にはトラブルが起こった場合にリンチに発展しかねないもろい組織ができる。

2.日本の学校教育は、本当に根底的なレベルでの自己肯定・自己承認を行わない。むしろ、一部の成功者以外からは、もとあった健全なレベルの自尊心・名誉感情・自己肯定を破壊してしまう。過度の/画一的な客観視訓練によって主観=主体を奪ってしまう。あるいは、「主体的な服従(フーコー)の訓練によって、奴隷根性に満ちた思考停止で従順なだけの人を作ってしまう。
「みんないっしょに仲良く」というイデオロギーによって、カネやモノを盗む犯罪者ーーいじめっ子ーーを「友達」や「仲間」と思わせる。試験のライバルから執拗ないじめマニアにいたるまで、自分にとっての「敵」を「味方」だと信じさせる。そうして、イヤなものはイヤと言わさせないことによって、自分の素直な考えや感性を殺してゆくのである。自己否定・自己嫌悪・自己憎悪が推奨されている。内申書や心のノートに象徴される、「自分がどう思うか」ではなく「他人にどう見られるか」だけを気にする、極端な他者志向型の人間以外には居場所がないのだ。

3.日本の学校教育は、自分探しをさせない。なるほど、物理の公式を覚えたり、英単語を暗記するのは大切なことだ。身近なクラスメートとのつきあいも大切だ。
 しかしそれだけではない。人はいろいろなことを学ばねばならない。自分を知らないものは、他人のことも分からない。人は自分を知るために修行をすることも必要だ。
 そのためには、本人が必要と思ったときに学校的日常を離れて、アルバイトをしたり、ボランティアをしたり、キャンプに行ったりすることも有用だ。理科の実験だけを集中的にやってもいいだろう。お遍路さんとして歩くのもいいだろう。
 それは、学校単位でのおしきせではなく、個人(個々のグループ)が選べるほうがいい。学校とは別枠のスポーツ・チームに参加すること。学校とは別に楽器を練習し、ユニットを組むこと。学校とは別に一人旅をしてみること。
 そこで個人の適性が分かる。人との相性を見直せる。自分の意外な力や、これまで知らなかった社会や自然の奥深さを知ることもできる。
 自分の選択した行動や人間関係により、自分の風景・自分の夢・自分の限界が分かってくる。そうして日常に戻ったときに、自信がつき、人としての幅が広くなっている。人生の多様な可能性を観念ではなく実感として知る。世の中の多様性を身をもって味わう。
 そんな経験が子どもや若者には必要だ。数学の公式や漢字の書き取りやコンピューター・プログラムと同じように、働くこと、人と会話すること、野に街に遊ぶこと、恋愛をすることなどは人格形成に必要な要素なのだ。
 なのに、それを許さない。もしできたとしたら、よほど運がよかった人だけだ。
  
 
 それで、平和団体にかかわる自分と同じくらいの年頃の人間を見ていると、やはり↑にあげたの3つの要素が足りないのでヘンになっているのだと思う。
 もし知力偏重ではなく治力を高めていれば、あれほど会話や議論ができないことはない。治力が強ければ、組織をまかされれば独裁者・暴君・ファシストと化すことはないはずだ。 
 もし自分を肯定できればあんな風に初対面の人をバカにし侮辱することはないはずだ。リーダーの地位についたからといって、自分の親や祖父母の世代までを依存的な幼児として扱うはずはない。
 もし、自分を探すことを満足ゆくまでやっていれば、自分の限界を探すために、暴力や犯罪を賛美したり、ありとあらゆる非常識と失礼を繰り返さないだろう。
 
 あの人たちも、片面では日本の公教育の犠牲者なのである。
 
 

 
 

危ない団体の見分け方

2004年09月24日 17時43分50秒 | 反ファシズム
 さる平和団体を辞めてはや2ヶ月。本当に辞めてよかったと思っています。
 というのも、辞めてから気づく「あれは、とても危なかったんだ」という点が多々あったからです。
 
 リーダー層の行動の理解のできなさ。幼児的万能感と傲慢なさま。なぜか共産党と過激派が多い(仲がよい)こと。
 最近ひさびさに閲覧し、また他の団体のサイトと比較した場合のHPの異様さ。
 暴力を肯定し崇拝するような人、明らかに反政府的な人物を講演会に呼びがちであること。
 法律も常識も科学も無視するオームにも似た無法性。
 統一教会にも似た単純で極端な善悪二元論。
 戦前の軍部とソックリの機能集団の共同体化(目的合理性なき仲間意識の強要)。
 
 
 さて、こういったカルトとかセクトのようなグループを、どこで見分ければよいのでしょうか?
 知り合いのあるアクティヴィストは「見分けるポイントなんてない」と言いました。
 わたしは「ある」と思うんです。それで、危ないグループを見分けるポイントを次に挙げます。

1.「仲間意識」または「団結」を無目的/過度に強調する。
2.身分意識の強調。リーダーはフォロアーが行えば罰せられることでも許される。時に「栄  転」する。
3.リーダーが人間不信・被害者意識にとらわれ、必要以上に攻撃的になっている。
4.誰かを「スパイ」だと根拠もなく決めつける。それが非常識・失礼との認識がない。
5.「責任がないことこそ自由」などという二重言語がひんぱんに飛び交う。
6.リーダーたちはみな一字一句同じことをしゃべる。またはチラシ等にも一字一句同じ文章が並んでいる。
7.会議やデモ等への出席を強制する。たった数度欠席したメンバーを激しく責めたてる。
8.公私混同。リーダーが自宅を事務所にしたうえ、会議や親睦会などを名目に人を呼び込むなど。たまたま自宅が事務所だった、だけではすまない。公私混同が自己目的と化す。公私混同に疑問を呈したり、抵抗をすれば悪者扱いとなる。公会堂、市民交流センターなど公の会議場を使うと、特定のメンバーだけを仲間はずしにしたり、大声を張り上げるなどの外のルールでは許されないことをしにくくなるので、大変嫌っているのだ。
9.会議の出席者、主催者などに元赤軍派、中核派など過激派セクトの人間がいる。あるいは、オウム・統一教会・山岸会などのカルト、自殺者を出したことで有名なライフ・ダイナミクスなどの自己改造セミナーに関わった(と思しき)人間がいる。
10.興奮しやすい、暴力愛好的など何らかの麻薬を愛好している(た)とみられるメンバーが
リーダーとして権限を持っていること。
11.リーダー層が細部拘泥主義になっている。ささいなことで神経質になっておおげさに騒ぎ 立てる。
12.いじめ・いやがらせなどが起こった場合、加害者を免責し被害者を責める傾向がある。
13.ウチとソトでしていいことと悪いことがまったく違う。共同体のウチとソトで共通のルールの存在を認めない。いわゆるバイデ・ノルム(二重基準)。ダブル・スタンダード(二重道  徳)。
14.内部批判者を暴力的な態度や脅しによってつぶそうとする。
15.タテの関係が強くヨコまたはナナメの関係が弱い。とりわけヨコの連絡を断とうとする。 16.批判ではなく悪口のチラシやメールが日常的に流れる。人を簡単に侮辱・罵倒する。
17.リーダーが子どもっぽい。幼児的万能感とナルシシズムに満ちている。「ここでリーダーであるかぎり何をしても許される」といった勘違いが強い。また、純粋主義・潔癖主義が推奨される。例えば、「面従腹背」とメールに書いただけで憎悪される。
18.グループ外の人間や組織(家族・友人・恋人・会社・他のNPOなど)を無視または敵視する。
19.内心の自由、良心の自由を認めない。例えば正しい歴史観を強制しようとする。イデオロ ギー注入、洗脳、またはそれに準ずるコミュニケーションへの誘導がひんぱんになされる。言  い換えれば、グループの中での自由主義と民主主義がない。
20.グループの中に退屈でだれたムードが蔓延している。共通の目的や価値観を見失い、なぜ 会議に出席したのか、あるいは休むのか自分でも分からなくなっている。ただ惰性やピア・プレッ シャーや「異心を抱いていない」言い訳のために参加するにすぎない。
21.ザミャーチンの言う「われら支配」。「組織がお前を愛さなければ誰もお前を愛さない」 というのが暗黙の脅し文句になっている。
22.気に入らないメンバーを企業のリストラと似たやり方でやめさせる。そのあと、「リストラされ たあなたは間違っている」旨のメール等を送りつける。リストラではなく相手を怖がらせること、不愉快な思いをさせること、つまりいやがらせが目的になっている。
23.特定の党派・組織の上からやってくる情報以外を遮断しようとする。党やセクト推奨以外 のサイト・本・映画・音楽・新聞・雑誌などすべてが悪か認知不可能である。
24.時代錯誤な/非現実的なイデオロギーや人づきあいの作法を抱いている。そのため急性アノミーを起こしやすい。つまり教義(ドグマ)が通じない場面になると、冷静で合理的な判断ができなくなる。身近な人に八つ当たりをしたり、その場で強者なのに弱者ぶったり、落ち着いた雰囲気の喫茶店で大声をあげるなど奇妙な言動が目立つ。
25.全員に共通するルールがない。慣習だけがある。そのため新入りはいびられやすい。何が ルールや慣習か、説明がないからだ。また、それが合理的かどうか、他の組織で通じるかどうか といった比較・検討はタブーとなっている。
26.リーダーをはじめ中心グループは自意識過剰で傲慢。時に親子ほども歳の離れたフォロアーを幼児扱いする。相手が年少者であれば家畜扱いさえする。
27.自分はよいことをしているので周囲から崇拝され親切にされた当然だと思っている。デモには人が来て当然だと思い、会社の残業や体調や家族とのつきあいなどを軽視または蔑視する。また、理解者・協力者に対して「ありがとう」「お疲れ様」などの感謝やねぎらいの言葉がない。
28.理解者・協力者を奴隷のように扱う。自分の嫌がることをフォロアーに片っ端から強制する。自分が相手に悪いことをしても「すみません」「失礼しました」などの言葉やバツの悪そうな身振りはない。
29.質問・反論・異論を否定する。ブレーン・ストーミング的な会話や議論を禁止する。そのため、状況の変化に応じた新しいアイデアをつぶしてしまう。また、組織の末端のものが気づいた情報や知恵が、ボトムアップされない。そのため、例えばデモや集会における動員戦略が洗練されない。
30.28、29により、フォロアーは受身で依存的にさせられている。また、自分の仕事が少ないので会議では手持ちぶさたになる。フォロアー側にはマンネリや士気低下が見られる。議論や報告の責任がないため自由もないのだ。
31.30により、フォロアー側は、誰かを侮辱したりいたぶったりすることによって退屈さと無力感をまぎらわせようとする。そうすると理由なきいじめや迫害がおこりやすい。半組織的ないやがらせ、脅迫、侮辱が日常化する。また、退屈さ払拭のために暴力を肯定する作家を講演会に呼んだりもする。

ランダムにあげるとざっとこんなものだろうか。

反システム運動

 結局、こういう団体は反システム運動だから、世の中の片隅に小さく存在できるにすぎない。
 当然、孤立しやすく、理解者や協力者を得られにくい。教義を生真面目に信じていればいるほど、またグループの外の人や団体との接触が少なければ少ないほど、教義のウソを知ったときの混乱も大きい。
 
共同体主義者の害毒 
 例えば、共同体を無条件に善だとみなす。これは日本共産党系の共同体主義者が典型だ。
 しかし共同体は近代市民社会とは違って、男尊女卑・年功序列といった身分差別は当たり前だ。
また、人権や自由恋愛もない。選択や自己決定や実存もない。個人とか自立とか自律といった概念もないのだ。
 時に残酷で理不尽な慣習が法を超え人権を超えて行われるのも共同体の特徴である。
 それらの面を検討せずに「共同体はすばらしい!」と思い込み、その教義を信じない他人をサタンのように扱う。あるいは無知ゆえと見下し同情し、洗脳しようとする。単線的な進歩主義と「自分はステージが高い」という自意識過剰が思考停止と押しつけがましさに拍車をかける。異様に観念的で具象性がなく思いやりもない人たちなので、時にイデオロギー注入は暴力や脅し、侮辱と」罵倒を伴う。上品で繊細な人物は、暴力をふるうぞという言葉や雰囲気による脅し、初対面で面と向かって罵倒するといった方法だけで自信を失い、相手のいいなりになってしまう。(これはソルジェニーテインが「収容所群島」で報告している収容所の看守の新入り囚人への行いとその結果と酷似している。)
 そもそもデモ団体はボランテイアのための機能集団であって、共同体ではない。仕事仲間と同時にプライベートでも友達である必要はない。また、イヤだと思う人とは事務的な連絡、必要最小限の共通の行動をするだけでよい。自宅を事務所にして相性の悪い人を家に招いたり、自分がそれを選択したにも関わらず無責任にも被害者ぶるなどは愚の骨頂である。

第二の波と第三の波の錯誤 
 
 トフラーも「第三の波」で言うように、今は少品種大量生産の時代ではない。多品種少量生産の時代だ。
 第三の波(情報革命。ネットワーク革命。)の時代に、みなが同じときに同じ事を同じようにおこない、同じように考えることはありえない。にもかかわらず、18歳以上の社会人の組織であるにもかかわらず、それを欲求する。はじめからムリだと分かっているスケジュールを押し付けてこなせと事前に何の相談も調整もなく押し付けてもダメである。現場は上の机上の計画の唐突さや無謀さにあきれるほかない。しかも「異心(謀反を思う心)」があると分かればリストラかリンチである。そこで従ううちにヤル気が失せないほうがおかしいではないか! にもかかわらずメンバーの「自己責任」を声高に叫び、「ヤル気がないのはロクでもない!」と人を罵る。影で悪口を流す。
 
仲間意識というムリ

ここまで書けば読者の大半は意味が分かったかもしれない。
今時の平和デモには職業・年齢・国籍など多彩な人たちが個人的に集まる。そこで「一体感」や「仲間意識」を訴えても逆効果なのだ。「まったく仲間意識もない。一体感もない人たちが、なぜかいっしょに歩いている」というのがアピール・ポイントなのだ。それなのにリーダーは、さかしまな動員戦略をしかけている。これではデモ動員数が減るものムリはない。
 そもそも個人主義的な人間ほど強制される仲間意識、ピア・プレッシャーを嫌うものだ。世の中には集団や仲間意識を好く人もいれば嫌う人もいる。そんな当たり前のこともリーダーには理解できないらしい。鈍感で視野狭窄なのだ。
 高遠さんたちが捕まったときに動員数がピークに達したのは、活動家の努力だけではない。日本政府・外務省のデタラメな対応に、普段はデモなどどうでもいい人たちもデモにかけつけた。つまり、敵失なのだ。
 それを見誤り、「市民の力で何でもできる」とハイになった。いや、一時そう思うのはムリもない。しかし、2、3ヶ月もすれば冷静さを取り戻して「自分たちの力だけではなかった」と反省すべきだった。「何でもアメリカ流」がイヤならなおさら、謙遜の美徳を示すべきだった。
(2004/11/2趣旨を変えない程度に訂正しました。)


 
 
 

 
 

 
 








  

ある平和団体の中のファシズム1

2004年08月29日 03時53分54秒 | 反ファシズム
 以前、とある平和デモ団体と関わっていた。そこでは、MLにおいて投票が禁じられた件と、
 投票の権利を規則化するためのたたき台を、ミーティングに提出する権利について、そのグループのリーダーから暴力をほのめかして脅された事件が起こった。

 その団体と関わって、以前から「ちょっとおかしい」と思っていた。なみなみならぬウソ・騙しがあるようだ。肝心なことになると平気で逃げる。幹部たちの異様なエリート意識の強さが鼻につく……。
 
 疑問に思ったことをランダムに挙げてゆこう。
 どうして「自分はステージが高い」と根拠もなく信じるのか? 人を侮蔑できるのか? なんだか人を侮辱したほうがエライといわんばかりだ。 
 会話しているようでいて、できない。半会話とでもいうのだろうか。何について話しているのか、話題が分かっていない。特殊な用語を相手にキチンと説明できないーーつまり、プレゼンテーションがヘタ。
 おまけに、明らかに、わざと分かりにくい発音や音量で話をすすめる。それで、質問をしたり確認をとったりすると、なぜか被害者意識にかられて怒りを爆発させている。自分のマネジメントの至らなさを反省するよりも前に、人に向かって怒鳴る。時に殴りかかる身振りとともに罵る。
 謙遜の美徳が分からない。「奥ゆかしさ」とか「遠慮」とかを、単に無能でヤル気がない、と解釈する。社交辞令も「自分は偉くて相手はダメ」式に考えているようだった。ユーモアのセンスも分からず、ちょっとしたことで「失礼やろ~!」と神経質に騒ぎ出す。(「ネタ」という言葉を使っただけで「失礼だ!」と大声で怒鳴られたときにはさすがに気が滅入った。)

 カテゴリー「中間団体ファシズム」の中で何度も論じたが、その団体はMLでの投票をリーダーの独断によって徹底拒否した。そのときのリーダーの言動が異様だった。仮にも平和団体のリーダーが、暴力をほのめかして人を脅すとは思わなかった……。
 それも、夜中でも人が歩いている京都の五条通りのファミリーレストランで食事をした後、各自支払いをすませて駐車場を横切るという時にそのことを伝えたのだった。「自由に意見をすると驚いたり傷ついたりする人がいる」「自分はリーダーとしてみなのことを考えて注意をしている」と偉ぶりながらの話だった。彼は真剣さを装っていた。だからこそいっそう、甘えや馴れ合いやふざけた気分が浮き彫りになるのも気づいていないのだろう。 
 どうやら、人の身の安全を脅しても、周囲のメンバーの世論に差し支えない、と判断したようだった。むしろ、みなの前でわたしに恥をかかせて、「自分に逆らうものはどうなるか分からないぞ」と見せしめをしているようだった。
 また、そのときに、わたしが警察に通報することも、暴力のさなか携帯電話のカメラに証拠を収めることもない、と高をくくっている様にも驚かされた。もちろん、周りの人間が止めに入ったり、警察を呼ぶことも、腹が立って「保守」系マスコミに情報を売ることも想定に入れていないようだった。誰かがネットで告発することも視野に入っていないようだった。
 女だから、フリーターだから、貧乏だから、リーダーに対するフォロアーだから、体が小柄だから、人当たりが柔らかい方だから……等といって、よくここまでナメられたものだ。
 
 この奇妙な言動には、彼独特の共同体主義が一枚かんでいる。
自分の納める領地のごとき中間団体の中でなら、何をしても許される。法律も常識も、科学も道徳も関係ない。それが彼の立場なのだ。
 彼は初対面のときから、「自分はアナキスト」と自己紹介していた。それはアメリカのリバータニアリズムに近い主張だった。
 国があると戦争が起こる。だから国を廃止しろ。かわりに、地方自治体とか仲間内で政治をやれば問題ない。また、国があると所得税を取って財の再分配が行われてしまう。それは財産権の侵害だ。国の最も悪い点だ。だから、国を廃止すべきだ。
 福祉なんていうのは、それをやりたい貧乏人や傷病者が集まって特殊な共同体を作ってその中だけでやってもらえばいい。おおげさな身振りと自己陶酔した口ぶりで彼が初対面のわたしに語ったのはそういった政策だった。アフガンからイラクへと問題の焦点が移ろうとしていたときだった。アフガンをはじめ紛争地帯では、まさに国が機能せず、他の国や宗教・民族・地縁・血縁といった
中間団体による殺しあい・騙しあい・混乱が続いており、彼の主張の妥当性の欠如は初見で明らかだった。
 それと関連して、彼は京都市の北山地区にある自宅を事務所にしている。そうすると、公私混同が起こる。個人的に相性のよくない相手、信頼関係や仲間意識の持てない相手であっても、会議やチラシ発想作業などのたびに家に招くことになる。そうすると緊張や気まずいムードが漂う。
 そもそも、そこは京都駅前や四条河原町・三条といった交通便利な町の中心部にあるわけではない。そのような移動しにくい場所をグループの共同作業所として指定するのはおかしいのだが、彼はたびたびそう発案していた。もっとも別のメンバーの「もっと移動しやすい場所にしてほしい」
との声によっていつも成功したわけではないが。それでも、自宅を事務所にしていることによる無用の緊張や公私混同はまぬがれなかった。
 わたしは彼とは相性が悪く、彼の自宅兼事務所に行くのは正直イヤだった。それでもどうしても行くことになったときには心が重かった。そのリーダーもイヤでかなわないが事務的な面で仕方がないといった感じだった。
 
 こういう欠陥があるのに、なぜわざわざ共同体主義を信奉するのか? 彼は何でもいいから自分が支配でき乱用できる場が欲しいのだ。だから、メンバーはーー得にリーダーやサブリーダ-に対するフォロアーは、自分の私的な領有物という感覚は抜けない。その領有感覚を投票や自由な意見の交換やフォロアーによるミーティングへのたたき台提出は壊してしまう。
 したがって、やれ「意見するのは場違い。役割錯誤」「このMLでは投票などしません」「(理論の話をしているときに)思想には意味がないんよ~」といった一連のふざけたセリフになるわけだ。
 それはグループの中の公民権否定にあたる。60年代のサブカルチャーに興味をもち、全共闘世代の左派の強い大学を出た彼も、その点を知らないはずはない。わたしが中学中退なのでナメているのかもしれない。
 かつて黒人・女性・貧乏人には、投票権がないか、あっても形骸化されていた。それを婦人参政権運動、財産や教養がなくても投票権を求める運動、公民権運動等によって、権利を勝ち取ってきた。その権利を彼は自分のグループにおいて壊そうとしている。民主主義ーーとりわけ草の根民主主義の伝統を彼は全部否定し破壊しているのだ。
 
 このことから、彼のパレーシアへの限りない憎しみと攻撃も理解できる。パレーシアとは「権力の前で真実を語ること」という意味の古代ギリシャ語だ。自分と同等かそれ以上のものの前で、嫌われたり追放されたり処刑にされるリスクを犯しても真実を語る権利だ。それはギリシャの民主政において、「権利の平等」とともに最も重要な民主主義の柱だった。
 そこのリーダーはグループの中でのパレーシアの権利も「個人的であって社会的ではない」との理由によって廃止しようともくろんだ。あたかも婦人参政権に反対する論者が「婦人参政権は政治的ではなく個人的な問題」だとして長年権利の確立を邪魔立てしたように。片方の選挙権については、まるで選挙に行った黒人を脅迫したりリンチしたりした差別主義の白人のように、「絶対に許せないと思っている。」「もう少しでやみくもにあなたに暴力をふるいそうだ」と脅す。
 ネオコンも真っ青の反民主的な行いだ。

 北朝鮮でもやっている投票への否定・侮辱。(それも実際の選挙の一週間ほど前というタイミング。)みなの前で意見を発表する権利の廃止。なぜこのような横暴な主張が平和運動のリーダーの口から語られるのか? それも平然とした調子で。周りのメンバーはその点に関して無頓着だ。
 
 リーダーとその片腕たちの万能感・優越感・ナルシシズム。「思想を飲むのではなく、思想に飲まれた(ドストエフスキーの「悪霊」より)」醜態。確固たる価値感や方法論のない中での混乱。
過剰な流動化・個人化への反動。孤独への弱さから来る共同体主義。日々権利が削られてゆく状況への生物的な適応。
 
 それらが生んだものは、暴力的でグロテスクなファシズムだった。