goo blog サービス終了のお知らせ 

学校のない社会 大学のない世界

学校のない社会、大学のない世界に興味・関心のある方、ともに集いましょう。大学教員によるトラックバック等はご遠慮ください。

鳴いてばかりいる子ネコちゃん

2004年08月05日 13時45分57秒 | 反ファシズム
 先日、平和団体にいたころの知り合いと電話で話した。
 団体を辞めてから約1ヶ月。わたしは辞めてよかったこと、また、前にも話を書いたMLの管理人で運動のリーダーBさんへの不満をまくしたてた。
 彼特有の、訳の分からないグロテスクな言動について、腹が立つこと、思い出すだけで改めてイライラさせられることを勢いあまって語った。
 そこにいるときには目の前の作業に夢中だったり、忙しさや緊迫感に包まれて考えられなかった。そのことが、今、距離を置いて冷静に見えてきたのだった。
 いくらなんでもあの言葉・行動は非常識・悪趣味・トンチンカン……。一体何よ?

 それに対して話し相手は、「あんまり気にしないで」とか「もうあの団体のことはいいじゃない」とか言ってくれた。
 確かにもう辞めているのだからどうでもいい。だが、わたしは彼がなぜあそこまで信じられない暴走をできるのか、よく分からない。いっしょに話した人は「彼も若いから~」と言う。でも、前後数歳の広い意味での同じ世代・同じライフ・ステージの人たちからも、彼は「困ったチャン」扱いされている。
 
 平和団体とは無関係の別の友人と電話でそのことについて話した。「平和団体のリーダーが、デモの協力者にお礼を言わない。それで周りの世話人からも責められている。それでも何を言われているか理解できず、『え、そんなことしなくちゃいけないの?』的な反応だったの。どうも全て自分だけでやっていると思い込んでいるらしい……。」そうすると「一人でできるわけじゃない。いろんな人の協力でやっているのにね。」との答え。

 話を元に戻そう。昔同じ団体にいたAさんと話しているうちに、思想の話になった。
 日ごろの疑問を解きたくて、思い切ってたずねてみた。どうしてあのリーダーのBさんは、『思想・思想』と思想にこだわっているのか? 今の20代終わり~30代初頭くらいの世代であれほど思想を怖がる人も珍しい。だいいち、あの時わたしは思想というよりも理論の話をしていた。彼の言い分では、新しいMLを作るのはテクノロジーの問題、規則づくりや投票や情報とは別の意見情報を出すのは思想的で意味のない行動、ということだ。だがそもそも、テクノロジーの基本にも「すみわけ」という哲学的・思想的基盤がある。そのへんのところ、どう考えているのだろう? 全く二重にも三重にも人をバカにしてやしないか?

 Aさんのコメントは次のとおりだった。「どうもあのB君は、よく分かっていない人だね。」
 ピンと来た。「そうだと思う。大事なポイントをことごとく外している。」
 彼のアメリカのリバータニアンにも似たアナキズムの主張に話は移った。
 Aさんいわく、「彼はヨーロッパのアナキズムも、日本のアナキズムも、ちゃんと読んでいないと思いますよ。」
 わたしも同意する。「そうですね。あんまり勉強していないみたいね。」
 Aさんがこう言ったのは印象に残った。「彼は思想のことをよく分かっていなくて、ふりまわされているんじゃないかな。」
 自分はこう答えた。「ドストエフスキーの小説に『悪霊』がありますね。あのなかで、ある登場人物の口を通じて『君は思想を飲んだのではなく、思想に飲まれたのだ』と批判させている部分がある。要するに、彼もその罠にはまった、ってことなのかな?」
「うーん、そうですね。」

 なるほど。腑に落ちる。これで管理人Bさんの不思議な行動と態度のおおもとが明らかになった。
 要するに彼は、高い所に木登りをして、怖くて降りられなくなった子ネコなのだ。それで戸惑っているので、顔があちらにこちらに向いたり、人をいつも以上に警戒したりしているのだ。
 あの幼児的な表情や言葉や身振りは、お母さんネコかやさしい飼い主を求めてミィミィとかわいそうな声を振り絞って鳴いているのだ。言い換えれば軽いパニック状態なのだ。
 
 それでも、知らないもんね。わたしは管理人さんのお母さんじゃないんだし。自分がいつのまにか予想以上の高いところに登ったのが、自分でも信じられなくて困っているんだろう。どうすれば無事降りられるのか不安になっているんだろう。一度降りたら二度と登るチャンスはないと杞憂しているのかもしれない。
 
 試しに一度降りてみればいい。一歩一歩、そろそろと。
 別に大怪我する高さじゃないよ。母ネコや飼い主の助けはいらないよ。一度降りてもまた登れるさ。
 そうすれば高い地位・高いプライドだけがいものじゃないと気づくはずさ。
 勇気と決断力をもって、自分自身で降りてごらんよ。誰も笑ったりしないから。嘲笑するヤツとはつきあいを切ってもいいだろ?
 もういいかげんに、正しいことを間違っていると強弁し、自信たっぷりすぎる表情と身振りでわけもなく他人を侮辱するなよ。
「発起人」や「デモ申請者」といった肩書きを利用するのではなく利用される形で、非常識を常識だと言い張り、悪趣味をよい趣味だとゴリ押しする。理解者や協力者に儀礼的な感謝ひとつ表せず、小さな独裁者として他人の外面ではなく内面を図ってランキングづけるのはよしてほしい。それで傷ついたり不愉快になったりしている人だっているのだから。
 ヘンに大物ぶって、「個人的な意見は話さないでください」と唱えなくていいよ。もう一度集団が個人から成り立つという原点に戻ればいいだけさ。
 別にルサンチマンで言っているんじゃないよ。ただあなたの横暴にいたたまれなくなってデモやミーティングに来なくなった人もいるんだよ。そのことだけは分かるべきじゃないかい?
 別に勘違いしてもいいよ。ただし、あとで反省して次に生かせるのなら。
 リーダーは責任も作業量も人よりも多くなる。だったら、なぜ「助けてください」「一緒にやりましょう」と言わないんだい?協力団体のうち、どこが下請けかなんてどうでもいいことでしょ? 
 そりゃ、お宅はあまり偏差値の高い学校を出ていなくて、プライドを持つことを認められない。ゆえに、かえってプライドに憧れ、プライドを持つ権利を模索したのだろう。
 しかしこのへんが限界だ。高すぎるプライドは、堕落の元だとそろそろ気づいてもいいんじゃないの? 奴隷根性はよくない。ところが一方で、貴族根性というのも困ったものなんだよ。
 プライドに振り回されて、自分で自分を貶め、視野を狭くして、いつも人を無視したり見下したり誤解したりして面白い? 
 やっぱり、甘えたって知らないからね。こっちはこっちでやることがあるし。
 脈絡もなく威張って、暴力を暗示して人を脅す。北朝鮮でさえやっている投票制度を拒絶する。当然の常識を否定するあまり、冷酷に「仲間」を攻撃し、人を混乱させる。外の世界のルールを守らないかわりに、外では通じないことを身内のルールにしてしまう。
 そんな子ネコを誰が助けたいと思うか。学歴どころか心で人をランクづける横柄で傲慢そのもののキャラクターに誰が親しみなり信頼をおけるものか。
 幼児ぶって甘えてくるのも、マザコンらしくて不気味だし。ホント、おかしいよ。それを克服しようとして行過ぎるのか、いきなり人を幼児扱い、自分は保護者ぶるのもウンザリだね。一体何を考えているのか、MLには18歳以上の人が加入しているし、お宅の親どころか祖父母の世代も参加しているというのに……。
 とにかく、高いところから降りるべく一歩踏み出しなはれ。お母さんネコ、兄弟姉妹ネコ、飼い主や近所の人も待っているから。
 それとも、暴れて暴れて、犬のおまわりさんにお世話になってみたい? 代用監獄は監獄よりも大変だそうですよ。ま、一度自分が看守ではなく囚人役をしてみるのもいいかもしれませんね。
そうすれば監視され幼児扱いされ意見や行動ではなく心や人格全部を否定されるキツさが分かるでしょうから。それでも人一倍復讐欲の大きいお宅のこと、さらにひどい暴君となってシャバに戻ってくるかもしれませんがね。
 もうわたしには関係のないことですから。

 あ、そうそう。そこで共同体主義だの人間関係主義だのを唱えてもムダですよ。共同体を選ぶことができると言っちゃえば終わり。人は関係の中で生きているからこそ、気持ちの悪い関係は切ることが必要だ、人間関係はお宅との関係だけじゃないと言い切ればオシマイ。
 分かっている? 勘違いはやめてね。


 
   

 
 

 
 
 

京都市子ども相談センターにおける建物内拉致・監禁事件2

2004年07月17日 10時16分09秒 | 反ファシズム
 子どもパトナ事件のより詳しい報告です。市民団体作成の文書を紹介します。

 コメントをつけるとすれば、こちらの団体の人たちはちょっと学校に楽観的な幻想を抱いていたのでないか、ということです。
 かつて80年代に、反管理教育や子どもの人権運動をしていた神戸のあるアクテイヴィストは、「運動に関わって日が浅い人たちは、学校の怖さを知らないから、どんどん学校に関わってゆく」と語っていたことを思い出します。
 元中学校の建物であること、子ども相談センターという名称、
不登校の子ども対策として作られた施設であること等を考慮するに、もう少し巧妙な振る舞いが求められたのではないでしょうか? わたしたちの情報発信が足りなかったり遅れたのかもしれません。
かつて80年代に、不登校の親の会、フリースクール、反管理教育、子どもの権利など諸社会運動のなかで蓄積された情報が、今の道徳教育・心のノートに反対する人々に届いていないのは残念でなりません。

 もちろん、本人たちではなく、わたしたちの情報伝達のへたくそさを責めているのです。
 この件に関しては、被害者ではなく加害者に非があることは、法律的にも常識的にも明らかです。
 



【京都市教委による河合隼雄講演会での暴行傷害・警察官導入事件の経過】
 6.13 京都市教委・パトナ事件---3人の女子学生らへの、セクハラ行為と「全治10日間」の暴行傷害

 京都市教育委員会は、6月13日(日)、「京都市教育相談総合センター(子ども相談センター・パトナ)」の、開館1周年記念イベントとして、河合隼雄講演会(「いま、子どもたちが求めているもの~家庭・地域の果たす役割」)を開催しました。
 河合隼雄氏は、「心理主義」の立場から、子どもたちの心に国家が介入する「心の教育」路線の提唱者であるだけではなく、森前首相の「神の国発言」を賛美したり、「国家は義務教育を本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない」(同氏が座長を勤めた「21世紀日本の構想懇談会の最終報告書」)という提言をまとめたり、教育改革国民会議や中教審委員を勤めるなど、教育基本法改悪の動きを支えてきました。また、道徳の国定教科書とも言える『心のノート』についても、作成協力者会議の座長として、中心的な役割を果たしています。京都市でも、市教委が設置した京都市道徳教育振興市民会議の初代座長として、子どもたちに、「あなたは自分の国を愛していますか」というような「道徳教育1万人アンケート」を実施したり、「心の先生」(?)と称して、小学校で『心のノート』を使った道徳の「模範授業」を行うなど、まるで市教委の「宣伝広告係」のような役割をつとめてきました。特に、この京都市道徳教育振興市民会議は、市民グループらから、再三にわたって、質問状や抗議文が寄せられたにもかかわらず、「話し合いには応じない」と決め、文書による回答もいっさい拒否してきたのです。
 河合隼雄氏は、「今、国家が求めているもの」という講演はできても、「今、子どもたちが求めているもの」という講演をする資格などありません。私たちは、河合隼雄氏に対して、この2年間ほど、彼が京都市内で講演をするたびに、抗議のビラまきなどを続けてきました。6月13日も、「この道危険! ストップ! 心の教育」というチラシを作成し、会場前で、「河合隼雄氏がいう心のケアに、もし違和感があるなら、私たちと話をしてみませんか?」と参加者に訴えたのです。

■意見表明した市民らを暴力的に排除、出口を施錠して拘束したうえで警察官を導入
 河合隼雄氏の講演は、「欧米にはキリスト教があって芯があるが、日本には宗教がない。金で買うことができない宗教や伝統がなくなったということで、子どもに悪い影響が出ている」という話から始まり、「昔は良かった」という回顧から、「しなやかな道徳や「家庭の役割」に脈絡なく飛んでいく非論理的な内容でした。特に驚いたのは、その内容のかなりが、以前の京都市教委主催の講演会での話とほとんど同じという手抜き講演だったことです。彼が、「日本では大学生が親に車を買ってもらう。アメリカではそんな学生はいない」という1年前と全く同じことを喋った時、1人の女子学生がとうとうたまらなくなって、「私はそんなことをしてもらっていない」と発言しました。他の参加者からも失笑と野次が飛びました。
 すぐに市教委の職員と思われる男性たちが、5~6人、女子学生のまわりに殺到し、「妨害するなら、退場させるぞ!」と声を荒げます。その場はいったん収まったのですが、やはり同じような無内容な話が続きました。今度は先ほどの女子学生だけではなく、別の女子学生も、河合隼雄氏の講演内容について、意見や抗議の発言をしたのです。会場の別のところでも、発言する人がありました。すぐに10人ほどの市教委の職員たちが2人の女子学生のまわりにかけつけ、「会場から出て行け」と大声をあげたので、会場は騒然となりました。彼女たちが「出て行かない」と拒否すると、男性職員たちが、後ろの方のイスを片付けるなど、実力行使の準備をした上で、彼女らを取り囲み、腕や肩をつかんで、無理矢理、会場から引きずりだしたのです。事前に打ち合わせていたにちがいない周到な実力行使でした。1人の男子学生が止めに入ったのですが、その男子学生も、会場で何も発言していないにもかかわらず、強制的に連れ出されてしまいました。
 3人の学生たちは、廊下で抗議を続けたものの、市教委の職員らは一切耳を貸さず、それどころか「第3者を呼ぶぞ」「威力業務妨害で逮捕だ」などと脅迫ともとれる発言を繰り返しました。そして「声が会場内に聞こえると迷惑がかかる」と、3人を廊下からさらに、無理矢理エレベーターに乗せ、1Fホールに降ろしました。会場から廊下に出す際や、エレベーターに押し込められる際、彼女らは、「身体に触らないで!」と抗議したのですが、腕づくで引きずられたり、脇の下から手を入れられ、羽交い絞めにされてエレベーターに押し込まれたのです。強引に引きずられたため、彼女らは転倒したり、履物が脱げるなどもしましたが、彼らは容赦もしません。実力排除の際、ある男性職員が、女子学生の顔に、10cmほどに顔を近づけたので、思わず彼女が「その距離だったらキスできますよ、やめてください!」と振り払ったり、彼女らが「身体を触るのはセクハラではないですか!」と抗議しても、市教委の職員らは、「最近は何でもかんでもセクハラと言う」と無視したり、逆に「ふざけるな! 馬鹿野郎!」などの暴言を続けたのです。
 1Fのホールに降ろされたので、彼女らは、「そんなに言うなら、もう帰ります」と会館から出ようとしました。その時、市教委の某部長が、「警察を呼べ!」と大声で指示したのです。彼女らが会館から出ようとすると、驚いたことに自動ドアが全て施錠されています。横の手動ドアも開きません。外から市民が来た際にはガードマンが鍵を開けて市民を入れるものの、3人が外に出ようとすると手足などを暴力的に押さえつけて外に出そうとしません。閉じ込められてしまったことが分かり、女子学生の1人はパニック状態に陥り、気分が悪くなって、トイレに走ってもどしてしまいました。彼女は、横に非常口があったので、そこから外に出ようとしましたが、男性職員が走ってきて、後ろから羽交い絞めにされ、また無理矢理戻されてしまいました。彼女はもう1人の女子学生に、「この人が胸を触る! 助けて!」と叫んだのですが、男性職員は全く手を離そうともしません。

■若い女性だけをターゲットにした性差別行為、根本的に女性蔑視
拘束されている際、3人は「決して逃げないから、建物の外に出して欲しい。せめて鍵を開けて欲しい」と訴えますが、市教委の職員らは聞こうともしません。その対応に怒った女子学生が「これは監禁ではないですか!」と抗議しても、市教委の職員は「監禁ではない」と笑うのみです。また、警察が来るまでの間、市教委の職員らは、3人のうちの男性としか言葉を交わそうとしませんでした。女子学生の1人が何度も冷静に抗議したにもかかわらず、市教委の職員らは「お前は感情的だ」と言って、全く彼女の言葉に耳を貸そうともしません。この男性は、2人の女子学生が暴力的に排除されることに対して抗議をしただけで、市教委の職員らは、女子学生の知り合いかどうかも確かめようともしないまま、女子学生ではなく、この男性とのみ話を続けたのです。彼らの態度からは、「男が指揮をしているに違いない」「女は感情的だ」という性差別的な態度が明らかです。これは、男女平等や人権の尊重を進めなければならないはずの市教委が、根本的に女性蔑視の体質を持っていることを示しています。
やがて、刑事1人と制服警官2名がやってきて、彼女らは横の部屋に入れられました。1人の女子学生は、たまたまうまく部屋から出ることができましたが、女子学生1人と男子学生が部屋に閉じ込められます。市教委の役人や、警察官から、「まず、名前と住所を言え!」と再三言われますが、彼らは「これはどういう場なのか? 任意の取調べなのか、警察は単に立ち会っているだけなのか?」などと抗議し、もちろん名前など言いません。
その頃になると、連絡を受けた彼女らの知人たちが、大勢、駆けつけ、2人が閉じ込められている部屋の前で、会館の責任者や警察官に抗議を始めました。不当逮捕という事態に備えて、弁護士にも連絡をとり、待機してもらいます。しばらくそんな押し問答が続きましたが、会館の責任者に我々が強く抗議したこともあってか、午後4時15分頃、やっと2人は解放されました。講演会で少々声を出したからといって、警察を呼んで逮捕させようとするのは、そもそも無理な話なのです。それでも、彼女らは、なんと2時間にもわたって拘束されたのです。
3人の強制排除後も、会場内では河合隼雄氏の無内容な講演が続きました。抗議の声があちこちで起こりましたが、女子学生の場合のように無理矢理に退場させられることはありませんでした。ある女性が異議申立した際、市教委の職員が「黙ってください!」と駆けつけましたが、前に座っていた来聴者が、「あんたの方がよっぽどうるさいわよ! 今の人の発言で、講演内容の問題が逆によく分かって良かったわよ!」とビシッと言ったので、市教委の職員がスゴスゴと引き下がったこともありました。
講演が終わったのですが、質疑応答の時間は全く設定されていませんでした。質疑の時間までは、と黙って講演を聞いていた若い女性が、最後に立ち上がって「質問をしたい、抗議したい」と発言しますが、すぐに職員らがやってきて、彼女を連れ出そうとしました。彼女が、「男性は触らないで!」と強く抗議したため、今度は女性職員たち数名がやってきて彼女を連れ出しました。(彼女の場合も腕をつかまれ、エレベーターに乗せられようとしましたが、講演会が終って外に出てきた参加者が抗議して、なんとか解放されました。)

■今、本性を現した、河合隼雄氏や市教委の「心の教育」の欺瞞性
3人の女性たちは、その日は興奮していたので気がつかなかったのですが、翌日から身体のあちこちが痛むなど、体調不良に悩まされます。消耗して、翌日以降寝込んでしまった女性もいます。医者で診察を受けたところ、3人とも「皮下出血、打撲、頚椎や肩の捻挫、擦過傷」等で、全治10日間と診断されました。市教委による、明らかな暴行傷害事件ですが、こうした外傷だけではなく、セクハラ被害や、長時間の拘束、警察官導入などによって、若い彼女らが受けた精神的な被害は実に深刻です。
会場では、何人もの人が声を出していたにもかかわらず、若い女性だけを集中的に取り押さえ、セクハラ行為や暴力行為を繰り返した市教委の差別的な対応を私たちは許すことができません。また、暴力的な実力排除の現場を見ておきながら、彼女らの質問・抗議を無視し、「あの人らは『心のノート』に反対している人たちなんですよ」と平然と切り捨てた、自称「心の先生」、そして今や京都市教委の「宣伝広告係」になってしまった河合隼雄氏の責任も重大です。それにしても、「(河合隼雄先生にご指導を賜りながら)不登校をはじめとする子どもたちの『心の叫び』をしっかりと受け止め、支援していく施設」と宣伝する子どものカウンセリングセンターで、市教委の職員らが、市民らの抗議に対して問答無用と暴力をふるい、まるで河合隼雄氏への「不敬罪」だとでも言うように警察官を導入したのも、彼らの主張する「心の教育」の暴力性を如実に示しています。
京都市教委は、暴行やセクハラ行為を行った職員らを厳格に処分し、被害を受けた彼女らに謝罪するよう要求します。

2004年6月  日                 「心の教育」はいらない!市民会議
                         カラス団   

京都市子ども相談センターにおける建物内拉致・監禁事件

2004年07月17日 03時19分41秒 | 反ファシズム
 最近、京都市の子ども相談センターで起こった事件について報告します。
 各地域の児童相談所、子ども相談センターあるいは心理相談センターなどと名のつくところは、あまり評判がよくありません。
 
 それらのセンターは、教育委員会、校長会や教頭会とツーカーの関係にあります。特に校長の体のいい天下り先だったりします。そういった人たちは、長らく管理職だったので、現場の感覚を忘れています。特に心理や相談についてこれといった研修を受けているわけでもありません。
 もちろん、男性中心、中産階級中心、日本人中心、登校受容中心、開きっぱなし中心の価値観に染まりあがっています。
 子ども本人ばかりか、親とも世代ギャップがあります。が、本人が自覚のないため、世代差をすべて子や親の悪さ・責任にします。
 当然、お役所体質です。斬新なアイデアやユニークな実践など望むべくもありません。ある人が、「心のノートについてどう思われますか?」と質問をしたところ、とある児童相談所の所長は、「そういうものは存じ上げない」と答えたそうです。
 
 また、近年はそれに地元の心理学のボスやその弟子筋も絡んでより巧妙なソフトな監視・管理をやっています。
 
 その最先端を行くのが、京都市なのです。

 ちなみに、隣接領域の精神医学では、関東の稲村博とその弟子の斉藤環らが、不登校の子どもの強制入院事件を起こしており、人権問題になっています。これは学会の調査も入りました。
 
 西の子どもの権利の敵ともいうべき河合は、具体的に何をしているのでしょうか?
 
 ここより2chのスレより転載。2ch独特の下品・作り話めいた情報等の判断は、読者にゆだねます。

2ch 心理学板のスレよりhttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1016795552/l50


■ 「心の専門家」はいらない! ■ (スレッドタイトル)

515 :没個性化されたレス↓ :04/07/15 02:41
みなさん! 心の教育など信じてもよいものでしょうか?
京都では過剰反応ともいやがらせともとれる事件が起こっています。
被害者の方々は訴訟も検討中だそうです。

以下コピペ。団体名・個人名は伏せるよう一部訂正 。いくつかの違うヴァージョンが関西の市民団体から出されています。ちなみに、子ども相談センターパトナは不登校の子の相談施設として作られました。
一部では「河合御殿」などと呼ばれています。

6.13京都市教委パトナ事件(長文失礼)
皆さんへ

6月13日に開催された京都市教委の河合隼雄講演会で、河合氏への疑問・異議を表明した若い女性た
ちを、市教委の男性職員らが大勢で強制的に会場から引きずりだし、会館の出入り口を全て施錠した上で、警察官の出動を要請して、2時間にわたって不当に拘束すると
いう考えられない事件が発生しました。
 彼女らは、腕や肩をつかまれて無理矢理引きずられため、転倒したり、履物が脱げたりもしています。また、「ふざけるな!馬鹿野郎!」といった暴言や、脇から手を入れて羽交い絞めにして連行するなどのセクハラ行為も繰り返されました。こうした暴力行為によって、3人の女性たちは、全員、「皮下出血、打撲、頚椎や肩の捻挫、擦過傷」等の負傷で、全治10日間と診断されています。
私たちは、25日(金)に市教委を訪れ、下記のような抗議文を提出して、市教委の謝罪を求めました。しかし、市教委は、「講演会を妨害したのはあなたたちだ。今回のことは正当防衛だ。怪我をしたというのなら、裁判でも何でもすればよい。謝罪などとんでもない。警察はその後も動いているぞ」と露骨に開きなおるありさまです。  


上記の子どもパトナ事件の報告に接しての感想カキコを一部抜粋。

520 :没個性化されたレス↓ :04/07/15 21:55
学会開くのに地元けーさつに事前に「はなし」をつけるようなとこだからねえ。
ましてや今や泣く子も黙る長官様w

521 :没個性化されたレス↓ :04/07/16 02:53
河合隼雄氏は学者が国家権力や政治、行政に深く関与することの危うさと責任の重大さを全く理解していない。
だから社会臨床学会や市民団体、左翼団体、林道義氏、臨床心理批判派、スクールカウンセラー批判派などによって袋叩きにあってる。
いつまでも「面白いおじさん」でやっていけると思ったら大間違いですよ、河合隼雄長官。


524 :没個性化されたレス↓ :04/07/16 23:42
>521

 前段については賛成するものです。特定の政治的権力とつるんで勢力を振るうことは、ある学問領域の中長期的発展という見地から見れば、非常に危険と言わざるを得ません。
 特に、臨床心理学が「心のノート」のような形で時の権力に奉仕する学問という印象を残すことは避けるべきと思います。

 
 ふつう、子どもよりも大人のほうが丁寧な扱いをつけます。大人に対しても刑法に触れ非常識でもある監禁や暴行を加えるセンターは、子どもに対してどれほどひどいことを日常的にしているのでしょう?
 簡単に人を閉じ込めるところを見るに、ふだんから同じようなことを子ども相手にやっている可能性も考えられます。
 必死にいやがる不登校の子を相手に、インターホンごしに一時間ほど医師が「説得」したあと、看護人を呼んで鍵のかかる部屋のある閉鎖病棟に強制入院させるということを、関東の筑波大学系の病院で稲村系の医者はやっていました。
 これは山登という医者が、20年ほどの隠蔽・検閲を経てやっと内部暴露をしています。被害者の女子高生は、親の会やフリースクールなどで、そのときの体験を批判的に話していました。
 もしあるとすれば、子どもパトナの犯罪も、数十年の時を経て、やっと内部暴露されるのでしょうか?

 ちなみに、河合隼雄さんは、一部では「河合教の教祖サマ」「心理マフィアのボス」とも呼ばれています。

 こういう人が、選挙で選ばれもしないのに政治家をしているというのも困ったものです。もし彼が議員だったなら、落選運動や政治家鑑定にかけられるのですが……。

 

 

 
  


場をめぐる抗争と構想

2004年07月15日 16時33分01秒 | 反ファシズム
Pache  
わたしが平和団体をやめた理由

 近頃、規則をめぐって神経が消耗したため、ある平和団体を退会した。
理由はさまざまと重なるのだが、そのひとつに「場」のレトリックも含まれる。誰にも当てはまる規則のない場所は、おかしな空気支配と「場」のレトリックがまかりとおるものだ。

管理人さんの規則なき方針
 
 発端は、MLの中での規則とも何ともいえない管理人さんの方針と言動だった。
 管理人さんは、MLの中では情報を流すのはいい、けれど意見を出したり議論をしたりしないでくれ、と「お願い」している。
また、どうしても意見や議論を表現したければ、別にある掲示板に行ってやるように、と誘導する。
 それに対して、選挙前の興奮もあったのだろうか、ある参加者は公然とそれを破り、またそれを支持して「言論の自由がないのではないか」との問題提起も起こった。
 そうすると管理人さんは、困った顔をしてこう言った。「○○さんなら分かってくれると思うけど、悪気はないんよ」「いろんな人がMLに入っている。だから個人的な意見・思想・議論はふさわしくない。嫌がったり傷つく人もいる」「思想には意味がないんよ」「国会議事堂で議員が議論をしているのに、そこに他の人が入っていって意見をするような場違いな行動になる」といった意味のことを、電話やミーティングのあとの食事会で直接言ってくる。
 わたしも「言論の自由」に賛同する投稿をしたことも手伝って、かなりネチネチと責められた。彼の話を聞いていると、自分が最大級の犯罪を犯したように思えてくる。なぜこんなささいなことで、人の罪償感と劣等感をかきたてるのだろう? ちょっとおおげさじゃあないのか? 
 言わなくても分かってくれよ、仲間同士だろ、的な馴れ合いで曖昧模糊としたことを情緒的に詰め寄られる。一体何を言っているんだろう? 言いたいポイントは? と、虚心に耳を傾けるも、支離滅裂で漠然としたことばかり言っている。これではこちらも返答できない。だから、会話や議論が成り立たない。

納得させられないわたしと何人か
 
 なんだか管理人さんの言い分は腑に落ちない。例えばデニス・クシニッチの応援MLや緑の党をつくるためのMLなどでは、情報と意見の交換は当たり前のように行われている。そもそも、意見は情報のなかに含まれないのか? 
 なんでも彼によると、「イベントのお知らせや、他のMLからの転送・転載はいい。けれど、それ以外の思想・個人的意見・議論等をする場所ではない」とのこと。
 しかし、たった数件の苦情やリクエストがやってきたところで、それは正しい/優れた判断なのか? ML内での意見や議論の流通を嫌がっている人と望む人のどちらがより多いのか? それらについての説明はない。管理人さんの思い込みかもしれないし、今は以前とは風向きが違っているのかもしれない。また、将来変わる可能性もある。

投票の拒否

 そこでわたしは提案した。こちらのMLで意見や議論の交換を解禁するかどうか、投票機能を用いて投票をしてみてはどうだろうか、管理人さんお願いします、と。
 しばらくして返ってきた答えは、「こちらのMLは情報交換をするためのものなので、投票などしません」というものだった。
何、いったい?? 投票など? 投票などって?? 投票ってそれほどおかしいかなあ?
 落選運動のMLではML内世論調査のような感じでときどき投票しているんだけれど??
 ど う し て ~ !? 
 しかも、管理人さんや彼の片腕役の人は「対話をしよう、対話は大切」といつも強調しているのだ。対話と議論はどこで線をひくのだろう?

日本人らしくない自分の文化

 話は飛びますよ。自分は義務教育の途中で不登校をして、一時フリースクールに通っている。そのとき、子どもも大人も一人一票の権利で対等に議論しあって一日・一週間・一学期のスケジュールを決めていた。誰をスタッフとして雇い入れるかどうか、また夏休みはいつからいつまでにするのかなどなど、いちいち話し合い+投票で決めていた。だから、多少なりとも民主的な組織とは、ミーティングのなかで議論や投票があるものだと漠然とイメージしていた。そこで「投票など」という乱暴な表現が使われたこと自体、驚きだった。

ピア・プレッシャーと牧人・司祭型権力の複合

 どうしてこれほど叩かれるのだろうか? しかも、それは、「意見を言うのは子どもっぽい」「自由に議論をすること即悪」という日本ではありがちな共同体的ピア・プレッシャーによるものらしい。当たり前すぎて誰も明言しないが、いわゆる「場」の「空気」を読みなさい、できないあなたは日本人の大人として「不自然」ですよ、それほど知的・文化的にレベルの低い洗練されないことはないのですよ、というのが無言の圧力になっている。
 それは、ハッキリとした言葉よりも他人の目つき・顔つき・声色・身振り等によって表される。それを「主体的」に察し「服従」しなさい、管理人さんは、権力がキライなので命令はしないから、ということだ。ムラ共同体のピア・プレッシャーにフーコーの言う「牧人・司祭型権力」がミックスされている。
 なるほど、だから夏の暑さだけではなく、人間関係が暑苦しいのか。みなと同じ方向を向かない子羊を哀れみ、群れ全体として救済しようとする管理人さんの暑苦しい同情に、自分自身のありようを否定される気持ち悪さを覚えたのか。

混乱と自己否定

 そのほかいろいろと各方面とのやりとりもあった。自分が昔通ったフリースクールは、アメリカのフリースクールをモデルに作られたものだった。投票をしたがるのは、アメリカかぶれのよくないことなのか? 一度はそんな投稿もした。だが、やはり違う。なぜならば、アメリカ以外の国でも投票はしているからだ。競争的選挙システムのない国は、軍事独裁くらいだ。(あの北朝鮮でも形ばかりの選挙があることは有名)
 いろいろな人がいる公共空間だからこそ、どんな人がいるかを知るために意見や情報の交換が必要じゃあないのか? 全員がいつも会議やデモに参加できるわけではない。だからこそ、こちらも全員が参加できるわけではないが、MLで意見や情報を交換するのが便利で有益ではないのか?

管理人さんの論理のすりかえ

 管理人さんは「携帯からアクセスする人は、投票に参加できない。だからそこを配慮して、投票をしないことにした」と後日説明をしていた。それは普段のミーティングも同じ条件ではないのか? これでは「戦争は平和だ」式の二重言語だ。
 管理人さんは「人間誰しも完璧ではないから~」と言葉を濁す。あまりに遠まわしなので、何を言いたいのか分かりにくい。 わたしともうひとりの参加者を、MLの中の秩序かく乱の首謀者として目をつけ、押さえ込む必要を感じているようだった。表情や身振りや語り口などから、そう推論せざるをえなかった。
 また管理人さんは、「自分は攻撃性を今必死におさえている」と大声こそあげないが、軽いノイズの入った低めの声で繰り返し語った。要するに、暴力にもうすぐ出そうだよ、とほのめかしているのだ。キレる、スネるで人を操る巧妙さに寒気がする。
 それは、MLの中で恥さらしなトラブルをしでかしてくれた、それが管理人の自分の責任になる(このへんは半分は彼の意識過剰)ことを迷惑がりつつ、相手に復讐しようとしているようだった。
 一方で、その直前にはいっしょに食事をとりながら、「○○さんなら分かってくれるやろ~」と幼児が甘えるような声をたてるなど、マザコンのような奇妙な行動もあった。
 要するに、もしお前が成人女性であるならば、暴力や支配欲を我慢できそうにもない幼児的な成人男性の「虚栄心のお守り(ボーヴォワール)」をしろ、と求めているのだ。相手が欲求を率直に述べない以上、推論するしかない。

 気持ちの悪さをこらえつつ、その食事会場のファミレスを出た。あとで、じわじわとボディ・ブローが効いてきた。気分は憂鬱で、夜は眠りにくい。どうしてこんな学校的・会社的な団体を選んだんだ、自分の責任じゃあないかと自分で自分を責めているからだった。

 
「場」の一色支配をめぐる闘争
 
 とりわけ、MLの管理人でグループの発起人であるAさん、彼の親しい友人のBさんやCさんが、半ばつるむようにわたしを憎んでいるようだ。ミーティングへの出席状況、MLでのレスのつけかた、目つきや顔つきなどからそれはうかがえる。
 どうやら、女性で、しかも低学歴者(わたしは中学中退)、それにフリーターで失業している点が気に食わないようだ。それも、「身分」が低いにもかかわらず、多少文章がうまかったり、論争に加わったり、会議でもMLでもよく意見を言ったりするのが、彼らのひ弱なプライドを脅かすということらしい。
 20代のおわりや30代初頭になってもなお幼児的万能感の抜けない人たちのために、こちらが情報生産の質を落とすわけにはいかない。自分にとっては文章は生きてゆくための道具でもあるのだ。
 彼らとベタベタとつきあっていると、管理者をも縛る規則がないため、顔色を読むのに神経が疲れる。個人の自我を破壊する装置みたいだ。なにせ、命令も規則もない。ということは、面従腹背や市民的不服従の自由がないのだ。内心をいつもリーダーの意向に売り渡さねばならない。
 彼らとつきあえばつきあうほど、自立から遠ざかる。受身の依存と、滅私奉公以外の働き方に、リーダーは強い敵意を持っている。
 どうもあの3人は利害の一致によって無意識的に共謀してわたしを罰し、スポイルされる様を見てほくそえんでいるようだ。

 
さかしまの掟
 
 意見がテキストデータがメチャクチャに乱れてくる。当然だ。 相手は意味も意図も文脈もないことを話すのだから。
 そのときの気分だけでものを言うので、前後のつじつまがあわなくても平気なのだ。
 ふつう、「○○には賛成しない」といった意見への否定は許されるが、「○○さんはダメな人」といった人格への否定は禁止されている。しかし、こちらの平和団体MLでは、意見への肯定と否定が許されない。普通とさかさまのルールが支配する。
 しかも、やはりそれでも気に入らないことは起こるし、人間誰しも攻撃的になることはある。
意見の否定が許されない以上、残されたコミュニケーションは「○○さんは悪い人」といった人格への否定しかない。それは奇妙なローカルルールだ。
 

区別の分からない情報と意見

 そういえば、ここのグループはどこかヘンだ。MLにイベントや声明や署名の情報が流れるときにも、実行委員会はそれを通じて(あるいはそれのおまけに付けるコメントとして)いくらでも「個人的意見」や「思想」や「議論」をすることができる。しかし、一般参加者(?)は、ただイベント告知や他のMLからの転送・転載を受身に依存的に見るだけだ。
 その役割を超えると「個人的な話はやめてください」「ここは意見・議論をする場ではない」と管理人さんから横槍が入る。
 レスが7つくらいもつけば、管理人さんは「大変なことになっている!」と被害者意識を前面に出して大騒ぎになる。(周りは特に気にしていない。ミーティングや食事会で話題に出ることもない。)
 多分、彼個人の好みを、コミュニケーションを通じて確かめることなく、みなの意見だと勘違いし強弁しているのだろう。
 これって、前衛が後衛を善導するという共産党の図式そのものじゃあないの? 自分たちはノーメンクラトゥーラだとでも言うのだろうか? ちっぽけなプライド、安っぽいエリート意識のために、いろいろな意見が出され、そのなかから一番いいものを選んだり、参加者相互が交流を深めて、親しみや信頼を醸成してゆくことを妨げるというのだろうか?
 実際、その平和団体のMLでは、管理人の気づかぬうちに天皇制にまつわる議論が交わされ、誰が誰を侮辱するでも暴力がわきおこるでもなく平和に議論が解決したこともあったのだ。
 それも滑稽にも、管理人やグループのサブリーダーたちは、苦情やリクエストや問い合わせに対して、ハンで押したようにこう答えるのだ。「そういうなら、あなたも(実行委員会の)中に入って、いっしょに実務をやってください。」それができないから、専従の職員やそれに準ずる常連ボランテイアに託す。
寄付と会費がおかしなことに使われたり、グループがあらぬ方向に暴走しないかチェックを入れるために、時に批判や異論を出す。いつも通るわけではないと分かったうえであえて、苦情やリクエストを出す。あるいは、不明な点を問い合わせる。いわば国民が国会議員に請願するようなものだ。
 なのに彼らは(全員男性)、人々の日常生活感覚や願いや理性を、よく分かっていないようだった。そもそも人々をあなどり、信用していないそぶりがうかがえた。

自意識過剰の活動家

 すべてのPW関係者が危ない自意識をかかえているわけではない。一部のリーダーが、時に睡眠時間を削ってまで活動にいそしむのは結構だ。しかし、それが人を見下す傲慢なエリート意識からくるものでは、「対話」などできやしない。
 実際、議論や思想を避けてほしいというのは、運動に参加する敷居を低くするためか? との質問に対して管理人さんは迷惑そうな表情と口調で「いいや、違う。そんな言い方はないよ」と答えている。
 リーダーがすべてを知るわけではなく、フォロアーが何も知らないわけではない。その自覚なしには「対話」など生まれない。

苦しい弁解

 いかにもあとづけの理由として「議論のための議論は意味がなく、不毛」「みながそれに従わねばならない雰囲気ができると困るやろ」とも管理人は言う。
 しかしすべての議論が「ためにする議論」ではない。また、「意味」ではなく「テンション(心地よい緊張感や盛り上がり)」を求めて議論をする人もいる。意味についても、判断するのは個々人であって、管理人ではない。(人の心まで監視する気なのか?)
 わたしの完ぺき主義の傾向をあてこするような嫌味めいたことも言われた。ただし、それでは問題のすりかえだ。一歩譲っても、半分の真実・いいわけだ。不誠実にもほどがある。意見に反論できない規則を自ら作ったツケとして、ストレスがたまるといきなり人の人格否定に走るなんて、本当に恐ろしい。
 管理人さんが議論に負けるのが恐ろしくてかなわないので、自由な言論を制限したがっているかのような印象も受けた。あるいは観念的で人づきあいの苦手な人が、上手につきあえる(意思疎通できる)人に嫉妬して足をひっぱっているように見える。
 コンプレックスやルサンチマンでMLの運営方針が振り回されないように、気をつけるのは彼だろう。過剰な自意識やプライドを減らすのも彼の仕事だ。そのことを、参加者に責任転嫁し八つ当たりする。意見の否定がないため適度に攻撃性を小出しにできない。そうして一段飛びに人格否定をはじめる。そしておかしなルールを棚上げして、思想や議論や個人性を悪者にする。

 

民主的な平和のために

 「みなが従わねばならない雰囲気」については、ムードに流されない自我を持ってください、きちんと自分の考えをもって、たやすく人と混同しないようにして」と伝えるほかない。
 たしかに今の日本の文化のなかでは難しいかもしれない。面倒くさいかもしれない。非効率かもしれない。それでも、そうしてこそ、草の根の民主主義が作れるというものだ。
 わたしは誰をコントロールする権限もない。一参加者として、意見を出しただけだ。だいたいい「みな」が誰なのか、イメージできない。「雰囲気」というのも主観的だ。

 彼は優れたリーダーが管理する平和を夢見る。帝国の影で抑圧される者の犠牲は見えない。一方、わたしは、犠牲にされるものの解放を含む平和を求める。人々の平和だ。
 後者こそが、ネオコンに反対する平和運動にとって似つかわしいと思うが、読者は?
 
同情を超えて

 たとえ傷ついたとしても、人とつきあう以上まったく傷つかないことなどありえない。カスリ傷で骨折でもしたかのように大げさにわめくのは、いかにも自我が弱そうでみっともない。また、その程度の傷はたいていの場合、癒えるものだ。
 部分否定と全部否定はちがう。自分の一部(意見)を否定されただけで、全部(まるごとの自分自身)を否定されたと被害者意識でいっぱいになるほうが改めるべきなのだ。それが批判と中傷の違いなのに、混同している。いや、むしろ人の心や人格を問題にする人格攻撃を誘導しているかのようだ。

 そのほか、分かりやすいように、公平なルールを作ってはどうか? と提案してみた。
「当ML内での意見は自由にする」「意見はいいが、誹謗・中傷はダメ」「ルールに納得できないときには投票機能を使う。過半数の賛成があったとき、規則を変えることができる」「規則に不満があっても規則を破るな。規則を変えてから実行せよ」「それでもどうしても、という場合にはML内での市民的不服従の権利を認める」という5つの規則だ。誰でも覚えられる・理解できるシンプルな規則だ。
 当然、人の自由を保障するための規則であって、利権も生じない。がんじがらめの「規制のための規制」でもない。誰でも覚えて実行することができる。
 規則を変える手続きや市民的不服従の権利まで書いてあるのだから、われながら優れたたたき台だ。
 しかし、管理人さんは、あくまでも「場が違う」の一点張りで拒絶。どうやら、規則がゼロの状態こそ自由だと勘違いしているらしい。端的に言って、彼は自由と放縦の区別がつかないのだ。
 それは彼にとって際限ない権力を意味し、他者、とりわけ新入りや支配的な文化とは違うところにいきる不登校や在日外国人など、周辺的な人々を隷属状態に置くことを意味する。
 何とも罪作りな、一見自由に見えて実は一番不自由なMLを彼は運営している。
 わたしは「自由主義の基礎が分かっていない。」と指摘した。だが本質をはぐらかして逃げたりごまかしたりしてばかり。
 管理人だ、デモ申請者だということで威張るために威張るような話をしていながら、どうなっているのだ。

心の自由を求めて

 そのほか、もうひとつ別のMLを作ってわたしが管理人をひきうけるという案も自ら出した。管理人さんもそれはいいんじゃあないかということだった。しかし、「心の自由」が保障されない。「心の自由」をつぶそうとするこちらの管理人さんの体質に嫌気がさした。彼の復讐欲と嫉妬深さと極度の独占欲には辟易する。なぜこんなに猜疑心でいっぱいなのか。なぜ極端に防衛的なのか? どこまで偏狭なのだろう? 

The direct use of force is such a poor solution to any problem, it is generally employed only by small children and large nations.           -- David Friedman

「直接的な力の行使は、どんな問題に対しても、非常に低級な解決方法だ。一般的に、それを利用するのは、小さな子供と大きな国家だけである」

平和運動をする者ならば、一度は目にしたことのある言葉のはず。彼は仮にも平和団体の発起人だ。なのに、どうしてこれほど幼児的なのか? まるで小さな覇権主義だ……。


 そのため、いろいろと迷ったすえ、退会することにした。どうも、リーダーとその周辺は、わたしがその平和グループのリーダーになって派閥抗争をしたり、自分たちのグループを追い出すという恐れも抱いているようだったからだ。あるいは、他の組織のスパイだという疑いを抱いている様子もあったからだ。
 わたしにそのよう背景も野心もなく、ただ言いたいことを言いたかっただけ、せっかくの投書を罪悪のように責められたくなかっただけだ。「一票の格差」ならぬ「一投票の格差」にいらだっただけだ。
 だが、低学歴者や宗教者、女性や芸術家たちを中心に、わたしの意見と似たスタンスをとったり、興味をもったり賛成したりする人がいる。管理人さんはそれも気に食わないようだった。そして、いつか何とかつぶしたいとチャンスを狙っていたようだ。
 
 このおかしな争いでエネルギーをムダづかいしたくない。平和運動のほかにもオルタネティブ大学や失業者問題のNPOづくり、プログラムや楽器の稽古など、やりたいことは山ほどあるのだ。

「場」について
 
 なんだか長くて複雑な話になった。要するに、わたしはその「場」にあわない振る舞いを重ねた、ということだ。
 フランスの社会学者p・ブルデユーは、「場」はその整った一色のみかけとは裏腹に、さまざまな勢力の思惑のうずまく複雑な多色の場だ、といった意味の分析をしている。これは当たっている。
 フランスだけではなく、日本でもそうだ。例えば、わたしの故郷の愛媛は保守王国だ。自民党の政治家以外は政治家ではない、自民党以外は政党ではない、といった扱いを受ける「場」だ。しかし、「場」は決して変化しないわけではない。
 その保守王国に、80年代は「原発いらない人々」というミニ政党の事務所もあった。今でも一部に「赤旗」をとったり、「聖教新聞」を売ったりする人たちがいる。
 このあいだの参院選では、最終的には自民党候補が当選したものの、最後まで接戦だった。そのため当選確実が出るのが遅れたとTVの開票速報番組のアナウンサーが言っていた。

 もちろん、「場」をしきりたい者は、「ここは○◇の場所。それ以外のことをする人は場違い。やめるか、出ていってくれ。」と主張するだろう。自分のお気に入りの新しいシャツを汚されたような潔癖主義と神経質さをもって、加害者をどこまでも責めるだろう。
 かつて自分が味わった、修道院のような禅問答のような理不尽な苦痛を、人にも与えてやまないはずだ。合理的で個人主義的な幸せそうな人を最後の一人まで消さねば気がすまないはずだ。圧制者とはそのようなものだ。あるいは圧制者のナワバリとしての「場」はそのようなものだ。 
 それに対して、別の「場」を求める人は、「場」の中を多彩なものに変えるか、自分たちの一色に塗りかえるだろう。あるいはそこを出て、もうひとつの「場」を用意するだろう。

 平和団体のなかで争いをおこすのも気がひけたので、結局わたしは後者を選んだ。個人的には信頼できる方もいた。もう少しこちらの活動から学びたかった。何よりも、次の講演会の司会の第二候補になっているのを断るのは不義理ではないか、と何度も自問自答した。

 それでも、リーダーとその周辺の何人かの、自分がリーダーシップをとる「場」でなら何をしてもよい、という「ノリの支配」についてゆけなかった。
 彼が慢性的に人を無視し見下すことには、正直わたしだって傷ついている。暗示や誘導で人を操ろうとする気持ち悪さ、やんわりと暴力をほのめかす卑怯さに、正直参っていた。
 また彼らの脳内世界というのか、抽象的で具象性がないことにも疑いをもっていた。
 ハァ、これじゃあ共産党とまちがわれるわけだ。これじゃあ(揶揄として)「デモをすれば平和になると信じる平和運動は幼稚・単純」「昔オウム、今WPN」などと言うのも一理ある。(すばらしくはないが。)
 以前は「そんなことないですよ」と軽ーく否定できた。今はちょとできない。
 
 時を同じくして、こちらのBlogを建ててみた。将来作られるであろうオルタナティブ大学は、ファシズムを除いて多彩な場にしたいと思っている。

 この件について、どうぞ意見をお寄せいただきたい。