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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

新印象派-光と色のドラマ

2015-02-12 21:38:24 | 美術展

新印象派-光と色のドラマ
[英題:Neo-Impressionism, from Light to Color
東京都美術館
2015年1月24日~3月29日

昨日、行ってきた。

構成は以下のとおり。
筆触分割とよばれる絵画技法を創始した印象派から、それを押し進めて点描画法を完成させた新印象派、そして、この「光と色のドラマ」から生まれた20世紀初頭の前衛芸術、という流れ。

プロローグ 1880年代の印象派
第1章 1886年:新印象派の誕生
第2章 科学との出合い-色彩理論と点描技法
第3章 1887年-1891年:新印象派の広がり
第4章 1892年-1894年:地中海との出合い-新たな展開
第5章 1895年-1905年:色彩の解放
エピローグ フォーヴィスムの誕生へ

歴史的にいって、最後の印象派展となった第八回印象派展(1886年)は、(「ダウントン・アビー」的にタイトルをつけるならば、)まさしく「嵐の予感」とでもいうべきものだった。

この展覧会にはじめて作品を出展した画家のなかにいたのが、スーラとシニャック。
二人の新参者が出品したのは、当時の最先端の色彩理論を絵画に応用した斬新な作品で、それまでの、たとえばモネやルノワールら、いわゆる「正統的」な印象派の感性とは、まるで相容れないものだった。

喧々諤々の議論。

―こんなものを印象派絵画として認めるわけにはいかない!

とりわけ声を大にして反対したのが、ウジェーヌ・マネ(「印象派の父」と呼ばれるマネの弟)であった。

いっぽう、スーラとシニャックの絵画を積極的に受け容れる態度を示したのが、カミーユ・ピサロ
第一回から第八回までの印象派展すべてに作品を出展している、唯一の画家である。

いっけん、「ザ・印象派」的な存在の画家が、どこの馬の骨かわからないような新参の画家に関心を寄せたのは、意外なことのようにも思える。
しかし、ピサロにとって、従来の意味での「印象派」の運動は、もはや行き詰まりをみせていた。

そして、彼は、それまでの「ロマン主義的印象主義」("Romantic Impressionism")から脱却し、スーラたちの「科学的印象主義」("Scientific Impressionism")の方へと舵を切ることを決意する(参考)。

こうして生まれたのが、フェリックス・フェネオンが命名した、「新印象派」(Neo-Impressionism)なのであった。

さて、印象派と新印象派の違いとは何か。

はっきり違うのは、制作にかかる時間。

モネやルノワールらは、戸外でさささっと描いてしまったが、新印象派の点描画というのは、なんとも時間のかかる技法である。
スーラの代表作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》は、完成まで二年もかかったという。

(点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点点・・・。)


こうした技法の差は、いかなる画風の違いを生むのか。

ここで、モネの《印象・日の出》をみてみよう。
画家の関心は、あきらかに、「移ろいゆく時間と景色」にある。

いっぽう、新印象派はどうか。
こちらは、以前にもブログで取り上げたシニャックの《髪を結う女》である。



スーラの《グランド・ジャット島》もそうだが、「時の移ろい」に関心があった印象派の画家たちと比べて、新印象派の画家たちの意識は、むしろ、「時間の静止」、あるいは「はっと息をのむ一瞬の永遠化」にあったといえるのではないか。
新印象派の絵画は、ひかくてき、時の「記念碑」的な性格の濃い作品が多いように思う。

スーラの場合、彼の脳裏にあったのは、古代ギリシアの大理石群「エルギン・マーブル」であろう。

By 1830 the Elgin Marbles replaced the Apollo Belvedere as the foremost exemplar for students in the academies, and they remained a paragon into the twentieth century, with artists such as Edgar Degas, Georges Seurat, Auguste Rodin, and Pablo Picasso copying their plaster versions. (Oxford Encyclopedia of Ancient Greece and Rome, 1: 204 [参考])

断片的な形象に永遠の時をとどめたこの群像は、じっさい、《グランド・ジャット島》の制作に影響を与えたといわれている。
スーラ自身、こんな言葉をのこしている。

The Panathenaeans of Phidias formed a procession. I want to make modern people, in their essential traits, move about as they do on those friezes, and place them on canvases organized by harmonies of color.(参考

新印象派と古代ギリシアをつなぐ絆。
たいへん興味ぶかい。

―――――

少しばかり、他の展示作品にも言及しておこう。

面白かったのは、ルイ・アイエの《夜の仮設遊園地》(画像が見当たらない)。

いままでは近くて遠いように感じていた、新印象派と後期印象派の関係。
その接点を、ここにみた気がする。

科学的な色彩理論を踏まえながらも、ゴッホのような、画家が内に秘める炎のようなものが、顔をのぞかせていた。

あとはアンリ=エドモン・クロス

印象派にせよ新印象派にせよ、共通しているのは、いわゆる古典的な物語画から一定の距離を置いているということなのだろうが、クロスにかんしては、少し変わった印象を受けた。

彼の絵には、少なからず、物語性がある。
古典に通じているのがよく分かる。

そこが、物語性なき新印象派の枠組みのなかにあって、きわめて特徴的で、個人的に興味もひかれた。

[追記]

・スーラとシニャックがじっさいに使っていたパレットの展示(通し番号25・26)は興味ぶかかった。
ほんとうに(白を除いては)色を混ぜずに使っていたのがよく分かった。

山下清の貼り絵(ちぎり絵)は、広い意味での「点描」といってよいのだろうか。
うーん・・・。

・展覧会のタイトルだが、日本語の副題はともかく、英語の副題については、いまいちピンと来なかった。
光から色彩へ、ということなのだろうが、あまり判然としない。
はたして、きっぱりと分けられるものなのだろうか。
(20世紀のフォーヴィスムや抽象画までを含めて考えれば、分からないこともないか・・・。)

クロード・モネ 「カササギ」

2015-01-31 23:58:28 | 番組(美の巨人たち)

2015年1月31日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
クロード・モネ 「カササギ」

The valley rings with mirth and joy.
Among the hills the Echoes play
A never, never ending song
To welcome in the May.
The Magpie chatters with delight;
The mountain Raven's youngling Brood
Have left the Mother and the Nest,
And they go rambling east and west
In search of their own food,
Or thro' the glittering Vapors dart
In very wantonness of Heart.
---William Wordsworth, 'The Idle Shepherd-Boys' (1-11)

詩人の耳目が捉える、五月の陽気と、にぎやかなカササギ(magpie)のさえずり。
冬空のもと、羽をたたんでぽつんと佇む、モネのカササギ。

いっけん、きわめて対照的。

しかし、モネの描いた雪景色が、どこかあたたかみを帯びているのはなぜだろうか。

印象派より前の時代には、雪を主題とした絵画はほとんど描かれなかった。
その数少ない例のひとつが、ブリューゲルの《雪中の狩人》である。

あるひと曰く、ブリューゲルの作品には、「人間の現実をそのまま肯定している何かがある」(中野孝次 『ブリューゲルへの旅』 文藝春秋、2004年、91頁)。

けれんみのない、すがすがしい筆致。
白と黒の、あまりにはっきりしたコントラスト。

雪国の寒さが、そこにある。

いっぽう、モネの「雪」はちがう。
冷酷な印象を鑑賞者に与えることもなければ、非情な現実が顔をのぞかせることもない。

前景の雪をよくみてみよう。
まっさらな「白」ではなく、明るい色がちらほら混ざっている。

筆触分割は新印象派の専売特許のように思われているかもしれないが、それはあやまりである。
点描技法の萌芽は、印象派の時点ですでにあった。

モネの「白」は、たんじゅんな「白」ではない。

これは、「日なた」の雪だけの話ではなく、「日かげ」の雪も同様である。
ウィキペディアには、"colored shadows"という表現がみられる。)

番組内での説明によれば、モネの配色は、じっさいの人間の知覚行為にかなり近いものだという。

なんという眼。

クレマンソーが画家の眼を絶賛したのもわかる。

モネが《カササギ》を描いたのは、1868-69年ごろ。
かの有名な《印象・日の出》が世に出されるのは、数年後のこと。

番組のなかで使われていたフレーズを借りるならば、モネの描いたカササギは、まさしく、「やがて訪れる印象派の春を待ちわびている」かのようである。

[追記]

《カササギ》の構図に着目した解釈も興味ぶかかった。

画面の右上からのたくみな視線の誘導。
縦・横ときて、カササギで小休止。

視線を下方に移し、影を追うと、そこには人の足跡が。
画家は、雪の一瞬のきらめきのみならず、人間が来ては去る、時の移ろいまでを画面に閉じ込めたのである。


ポール・ゴーギャン 「説教のあとの幻影」

2015-01-24 23:45:52 | 番組(美の巨人たち)

2015年1月24日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
ポール・ゴーギャン 「説教のあとの幻影」

"And Jacob was left alone; and there wrestled a man with him until the breaking of the day. And when he saw that he prevailed not against him, he touched the hollow of his thigh; and the hollow of Jacob's thigh was out of joint, as he wrestled with him. And he said, Let me go, for the day breaketh. And he said, I will not let thee go, except thou bless me. And he said unto him, What is thy name? And he said, Jacob. And he said, Thy name shall be called no more Jacob, but Israel: for as a prince hast thou power with God and with men, and hast prevailed." (Gen. 32.24-28)

ゴーギャンは印象派展の常連だった。
第4回展(1879年)から、最後の印象派展となった第8回展(1886年)まで、毎回、作品を出展した。

にもかかわらず、今日、ゴーギャンは「後期印象派」のひとり、すなわち、純粋な意味での「印象派」とは一線を画す存在として認識されている。

今回の一枚は、彼が印象派の作風からの脱却を図った作品。
旧約聖書の創世記に取材した、《説教のあとの幻影》である。

描かれたのは1888年。
ゴーギャンがゴッホと共同生活をしていたのも、この年である。

しかし、今回の一作に関していえば、ゴーギャンに決定的な刺激を与えたのは、ゴッホではない。
ゴーギャンの画風に目覚ましい変化をもたらしたのは、20歳も年下の青年画家、エミール・ベルナールの作品であった。

ベルナールは、ゴーギャンがいると聞いて移り住んできたフランス・ブルターニュの「画家の村」ポン=タヴェンで、ある伝統的な民俗行事を目にする。
それが、パルドン祭と呼ばれるものであった。

ケルト人の文化に起源をもつこの行事に興味を覚えたベルナールは、一枚の絵画を制作し、それをゴーギャンに送った。

その絵が、こちらである。


Breton Women in a Green Pasture (1888)

遠近法を無視した、きわめて平坦な画面構成。
レオナルド・ダ・ヴィンチが完成させた「スフマート」技法の真逆を行く、はっきりとした輪郭線。
全体的な調和とは明らかに異質の、「切り貼り」されたかのような人物群。

ルネサンス以降の絵画のしきたりにとらわれない、ベルナールの感性をまざまざと認識し、ゴーギャンは震えた。
これが、新たな美だ―。

ゴーギャンの《説教のあとの幻影》も、ベルナールと同じ祭りを題材にしたものである。
画面前景に描かれている女性が身につけているのは、ケルトの伝統的な民族衣装である。
(この作品がいま、スコットランド国立美術館にあるというのも感慨深い。
いや、というよりも、もともとゴーギャンはこの絵をブルターニュの教会に寄贈しようとしたのだが、あまりに「斬新」すぎて受け容れられなかった、というのが実情なのだが・・・。)

画面を斜めに区切る大木。
右上の天使とヤコブの格闘のポーズもそうだが、ゴーギャンはかなり、日本の美術からの影響を受けていた。

近景が、いわば「現実」の光景。
そして遠景が、人々のみた「幻影」。

注目すべきは、その背景色。

真っ赤である。

みたままの感覚を重視するのが印象派だとすれば、心に映った色をカンヴァスに投影するのが、後期印象派。
おそらく、こうした美術思潮の移り変わりが、20世紀に入ると、「表現主義」のような意識を生んだのだろう。

ゴーギャン―。
ゴッホが憧れた、後期印象派の旗手。
彼の革命の始まりを告げる、《説教のあとの幻影》。


Gauguin, Self-portrait (1888) [※画面右上に描かれているのはベルナールの肖像]

「万能鑑定士Q―モナ・リザの瞳―」 (2014)

2015-01-11 18:01:43 | 映画

万能鑑定士Q―モナ・リザの瞳―
[英題:'ALL-ROUND APPRAISER Q: The Eyes of Mona Lisa']
監督 佐藤信介
出演 綾瀬はるか、松坂桃李ほか
2014
(IMDb)

観た。

原作は『万能鑑定士Qの事件簿 IX』。
松岡圭祐による推理小説シリーズの一作である。

このシリーズは読んだことがないが、ウィキペディアによれば、『万能鑑定士Qの推理劇 II』では、ホームズの未発表原稿の謎が扱われているとのこと。
少し興味がある。

さて、今回の映画について。

単純に一本の映画としてみれば、まぁ、しっかりまとまっているなという印象。
ただ、「美術」との関連でなにかいうとなると、なんともコメントがしづらい。
そこまで突っ込んだ内容ではないからだ。

数年前、あるイタリアの美術史家が、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》の瞳のなかに、なにか文字が書かれていることを「発見」した。
これは実際にあったことで(参考:the guardian紙の記事)、この映画はこの「発見」をひとつの題材としている。

《モナ・リザ》のモデルが誰なのかという問題については、長らく議論されてきた。
いまのところは、ジョコンド夫人というのが、とりあえず定説とされている。

今回の研究成果は、この絵のモデルの解明の一助となるかもしれないとのこと。

しかし、個人的な意見としては、このモデルが誰なのかということにそこまで興味はない。
おそらく、決定的なことをいうのはきわめて難しいし、画家自身、ある人物の「純粋」な写実で終わらせようとしたとも思えない。

かりにある特定のモデルがいたとして、その人物をひとつのインスピレーション源としながらも、なにか大きな、はかりしれない存在の影をそこに写し取ろうとした、というのが実際ではなかったのだろうか。

もともとはカンヴァスの両サイドに描かれていた(とされる)柱の部分をのちに「削った」という事件に関しても(下図参照)、いまでは絵画の所有者が額縁の大きさに合わせるために切り落としたという見方が強いようだが、いっぽうで、画家本人が削ったという可能性もゼロではないだろう。

それこそ、「柱」という、画面のなかの「額縁」を取っ払い、制限されていた空間を解放して、より大きな力の存在を示唆するといった意識から。

 
Leonardo's Mona Lisa / Raphael's sketch (probably) of Leonardo's Mona Lisa

美術作品には「真贋問題」がしばしばつきまとう。
同じ「鑑定モノ」でいえば、「鑑定士と顔のない依頼人」も、近いうちに観てみたい。

最後に、今回の映画のトレイラーを。


ジャック=ルイ・ダヴィッド 「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」

2015-01-10 23:50:27 | 番組(美の巨人たち)

2015年1月10日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
ジャック=ルイ・ダヴィッド 「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」

He [ex-Professor Moriarty] is the Napoleon of crime, Watson. He is the organizer of half that is evil and of nearly all that is undetected in this great city. He is a genius, a philosopher, an abstract thinker. He has a brain of the first order. He sits motionless, like a spider in the centre of its web, but that web has a thousand radiations, and he knows well every quiver of each of them.
---Sherlock Holmes (Conan Doyle, 'The Final Problem')

ダヴィッド―。
激動の革命期を生きた、新古典主義を代表する画家。

画家が描いたアルプス越えのナポレオンの肖像画は、あまりにも有名である。

じつは、この肖像画、同じ構図のものが他に4枚ある。

 
[First Versailles version]     [Second Versailles version]

 
[Charlottenburg version (Berlin)]   [Belvedere version (Vienna)]

今回の一枚は、5枚のなかで、いちばん初めに描かれたもの。

飾られているのはマルメゾン城
ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの住まいである。

発注したのはナポレオンではなく、スペイン王カルロス四世
この作品の出来にたいへん満足したナポレオンが、残りの4枚の制作を画家に依頼した。

一言でいうならば、典型的なプロパガンダ絵画である。
(英語版Wikipediaの「プロパガンダ」の項目にも、まっさきにこの作品の画像が挙げられている。)

ナポレオンが心を躍らせたのも当然である。
画家は、史実など考慮せず、みずからの想像で描いたのだから。
(ナポレオンはモデルになるのを嫌がり、画家に衣装や帽子のみを渡して描かせた。)

歴史資料に忠実に従ったならば、生まれるのはこのような作品だ。


Paul Delaroche, Bonaparte Crossing the Alps (1850)

史的価値は高くとも、権力者としての「自己アピール」に使おうとは思うまい。

ナポレオンはいった。
「似ているかどうかなど問題ではない。いかに英雄らしいかが重要なのだ。」

ナポレオンが乗っていたのは馬ではなく、じっさいにはロバ。
また、馬に乗るナポレオンの姿を画家が描いたのは、彼の低い身長をごまかすためであったともいわれる。
これは、絵画の世界においては、いってみれば常套手段でもあった。

「男のファッションの最高峰は軍服である。なぜなら軍服には老若問わず男をその気にさせる何かがあり、特に甲冑姿となると、ふだんは抜けた顔つきでもキリリと見えるし、太りすぎでも痩せすぎでも緩和され、背が低ければ馬に乗ればよく、顔が長すぎれば馬の隣に立てばよく、それでも如何ともしがたい場合には、フルフェイス型の兜を被って目だけ出せばよい。」(中野京子 『名画に見る男のファッション』 46-47頁)

さて、少し気になるのは、最初のヴァージョンにおけるナポレオンの服の色。
画家は、この作品だけ、服の色を黄色で描いた。
他の4作品はすべて、赤色である。

これは、ほかならぬ、ナポレオンの「たくらみ」、そして「野望」であった。

黄色は、将軍の色。
したがって、画家がこの色を選択するのはきわめて自然。

赤は、王の色。
つまり、いまだ軍人の身にありながら、ナポレオンは、自分が王になることを広く「アピール」したのだ。

おそるべき自己宣伝力。

もういちどダヴィッドの絵をみてみよう。
山越えの最中の馬に乗っていながらも、ナポレオンだけは、ピタッと静止している。
まさに、動と静の融合。

それはさながら、「犯罪界のナポレオン」、モリアーティー教授のように。
彼もまた、巣の中心で糸を引く蜘蛛のごとく、じっと動かず、すべてを支配している。