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Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「じんかん」

2023年08月10日 13時14分33秒 | 読書

 「じんかん」(今村翔吾著 講談社 2020年5月25日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、あの悪名高い松永弾正久秀に関するものでした。

 物語は、松永久秀が信長に対して2度目の謀叛を起こしたとき、信長の小姓頭の一人の狩野又九郎がそれを天守にいる信長に伝えに行った際、信長が、夜を徹して狩野又九郎に松永久秀の生涯について語ったという形で展開されていました。

 松永久秀の幼少のころの出自については明らかではないようですが、信長は、以前、松永久秀と夜を徹して語り合ったことがあり、その際、信長は松永久秀本人からその幼少の頃の壮絶なまでの過去を聞かされて知っていたということでした。

 それを前提として、松永久秀はけっして大悪人ではないということを狩野又九郎に語るという展開になっています。

 この作者は、この前読んだ「「塞王の楯」(今村翔吾著 集英社 2021年10月30日第1刷発行)でもそうでしたが、ちょっと手法が変わっていますね。それに、小説に登場してくる主要な武将の人物像も、通説とは随分と異なって書いているようです。普通、松永久秀といえば、大悪人のように扱われますが、この本では、むしろ、善人として扱われています。

 この本は、歴史的事実の羅列ではなく、歴史的事実を題材とした歴史小説というところでしょうか。

 普通は、松永弾正久秀といえば、主を殺し、将軍を殺し、東大寺大仏殿を焼き討ちした大悪人とされているわけですが、信長は、真実は違ったものであったのだと、詳細に、狩野又九郎に語っているわけです。

 なお、信長が上洛する少し前の畿内周辺の状況は混沌としていて解りずらいのですが、この本では、その辺をよく整理してありました。

 ところで、この本の題名の「じんかん」ですが、松永久秀が、自分は何のために生まれてきたのか、人間とは何なのかを常に問いながら生きてきたこととか、信長が好んで舞った幸若舞の演目の一つの「敦盛」の一節の「人間(じんかん)50年・・・。下天のうちをくらぶれば・・・」からとったようです。

 つまり、「じんかん」とは、「人間。同じ字でも「にんげん」と読めば一個の人を指す。今、××が言った「じんかん」とは人と人とが織りなす間。つまりはこの世という意である。P.114 」ということのようです。


「ヒトは食べられて進化した」

2023年07月27日 19時47分46秒 | 読書

 「ヒトは食べられて進化した」(ドナ・ハート&ロバート・W・サスマン著 伊藤伸子訳 化学同人 2007年7月1日第1刷発行)を読みました。

 

 

 この本は、先日、gooブログで「今日のころころこころ」を書いておられる「うさぎ」さんが紹介していたものですが、私も、面白そうだな~と思いましたので、図書館から借りてきて読んだものです。

 私は、漫画「はじめ人間ギャートルズ」の影響を受けてか、人類の祖先は「狩猟生活者」だったというイメージを抱いていました。

 もっとも、このことは、この本の末尾の「解説」の中に、「本書の題名を見てすぐ頭に浮かんだのは、Man the Hunter(人間ー狩りをする者)という本のことである。1968年に刊行されたこの本は、二十世紀中盤に行われた狩猟採集民に関する研究の集大成で、それまでの人間観をひっくりかえすほどの影響力をもっていた。」 と書かれていますので、私にとっても、漫画「はじめ人間ギャートルズ」よりも「Man the Hunter(人間ー狩りをする者)」という本の影響のほうが大きかったのでしょう。

 ところが、この本では、その題名から分かりますように、人類の祖先は、実は、1文字違う「Man the Hunted(人間ー狩られる者)」だったと再定義されるべきだと主張しているわけです。

 そして、「筆者が人類進化に関してよりどころとするのは、ただ二つの情報源、化石証拠と現生霊長類だけである。この二つをもとに、先史時代の人類に対する見方をがらりと変えてしまうような説を論証していくつもりだ。(P.13)」として、豊富な化石証拠と多くの現生霊長類に関する観察記録を基に、その論拠を展開しています。

 なお、この本の「はしがき」には、次のようなことが書かれていました。

 

「最後に一つ、本書でとくに確認しておきたいことがある。われわれ人類は大量殺戮をするような生まれついての殺し屋ではない。よくない行いをしたり、悪意のあるふるまいや残虐な行為に走ることはままある。だがそれは自らが判断を下してそうしたのであり、二足歩行をする霊長類という進化上の身分ゆえに生じた行動ではない。これははっきり言い切れる。・・・(xvii)」

 

 この本を読み、「われわれ人類は大量殺戮をするような生まれついての殺し屋ではない。」ことに思いを致し、今行われているウクライナ戦争が、平和りに速やかに終結されることを祈るものです。


塞王の楯

2023年07月02日 15時03分23秒 | 読書

 「塞王の楯」(今村翔吾著 集英社 2021年10月30日第1刷発行)を読みました。

 

 

 内容は、「穴太衆(あのうしゅう)」に関するものでした。

 「穴太衆」とは、この本に依りますと、

 

「その名の通り近江国穴太に代々根を張り、ある特技をもって天下に名を轟かせていた。それこそが、

 ──石垣造り。

 であった。世の中には他にも石垣造りを生業とする者たちがいるにはいるが、いずれも細々とやっているのみ。この技術においては穴太衆が突出しており、他の追随を許さないからである。

 穴太衆には二十を超える「組」があり、それぞれが屋号を持って独立して動いている。銘々が諸大名や寺院から石垣造りの依頼を受け、その地に赴いて石垣を造る。軽微な修復など一月足らずで終わるものから、巨城の大石垣など数か年掛かる仕事もあった。 (P.24) 」

 

ということです。そして、この本は、穴太衆のうちの「飛田屋」という「組」の頭(かしら)を主人公とした話であることが分かりました。

 それで、読み始めたばかりの頃は、「何だ、石垣造りの職人の話か! 戦国時代の武将に関する歴史小説かなと思って借りてきたわけだけれど、それじゃつまらなそうだから、もう、読むのを止めようかな」と思いました(~_~;)

 でも、せっかっく借りてきたのだからと、少し我慢しながら読み進めていましたら、だんだんと面白くなってきました(^_^)

 といいますのは、穴太衆は、依頼を受ければ、陸奥から薩摩まで出かけて行くのですね。しかも城の石垣造りや修復の依頼に関連するわけですから、全国の大名との関わりが出てくるわけで、この本の随所に有名な大名の名前も登場してくるわけです。また、城の石垣造りや平時の修復だけではなく、時には、籠城中に攻撃を受けて石垣が破損した場合には攻撃をうけているさ中にもかかわらず破損した箇所を修復しながら石垣を守るという作業も行ったようです。

 そんなわけで、この本は、主人公は石垣造りの職人ではありますが、全体的には、石垣造りの職人の目を通しての戦国武将の話でもあったわけです。

 この本の中に登場してきた戦国武将の中での中心人物は、「蛍大名」と揶揄された京極高次でした。

 京極高次は、戦国武将としての資質に欠け、自分の妹の「竜子」が秀吉の側室になったことや、自分の妻が信長の妹のお市の方の三人の娘のうちの一人の「初」(秀頼の母・茶々の妹)であったことから、自身にはなんの戦功も無いのに大名となり、しかも、どんどんと所領も増やしていったことから「蛍大名」と揶揄されてきたわけですね。

 その京極高次が、この本の中での戦国武将の中心人物として書かれていました。ただ、「蛍大名」としてではなく、確かに戦国武将としての資質には欠けますが、部下に慕われ、領民に慕われる、人物的には人間味溢れる優れた人間であったように書かれていました。

 この本のハイライトは、関ヶ原の戦いの際の大津城攻防戦でした。

 関ヶ原の戦いの際、大津城の城主は京極高次でした。京極高次は、関ヶ原の戦いの際、当初は西軍に付きましたが、間もなく、石田三成が関ヶ原の戦いでの決戦場を大津の地にしていることを知り、大津の地が蹂躙されれば大津の地の領民が困るので、大津の地が決戦場とならないようにするため、大津城に立て籠もり、東軍に寝返ります。

 そこで、大津城の近くにいた西軍側の毛利元康、小早川秀包、筑紫広門、そして西国無双と言われた立花宗茂が率いる総数四万の精強な兵が大津城に襲いかかります。

 京極高次率いる大津城側は、たった三千の兵で守るわけですから、兵力差は圧倒的で、風前の灯火、誰が考えても間もなく落城と思っていました。

 ところが、城側の結束は固く、特に、穴太衆が、攻撃されて壊れた石垣を、その都度修復したりして防戦しますので、なかなか落城しません。

 しかし、ギリギリまで頑張りましたが、もう、これ以上は持ちこたえられないというところで、遂に、京極高次は、切腹を覚悟で開城します。

 ところが、攻城の将、全員の総意で、「京極高次の戦いぶり、敵ながらあっぱれ」ということで、一命を許され、代わりに大津の地から離れることを命じられます。そして、京極高次は高野山へと向かいます。

 もっとも、その結果、大津城の攻防戦に手間取った西軍側の総数四万の精強な兵と諸将は、結局は、関ヶ原の戦いの決戦には間に合わなくなってしまいました。

 そのことに関して、関ヶ原の戦いの後、家康は、「──大津宰相が足止めしてくれねば、西国無双が加わっていたことになり、儂も危うかったかもしれぬ。(P.545)」と、この足止めを激しく称賛したということです。

 京極高次は、この功績を認められ、若狭一国八万五千石に加増転封され、大津の地を去ります。明くる年には近江国高島郡のうち七千石がさらに加増され、合わせて九万二千石を食むまでになりました。


八本目の槍

2023年05月19日 16時26分21秒 | 読書

 「八本目の槍」(今村 翔吾著 新潮社 2019年7月20日発行)を読みました。

 

 

 

 この本のタイトルを見た時、多分、この本は、「賤ヶ岳七本槍」に関係したものなのかな~、面白そうなので読んでみるか、ということで、図書館から借りてきたものです。

 読み始めてみましたら、案の定、「賤ヶ岳七本槍」に関するものでした。

 ちなみに、「賤ヶ岳七本槍」に関しましては、この本では次のように紹介しています。

 

 

「虎之助が世に出るきっかけとなったのは、天正11年(1583年)4月、殿下がまだ羽柴秀吉と名乗っていた頃、宿敵の柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の戦いである。この時に虎之助は小姓として本陣に侍っていた。

 あと一突きで崩れると見た殿下は、残りの手勢を全て投入することを決め、小姓衆にも突撃を命じたのである。若き虎之助も無我夢中で敵を求めた。そして敵将、山路正国の首を上げるという大手柄を立て、三千石を拝領することになった。

 華々しい活躍をした殊勲者が他にも数名いたことから、そのうちの七人を以て、「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになった。「七」という数は縁起が良く、古今このような時によく用いられる。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 実は賤ヶ岳で活躍した者は七人ではない。ある者はその場で討ち死にし、ある者は「七」という縁起のよい数を維持するために数えられなかった。佐吉もこの時、敵を討って殊勲を上げている。

 謂わば佐吉は、七の枠に阻まれた八本目の槍であった。  (P. 8~9)」

 

 

 ところで、この本は、次のような目次の項目の順で書き進められていました。

 

 

     目  次

  一本槍  虎之助は何を見る

  二本槍  腰抜け助右衛門

  三本槍  惚れてこそ甚内

  四本槍  助作は夢を見る

  五本槍  蟻の中の孫六

  六本槍  権平は笑っているか

  七本槍  槍を捜す市松

 

 

 これらの目次に登場してくる人物は、全員、賤ヶ岳の戦いの際には秀吉の小姓だったわけですが、彼らが小姓に取り立てられた経緯やその後のことについて、目次の順に沿って、詳しく書かれていました。その概要のほんの一部は次の通りです。

 「一本槍」に登場してくる虎之助とは、加藤虎之助のことで、その後、肥後半国を賜り、大大名となりました。

 「二本槍」に登場してくる助右衛門とは、糟谷助右衛門のことで、最終的に1万2千石を賜って大名となりましたが、関ヶ原の戦いの際には西軍に付き、そこで戦死しています。

 「三本槍」に登場してくる甚内とは、脇坂甚内のことで、関ヶ原では東軍につき、淡路洲本3万石の大名となっています。

 「四本槍」に登場してくる助作とは、片桐助作且元のことで、秀吉の時代、やっとこ1万石の大名となり、奉行の一人となりました。秀吉没後、大坂の陣を避けるよう秀頼に進言しますが、聞き入れられなかったため、秀頼に改易の申し出をしました。結局、大坂の陣は起こってしまい、大坂城は落城し、秀頼は自刃します。しかし、助作自身は、改易となっているにもかかわらず、ほどなく毒殺されてしまいます。

 「五本槍」に登場してくる孫六とは、加藤孫六嘉明のことで、その後、伊予20万石の大名となります。関ヶ原の戦いの際には東軍につき、その後も豊臣恩顧の大名の毒殺にもかかわります。

 「六本槍」に登場してくる権平とは、平野権平長泰のことで、5千石止まりであったため、「賤ヶ岳七本槍」の中では、唯一、大名になれなかった人物でした。しかし、関ヶ原の戦いの際に、佐吉(石田三成)から、大名になれる最後のチャンスだから東軍に付けと勧められて東軍につきました。しかし、家康の跡継ぎの秀忠の別働隊に配属となった結果、関ヶ原の戦いの際には本陣にいなかったため戦功を上げられず、遂に大名にはなれませんでした。

 「七本槍」に登場してくる市松とは、福島市松正則のことで、その後、秀吉から伊予1国11万3千石を賜ります。関ヶ原の戦いでは東軍につき、広島藩の藩主となります。大坂の陣では、家康から江戸留守居番を命じられ、動きを止められています。

 

 なお、この本のタイトルが「八本目の槍」となっていますように、実質、この本の内容は、8人目の小姓についての物語でした。

 「一本槍」から「七本槍」までの項目の中に、常に8人目の小姓の佐吉(石田三成)を登場させています。そして、その佐吉(石田三成)がいかに先見の明があったか、いかに優秀であったかを、繰り返し、繰り返し書いています。

 謂わば、佐吉(石田三成)礼賛の書という印象でした。


天命

2023年04月18日 12時48分08秒 | 読書

 「天命」(岩井三四二著 光文社 2019年1月30日初版1刷発行)を読みました。

 

 

 これは、安芸国北部の高田郡の吉田の地のたった300貫文の小領主から身を起こし、中国地方の安芸、周防、長門、石見、出雲、備後、備中、美作、伯耆、隠岐の10カ国を領する大大名までにのしあがっていった毛利元就の一代記でした。

 元就は、毛利本家の家督を相続した後は、自分に従わない有力家臣団を粛清し、実の弟さえも殺害して毛利家の体制を固め、権謀術数を駆使して周辺の国人・領主を切り従えていきます。

 そうして、安芸国内の国人・領主の多くを従えるまでに成長しますが、しかし、それは、基本的に、あくまでも国人・領主間の間での同盟の盟主にすぎず、主従の関係にはないことを実感していきます。

 そうしたなか、大名の大内氏から、大名の尼子氏討伐に参陣するように命じられて参陣しますが、負け戦となり、九死に一生を得、ほうほうの体で自国に辿り着きます。

 そして、その際、このまま、何時までも大名の手先となって働いていたのでは先が見えないことを悟ります。今後は、自分の好きなようにやっていこう、そうすれば、或いは自分も大名になれるかもしれない、それが自分に与えられた「天命」かもしれないと思うようになります。

 それからは、権謀術数にも磨きがかかり、やがては、中国地方10カ国を領する大大名にまでなるわけですね。

 また、その勢いを駆って、四国地方や九州にまで勢力を伸ばしていきましたが、そちらについては押し返され、結局は実現しないうちに75歳の生涯を終えることになりました。

 なお、元就は、早くから、自分は隠居したいと嫡男の隆元に告げるわけですが、隆元は、元就があまりにも偉大すぎるため、自分としてはとても直ぐには元就のあとは継げない、もう少し隠居を遅らせて欲しいと、元就の隠居に反対します。そして、そうこうするうちに、隆元は、急死してしまいます。死因は毒殺ではないかと言われているようです。

 元就はがっかりするわけですが、幸い、隆元には嫡男の輝元がいましたので、それに期待をかけます。

 輝元が15歳になったとき、元就は、孫の輝元に隠居したいと言い出しましたが、輝元から、「父は四十になるまで万事じいさまにまかせていたのに、そのじいさまが、いまようよう十五になった自分を見捨てて隠居なさるとは、言うべき言葉も見当たりませぬ」(P.433)と反発され、これまた、隠居を断念せざるをえませんでした。

 そんなこともあり、結局は隠居できず、75歳で死を迎えることになるわけですが、毛利家のこれ以上の発展はないと悟ったのか、元就は、多くの子や孫に見守られながら、次のような言葉を残して静かに息を引き取ったということです。

「よいか。申し残しておく。今後、毛利の家は天下を望んではならぬ。背伸びをすれば、領国が足許から崩れてゆくぞ。いまのように、一家で十カ国も持っていることさえ望外なことなのじゃ。欲張ってはならぬ。家を保つことに専念せよ。わかったな」(P.466)