文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

石塚不二太郎・Uマイア・いずみあすか 石ノ森章太郎、水野英子との合作作品

2017-11-24 23:13:00 | 第1章

この間、前年の「石塚不二太郎」名義で、石ノ森章太郎との合作による描き下ろしのミステリーアクション『その仮面をとれ』(若木書房、4月20日発行)を執筆した流れから、フレキシブルなエディット感覚に定評のある丸山昭が、石ノ森と赤塚、既に講談社でその才能を開花させていた水野英子との合作をプロデュースすることとなる。

そのプロジェクトにより、石ノ森、赤塚、水野の三人は、ファラオの時代を舞台に、エジプトとエチオピアという二つの国によって引き裂かれた若い男女の悲しい愛のドラマ、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』(原案・オギュスト・マリエット)を翻案した『星はかなしく』(「少女クラブ」58年8月号別冊付録)や、『旧約聖書』の「士師記」を原典とした歌劇で、神から怪力を授かったサムソンの復讐と悲劇の叙事詩『サムソンとデリラ』をコミカライズした『赤い火と黒かみ』(「少女クラブ」58年3月号別冊付録)、石ノ森がアイデアを練り、考案したストーリーで、可憐な少女が家族とともに殺人事件の謎に挑む推理サスペンス『くらやみの天使』(「少女クラブ」58年10月号~59年3月号)といった作品を、U・マイア名義で発表した。

その他にも、石ノ森との合作では、「いずみあすか」名義で、『ちりぬるを』(「少女クラブ お正月まんが増刊号」58年1月15日発行)、『そしてミヤはいなくなった』(「少女クラブ」58年3月号)、『消えてゆく星』(「少女クラブ」58年1月号)をいずれも「少女クラブ」本誌や別冊付録等に執筆することになるが、U・マイア名義の作品では、ネームと構図は全て石ノ森が担当したほか、ヒロインは水野、ヒーローは石ノ森がそれぞれ担当し、赤塚の主な受け持ちはその他大勢と背景で、扱いとしては、殆どアシスタントのようなものだった。

いずみあすか作品でも、赤塚の執筆部分は、U・マイア作品の時とほぼ同じで、漫画を描き続けてゆく自信を失いかけた赤塚は、段々と石ノ森のアシスタント的立場に甘んじるようになってゆく……。

この頃、赤塚の窮状を心配した母親のリヨが上京、トキワ荘で同居することとなり、赤塚の身の回りの世話をするようになった。

赤塚もまた、当時『鉄人28号』で一躍流行作家の仲間入りを果たしていた横山光輝のアシスタントの出張アルバイトをすることで、母親の生活費を捻出した。

戦後の荒廃から、一〇年余りを経て、朝鮮戦争による特需依存から脱却した日本経済が、安定軌道に乗り上げた50年代後半、『経済白書』に「もはや戦後ではない」という言葉が明記され、経済面における戦後復興の終了を高らかに宣言。所謂「神武景気」の時代が到来した。

マスメディアにおいては、「週刊新潮」を皮切りに、一般週刊誌が相次いで刊行された。

また、テレビ局も、NHK、日本テレビに続き、新たな放送局が次々と開局され、まさに時代は、経済と文化の転換期であった。

スクリーンの世界では、石原慎太郎が芥川賞を受賞した『太陽の季節』で、その実弟である石原裕次郎が、宍戸錠、名和宏といった若手人気俳優に続き、日活のニューフェイスとして、華々しくスクリーンにデビュー。同世代の若者達の間に熱烈なブームを巻き起こし、「太陽族」なる流行ファッションも生まれた。

テレビでは、『やりくりアパート』、『お笑い三人組』、『番頭はんと丁稚どん』など、新たなバラエティー番組が一挙に放映開始し、いずれの番組も世間大衆から圧倒的な支持を得るに到った。

1958年には、国産初の子供向け特撮番組『月光仮面』の放映も始まっている。

確かに、赤塚が倦み疲れながら、少女漫画を惰性で描いている間、笑いをテーマにした漫画が増えつつはあった。

異色なところでは、貸本向けに描き下ろされた作品で、戦争や軍隊生活における狂態や不条理さを揶揄的な視点からカリカチュアした前谷惟光の『ロボット三等兵』が挙げられるが、雑誌の世界では、山根赤鬼の『よたろうくん』や大友朗の『出世だんご山』のように、おっとりとした与太郎的なキャラクターの少年が失敗を巻き起こすという、謂わば、落語の世界をそのまま漫画に持ち込んだような作風が潮流で、そのどれもが古色蒼然たる前近代的なイメージを脱してはいなかった。


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