文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

人間同士の繋がり、家族の在り方を問う「ひいきはやめて」

2020-04-23 23:20:07 | 第3章

『アッコちゃん』の総体的なワールドビューは、明るく朗らかで、夢いっぱいの楽しさに包まれた超ファンシーなテイストを漂わせたエンターテイメントと言えようが、連載後期を迎えると、アッコと同世代の少女達が、成長幼少期であるが故の未熟さから、共通して抱く苦悩や、情緒的に強く色付けされたメランコリックな意識体験といった現実の生活の中で実感する行き場のないエモーションを作品のテーマに掲げることにより、読者の内生的な倫理観や、感情領域における情操を育んで確実なメッセージを共存させたエピソードもまた、顕著に描かれるようになった。

「ひいきはやめて」(64年11月号)は、裕福な家庭環境に恵まれながらも、母親から相反する扱いを受けている二人の姉と弟の感情の相克をテーマにしたエピソードで、姉であり、アッコとモコの同級生でもあるマリとその弟のケイ坊との間に横たわる確執や、母親のマリに対する溺愛ぶりや狭量さなど、一家族の屈折した現実生活の有り様や、人間観における様々な矛盾と心理的葛藤が、幾分シリアスな風合いを伴って表出され、人と人との繋がりにおける価値基準、延いては、本当の家族の在り方とは何かを問い掛けた意欲的な一本である。

その成績優秀ぶりや容姿端麗さから母親の寵愛を受ける中、次第に自尊心が芽生え出し、ついついケイ坊に対し、不遜な態度を取ってしまうマリの慢心ぶりと、逆に母親に愛情を注いでもらえない疎外感から、誰からも心を閉ざし、ネガティブな感情でしか、他者とコミュニケート出来ないケイ坊の痛切なる悲哀を浮き彫りにしながら、アッコ達がその崩れかかった家族関係を修復してゆくヒントを伝えるという、子供寄りの視点に沿って展開するハートウォーミングなストーリーで、家族同士における心遣いや節度の重要さ、別け隔てない愛情を保ちつつも、自己本位に傾き易い頑な心を和らげ、我が子に自立心、他者の心を慮る心情を涵養し得る適切な距離感を留め置くことの大切さが、押し付けがましくなく、しかし厳粛に描かれているあたりには、感服せざるを得ない。

姉と弟、母親と弟が互いの感情を、身近なところで、手に取るように斟酌し合う希望に満ちたラストもまた、素朴な次元で描かれていながらも、情味のこもった深みと繊細を帯びており、赤塚のコンシャンスが心に染み入る手堅いワンシーンだ。


読む者のモラリティーを喚起する「スターになあれ!」

2020-04-23 08:16:03 | 第3章

「スターになあれ!」(64年5月号)は、知り合った女の子に、自らが人気歌手と親戚であることを自慢されたアッコが、その嫉妬心から、当時、日活映画の青春純愛路線で一躍ブレイクを果たし、人気アイドル女優として、少女達にとっても、雲の上の存在だった吉永小百合に変身し、自分は彼女と大親友という虚構のシチュエーションで、その女の子に対抗するといった、アッコの短絡的で自己愛的な虚栄心が、本来の自分から独立した一個の人格としてのアッコ版吉永小百合の存在を肥大化させ、遂には、本物の吉永小百合と対面してしまう混乱とトラブルをドタバタテイストたっぷりに綴った失敗譚だ。

読者にとって、アッコ版吉永小百合は、心象世界で現実に生きた憧れの人物の代理的な役割をバーチャルに果たしてくれる、ささやかな依存対象であったと言えなくもないだろうが、このドラマのラストシーンは、自分本位の主観的行動により、ロケーションを中止させてしまうという多大な迷惑を与えてしまった本物の吉永小百合に、遠巻きから謝罪の意を見せるアッコの姿で締め括られる。

反省したアッコのいじらしい表情も印象的で、虚栄心によって、我欲を幾ら満たしたところで、結果として得るものは、虚しさと気まずさだけだという一つの真理を明瞭に示した、地味ながらも、充実したワンシーンであり、登場人物が背負っているそれぞれの性格と状況に応じつつ、読む者のモラリティーの発動を喚起するその措定作用も含め、如何に赤塚が細心の配慮のもと、テーマを絞っていたかが、見て取れるかのようだ。

こうした、斬新ではあるものの、作劇上、自縄自縛の袋小路に陥りやすい変身というワンアイデアと、手の届く日常生活で起こり得るちょっぴり不思議な夢の冒険譚、これらの限られたエッセンスを発想の緩急や強弱をフレキシブルに使い分けて飛翔させ、読み手のカタルシスを呼び起こして十二分なエピソードに膨らませる筆力は、豊穣なイマジネーションの結晶の成せる業であり、ストーリーテラーとしての赤塚の対象領域の広さに、改めて喫驚させられる。