文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

漫画文化のドラスティックな変貌 そして狂気の赤塚時代へ

2020-04-09 22:12:38 | 第2章

戦後間もなく生まれた所謂「団塊の世代」の最初の年代が、大挙大学入学を果たした60年代中頃、漫画文化の大衆化は益々の拍車が掛かるようになる。

白土三平の『忍者武芸帳』や『カムイ伝』で展開される、封建制度下における支配者層と被支配者層の間で起きる農民一揆等の階級闘争が、カール・マルクスが唱えた唯物史観からの視点より描かれていることが知識層から指摘され、これを契機に、漫画が文学と同等の価値を有する文化として、大学生や都市型中堅サラリーマンといった知的ヤングアダルト層にも広く読まれるようになった。

それは、良質な漫画作品そのものが、大人が観賞するに耐え得る一つのカルチャーとして位置付けられることによって、漫画研究、漫画批評が盛んに行われるようになるなど、いつしか漫画というジャンルさえも、知的スノッブの道具として扱われる時代の訪れでもあった。

そして、漫画批評もまた、良しにつけ悪しきにつけ、それに付随する文化の一端として、現在に至るまで強く根付いてゆく。

手塚治虫を例に出すまでもなく、重厚なテーマやメッセージ、アイロニーやイデオロギーが込められた漫画も多数頻出するようになると、漫画文化そのものが新しい時代を担うメディアとして光芒を放ち、児童だけではなく、大人までも巻き込み、右肩上がりの発展を遂げる中、『おそ松くん』と『オバケのQ太郎』の二枚看板を編成する「週刊少年サンデー」も、やはり大学生を中心としたコンサバ層にも人気を広げ、発行部数を飛躍的に増大させていった。 

「少年サンデー」の発行部数が八〇万部という、当時の漫画雑誌としては破格のレコードを樹立する原動力の一つが『おそ松くん』であった流れから、文藝春秋の「漫画読本」同様、漫画集団の大御所作家達の主なる活動拠点であった「週刊漫画サンデー」(実業之日本社)からもオファーを受け、同誌を舞台に青年読者を対象としたブラック度の高いナンセンス短編作品を散発的に発表していったのもこの頃だった。

60年代に入り、日本初の性転換ダンサー、銀座ローズこと武藤真理子が、頻繁にマスメディアに取り上げられたりと、世間的に認知されつつあったゲイボーイ、シスターボーイをフィーチャーした一編で、性同一障害者に性別適合手術を行った産婦人科医が、患者の生殖機能を不能にし、優生保護法を違反したとされ、有罪判決を受けた所謂「ブールボーイ事件」から材を採ったかと思われる『オステスカリ子』(65年5月18日号)、学生運動に深入りする余り、いつまで経っても大学を卒業出来ず、毎年留年を繰り返すダメ大学生トリオの狂騒と騒乱の無限ループが、やがて独善的、反社会的行為へと連鎖的に拡大してゆくブラックコメディー『過激派七年生』(「別冊漫画サンデー」65年6月号~9月号、9月臨時増刊号)といった、やはり当時の時代状況を色濃く反映したシニックな作品が執筆された。

因みに、『オステスカリ子』に登場するゲイボーイ達のアブノーマルな生態は、時を経て、更なる病的な異常性を纏い、『天才バカボンのおやじ』(「週刊漫画サンデー」69年~73年)、『ギャグゲリラ』(「週刊文春」72年~82年)などの準レギュラーにして、マゾヒストに同性愛者と、性倒錯の大見本市として、読者に多大なインパクトを残すことになる名バイプレイヤー、カオルちゃんへと受け継がれてゆく。

このように、その後、更に人気を爆発させ、時代と密接に渡り歩いて行く新生赤塚漫画を形成するギャグのハウツーやキャラクターの原型を、赤塚は1964年から66年という『おそ松くん』の絶頂期であるこの時期に、自らの作風へと取り込み、方法論としての立証を重ねながら、その前衛的な表現方法とギャグセンスを研ぎ澄ませてゆく。

赤塚が新たな笑いを模索していた1964年~66年当時における、我が国の社会、文化状況を振り返ってみると、先にも述べたように、東京オリンピックの開催や東海道新幹線の東京ー新大阪間の開通といった、経済大国として加速度的に規模を膨張させてゆく日本復興の象徴とも言うべき出来事が相次いで起き、特にオリンピック招致の成功は、マーシャル・プランとは一切関係ない日本をOECDへと加盟させる強力なバックボーンとなった。

各電気メーカーが、オリンピックの開催に照準を合わせるかの如く、消費者の購買欲を煽る怒涛のコマーシャル戦略を打ち立て、カラーテレビが爆発的に普及してゆく。

そして、若者の間では、ザ・ベンチャーズのエネルギッシュな所謂「テケテケ・サウンド」が大人気となり、全国的にエレキ・ブームが駆け巡ることになる。

1966年には、ザ・ビートルズも来日し、日本武道館で、極東初のリサイタルを開催。翌67年には、先行するジャッキー吉川とブルー・コメッツやザ・スパイダース、ザ・ワイルド・ワンズといった斬新なコーラスワークを取り入れ、一躍人気グループとなったプロフェッショナル・エレキバンドの台頭に追従するかのように、ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズ、ザ・ゴールデン・カップス等、リバプール・サウンドから発展した第一次ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響をより色濃く受けたヴォーカル&インストゥルメンタル・グループが続々とデビューを果たし、ローティーンの少女達を熱狂の渦に巻き込んでゆくグループサウンズ・ブームが到来する。

一方、キッズ向け番組では、円谷プロ製作のテレビ特撮『ウルトラQ』、『ウルトラマン』が相次いで放映され、怪獣ブームが加熱。マルサンの怪獣ソフビが玩具市場を席巻することになる。

ファッションもまた、アイビーブームの影響から、VAN、JUN等のブランドが人気を呼び、若者達が最先端のモードに敏感になるなど、まさにこの時代は、「いざなぎ景気」に伴い、新たな文化が次々と芽吹き、子供や若者の趣味嗜好、ライフスタイルが大きく様変わりしてゆく転換期でもあった。

そんな時代の熱気が漫画業界全体にも及ぼし、漫画は自在にスタイルを変貌させながら、多種多様にジャンルを増殖させ、ドラスティックな革新を遂げる。

『おそ松くん』の特大ヒットで、一躍時代の寵児となった赤塚もまた、こうした大衆文化の大きな波がカンフル剤となり、その創作活動は更なるうねりをあげて覚醒してゆく。

そして、67年には、漫画界に衝撃と旋風を巻き起こし、赤塚不二夫第二の全盛期を支える二つの大人気作を連続して発表。遂に、少年週刊誌メディアは、狂気の赤塚時代へと突入することになる。


少女向けブラック・ユーモアの登場 戦慄の一家物シリーズ

2020-04-09 19:45:00 | 第2章

キャラクターの性格表現からドラマを組み立ててゆく構築方法は千差万別である。

「少女フレンド」を中心に描き継がれた『いじわる一家』(67年1号~6号)をはじめとする一連の「一家ものシリーズ」は、少女雑誌にブラックユーモアを取り入れた最初の作品群で、人間のデカダンな意識の内面、あるいは葛藤から生まれる人間の業といったものをメタフィジックな観点から描写しつつも、そのキャラクターには恐怖感漂うアクチュアリティーが付加されており、いずれも戦慄のエッセンスを含んだ混乱と笑いの日常空間を舞台としている。

『いじわる一家』は、文字通り、家族全員が底意地が悪く、良識の欠片もない屈折した人間ばかりで、飼い猫までが人間に嫌がらせをし、バキュームカーを食事中の民家に突っ込ませてしまう悪辣ぶり。おまけに、亡くなったお祖父さんも遺影から息子達に向かって唾を吐き出すなど、悪意に満ちた異常行動を繰り返すとんでも一家だ。

だが、ある日、そんな歪んだ性格を清く正しく変えてしまう衝撃的な出来事が唐突に訪れ、最後に意外な結末へとドラマは雪崩れ込んでゆく。

いじわる一家の異常なまでの加虐性、予断を許さぬショッキングなどんでん返しが、道理から外れたこの上ない理不尽さや無差別レベルの残虐性を更に高騰させ、少女漫画の本質概念の反逆となるクールな笑いを紡ぎ出してゆく、まずは傑作シリーズとなった。

「少女フレンド」では、他にも、オカルト趣味の家族が本物のゴーストに取り憑かれてしまう悪夢のようなトラブルを恐怖から解放するナンセンスとのミクスチャーで紡ぎ、予定調和の少女漫画の作法を破壊した『スリラー一家』(67年11号~12号)、究極の世話好き一家の有り難迷惑なボランティア精神が、読者のシンパシーや感情移入の一切を拒絶し、押し付けや自己満足のボランティアへの違和感を一つのアフォリズムとして明徹なまでに喝破した『おせっかい一家』(67年8号~10号)、「なかよし」には、各自めいめい価値観の外れた行動を取る協調性のない家族が、対立や葛藤を乗り越え、深い絆と真の家族愛で結ばれるまでの姿を綴った不快指数120%のヒューマンドラマ(⁉)『バラバラ一家』(67年8月号)、様々なアクの強い癖を持つ家族の、訪問客を巻き込んでのバカバカしいまでの喧騒がほっこりとした笑いと安堵感を引き立てる『7くせ一家』(67年4月号)等を執筆。その後、少年誌にも、窃盗癖のある不埒なファミリーが銀行強盗に押し入り、完全犯罪を成立させるも、因果応報とはいえ、その衝撃的な幕切れに戦慄を覚える『ドロボウ一家』(「ぼくら」68年6月号)、バットとグローブを肌身離さず、生活の全てに野球を持ち込む野球命の一家のあくなき日常をユーモラスに切り取った『野球一家』(「週刊少年キング」68年26号)、拳闘狂の一家に生まれ、ボクシングに熱中する余り、これ以上破壊のしようのないくらいにまで顔面崩壊してしまった元美人の婚活に向けての悪戦苦闘が物騒な笑いを膨張させる『BOXING一家』(「週刊少年キング」68年30号)他、諸々の作品を発表した。

創刊間もない、まだ週刊化される以前の「少年ジャンプ」では、過剰に愛されることで伴う息苦しさや精神的苦痛を、人間は勿論、犬や猫、誰からも好かれる人気者一家の悲喜劇に、何処か心理的空虚感がもたらす浮揚的ムードを絡めて描いた『もてもて一家』(69年№12)、苛立ちの激しい家族の激情と狂乱が更にエスカレートを重ね、殺気立った暴力衝動を全方位に向けてぶち巻ける『イライラ一家』(69年№15)といった作品を多数執筆し、1976年の『タレント一家』(「少年ジャンプ増刊号」76年8月20日発行)を最終作として描くまで、「一家ものシリーズ」は、ブラックユーモアのベーシックな形式を保ちながら、更なる深みとバリエーションを広げてゆくことになる。

因みに、『タレント一家』は、演技性人格障害を患った一家の更なる精神の均衡の喪失と錯乱を戯画化し、読む者を思考停止の境地へと誘う不条理な味わいを纏った作品だ。

「一家ものシリーズ」は、赤塚ギャグとしては、比較的なマイナーな路線でありながらも、これらの作品を多く収めた単行本は、発売される都度、間もなく品切れになる程の売れ行きを博し、1970年に曙出版より新書版コミックス(『赤塚不二夫全集』第15巻)が『いじわる一家』の表題作で発売された後も、75年にB6版、翌76年に文庫版と二度に渡って復刊を重ねており、その人気の根強さが窺える。