goo blog サービス終了のお知らせ 

文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

新趣向のカリカチュアを提示 「ホシのアリバイの探偵なのだ」「ミュージカルでバカボンなのだ」

2021-05-16 13:44:13 | 第5章

赤塚のパロディーマインドは、漫画のあらゆる表出形態を解体構築した、二次創作的なイミテーションとしての概念を差し示すだけではなく、多岐広汎に渡る表現媒体のアピアランスを抽出し、更にそれらをベースに捉えた新趣向のカリカチュアへと、その作風を開花させてゆく。

インテリ然とした悪役風の人物が「みなさん‼ぼくがホシです よくおぼえておいてください」と、読者に呼び掛けるというキャッチーなプロローグから始まる「ホシのアリバイの探偵なのだ」(72年14号)は、倒叙形式でドラマが進行してゆく、推理サスペンスの体系的構成をトリッキーな脚色によりパロディー化した疑似ミステリーだ。

少年探偵団ならぬ、中年探偵団を称するバカボンのパパと目ん玉つながりが、毒入りすき焼きを食べ、死に至ったとされる、とある社長殺しの真相解明を求め、犯人探しに乗り出すが、事件は迷宮入りし、とうとうパパは同じ仲間である筈の目ん玉つながりこそが犯人ではないかと疑い出す。

そして、目ん玉つながりが社長殺害に及んだ犯行理由に、朝、昼、晩と毎日すき焼きを常食している社長に対し、二八年間すき焼きを食べていない目ん玉つながりが、そのリッチな食生活に嫉妬し、殺意を爆発させたことを動機として挙げるのだ。

パニック状態に陥った目ん玉つながりは、発作的に窓ガラスをぶち破り、逃げ出そうとする。

だが、殺害現場であるそこは二階で、庭先へと真っ逆さまに落っこちた目ん玉つながりは、頭から半身を地面にめり込ませてしまう。

そして、パパに「さあ‼ドロをはくのだ‼」と迫られた目ん玉つながりが、文字通り、本当に泥を吐くという、何とも心罰的な展開を迎える。

果たして、パパが容疑を掛けた通り、目ん玉つながりが犯人なのか……。

ドラマはここで唐突に終わり、目ん玉つながりをはじめ、作中登場した人物達が容疑者として舞台上に並ぶ。

しかし、この時、冒頭に現れたホシと名乗る人物の名前が、ただ単に「ホシシンイチ」であったことが明かされる。

言うまでもなく、日本掌編小説の神様と呼ばれ、赤塚とも交流の深かったSF作家の星新一の名をそのまま拝借したキャラクターだ。

第一発見者である家政婦の女性は、「まさか女中のホシエでは⁉」と自らも怪しいことを匂わせ、目ん玉つながりは、「あててくださいね‼」と読者に呼び掛ける。

因みに、この作品は「懸賞つき推理ドラマ」と銘打たれているだけあって、本編をしっかり熟読すると、犯人が誰であるかが、浮かび上がってくるという、読者を徹底的に茶化しつつも、赤塚らしいスマートな意匠が凝らされており、決して侮れない。

(犯人の名前を葉書に書いて応募すると、抽選により、正解者に純金切手、鉄製切手などの変わり種切手をプレゼントするという企画が、この時読者サービスの一環として行われた。)

このようなパロディーというコンセプトを基軸に持つ笑いの類型提示は、それそのものが何らかの要因、または手段として機能しているだけではなく、そのテクストに伏在するレトリックに対し、新たな釈義を生み出すファクターとなったのだ。

「ミュージカルでバカボンなのだ」(72年15号)は、「パパがうたい,おどりまくる 大ミュージカル・ドラマなのだ‼」という惹句が示す通り、全編有名な動揺や流行歌を登場人物達の台詞にアダプトしながら、ドラマの進行を促してゆく、ポップテイスト溢れるグルーヴ感覚がいみじくもヒットした一作で、第18回文藝春秋漫画賞受賞の決定打となった記念碑的作品だ。

ミュージカル仕立てのストーリーに、その世界観を統一させたせいか、『天才バカボン』のタイトルスペースでは、五線譜をバックにした音符風のロゴが賑やかに踊り、ラストには、登場キャラ全員が舞台上に表れ、ラインダンスを披露するなど、その演出効果の秀逸さは、至る場面において拝覧出来る。

バカボン家に侵入した一人の泥棒を主役に迎えて展開する単純明快なスラップスティックナンセンスといった傾向の物語でありながらも、フランスの思想家・ジャン=ジャック・ルソーがその原曲を作ったとされる文部省唱歌「むすんでひらいて」の一節を「ぬーすんで ひーらーいーてー(中略)ゆーびをまげてー ぬーすんで~ その手を うしろに~」と変え、泥棒に歌わせるなど、元歌の原型を留めつつも、見事な替え歌へと昇華している点に、言葉遊びの天才・赤塚ならではの巧妙なキレを感じさせる。


「天才バカボンの劇画なのだ」「天才おバカボン」 漫画の表顕スタイルの模倣と解体

2021-05-14 07:45:01 | 第5章

『バカボン』に纏わるトピックで、最も特筆に値するのは、今尚伝説として語り継がれている実験的エピソードの数々だ。

『バカボン』の週刊連載での合計期間は、途中休載分を差し引いても、八年以上の長きに渡り、ギャグ漫画の限界が、週刊ペースで概ね二年強だとしても、そのエピソード数は通常の約四倍にも相当する。

その為、読者を飽きさせないよう、数々のギャグのシンカーを投げ続け、連載ペースをキープせざるを得ない、切実な事情が背景にあり、常識を破るフォーマットが幾つも生み出されるに至ったのだろう。

霧に閉ざされた夜の摩天楼を背景に、トレンチコートに身を包み、コルトを構えた劇画調のバカボンのパパが颯爽と登場する見事な一枚絵の扉ページと、本編中繰り返される稚拙な劇画タッチとのコントラストが、多大なインパクトを与える「天才バカボンの劇画なのだ」(72年9号)は、佐藤まさあき(代表作/『堕靡泥の星』、『若い貴族たち』)の劣化コピーといった趣のハードボイルド・パロディーだが、陰影を加え、微妙な立体感を湛えたキャラクターデザインや、映画的手法を駆使したローアングルや局部アップ等の表現技法を、作画崩壊ギリギリのタッチで再現することで、漫画とも劇画とも付かない、珍妙奇天烈なダークファンタジーをここに視覚化した。

ストーリーは、暴力団の縄張り抗争に巻き込まれたバカボンのパパが、目ん玉つながりと共闘し、街の平和のため、双方のヒットマン相手に大捕物を繰り広げるという勧善懲悪ものでありながらも、途中、通常の二頭身から四頭身、再び二頭身へと、パパが変幻自在に姿を変える、メタモルフォーゼを全面に押し立てた展開や、日本古来の遊び歌である「ずいずいずっころばし」を最後まで歌わなければ、弾が発射されないクラリネット型の改造拳銃など、アホらしさ全開のガジェットを用いたギャグを効果的に取り込んでおり、転んでもただでは起きない赤塚独特の洒脱な逸脱をここでも視認することが出来る。

その後、コマからコマへの連続の中で、グロテスクな形象を意匠とする、登場人物達の喜怒哀楽の表情を大ゴマで描出した一枚絵のような劇画的カットが、赤塚ギャグの独壇場として見せゴマの如く頻出するが、このような新たな表現様式もまた、この劇画版『バカボン』の執筆が一つの契機となって生まれたものであることは言うまでもない。

新たな少女漫画の類型提示を隠れ蓑に、自身のオネエ趣味を笑いのディテールへと転化した「天才おバカボン」(72年13号)は、かつて少女漫画の王道パターンであったバレエ物をコミカルにパロディー化したホモセクシャル・ナンセンス。

この作品は、薔薇の花をたっぷり描き入れることで、その心象を更に具象化せしめたキメ細やかな背景に、センチメンタルなモノローグの使用、そして、長い睫毛にキャッチライトが無数に当てられたパパやバカボンの瞳といった、少女漫画特有の装飾性を心憎いまでにフォローした怪作だ。

物語の要点として、春山うらら先生ことオカマのカオルちゃんが主宰するバレー教室で、パパとバカボンが女学生宜しく、トップバレリーナを目指し、日夜奮闘を重ねるといった一つの対決軸が展開されるものの、そこは流石の『バカボン』ワールドで、パパが「黒田節」のメロディに合わせて、トウシューズを尖らせるなど、その脱力的なギャグに関しても枚挙に暇がない。

(赤塚も、駆け出し時代に、一人の薄幸の少女が悲痛に満ちた現実を乗り越え、バレリーナとして成長を遂げてゆく『ブローチとバレエ靴』(「少女ブック 新年増刊号」58年1月10日発行)なる読み切りを執筆したことがあった。)

「天才おバカボン」では、少女漫画の完全コピーを意識してか、ファンシーテイスト溢れるバカボンのパパも登場し、読む人の度肝を抜く。

鼻毛を抜いて作った付け睫毛や、「マーガレット」を飾ると、「なかよし」の「フレンド」がいっぱい出来てしまうという「りぼん」型の鉢巻きが印象的なグーなおバカボンのパパのファッションは、1960年代より、少女雑誌のお洒落ページのイラストや、サンリオ、サンスター等で、多数のキャラクターメイクを受け持ち、後にエッセイストとしても活躍する田村セツコの手によって描かれたものである。

彼女は、新人時代より、赤塚と公私ともに親しい間柄にあり、そうした交流の深さがこのような異色のコラボレートを生んだのだろう。

田村セツコとのコラボは極めてレアなケースだが、絵の面白さを追求したエクスペリメンタルなギャグをこの時多数生むことになったのも、第四章にて詳しく記述したフジオ・プロ劇画部のバックアップがあったからこそだと言えよう。

「天才バカボンの劇画なのだ」以降、前述したように、心持ち悪さを意図した、登場人物らの顔面クローズアップが半ページ大の大ゴマで多用されるようになるが、これを開発し、最初に執筆したのが、木村知生である。

その木村がアシスタントを努めていたフジオ・プロ劇画部のリーダー・芳谷圭児にも、等身大の美男美女を劇中登場させたい際、作画協力を要請するなど、この時、赤塚が求めるイメージは、常にスタッフの誰かによって、具体化出来る環境にあったという。

これらの他にも、『巨人の星』、『天才バカボン』とのトライアングルで、「少年マガジン」の第一次全盛期を牽引した『あしたのジョー』が、今尚語り草として名高い、衝撃の最終回を迎えたその翌週に、「あたしのジョー」(73年22号)なるタイトルで、バカボンが矢吹丈に、パパが丹下段平に扮し、草ボクシングに奮戦するというパロディー漫画を、友人である高森(梶原一騎)、ちば両氏への労いと賛辞を込め、執筆したこともあった。

但し、作中、ちばタッチに合わせた、等身大のジョーや段平が登場するわけではなく、バカボン扮するジョーが、ウナギイヌやノラウマとボクシング対決をしたり、ロードワークのつもりが、脱線して野原をサイクリングしたりと、微笑誘発型の尾籠の笑いを、定例通りのドタバタに絡めた稚気満々のオリジナルエピソードとして描かれており、やはり同じパロディーでも、対象作品のキャラクターの模写や、世界観の引用に比重を置いた長谷邦夫作品との笑いにおける温度差は歴然としている。


新たなファルスの構図を生み出した疑似実録劇

2021-05-13 07:38:55 | 第5章

先に示した、手塚治虫の実際のエピソードをヒントにして作った「天才マンガ家レポートなのだ」(72年25号)の主人公・十七歳の天才漫画家・バカ塚アホ夫は、超が付く程の我が儘で、編集者を虐げては、ストレスを発散するという、若くして、既にパワハラ的気質が常態化している偉丈高な人物だ。

ある夜、アホ夫は、急に機嫌が悪くなり、自分の父親程の年齢の担当編集者(四五歳)にシジミの味噌汁がなければ、描けないと言い出す。

「むすこは大学二年生 むすめは高校三年生 おやじは夜中にシジミとり・・・・ グスッ」

近所のドブ川で、涙をこぼしながら、トボトボとシジミを取っている担当編集者の姿が、何とも悲哀たっぷりだ。

この展開は、手塚治虫が、神田駿河台にある山の上ホテルでカンヅメになった時、やはり夜中に突然気分を害し、チョコレートがなければ、描けないと言い出し、手塚番記者を右往左往させた実際のエピソードから着想を得ており、アホ夫のキャラクターも、そんな手塚のダークサイドを拡大解釈した、極端なデフォルメを加え、作られている。

まだ、コンビニエンスストアも存在していなかった昭和中期頃のお話で、今となってはちょっぴり微笑ましい(⁉)、当時の漫画雑誌編集者の涙ぐましい奮闘譚の一つである。

1ページを一息で一気に描かないと、気が済まないという、異常なまでに神経質な劇画家・イラ塚イラ夫をフィーチャーしたのが、「イラ塚イラ夫と少年バカジンなのだ」(「別冊少年マガジン」74年8月号)で、このイラ塚先生のモデルは、芳谷圭児を部長とするフジオ・プロ劇画部に、1973年より一時期籍を置いていた園田光慶、その人ではないかと思われる。

園田は、かつて『あかつき戦闘隊』や『ターゲット』などの人気作で、少年週刊誌№1の王座を「マガジン」に奪還されて間もなくの頃の「サンデー」の屋台骨を、赤塚とともに支えた一人であったが、非常に神経質な性格の持ち主で、執筆の際にも気持ちにムラが表れるなど、実力派として評価される反面、扱い難い漫画家としても知られていた。

『ターゲット』終了後、少年誌の表舞台から姿を消した園田は、長いスランプに陥り、マイナーな劇画専門誌に発表の場を移すなど、雌伏の時を過ごしており、それを見兼ねた「サンデー」の赤塚番記者・武居俊樹の力添えで、フジオ・プロ劇画部に参入することになったという。

武居にしたら、大手出版社と距離が近いフジオ・プロに在籍することで、再びメジャー誌に返り咲けるチャンスを提供したかったのだろうが、この時、仕事上での人付き合いでさえ、精神的な苦痛を感じるようになっていたという園田は、このフジオ・プロ劇画部でも、一本の作品も描かないまま、じきにフェードアウトすることになる。

イラ塚イラ夫には、そんな園田のネガティブな気質が、面白可笑しく、そして、心理的恐慌を巻き起こすブラッキーなギミックを混えて、映し出されているように見えるのだ。

さて、このイラ塚先生、その毒気にやられ、発狂状態となったイラ塚番の後釜としてやって来た、ゴロ付きのような編集者の勧めによって、気楽に作品と対峙すべく、己の作家的拘りを捨て去ろうとするが、その負のスパイラルまでは絶ち切ることが出来ず……。

ラストでは、編集部全員を不幸に至らしめるニヒリスティックな展開を迎えるなど、その後も、確実に周囲を破滅の道へと転がり落としてゆくイラ塚先生なのであった。

「アホツカ・アホオと「少年バカジン」」(74年49号)で、サカイ記者(キャラクターメイクは毎回別人)が担当するアホツカアホオは、売れない盗作専門の漫画家で、日本著作権協会から注意勧告を受けたり、編集部から、来週はどの漫画家の作品をパクるか、賭けの対象にされているなど、これまで登場した漫画家の中でも、最もトホホ感漂う先生だ。

だが、ある時、漫画のアイデアを勉強しているという学生が、アホツカ先生のもとを訪れる。

学生のアイデアは、これまでの漫画にはない斬新且つ面白いものだった。

アイデアが枯渇していたアホツカ先生が、藁にもすがる想いで、それを元に漫画を描くと、とたん人気が爆発。ファンレターが連日殺到するようになる。

だが、このことを知られたくないアホツカ先生は、ファンレターを隠し、学生に対し、冷淡な態度を取り続ける。

そうでもしないと、学生につけ込まれ、立場が逆転してしまうからだ。

しかし、それを真に受けた学生は、自らの才能に見切りを付け、田舎に帰ろうとする。

困り果てたアホツカ先生は、恥も外聞も捨て、学生に泣きながら戻って来てくれるよう、懇願しようと決心するが、この後予期せぬ展開に、命拾いする……。

コアな赤塚ファンの中には、このアホツカ先生が、長谷邦夫を戯画化したキャラクターではないかと指摘する声も多い。

1969年から73年頃までの数年間、長谷は、フジオ・プロで赤塚のアイデアブレーンを務める傍ら、自らを盗作漫画家と称し、当時のありとあらゆる人気漫画のストーリーと絵柄を模倣した、様々なパロディー漫画を乱筆していた。

つげ義春の『ねじ式』の世界観をそのままに、海辺でメメクラゲに左腕を噛まれ、静脈を切断された主人公をバカボンのパパに置き換えた『バカ式』、砂川しげひさ(代表作/『寄らば斬るド』、『おんな武蔵』)のナンセンスタッチと小島剛夕(『子連れ狼』、『首斬り朝』)の荒々しい劇画のタッチを融合させた営業妨害漫画『かかば斬るド』等がその代表例で、長谷はこれら以外のタイトルでも、作家や作品の垣根を越え、矢吹丈やデューク東郷、ムジ鳥に喪黒福造といった様々なキャラクターを登場させては、読む者を唖然たらしめる、差し詰め人気漫画の乱交パーティーといった趣の短編パロディーをいくつも発表していたのだ。

これらの長谷のパロディー漫画は、発表当時、業界内外で賛否両論を招き、一部のマニアックな漫画ファンには、熱烈な歓迎を持って受け入れられたというが、この時、長谷パロディーの掲載誌の一つであった「COM」編集長の石井文男によると、その一方で、オリジナリティーの欠落が致命的であり、それに対し、極端に貶す読者も少なくなかったそうな。

赤塚もまた、長谷パロディーに否定的な見解を示していた一人で、長谷の絵の稚拙さを指摘した上で、その作風をこうシビアに断罪した。

「ボクは妥協っていうのが大キライです。この世界は才能のないやつは認められませんからね。

~中略~

いまはだれかがやろうと思えばできる仕事だ。あれには長谷の個性がでてないでしょう。まだその域に達していない。ボクは面白いとは思わない。」

(『ブームの奇形児・長谷邦夫の開拓精神』/

「週刊文春」70年8月31日号)

個性こそが重要視され、尚且つ、不特定多数の読者の支持を得られなければ、その価値はないものに等しいという漫画界の峻烈なる現実が、このアホツカ先生の姿を通し、看破されているように思えてならない。

このように、漫画家と編集者の駆け引きをモチーフにしたエピソードの殆どが、自らを貶める自虐ネタに関連して扱われており、舌鋒鋭いその諧謔性は、漫画家という赤塚にとってのサンクチュアリ、延いては赤塚自身にも矛先を向け、漫画界のインサイダー情報と内輪ネタが二重写しとなった疑似実録劇として、新たなファルスの構図を生み出すこととなった。

また、自身をモデルとした駄目漫画家に投射して描いた自虐ネタも、当時の赤塚のギャグ漫画の王様としての圧倒的なカリスマ性をもって成立し得る、高邁なる矜持に基づき描かれていることは明白であり、自らの素材力を完全燃焼させたという一点においても、是非とも目に留めておいて欲しいシリーズだ。


「バカラシ記者はつらいのだ」ほか 漫画業界版「仁義なき戦い」

2021-05-11 18:28:19 | 第5章

漫画製作の裏側も、漫画家対編集者という対立のドラマに組み換えられ、連載中、虚構と現実が著しくない交ぜとなった数々の奇作がシリーズ化されるようになる。

『バカボン』のエピソード内において、登場した編集者は、実際の『バカボン』担当である五十嵐隆夫を捩ったトガラシ記者、バカラシ記者、デガラシ記者、また、五十嵐記者の後任として赤塚番となった坂井豊をそのままキャラクター化したサカイ記者らで、どういうわけか、エピソードごとにキャラクターメイクが異なる。

一方の漫画家もまた、赤塚自らがトリックスターとなった大バカ漫画家・バカ塚不二夫や、手塚治虫の秘蔵エピソードをその人物像に投射したパワハラ漫画家・バカ塚アホ夫、フジオ・プロ劇画部に在籍していた園田光慶をイメージしたとおぼしき神経質漫画家・イラ塚イラ夫、明らかに長谷邦夫を意識して作られたと思われる才能なき盗作漫画家・アホツカアホオ等、爆笑喚起力を有するキャラクターとしては、まさに多士済々のメンツだ。

数ある漫画家のキャラクターの中で、『バカボン』史上最多の出場を誇るバカ塚先生は、連載開始間もない比較的初期の段階から登板した、名物キャラの一人である。

『おそ松くん』の人気者として活躍した名バイプレイヤー、ダヨーンのおじさんにベレー帽(後にニット帽)を被せたビジュアルデザインが印象的なこのキャラクターが初お目見えしたのが、パパが襖に描いた漫画(落描き)を持ち込み、にわか漫画家となって奮闘する、味わい深き珍奇譚「バカ塚不二夫と少年バカジンなのだ」(67年45号)で、この時人気№1の漫画家として初登板を果たす。

だが、担当記者のトガラシは、バカ塚に対し、威張り散らしたいがため、バカ塚の漫画が不人気であると嘘を吐き、連載の打ち切りをちらつかせ、傍若無人の限りを尽くすという、既にこの段階から、漫画家、編集者間における熾烈極まる駆け引きが描かれている。

次に、バカ塚先生が登場したのが、本作が発表後されて以降、実に六年ぶりのことで、今度は、担当のバカラシ記者に、帰社の途中、完成原稿を紛失されるという、漫画家にとって、最も背筋の凍る恐怖を生々しく綴った「バカラシ記者はつらいのだ」(73年18号)である。

実は、このエピソードが発表されて暫くした後、五十嵐記者が、出来上がったばかりの『バカボン』の原稿を受け取り、そのまま編集部に戻った際、タクシーの中に原稿を置き忘れてしまうという、漫画と同様のトラブルが赤塚の身に降り掛かることになる。

原稿を紛失した五十嵐は、そのまま待っていても、戻ってくる保証はないと、上司とともに深夜、フジオ・プロに謝罪しに向かうが、その時の赤塚との遣り取りを次のように述懐する。

話を聞いていた赤塚先生が言ったのは、このひと言。

「わかった五十嵐。今から飲みに行こう」。

~中略~

「一度描いたものだから、明日の朝から取りかかれば締め切り(名和註・翌日の夕方)には間に合う。もちろん原稿を失くしたことは許せないが、お前が落ち込んでいる姿を見るのも辛い。だから五十嵐、飲みに行くぞ」と。

~中略~

描き直しの原稿は、翌日締め切り前にきちんと仕上がりました。「ありがとうございます。今回は本当に申し訳ありませんでした」と謝罪する私に、先生は笑顔でこう言いましたよ。「五十嵐、2回目だから絵がうまくなってるだろう」。私を励ますためとはいえ、この状況でのこの言葉には、思わず涙が溢れそうになるほど感動しましたね。」

(『天才バカボン さんせいのはんたいなのだ! 伝説の赤塚ギャグ編』講談社、2009年)

当時のフジオ・プロは、毎日が締め切り日という綱渡りの状態で、完成原稿をコピーしておくという概念すら、全くと言っていいほどなかったのだろう。

また、飲みに誘ったのも、落ち込んでいる五十嵐を気遣ってのことで、行ったスナックで、赤塚は五十嵐の気が紛れるよう、馬鹿話を延々としていたという。

その後原稿は、翌々日、タクシー会社からフジオ・プロへと郵送され、再び赤塚の手元に戻ってくることになるが、二度と同じミスを繰り返さぬよう、肝に命じておくべく、五十嵐の手に渡される。

五十嵐は、後に追悼番組で、赤塚に対し、「漫画家としても天才だったが、人間としてはもっと天才だった」と、敬愛の念を吐露していたが、この時の一件は、まさに赤塚の人間としての徳の高さが偲ばれる好エピソードと言えよう。

また、劇中におけるバカ塚先生は、原稿を紛失したバカラシ記者に、キンタマをトンカチで叩かせるよう要求したり、これ見よがしに徹底的にイビりまくるが、赤塚本人は、その後、この一件で五十嵐を揶揄したり、責め立てたりしたことは一切なかったそうな。

因みに、その時失われた原稿は、30ページの特別巨編「天才バカボンの3本立てなのだ」(73年37号)で、そのうちの二本目と三本目の全二話、計14ページ分である。

二本目の扉ページには、「18歳以上のかたは たちながらお読みになってもけっこうです」という、断り書きとともに、大きく「オ◯ンコ」と書かれており、最初に封筒の中身を確認したであろう乗務員の方も、これを見て卒倒したに違いない。

赤塚の死去、この原稿は役目を終えたということで、今度は、五十嵐より、赤塚の愛娘で、現在フジオ・プロの代表取締役を務めるりえ子に譲渡される。

そして、追悼企画の一環として刊行された『天才バカボン 秘蔵単行本未収録傑作選』(講談社、2008年)に収録され、三五年の時を経て、漸くにして陽の目を見ることとなった。

一方、『バカボン』ワールドの住民である赤塚……もとい、バカ塚先生は、その後、増長ぶりも祟ってか、人気は低迷。アイデアにも事欠く始末で、遂には、「「天才アホボン」と「少年バカジン」その2」(74年48号)で、今や伝説となったミスター・ジャイアンツこと巨人軍・長嶋茂雄の引退セレモニーを真似、全くもって身勝手な引退を宣言する。

担当のサカイ記者は、これ幸いとばかりに狂喜乱舞するが、最終回の原稿だけは、絶対に掲載しなくてはならない。

ここでもまた、一向に要領を得ない漫画家対編集者の飽くなき攻防が繰り広げられる。

因みに、このサカイ記者のモデルとなった坂井記者であるが、赤塚の目には、初対面の段階から、編集者という職業的立場であるにも拘わらず、熟考が欠如した、軽佻浮薄な人物に映ったらしく、「『天才アホボン』と「少年バカジン」その1」(74年41号)では、そうした坂井記者のチャランポランぶりが、そのままネタとして流用された。

バカ塚先生のもとに、時間に厳格なサカイ記者が、バカラシ記者の後任となって訪れるが、あることが切っ掛けで、時間にルーズなバカ塚先生とサカイ記者の人格そのものが入れ替わってしまうというのが、その物語の概要で、個々のパーソナリティーに及ぼす相剋する概念が、ティピカルで皮相的であればあるほど、その区別は曖昧にして、互換可能だという一つの真理が明瞭なまでに示唆されている。

また、漫画家として超多忙な赤塚が、とにかく作品を一分でも一秒でも早く仕上げたいという、自らの願望をそのまま具象化した「満月の大傑作の漫画家なのだ」(73年35号)も、赤塚ワールドならではの驚異的なナンセンスに満ちたる一本と言えよう。

このエピソードでは、満月の夜、狼男に変身するという、恐るべし特異体質の漫画家が主人公で、ペン先のように伸びた爪先を十本のペンとして代用する彼は、尻尾で墨ベタを塗り、鼻の頭を消しゴムとして使うなどして、右指五本で描いた五つ子が主人公の「ウソ松くん」なる100ページの大作を、アシスタントもなしに、僅か一時間で描き上げてしまう、超絶的とも言える離れ業の持ち主だ。

だが、満月が出ない梅雨時は、執筆が全く捗らず、スランプに陥るという、儘ならない落ちが付く。

この他にも、松、竹、梅、スカと原稿料のランクによって、ペンネームと絵のクオリティーを変えて、作品を処理してゆく漫画家・赤松不二夫をフィーチャーした「ランクは「松」「竹」「梅」「スカ」ですのだ」(72年53号)も、爆笑必至のエピソードだが、その器用さが結果的に不運の元になるといった落ちが何とも秀抜で、警鐘的、黙示的な意味合いを、テーマとして兼ねているその作劇においても、軽視出来ない一編だ。


赤塚ワールドの作風の決定 天才・赤塚の驚異的なギャグ創出力

2021-05-11 09:11:10 | 第5章

このように、赤塚漫画には、様々な才能が、集大成となって成り立っているという側面があるが、その作業工程の中で、唯一どのスタッフも入り込めない領域がある。

それは、ブレーンストーミングの際に出したアイデアを記したメモを元に、ネーム用紙にコマ割りをし、吹き出しを書き入れてゆくという作業だ。

赤塚漫画の作風は、このネーム入れ、そして、その次に清書用の原稿用紙に、キャラクターの顔の表情や動き、背景の位置などを鉛筆によるデッサンで捉えてゆく、所謂アタリの作業によって全てが決まる。

もし、このネームとアタリを別の人間がやれば、ストーリーも絵も、赤塚漫画とは似て非なる別物の作品へと変貌してしまうのだ。

「週刊文春」連載の『ギャグゲリラ』の担当記者だった青山徹は、貪欲にアイデアを取り込み、一本のギャグストーリーを紡ぎ出してゆく赤塚の創出力をこう評している。

「やっぱり赤塚先生はクリエイターなんですよ。クリエイターは、アイデアを自分の身体に取り込んで、何らかの形に変容させて表現する。

~中略~

特に、アイデア会議の結果がパッとしなくて、あまり期待できないなと思っていても、出来上がりが素晴らしいことが多々ありました。そんなときは、本当にこの人は凄いんだと実感しましたね。いったん先生のペンが走り出すと、とたんギャグにも動きが出てきて俄然面白くなるという不思議さ。あれこそ赤塚マジックでしょう。」

(『週刊文春「ギャグゲリラ」傑作選』文春文庫、09年)

同じく「週刊文春」で、初代赤塚番を務めていた平尾隆弘も、「赤塚先生はとにかく天才ですから、ほんの毛の先くらいな些細なことにも、面白いと思えばビビッと反応してくる。編集者が提供出来るとしても、それはあくまできっかけに過ぎない。」と、アイデアを自家薬篭中の物にしてゆくその才気に惜しみない賞賛を送っている。

人気キャラクター・ウナギイヌをフィーチャーしたDVDマガジン『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat.ウナギイヌ』(角川SSCムック、16年)でのインタビューにて、古谷三敏は「バカボンのアイデアは面白い物を出すのに何で自分の漫画は面白くないんだ」と、「週刊少年マガジン」の担当記者だった五十嵐隆夫より手厳しい指摘を受けたことを述懐していたが、これこそまさに、漫画家としてのトータル的な資質において、天才と凡才の差が明瞭に現れての評価と言えるだろう。

北見けんいちは、「がんサポート」2011年7月号の取材で、赤塚の漫画家としての類い稀なる才腕を次のような言葉で一目置く。

「作品を作る前、(名和註・赤塚)先生や登茂子さん、高井さんや古谷さんらのスタッフに担当編集者が集まって、ワイワイと雑談する。その中から先生が面白いアイデアを拾い上げて漫画を作っていく。先生は断片的なアイデアやエピソードを1本の作品に仕立てるプロデューサーとしても天才的な能力を発揮していました」

実際、赤塚のマネージメントを長らく務めていた横山孝雄の証言(曙文庫『天才バカボンのおやじ』第1巻の解説)によると、ブレーンストーミングの際には存在しなかったアイデアが、ネーム執筆の時、ふんだんに盛り込まれることがあり、このように興に乗じた際に、突然変異で生まれた新語等も少なくなかったようだ。

「週刊少年サンデー」で長期に渡り、赤塚番を務めていた武居俊樹は、その著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ』で、アイデア会議を経た後、13ページの作品が完成に至るまで費やされる時間は、ネームに二時間、アタリに四時間で、赤塚の担当箇所が概ね六時間程であると証言しており、その後、赤塚は他の作品の執筆に取り掛かる。

拙著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』や『コアでいいのだ!赤塚不二夫』(出版ワークス、19年)所収の『レアリティーズブック』、『少女漫画家 赤塚不二夫』(ギャンビット、20年)等に掲載されている赤塚直筆のアタリ原稿をご覧頂ければ、一目瞭然だが、ラフな下描きとはいえ、その作画部分はキャラクターの表情、動きに至るまで、そのままペン入れをしても差し支えないくらい、線の一本一本が細やかに整理されており、特にこの時代(1970年代)、赤塚に限っては、月産にして、平均三〇〇枚近くのギャグ作品を描いていたわけである。

長谷邦夫は、当時の超タイトとも言うべき執筆ペースについて、次のように振り返る。

「ストーリーマンガのように背景の大画面を何頁もスタッフにまかせてしまうことの出来ないギャグマンガである。全ての駒に赤塚の手が入らないと完成できない。だからギャグ物三百頁というのは超ハードな仕事量であった。」

(『ギャグにとり憑かれた男 赤塚不二夫とのマンガ格闘記』冒険社、97年)

また、ブレーンストーミングに関しても、「連続して三本の作品のアイデア作りに参加すると、ほんとに頭の中が真っ白という状態になってしまう。」と、同時に語っており、その壮烈極まりない仕事ぶりの一端が垣間見れよう。

赤塚の手を離れたアタリ原稿は、チーフスタッフが、下絵のデッサンを鉛筆による一本線で、キッチリとした絵に起こし、ペン入れ、背景描き、ベタ塗り、仕上げ等、更に三時間の流れ作業を経由し、漸く一本の作品として仕上がってゆく。

赤塚がこのように、全てのスタッフがアイデア出しや作画に協力する完全分業制を敷いたのも、一日一本以上の作品を生み出さざるを得ない超絶的な過密スケジュールの渦中に身を置いた自らの状況に加え、毎回、ナンセンスに依存した消耗度の高いギャグを無尽蔵に弾き出してゆくには、個人の能力の限界を超越したバックボーンを整えなくてはならないというシビアな現実を見据えてのことだったのだろう。