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文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

痛烈な矢を射込んで迫り来るウィットに富んだ言葉遊び

2021-05-20 07:45:10 | 第5章

こうしたウィットを伴った赤塚独特の言葉遊びは、キャラクターの投げ掛けた言葉が意外な形に加工されて跳ね返り、痛烈な矢を射込んで読者に迫り来るといった、より過激さを孕んだ様態を呈してくる。

その最たるエピソードが、東大出のインテリ泥棒に犯罪用語を連発し、尋問する目ん玉つながりの無教養ぶりを、教育水準の格差に絡めて、徹底的に弄り倒した「おまわりポリ公のダジャレ合戦1」(74年9号)であろう。

目ん玉つながりが、「おまえのダチ(友達)はな マエ(前科)があってな タタキ(強盗)カツアゲ(恐喝)カッパライ(窃盗)スケコマシ(女騙し)にコロシ(殺人)までやってムショ(刑務所)からトンズラ(脱走)した大ワル(犯罪者)なんだぞ‼ あんなやつがハジキ(拳銃)やヤッパ(短刀)をのんで(持って)シャバをウロチョロ(徘徊)されちゃヤバい(大変な)んだよ‼」と息巻けば、東大出の容疑者は、「東大の哲学の教授の講義より難解だなあ・・・・ ナンカイきいてもわからないや‼」とぼやき、尻尾を巻くといった全く噛み合わない遣り取りが延々と続く。

目ん玉つながりは、インテリ泥棒の提案から、意思の疎通を図るべく、新たな隠語を作り、再度取り調べに挑もうとするが……。

この目ん玉つながりとインテリ泥棒との掛け合いは、その後も「おまわりポリ公のダジャレ合戦2」(74年10号)、「おまわりポリ公のダジャレ合戦3」(74年11号)、「天才シャレなしバカボン」(74年12号)と、三週に渡って続き、通常の『バカボン』のモデルケースとは明確な差違を示す漫才的対話に、ドラマの一貫を求めた新シリーズとしてプレゼンテーションされる。

日常からの転覆を図ったコント的浮遊性が持つエキセントリックな世界観とは無縁のシリーズだが、駄洒落や言葉遊びの畳み掛けに、起伏に満ちた張りと高揚感を溶解させてゆくことで、各話とも、ズレ下がりのドラマ特有の停滞性を超越した目眩く動態性を、その認識影響の中に深く及ぼしている。

漫画執筆における台詞の役割は、あくまで補助的であると指摘されることが多々あるが、特にこれらの諸作品は、その吹き出しの中に、絵にも勝る面白さがあるという典型例を示しており、赤塚漫画の鋭さは、絵やアイデアよりも、この台詞廻しの卓越ぶりにあると、飯沢匡、吉行淳之介、野坂昭如、井上ひさし、筒井康隆、東海林さだお等、高名な作家達の間でも、その評価は頗る高い。

また、岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家の別役実は、その不条理性溢れる独特のドラマトゥルギーと哲学的寓意を含有したダイアローグに惚れ込み、1978年に『天才バカボンのパパなのだ』(10月14日~10月22日、文学座アトリエにて上演)というタイトルで舞台化し、一部より高い声誉を得るに至ったことも、この場にて追記しておきたい。


「角い角い世界なのだ」に見る想念的実験と画一化した世界へのアフォリズム

2021-05-19 13:05:46 | 第5章

こうした想念的実験をベースに踏まえたシミュレーションは、この世に存在する森羅万象全ての「丸」が「角」へと変貌してしまったバーチャルな物語を、不条理劇のような寸劇スタイルで規範化した「角い角い世界なのだ」(73年13号)でも融通し、用いられている。

「ガリレオ・ガリレイは「地球は四角い」という大発見をした‼」というモノローグから始まる本作は、吹き出しは勿論、背景の太陽や自転車、自動車のタイヤも四角く、ハタ坊の日の丸の旗も日の角になっており、本編の狂言廻しであるバカボンのパパもまた、パの字が◯であるため、バカボンのババに呼び名が変わっているといった、徹底したパラダイム転換を発想の原点に求めたイリュージョニズムが、そのフレームの中で確保されつつも、最後には、仮想と現実との間のズレが出し抜けに明示され、このドラマにおけるデフォルトを一気に覆してゆく。

「全てが画一化された四角四面の世の中じゃ、豊かな情緒も文化も生まれない」

これは、1980年代、とあるテレビ番組に、赤塚がゲスト出演した際、統一され、平準化した指導理念によって支配されつつあった学校教育の現場、延いては、あらゆる価値概念が均一化してゆく社会全般の意識の在り方に対し、冗談交じりに呟いた箴言の一つだそうだが、非生産性を成立根拠とするナンセンス漫画の特性を纏ったエピソードでありながらも、その根幹を支えるテーゼに、そうした赤塚らしい反骨のメッセージが込められているように思えてならないのは、私だけだろうか……。

また、「丸」を「角」に変換した言葉遊びも相変わらずの冴えを見せ、パパが読む新聞記事に書かれた見出しは、「田中角栄 〝角(円)切り上げ〟についてのべる」「西ドイツのカク(マル)クはどうなる」「東京 角(丸)の内の角(丸)ビルに金庫ドロ」「過激派学生革角(マル)派内ゲバで三人死亡」「ことしも火をふくか ジャイアンツ□(O)N砲」といった案配で、空飛ぶ円盤は空飛ぶ角盤へと挿げ替えられる。

そして、バカボンのパパは、その角盤に乗って、地球へと訪れた宇宙人と遭遇する。 

その宇宙人は、故郷である星で角(核)戦争が勃発し、それを角(丸)く収めたご褒美として、地球旅行をプレゼントされたとパパに語るのだった。

宇宙人は、日活ロマンポルノの「大奥カク秘(□の中に秘と表記)物語」を観たいとパパに懇願するものの、パパに「だめだめ‼あれは成人映画なのだ‼」とたしなめられる。

その後も負けじと、宇宙人が「ぼくは星人だから 成人映画を見てもいいんだ‼」と反論するなど、駄洒落によるお約束のやり取りも、高いディメンションによって紡がれており、そのネームの練達ぶりは、このような言語反復からも窺い知ることが出来よう。

ところで、本エピソードに登場する宇宙人が観たいと語る実際の『大奥㊙物語』の配給は、日活ではなく東映で、公開年も1967年と、時期的にもずれている。

本作が発表された時期から察するに、この「大奥カク秘物語」は、小川節子主演による日活ロマンポルノ映画『㊙大奥外伝 尼寺淫の門』(監督/藤井克彦)のことを指しているのではないだろうか……。


「キェンキャイキャキャキョン」 言語の解体と遊戯化

2021-05-18 14:01:25 | 第5章

エピソード内の全ての台詞をキャ行に変換し、展開してゆく「キェンキャイキャキャキョン」(72年17号)は、言語の解体と遊戯化を融合せしめた数ある『バカボン』ワールドにおいても、ナンセンスに隣接したSF的寓意が、読者の思考の盲点を突く、メタフィジカルなデペイズマン的構造を包含した好事例として、是非とも刮目して欲しい一作だ。

「キャキャキュキャキュキャオ キュキャオキュロ」(赤塚不二夫とフジオ・プロ)と変換された執筆者名からも分かるように、読者が意味を判読し得るギリギリのラインで、キャキャ語へと置き換えられたこの作品は、ある朝、パパが目覚めると、バカボンの左手人差し指が人面疽状になっており、その指が腹話術人形のように、「キュキャヨウ‼」(おはよう‼)と挨拶するところから始まる。

その後も、「キャウハ キェンキ イイキョ」(今日は天気いいよ)と、パパに話し掛けるバカボンだったが、パパはさっぱりその意味が解らない。

外に出ると、レレレのおじさんから「キョレキャケキェスカ?」(おでかけですか?)と挨拶され、目ん玉つながりからは「キュラ‼ キャイホキュルキョ」(こら‼ 逮捕するぞ)と怒鳴られる。

そう、みんな、人面疽を持って、キャキャ語を話すのだ。

商店街に繰り出すと、街中の看板も全てキャキャ語にすり替わっている。

「キャキンコ」(パチンコ)、「キャッポロキャーメン」(サッポロラーメン)、「キャムラキャン」(木村パン)といった具合だ。

また、電話帳を開くと、記載されている電話番号までが、数字ではなく、キャキャ語変換されていたり、テレビを点ければ、落語家のキャツラキャンシ(桂三枝)が、「エー キャイド キャパキャパシイ オキャナシヲ キョーシキャゲキャス」(えー、毎度馬鹿馬鹿しいお話を申し上げます)と前口上を述べていたりと、キャキャ語は、更に大量なウェイトを伴い、あらゆる媒体を通し、パパに迫り来る。

パパは一刻も早くキャキャ語を理解し、その言語世界に同化しようと、人差し指をハンマーで叩き、人面疽を作ろうと試みるが、結局指が膨れ上がっただけだった。

だが、努力の甲斐もあり、いつしか、パパはキャキャ語を喋れるようになる。

「キョレデキャイノダ」(これでいいのだ)と、安心して眠りに付くパパだったが、ドラマは思わぬ急展開によって決着を見る。

流動する秩序に過剰な波動を引き起こす、恐るべき仮構的世界。まさにそこは、精神の原風景にさえ、不合理な非体系化をもたらす無の領域と例えて憚らないだろう。

だが、その超展開的な不条理性感度は、超越論的次元へとループする非現実の合理性がラディカルなまでに、指し示されているが故、発想の初期段階より、ナンセンス漫画固有の虚構的概念が既に覚醒状態にあり、恰もパラノイア的夢想空間に足を踏み入れたかのような、ヘテロドックスなトリップ感覚を読者に植え付けて余りある、強固なファクターになり得ているのだ。

このような誇張を極限までに推し進めた言語遊戯を本作のテーマに据えた赤塚の脳構造は、一体どうなっているのか……。

長谷邦夫は、本作が執筆された背景に、赤塚が古くからの映画マニアであったことを一つの仮説として挙げている。

その上で、自著(『天才バカ本なのだ‼』)の中で、長谷は、本作を描く上でのヒントになった作品こそ、シドニー・ギリアット監督による1950年公開のイギリス映画『絶壁の彼方に』(主演/ダグラス・フェアバンクス・Jr.)ではないかと推論した。

『絶壁の彼方に』は、東西冷戦の真っ只中にあった時代に、西欧諸国が脅威に感じていた架空の東欧小国・ヴォスニアで、それまでの研究成果が高い評価を受け、表彰されることとなったアメリカの天才ドクターが、この地に訪れたことによって巻き込まれるトラブルを、緩急自在の劇構成を基軸にサスペンスフルに切り取った、1950年代のイギリスを代表する活劇映画の一本だ。

この作品、架空の国を舞台設定としているため、そこで使われる言語も、世界中の誰もが聞いたことのないヴォスニア語が考案され、劇中、飛び交うという実に凝った演出が施されているのだ。

何しろ、このヴォスニア語、シドニー・ギリアットのオファーを受けた複数の言語学者によって、チェコスロバキア、エストニア、フィンランド、ハンガリーの各国語をベースに創作されたもので、本編中、バーの看板や切手、新聞から書物に至る全ての小道具においても、使用されるといった徹底ぶりだ。

全く言葉の通じない国に、一人閉ざされた恐怖……。

成る程、言語的寓意を強めた「キェンキャイキャキャキョン」のその世界観とも、軌を一にしていると言えなくもない。

実際、筆者(名和)も名画座巡りを趣味としていた学生時代、この『絶壁の彼方に』をスクリーンで初めて鑑賞し、真っ先に思い浮かんだのが、本作「キェンキャイキャキャキョン」だった。

また、『絶壁の彼方に』の脚本を担当したフランク・ローンダーとシドニー・ギリアットの二人は、本作を発表する以前、アルフレッド・ヒッチコック監督にとってのイギリス時代の代表作『バルカン超特急』(主演/マーガレット・ロックウッド)のシナリオも共同執筆しており、バンドリカという仮想国を舞台にした物語を、この時既に創出していた。

ヒッチコック作品の大ファンであった赤塚が、そうした守備範囲の関係から『絶壁の彼方に』を観て、その特異なシチュエーションに、視覚的なインパクトを受けたであろうことは想像に難くない。

今となっては、状況証拠を元にした検証でしか語ることが出来ないが、そうした赤塚の嗜好を照らし合わせたうえでも、この長谷の推論が的外れであることはなさそうだ。


ドンちゃんとヒロコさんの熱愛スクープ 楽屋ネタに見る読者との新たなコミュニケーション

2021-05-18 11:27:25 | 第5章

さて、本編とは全く関係のない扉ページでは、流石は女性週刊誌のパロディーを標榜しているだけあって、「だれかに愛を感じたら・・・・アホらしさが生きてるあなたの週刊誌」という、俗臭漂うタブロイド誌そのものの正鵠を射たキャッチコピーと一緒に、前述の見出しのほか、和服を着たクラブのマダム風美女(⁉)と気障ったらしいジゴロ風の男が佇むツーショット写真付きで、「話題のふたり あのドンちゃん(31)とヒロ子さん(29)は じつはまたいとこどうしだった‼」と記された、抜き差しならないゴシップが堂々掲載され、読み手の虚を衝く。

ここに書かれているドンちゃんとは、当時『風のカラッペ』や『おれはバカラス』等の赤塚作品の作画を受け持つ傍ら、他の赤塚メインの連載、読み切りでも、アシスタントを兼任していた佐々木ドンを、一方のヒロコさんは、前述のイラストレーター・田村セツコの実妹で、短期間だが、セツコの紹介で、赤塚の秘書を勤めていた田村弘子のことを指している。

ドンちゃんとヒロコさんの交際スキャンダルが公となったのは、毎ページごとに、ヒトコマだけ、ストーリーとは何の脈略もない身辺雑記を「フジオのヤング・レポート」と称し、 インサートした「ドビンとチャビンのクルーソーなのだ」(72年19号)が最初で、その七ページ目に「いま 秘書のヒロコさんが お茶をいれてくれました この人は ドンちゃんとこの秋結婚します おめでたいのです」というセンテンスが、情報として開示されたのだ。

また、二週挟んだ「夢の世界で会いますのだ」(72年22号)では、漫画のコマをテレビの画面に見立て、ニュース速報の如く「この秋 結婚することになっている ドンちゃんとヒロコさんは アメリカへ新婚旅行することに決定しました」と、ご丁寧に同じ一文が二度に渡り、スーパーインポーズされる。

その本編の粗筋とは大きく背き離れたパラレルワールドたる楽屋ネタを、フィクショナルなギャグと絡めて成立させるとともに、ドラマの不条理性を高騰せしめたこれらの作品は、ダブル、トリプルのイメージ構造を喚起させる、現実と非現実における相反概念を見事エピソード内に浸透させ、笑いの裾野を大きく広げていった。

その結果、このマニアックな実話が放つ一種異様な空気感が、更にナンセンス性を帯び、その現実とない交ぜとなった野放図なザッピング感覚をカタルシスにも似た心地好い倒錯へと挿げ替えるのだ。

そして、これらの赤塚周辺に起こり得た実話ネタは、対読者との新たなコミュニケーションの一環として、作中、ふんだんに盛り込まれ、楽屋落ちという赤塚ルーティンギャグの一群として、その後幅を利かすこととなった。

余談だが、前掲の和服美人(⁉)とスタイリッシュな伊達男が身体を寄せ合うスナップは、この作品が発表された時期より遡ること七年前(1965年)に催された、スタジオ・ゼロのクリスマス仮装パーティーで撮られた一枚である。

女性は、登茂子夫人の着物を拝借し、女装メイクをバッチリ施した赤塚、男性は、トキワ荘最後の住民として知られ、赤塚自身、弟のように可愛がっていたという絵本作家の山内ジョージで、実在のドンちゃんとヒロコさんとは何ら関係はない。


低次元なセンセーショナリズムを鋭く諷刺「平凡天才ヤング女性男性バカボン自身」

2021-05-18 09:18:29 | 第5章

「ある夫婦の八年間の記録 わたしは夫がサルとも知らずに結婚した‼」「わあショック! 天才漫画家・水島新司(33)が男ドブスって、ホント⁉」等、扉ページにレイアウトされたタブロイド誌紛いの見出しが強烈なインパクトを放つ「平凡天才ヤング女性男性バカボン自身」(72年28号)は、人気アイドルのプライバシーに異常なまでの興味を示す目ん玉つながりをトリックスターに、東大卒という申し分ない学歴を持ちながらも、軽挙妄動の激しい芸能記者や傲岸不遜なアクションスターの新星など、クセの強い業界人が顔を揃え、浅ましき愚行ぶりを露にするといったストーリーで、芸能マスコミ全般に蔓延る低俗なディスポジションを、奥行きを纏った表出とともに、鋭く戯画化した渾身の力作である。

「俺なんかは、自分がどんなふうに撮られようがかまわないけどさ。     ~中略~

だけど、プライドとか名誉を大切にしている人だったら、〝フォーカス〟されたら腹が立つと思うよ。そんな勝手なことをされるいわれはないもんね。」

(『フォーカス、フライデーの愛読者に贈る本 発言!これでいいのか F・F報道』四海書房、86年)

これは、芸能マスコミ史に多大な衝撃を残すことになる「ビートたけしフライデー襲撃事件」が発生した1986年当時、低次元なセンセーショナリズムに溺没していた「フォーカス」、「フライデー」等の報道姿勢に対し、赤塚が「視覚文化はのぞき文化である」という異議申し立てとともに唱えたマキシムの一つであるが、本作においてもまた、日本のパックジャーナリズムにおける送り手と受け手の共犯関係の縮図が、徹底したアイロニーによって炙り出されており、赤塚らしいコンシャンスが注がれた手堅い諷刺漫画になり得ている。