夕方、何気にスマートニュースを開いたら、「アントニオ猪木、死去」のニュースタイトルが・・。
今日はあまりテレビを見ていなかったので夕方まで気づかなかった。
アントニオ猪木と言えば世の女性陣からしたら昔のプロレスラーの一人と言うことになるのかも知れないが、我々60歳を過ぎるようなオジサンたち世代ではリングに上がるヒーローであって、小学校でも友達同士で卍固めやコブラツィストを掛け合って先生に怒られたものである。
当時としては日本人には珍しく190cmの均整の取れた体格のレスラーだった。
力道山から鬼のようなスパルタ教育を受けて力を付けていくも、師匠なき後はジャイアント馬場の影に隠れて、なかなか真の力を発揮することはできなかった。
彼が一躍日の目を見たのは、1972年に新日本プロレスを立ち上げたときからである。
タイガージェットシンやアンドロザジャイアント、ミルマスカラスなど外国スター選手を次々と迎え入れ、国内でもアニメから飛び出したようなタイガーマスクを登場させて人気は最高潮だった。
このころは毎週ゴールデンタイムにいくつかの団体のプロレス番組が放送されていたほどである。
そして自身はプロレスという枠を超えて、プロレス最強を証明するために異種格闘技という世界の幕を開けることになる。
当時の世界ヘビー級ボクシング王者モハメド・アリとの闘い。
相手側の理不尽な条件を飲まざる得なかったため、パンチをさけるためにはリングに寝転がって戦うしかなかった状況で後にアリキックと呼ばれた蹴り技は少なからずチャンピオンの足にダメージを与えて、アリが引退を速めた原因にもなったと言われている。
その試合の前後にも、柔道のルスカ、空手のモンスターマン、熊殺しウイリーウイリアムスなどと死闘を繰り広げては勝利し、若者たちを熱狂させた。
この時の活躍が今のK-1、PRIDE、RIZINなどの総合格闘技団体を生むことになったのである。
その後、プロレスは徐々にフェードアウトしていくが、本人は政治家となり自分の信じる道を進んで言った。
戦時下のイラクに単身乗り込み、日本人人質を解放したり、北朝鮮でプロレスを開催して外交に一役買ったり・・。
政治家を辞めた後はあまり猪木氏の情報に接することもなくなったが、たまたま1年ほど前にご自身のyoutubeチャンネルで病気により激やせした彼が闘病している姿を見てびっくりしたものである。
その後もチャンネルで状況を見守っていたが、こういう姿を公開するのは、きっといつか復活するまでの闘病記だという思いだったのでしょうね。
今年の24時間テレビでの映像が全国に放送された最後の姿となった。
訃報に接し、半年くらい前にたまたま書店で目に留まり即買いした彼の特集本をまた開いて読むことであった。
アントニオ猪木さん、安らかにお眠りください。