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山形県鶴岡市 致道博物館②重文・旧鶴岡警察署庁舎 御隠殿 鶴ヶ岡城 酒井玄蕃

2024年12月27日 10時05分01秒 | 山形県

致道博物館。山形県鶴岡市家中新町。

2024年9月11日(水)。

重文・旧鶴岡警察署庁舎

旧鶴岡警察署庁舎初代県令三島通庸が、明治新政府の指導の下で新しい秩序を作り、庄内の近代化と復興を勧めるために建築したものである。欧化政策が積極的に進められた山形県の擬洋風建築を代表する建物の1つで、和風と洋風の要素を巧に融合させており、明治前期に各地の工匠によって建設された擬洋風建築の1つの到達点を示すものとして、高い価値をもっている。

旧鶴岡警察署庁舎は、1884年(明治17)11月、鶴岡市の馬場町に完成した。設計・施工は大工棟梁高橋兼吉があたった。

建物は、桁行18.2m、梁間12.9m、木造2階建て中2階建築面積238㎡延床面積378㎡高さ19mの木造2階建ての擬洋風建築で、入母屋造りの堂々たる外観を示している。

1階は署長室と事務室、中2階に留置室、2階には取調室があった。2階正面中央にはベランダを突出して設けている。

木造入母屋造りの建物は、屋根の大棟、破風妻飾りなどの在来様式に、ベランダや車寄せ、下見板張り。上げ下げ窓などの洋風建築を取り入れており、明治新政府の警察署としての威厳が感じられる。

1957年(昭和32年)に現在の致道博物館内に移築保存された。

2018年までに大規模な保存修理工事を行った。工事中の調査によって建物当初の姿とその後の変遷が明らかになった。取調室の復旧や外部の塗装色の復元(白→水色)が行われた。

御隠殿(ごいんでん)。

御隠殿1863年(文久3年)に庄内藩の江戸中屋敷を解体して、その一部を鶴ヶ岡城三の丸の御用屋敷地に移築したもので、木材や瓦などは、江戸から西廻り航路で酒田へ、さらに川船を利用して鶴岡へ運ばれた。帰郷した九代藩主酒井忠発(ただあき)が隠居所とした。現在は玄関と奥の座敷(関雎堂)が残り、関雎堂からは酒井氏庭園を望むことができる。

建物内では、江戸時代の鶴ヶ岡城下の様子を紹介し、庄内地方で盛んに行なわれていた磯釣り関係の資料や旧庄内藩主酒井家に伝わる武具・調度品、歴代藩主の書画などを展示している。

酒井氏庭園は、御隠殿の北面に造られた築山泉水庭で。国の名勝に指定されている。築庭年代は不明だが、典型的な書院庭園とされる。

幕末の名将・酒井玄蕃(了恒、のりつね)。

山形県鶴岡市 致道博物館①西田川郡役所 庄内の縄文遺跡 古代中国から渡来した青銅刀子と石斧


山形県鶴岡市 致道博物館①西田川郡役所 庄内の縄文遺跡 古代中国から渡来した青銅刀子と石斧

2024年12月26日 10時36分23秒 | 山形県

致道博物館。山形県鶴岡市家中新町。

2024年9月11日(水)。

致道博物館は酒田市の本間美術館とともに1980年代初めに見学した。致道博物館は明治建築で有名なので見学したのだが、40年前なので記憶を新たにしたいと思い再訪した。

午前中に鼠ケ関跡や加茂水族館、午後には羽黒山頂の出羽三山神社や麓の国宝・羽黒山五重塔を見学して、14時45分頃に着いた。

致道博物館は鶴ヶ岡城三の丸跡地にあり、かつては藩主の御用屋敷があった。現在は、御隠殿と呼ばれる藩主の隠居所の一部と酒井氏庭園に加え、広大な敷地を利用して旧西田川郡役所、旧鶴岡警察署庁舎、旧渋谷家住宅が移築され、さらに収蔵庫・民具の蔵がそれぞれ独立して配置されている。庄内藩校致道館の資料、書院造の庭園、民具など、重要有形民俗文化財8種5,350点を収蔵・展示している。

重文・西田川郡役所。

1878年(明治11年)に山形県初代県令となった三島通庸の命令により、現在の鶴岡市馬場町に建設され、棟梁の高橋兼吉や石井竹次郎らの手により1881年(明治14年)に竣工したルネッサンス風の擬洋風建築である。

中央玄関2階にバルコニー、建物中央に時計塔が付いた木造2階両翼1階建てで高さは20メートルである。

内部は庄内地方の考古学資料などを展示している。

越中山(えっちゅうやま)遺跡。

山形県鶴岡市越中山にある後期旧石器時代から中石器時代にかけての遺跡群の総称。赤川と梵字川の右岸に発達した立岩段丘群中,洪積低位の大鳥苗畑面 (GtII面,標高 100m) と中位の越中山開拓地面 (GtI面,標高 130m) の二つの広大な段丘面に立地している。石器群の包含層はいずれも段丘を覆う鶴岡ローム層の最上部である。 GtII面のA遺跡は,1958年東北地方で最初に発掘調査された旧石器時代遺跡である。その後,致道博物館 (鶴岡市) ,山形大学,朝日村教育委員会が協同調査を実施。少なくとも四つの階程の石器文化が明らかにされており,(1) 国府型ナイフ形石器を主体とするもの (K遺跡) ,(2) 半両面加工尖頭器,ナイフ形石器を伴うもの ( A' 遺跡) ,(3) 細石刃を主体とするもの (S,M遺跡など) ,(4) 両面加工尖頭器を主体とするもの (A遺跡) があることがわかった。

5遺跡からは北海道と同じ作りの石器が見つかっている。K遺跡からは、近畿地方など、西日本に見られる作りの石器が見つかっている。これらから、石器の材料となる石が遠くの地域から運ばれてやって来たと考えられ、当時の人々が大移動をしていたと推測されている。

吹浦(ふくら)遺跡。

牛渡(うしわたり)川北岸台地上にある縄文時代前期末葉~中期初頭の集落跡で、鳥海山泥流台地の西南麓、吹浦川の北にあり、縄文時代前期の吹浦式土器の出土地として知られている。

庄内平野と庄内砂丘の北端を限る山裾にあり、眼下の牛渡川が遺跡の西で月光(がつこう)川(吹浦川)に合流してすぐ日本海に注ぐ。縄文海進時には河口から内陸深く潟湖であったと推定される。

1951~53年に致道博物館が4次の調査を行ない,台地上から住居跡,袋状土坑,石器製作跡,台地崖面から洞穴,ヤマトシジミ主体の小貝塚を発見。

土器には長胴の深鉢形土器と球胴の鉢形土器があり,当遺跡を標識として吹浦式土器と呼ばれ,東北北部の円筒式文化圏と東北南部の大木式文化圏の接触型式とされていたが,その後の検討で大木式系を主体に一部円筒式の影響を受けた土器群と考えられている。

石器は鏃 (やじり) ・槍・錘・擦切磨製石斧 (せきふ) ・砥石 (といし) 等のほか 玦 (けつ) 状耳飾りが見られ,縄文前期の特色が見られる。イシガメ・クジラ・イノシシ・シカ等の動物,オニグルミ・クリ等の植物も検出された。 83,84年にはバイパス工事に伴い山形県教育委員会が再調査し,縄文期の竪穴住居跡,土坑多数のほか,平安時代前期の竪穴住居跡,大型掘立柱建物跡が確認され,拠点集落の存在が推定される。

遺跡近くには大物忌神社や神宮寺があるが,『三代実録』によれば,885 (仁和元) 年6月,出羽国飽海郡神宮寺西浜の地で石鏃が発見され,それに関連して大物忌神社に奉幣した記事が見える。吹浦遺跡との関係が注目され,9世紀の正史に天変地異として石鏃発見の記録があることは興味深い。

 

山形県の縄文中期前半の文化動態 多賀城市埋蔵文化財調査センター 菅原哲文

1 はじめに

縄文時代中期前半は、今から約 5,500 年前から約 5,000 年前の時期である。山形県内の状況は、中期初頭から前葉、中葉にかけて遺跡数の大幅な増加が認められ、各盆地に拠点的な大規模集落が形成されていく。また、そのような拠点的集落跡には、10mを超えるような大型住居跡が建てられ、全体として放射状や環状の配置がとられていた。集落の中で不要となった土器、石器などを廃棄した捨て場も形成され、数百箱や千箱を超えるような出土数量となる。また、土偶や石棒を用いる縄文時代の祭祀が盛んに行われるようになる時期でもある。

 ここでは、県内の縄文時代中期前半の文化の様相を、縄文土器を中心に検討していきたい。

2 縄文土器に見られる活発な文化交流

 大木式土器は東北地方南部を中心とする縄文時代前期から中期の土器型式であり、山形県も分布域に含まれる。宮城県七ヶ浜町大木囲貝塚の土器を標識とし、山内清男により土器型式が設定された。大木式土器は幾つかに細分されており、中期前半は、大木 7a・7b・8a 式である。

県内の中期前半の大木式土器が出土している代表的な遺跡として、最上町水木田遺跡(中期初頭・前葉)があげられる。

当遺跡の出土資料は、中期初頭・前葉の大木7a 式土器、大木 7b 式土器が中心であるが、中期中葉の大木 8a 式土器も報告されている。遺物出土箱数は 1000 箱に及ぶ。平成 23 年に出土資料は重要文化財に指定された。

水木田遺跡で出土している大木 7a 式土器には、関東や中部地方を主な分布域とする五領ヶ台式土器の影響を受けたと考えられるものが認められる。この五領ヶ台系の土器は、山形県内だけではなく、福島・宮城・岩手・秋田県の広域にわたって出土している。

次の時期の大木 7b 式土器は、当遺跡の出土の主体を占めている。大型の長胴の深鉢、4単位の大波状口縁、波頂部の装飾、体部の Y 字状懸垂文や縦方向の綾絡文などが特徴的で、押圧縄文による装飾も多用される。この時期も引き続き五領ヶ台系の土器が伴う。他の地域からの影響が見られる土器として、北陸の新崎式土器が少量ながら出土し、北東北に由来する円筒上層b式土器も認められる。

山形県内の中期前半の縄文土器は、大木式を主体としながらも、関東地方、北陸地方、北東北などの他地域の影響が見られる土器が含まれ、広域にわたる土器文化の交流が顕著に表れる時期といえる。また県内の各地域では、その影響の受け方について、それぞれ特徴的な在り方が見られる。

庄内平野と周辺地域の様相

当地域は日本海沿岸に面しており、海沿いのルートを通じて縄文時代前期から北陸地方や北東北の影響を受けてきた地域である。遊佐町吹浦遺跡では、前期末大木 6 式期を主とする時期であるが、北陸地方や北東北に見られる土器が出土している。この傾向は、中期初頭・前葉を通じて認められる。

中期前葉の時期であるが、鶴岡市(旧羽黒町)郷の浜 J 遺跡は前期末大木 6 式期から大木 7a 式期の土器が出土している。内容を見ると、北陸の新崎式が出土の多くを占めており、大木 7a 式土器は客体的である。円筒系土器も量的に多くはないが出土している。

鶴岡市西向遺跡は、中期前葉の時期に位置づけられる。北陸地方の新保・新崎式土器が出土の主体を占め、全体の 74%と報告されている。北陸系土器は 6 群に分類され、2 段階の変遷が想定されている。大木式土器については大木 7a 式、7b 式土器が出土しているが、北陸系土器の手法を用いて文様が描かれたものがある。北東北に由来する、円筒上層 a~c 式土器が少量ながら出土している。

北陸系土器の出土が顕著な傾向は庄内地方の他遺跡にも認められる。

酒田市飛島に位置する蕨山遺跡では中期前葉の北陸系土器、大木 7b 式土器、円筒上層 b 式を主とする土器が出土している。

遊佐町小山崎遺跡でも、前期末~中期前葉の時期の北陸系土器が出土している。

中期中葉の大木 8a 式期になると、北陸系土器の出土割合は少なくなる。円筒上層式土器も稀である。

鶴岡市岡山遺跡では、第 6 次調査で大木 8a 式土器が出土の中心を占めているが、少量ながら馬高式土器の出土が認められる。

遊佐町柴燈林遺跡では、全体の器形が把握できる火焔形の馬高式土器が出土している。大木 8a 式期に伴うものである。同地点で出土している 8a 式土器は、突起の形状などが馬高式土器の影響を受けたとみられるものや、県内の内陸では見られない形態のものも確認される。

岡山遺跡。

岡山集落背後の通称岩台(いわだい)という台地頂上部にある。標高約61m。岩台は「大泉旧聞抄」に石鏃出土地とあり、江戸時代中頃から幾多の研究者が訪れている。縄文時代の集落跡であるが平安時代の遺物も出土し、山頂に遠賀(おが)神社跡がある。遺跡の範囲は頂上を中心に南北350m、東西250mと広範で、標高50mの傾斜面まで含まれる。

この遺跡から出土した「中空の大型土偶の頭部」は、致道博物館旧西田川郡役所内で展示されている。

杉沢の土偶。複製。山形県遊佐町杉沢遺跡出土。

1952(昭和27)年、遊佐町杉沢地区から縄文晩期中葉(約2500年前)のものと推定される「杉沢の土偶」が出土した。高さ18.3cm、頭部の一部が欠けたほかはほぼ完全な状態である。現在は奈良国立博物館に国の重要考古資料として収蔵されている。

ほぼ完形の中空の土偶であるが、右の頭髪部などを若干欠損する。目はいわゆる遮光器(しゃこうき)状に表現され、肩や腰の文様は縄目文様を施した後に部分的に縄目をすりけす、磨消縄文(すりけしじょうもん)の手法で飾られ、腹部を縦に貫く線は、2重の隆線で強調されている。また臍(へそ)の部分は内部に連なり、腰部の文様も巧みに強調して表現されている。

出土状況は特異で、北側と東西に、約20センチメートルの川原石を置いて作った石囲の中に、頭部を北に向けて仰臥した状態で埋納され、その上に長径約30センチの蓋石が被せられていた。あたかも人間が埋納されたかのように置かれ、土偶の性格を考える上に貴重な出土例である。

環状注口土器。山形県有形文化財。

縄文時代後期の土器で、松森胤保(たねやす)が『弄石(ろうせき)餘談』で「夷五器」として、この土器を挿図入りで紹介している。江戸時代に岩手県一ノ戸の条右衛門の所持であったが、明治に庄内の研究家達の手を経て現所蔵となっている。出土地は岩手県一ノ戸町あたりと考えられる。

胴部がドーナツのように環状で、肩部に大きな注入口、反対側に注出口をつけた痕跡があり、底には高台をもつ特殊な器形である。器高は15㎝、胴部上端までが7.5㎝、胴径12.5㎝、高台の高さ1㎝、底径4㎝、胴部の容積は約390ccである。注入の口縁部は波状の起伏があり、沈線の間を刺突文で埋めた文様がある。胴部は縄文を地文として、弧状の沈線で連結文を施し、文様の接点に小さな瘤を貼り付け、部分的に縄文を磨り消している。

精緻精錬されたみごとな土器で、祭祀などの特別な用途とみられる。

玉川遺跡。縄文時代晩期。

羽黒街道の大鳥居から南に約1km、標高100m前後の地にある。昭和26年(1951年)から発掘調査が実施され、縄文時代中~晩期の遺物と集落跡が発見された。

中期と晩期の竪穴住居跡5軒は、平面が直径5m前後の円形ないし楕円形で、石囲炉や地床炉があった。B地点で23個、C地点で29個と集中的に出土した埋甕は、人骨を納めた晩期の甕棺墓で、日常の深鉢を使っており、磨製石斧や硬玉製勾玉が入っていたものもある。また、組石棺や集石遺構も出土している。多くの土器とともに打製・磨製の石器類、土版・岩版・土偶・三角土製品も発見されており、ことに玉類の出土数は、実に約150点を数え特筆される

庄内でも有数の広大な遺跡で、長期にわたり縄文人の生活が展開していた。C地点の一部が指定され保存されている。

玉川遺跡は縄文時代中期から晩期の遺跡で、江戸時代から多量の玉類が出土する地として知られていた。この玉類は晩期の遺跡から出土し、不老長寿などの霊力をもつものとして首や胸飾りにもちいたと考えられる。勾玉、丸玉、小玉などの形で、翠緑色をしたヒスイ製のものは、その原産地が新潟県糸魚川周辺に求められる。

玉川遺跡から出土した硬玉製主体の玉類は、致道博物館、鶴岡市、個人など6件でそれぞれ所蔵し、合計149点が指定されている。

大半は地元民の採集品であるが、致道博物館所有の一部は、発掘調査による出土品である。玉類の種類は勾玉・丸玉・臼玉・小玉で全長55㎜の勾玉を最大とし、小玉の径6㎜を最小とする。硬玉を用いているが、緑色の見事な翡翠(ひすい)も使われ、縄文時代晩期の製品とみられている。

これらの玉類は縄文人の首飾りやペンダントである。翡翠は原産地の新潟県糸魚川(いといがわ)市姫川流域からの移入で、縄文人の広範な交易を示しており、高度な研磨や穿孔(せんこう)の製作技術、さらに玉類着用に係わる独特な信仰など、魅力的な課題を含んでいる。

重文・青銅刀子。複製。遊佐町三崎山出土。

所蔵:東京国立博物館。殷時代・前11世紀. 青銅製. 長26cm 刃長16.6cm 脊厚0.75cm 。

吹浦地区の三崎山から出土した。日本列島において最古級の金属器であり、大陸との交流を考える上で極めて貴重な文化財である。

青銅刀子は昭和29(1954)年晩秋、遊佐町三崎山で採石作業中に出土した。その後、致道博物館や山形大学柏倉亮吉教授などが出土地周辺(三崎山A遺跡)を調査し、縄文土器やシカ骨などが確認された。学会に報告されるや、「中国から渡来した日本最古の青銅刀子」と話題をよんだ。国の重要な文化財として買い上げられ、現在は東京国立博物館に収蔵されている。日本がまだ縄文時代後期のころ、大陸の青銅文化が鳥海山麓三崎山にどのようにして渡来したのだろうか。刀子は、中国・シベリアなどでの出土例も報告されている「オルドス型」である。

昭和62(1987)年にソ連の学者グループが現地を踏査するなど国際的な研究もなされ、平成13(2001)年に東京文化財研究所が行った分析の結果、中国商時代の特に殷墟(いんきょ)出土の青銅器と同じ鉛の成分率であると報告された。日本列島での金属器文化渡来を考える上で重要な資料である。

刻文付有孔石斧(刻文付石鉞)。縄文時代中期。

山形県鶴岡市羽黒町の中川代遺跡から出土した古代中国の刻文付有孔石斧。付着した土の成分分析から中川代遺跡からの出土と確認された。縄文時代中期中葉の大木8a土器に伴って出土した。

形・厚さ・石質・孔の開け方が、古代中国と類似している。

広島大学教授(当時)李国棟氏の説では、古代中国長江デルタに栄えた良渚文化(BC3400~2250)のもので、甲骨文字風刻文は、「之」と「生」の合体字で「之越而生」。良渚国の亡命者が身分証明書として刻字、携えたもの、とする。

田川太郎と奥州合戦。

田川行文(ゆきぶみ。田川太郎)は奥州藤原氏の郎党で、平安時代後期に出羽国田川郡(現・鶴岡市田川)を本拠地として、田川郡郡司となり庄内南部一帯を治めて栄えた豪族である。奥州藤原氏の命を受け、羽黒山本社を修造したとの伝記が残り、源義経の「義経記」にも田川太郎が登場する。

文治5年(1189年)、鎌倉幕府の奥州征伐に際し、主君・藤原泰衡の命を受け、秋田致文と共に、越後国方面より北進してきた比企能員と、宇佐美実政の率いる幕府軍と戦って敗れ、さらし首にされた。

行文の墓は、田川氏の菩提寺である蓮華寺があった所と言われる鶴岡市田川字蓮花寺の北端にある

山形県鶴岡市 国宝・羽黒山五重塔 いでは文化記念館 芭蕉真筆


山形県鶴岡市 国宝・羽黒山五重塔 いでは文化記念館 芭蕉真筆

2024年12月25日 09時09分01秒 | 山形県

いでは文化記念館。山形県鶴岡市羽黒町手向院主南。

2024年9月11日(水)。

羽黒山の山頂地区を見学後、麓へ下りて「いでは文化記念館」を見学した。

いでは文化記念館は、出羽三山文化と修験の世界を学び、体験し、未来へ伝える拠点として設立された記念館である。資料展示の他、法螺貝試吹体験や山伏修行体験も行っている。いでは文化記念館内には羽黒町観光協会の事務所もある。

修験道の概念。

日本で発生し成立した山の宗教。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)を、ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教である。

修験道の思想と目的。

修験道は現実をそのままを究極の真理とみる現実肯定主義である。そのあらわれとして、修験者の目的は即身成仏することで、この身このまま現世において悟りを開き、生きとし生けるもののために救いの手をさしのべられる人間になることである。

*近年まで国宝羽黒山五重塔には、自然のままの衆生のあり方を示す三身の額が掲げられていた。

 ・法身(ほっしん)-真理そのもの

 ・報身(ほうじん)-悟りの結果得た身

 ・応身(おうじん)-衆生救済のために仮にあらわれた姿

修験道の語彙。

-験を得るために努力精進し、霊験力や呪術力を身につけること。

-祈祷の結果としてのしるし(即身成仏したことの証)

-修行の方法を研究し、実践するための最高の手段と方法。

道という理由。

一宗をたてるためには、それにふさわしい独自の教義・教法をもたなければならない。しかし、修験道は神道・密教・陰陽道・道教などを取り入れ、それらの教説や教義と習合して成立していることから、独自の教義や教法はなく、あくまでも目的を達成するための手段と方法を重んじる。

修験道の権現信仰と威神力。

霊山を行場とする修験道では神仏を一体ととらえ、山を守護するものを権現として拝した。

未木文美士氏は『日本仏教史』の中で、神仏習合の展開において神の仏への従属形態を、1神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする。(神宮寺)2神は仏法を守護する。(護法神)3神は仏が衆生救済のために姿を変えて現われた。(権現・垂迹)以上の3通りとし、1と2が奈良時代からはじまるのに対し、3はやや遅れてはじまり、その形態は神仏を一体ととらえるもので、平安中期になると「権現」「垂迹」という語が見られる。そして平安後期からは、どの神がどの仏の垂迹であるかが個別的に確定してゆく、と記している。

またその威神力について、戸川安章氏は『新版出羽三山修験道の研究』で、修験者は神と仏の威神力を「応現」といい、神仏は虚空と同体だから一定の住所はなく、衆生の中心に住んで影の形に従うように常に離れない。しかも、信仰を持たないものにはその姿は見えず、加護も得られないが、信ずる心さえあれば、それぞれの願いに応じて利益を与え給う。それゆえ、神は変幻自在の力をそなえている。しかし、居ながらにして拝するよりも、神々の本来の住所に参上する方が礼儀にもかない、利益も多い、と説明している。

羽黒派とは。

修験道は中世以来、天台・真言・華厳などの諸宗と深く関わりをもっていたが、しだいに教団的組織を整えるようになり、のちに本山派(天台系)・当山派(真言系)と発展し、鎌倉時代には羽黒山にも巨大な修験者の教団が成立していたことが、『吾妻鏡』の承元三年(1209)五月五日の条によって知ることができる。

出羽三山における権現。

羽黒山-・聖観世音菩薩(仏)・伊氐波神(産土神)・稲倉御魂命(穀物神)

月山-・阿弥陀如来(仏)・月読神(農耕神)

湯殿山-・大日如来(仏)・大山祇神(山の神)・大己貴命(建国神) ・少彦名命(医薬神)

芭蕉と呂丸。

月山の山小屋。

羽黒山。鳥居、随神門。

いでは文化記念館の見学を終え、受付で国宝・羽黒山五重塔が修理中なので見学できなくて残念だというと、見学できるようになったという。90年代後半に見学しているので、見学できなくても仕方がないと思っていたが、せっかくなので見学することにした。五重塔を見たことは覚えていたが、アクセスは全く覚えていなかった。すぐ近くにある鳥居北側の駐車場に駐車して鳥居をくぐると、右側の「天地金神社」から賑やかな御神楽が聞こえてきた。帰りに通ると、神主や巫女が帰っていくところだった。

随神門からは継子坂(まなこざか)の石段を下る。

降りた場所には摂社が数軒並んでいた。そこからは、川沿いの平行道が続く

須賀の滝。禊場なのだろう。

羽黒山の爺杉(じじスギ)。

修験者らが禊を行った祓川(はらいがわ)に架かる朱塗りの橋を渡るが、その先を左手に入ったところに爺スギは生育しており、爺スギの右手後方には国宝の五重塔が屹立している。

スギの巨樹老木が多数生育する羽黒山の山中でも最大規模のスギで、根回り10.5メートル、目通り幹囲7.8メートル、直立する樹高は約42メートルに達する。推定樹齢は約1000年で、別名「千年杉」とも呼ばれる。

隋身門から羽黒山山頂の出羽神社までの、約1.7キロメートル続く石段の両側に、推定樹齢350年から500年超と推定される総計400本以上もの杉並木が続いている。この杉並木は羽黒山のスギ並木として国の特別天然記念物に指定されており、羽黒山の神域でもある周辺一帯は、主にスギの巨樹老木で占められた昼なお暗い鬱蒼とした深い森林地帯で、その中でもスギの一個体樹木として最大規模のものが「羽黒山の爺スギ」である。

国宝・羽黒山五重塔。

東北地方では最古の塔といわれる。塔の所有者は出羽三山神社(月山神社出羽神社湯殿山神社)である。

平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)平将門の創建と伝えられているが定かではない。現存する塔は、『羽黒山旧記』によれば応安5年(1372年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられる。慶長13年(1608年)には山形藩主最上義光(もがみよしあき)が修理を行ったことが棟札の写しからわかる。この棟札写しによれば、五重塔は応安2年(1369年)に立柱し、永和3年(1377年)に屋上の相輪を上げたという。

塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。

明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社(いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。江戸時代は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。

近世までは塔内に聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩を安置していたが、神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「千憑社(ちよりしゃ)」となっている。

 

このあと、鶴岡市街地に戻って、致道博物館を見学した。

山形県鶴岡市 出羽三山神社 出羽三山歴史博物館 芭蕉像・芭蕉句碑


山形県鶴岡市 出羽三山神社 出羽三山歴史博物館 芭蕉像・芭蕉句碑

2024年12月24日 08時55分50秒 | 山形県

出羽三山神社。山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山。

2024年9月11日(水)。

鶴岡市立加茂水族館を見学後、湯の浜温泉下区共同浴場で入浴し、羽黒山へ向かった。

事前情報によると国宝・羽黒山五重塔は修理中のため見学できないということだったが、実際には見学することができた。羽黒山五重塔は1990年代後半に、日本百名山の月山登頂に合わせて湯殿山とともに見学しているので再訪となった。そのときは、羽黒山頂上を訪れなかったので、今回は訪れることにした。山頂を見学後は、麓に下りて「いでは文化記念館」羽黒山五重塔を見学した。「出羽三山歴史博物館」は内部撮影禁止であったが、「いでは文化記念館」撮影可能であった。

羽黒山有料道路で、羽黒山山頂の出羽神社(出羽三山神社)近くの駐車場に着いた。障害者割引で、往復200円。

羽黒山は、山形県鶴岡市にある標高414mの山で、出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置する。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる。

出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で江戸時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。

明治以降神山となり、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。

出羽三山は第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が593年に開山したといわれる。権力争いの中で、蜂子皇子の身に父と同様、蘇我馬子の毒手が及ぶのを恐れた聖徳太子が宮中を脱出することを勧めた。

その勧めと協力により、密かに宮廷を遁れた皇子は各地を遍歴したのち、593年、出羽国由良の浜で神楽を舞う8人の乙女に出会う。

その乙女に促され3本足の八咫烏(やたがらす)に導かれて、老樹が鬱蒼と茂った羽黒の阿久谷(あこや)に辿り着いて修行した後、出羽三山を開山したといわれる。

羽黒山の山名は、皇子を導いた大烏に因んで名付けられたといわれ、現在の世を生きる人々を救う仏を祀り、出羽三山の中で里宮としての役割を持つことから「現在の世を表す山」といわれる。

三山を巡る『生まれかわりの旅』の入り口で、西の祓川と東の立谷沢川に挟まれた海抜414mの緩やかな丘陵である。

出羽三山歴史博物館。

羽黒山頂の神社境内にあり、出羽三山の歴史と文化を物語る資料を収蔵・展示している。鏡池から出土した銅鏡190面や銅製でできた灯篭竿などの重要文化財をはじめ、神仏習合時代のすぐれた仏像や南北朝時代の名刀月山など、修験の霊場にふさわしい品が数多く展示されている。

重文・鏡池出土古鏡は、平安時代から江戸時代の銅鏡190面で、羽黒山頂の御手洗池(鏡池)より出土したもので「羽黒鏡」と呼ばれている。種類は和鏡が8割強、儀鏡、湖州鏡式鏡唐式鏡がある。鏡背紋様は双鳥文と植物文を組み合わせた自然風物が多い。

内部は撮影禁止である。

出羽三山歴史博物館出口外部に展示されている奉納額。

旅人姿の松尾芭蕉像と三山句碑。

芭蕉の三山句碑。

松尾芭蕉は、奥の細道で出羽三山に参詣し、三山をそれぞれ詠んだ。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山(すずしさや  ほのみかづきの  はぐろやま)

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな(かたられぬ  ゆどのにぬらす  たもとかな)

雲の峰 幾つ崩て 月の山(くものみね  いくつくずれて  つきのやま)

出羽三山神社参集殿。鐘楼と建治の大鐘(重文)。

参集殿は、地上2階、地下1階総床面積2,179平方メートル入母屋造り銅板一文字段葺、従来の直務所の機能に参拝者の受入施設、神職養成所機能さらに儀式殿をも附設多目的な出羽三山に相応しい立派な参集殿が昭和63年7月2日に完工された。

鐘楼堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。

建治元年(1275年)の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。鐘の口径1.68m(5尺5寸5分)、唇の厚み22cm(7寸1分)、また鐘身の高さ2.05m(6尺7寸5分)、笠形の高さ13cm(4寸4分)、龍頭の高さ68cm(2尺2寸3分)あり、総高2.86m(9尺4寸2分)である。

上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。

三神合祭殿(さんじんごうさいでん)

出羽神社は、羽黒山頂の中心にあり、三神合祭殿と呼ばれ、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀り、積雪のため冬期間参拝が困難な月山、湯殿山神社の里宮としての役割をなす。

現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建であるが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物で、重要文化財に指定された。

社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。

現在の合祭殿は文政元年(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。

建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。

三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>

三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している

鏡池。

東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。

蜂子神社と左側の厳島神社。

表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。

出羽三山御開祖・蜂子皇子は、推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残された。民の全ての苦悩を除くという事から能除太子と称され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去された。蜂子神社の御祭神として祀られ、御墓は羽黒山頂バス停より御本殿への参道途中にあり、現在宮内庁の管理するところとなっている。

出羽三山歴史博物館近くの建物。

出羽三山神社の主たる祭礼行事 ~松例祭12月31日[特殊神事]

毎年大晦日から、明くる元旦にかけて夜を徹して行われることから別名歳夜祭ともいわれ、羽黒修験の四季の峰のひとつ「冬の峰」の満願の祭事である。

 門前町手向地区より「位上」と「先途」と称する松聖2名が選ばれ、9月24日より百日の行に励む。この間、祭壇を設え、興屋聖に納められた五穀に稲霊の憑依を祈るとともに、五穀豊穣、天下泰平を祈願する。また古来よりこの祭りの費用を得るため、松の勧進として庄内地方の家々に出向き松例祭の寄進を募り満願の日を迎える。

 12月31日は地元地区の若者が早朝より昇山し「位上方」・「先途方」に分かれ、悪魔に擬した「ツツガムシ」をかたどった2体の大松明を作る「大松明まるき」がある。以降すべての行事は、この位上方と先途方の優劣・遅速等、競争の形をとり進められていく。

 

山頂地区から麓の「いでは文化記念館」へ向かった。

 

山形県 鶴岡市立加茂水族館②パシフィックシーネットル アカクラゲ クラゲドリームシアター


皇居 令和6年秋季皇居乾通り一般公開②道灌濠から乾門まで

2024年12月23日 08時48分27秒 | 東京都

皇居。道灌濠。令和6年秋季皇居乾通り一般公開。

2024年12月4日(水)。

 

下道灌濠。道灌濠は、皇居(江戸城)内に残る太田道灌時代の堀とされる。

道灌濠は現在、上・中・下に分かれているが、昔は繋がっていた。

西桔橋(にしはねばし)門跡。

内濠(乾濠・蓮池濠)に架かる土橋で、皇居と皇居東御苑を結んでいる。江戸時代は、本丸大奥と吹上の通路になっていて、西桔橋門があったが、現在は石垣の一部が残っているだけである。

桔橋(はねばし)とは、有事の際、橋をはね上げて往来を不可能にする仕掛けを持った橋のことである。この橋と北桔橋の2橋が江戸城防備のために、桔橋となっていたが、現在は普通の橋となっている。

富士見多聞。

外庭東門警備派出所。皇宮警察本部吹上護衛署。

乾濠。

江戸城本丸を守る内堀のひとつで、形が三日月に似ているため別名「三日月濠」とも呼ばれる。

乾門。

乾門は、江戸城の巽(たつみ)二重櫓の対角線上である西北に位置し、乾の方角にあたることから名付けられた。江戸時代、この場所には「上覧所」と呼ばれる施設があった。上覧所とは主に将軍が物事を見物する場所のことで、例えば、旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露した。また、「天下祭」と呼ばれる山王社(現在の日枝神社)と神田明神(神田神社)の祭礼行列もここに立ち寄った。

1888年(明治21年)、旧西の丸裏門にあたる紅葉山下門がここに移築され、皇居への入場門の一つとして利用されるようになった。

 

北桔橋門(きたはねばしもん)。

北桔橋門 から観光客が皇居東御苑へ入る様子が見られた。週に数回通ることができるという。

地下鉄竹橋駅へ向かった。

西銀座チャンスセンター。

有楽町界隈へ来た記念にニュースでよく見る風景を体験してみた。

「散歩する朝永振一郎博士」像。つくば中央公園。

秋葉原から「つくばエクスプレス」に乗車して終点の「つくば」で下車した。つくばエキスポセンターへ行こうとしたが、八丈島・青ヶ島で6万歩ほど歩き回っていたため、力が尽きた。つくば中央公園を少し見て帰ることにして、北千住駅で乗り換えて御茶ノ水駅で下車して、神保町で友人と会った。

翌5日は神奈川県大和市の介護ホームにいる兄を見舞って、東海道線で名古屋に帰った。

皇居 令和6年秋季皇居乾通り一般公開①坂下門外から局門まで