小峰城歴史館。福島県白河市郭内。
2024年6月1日(土)。
鏡石町の岩瀬牧場を見学後、南に進んで白河市の小峰城跡へ向かった。城跡の入口に近い駐車場奥に小峰城歴史館があるので先に見学した。
松平定信(徳川吉宗の孫で白河藩主久松松平家9代当主・子孫は桑名藩主)時代(1800年頃)の小峰城
松平定信時代(1800年頃)の小峰城(再現ジオラマ)。
小峰城は、興国~正平年間(1340~1369)の頃、白河荘を治めていた白河結城氏の結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。
白河結城氏の本拠は、小峰城から東へ約3kmに位置する白川城であったが、白河結城氏一族の内紛により、小峰氏が白河結城氏の当主となった永正年間(1504~1520)以降に、本拠が小峰城に移ったと推定されている。
下総国結城郡(茨城県結城市)を本拠とする結城朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」(文治 5 年、1189)に従軍し、戦功をあげ、白河荘を賜ったとされる。ここが約 400 年に及ぶ結城氏と白河の関係の起点となった。
朝光は、鎌倉幕府の評定衆に就任するなど幕政に重きをなしたが、白河には赴任せず、本代官を白河に派遣していたと考えられている。
鎌倉時代中期以降になると、結城氏の庶子が白河に移住し始めるようになり、阿武隈川の南岸(南方)と北岸(北方)に郷村の開発を進めていったと推測されている。
白河結城氏の祖とされる祐広(朝光の孫)は 13 世紀後半に白河に下向したと伝えられ、その子宗広の時代まで「白河荘南方」の地頭職として大村郷(白河市大地区)をはじめとした 10 程度の郷村を支配しており、一方「北方」は一族の結城盛広が富沢郷(現在の白河市大信下小屋付近)を本拠とし、同様に 10 程度の郷村を支配していたとされる。
しかし、白河荘の中心である金勝寺(荒砥崎)は結城家惣領(下総結城氏)が領し、周辺の関(旗宿)・小田川・田島なども他の結城諸氏が支配していた。
このように鎌倉時代の白河荘は、結城氏という武士団の一族により現在につながる郷村の開発が行われていったが、この段階においては、祐広・宗広の白河結城氏はまだ結城一族のうちの一家という状況であり、地域に台頭するには至っていなかった。
白河結城氏が台頭するのは、祐広の子、宗広の時代である。宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の命に従い、鎌倉を攻める新田義貞らに呼応して幕府を滅亡に追い込んだ。後醍醐天皇の信頼を得た宗広は結城家の「惣領」となるよう命じられ、天皇に反旗を翻した足利尊氏と戦ってこれを破り、天皇から「公家(天皇家)の宝」とまで賞賛されている。
その後、天皇主導の政治(建武政権)に反感を持つ武士層を糾合して勢力を盛り返した尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやり、後醍醐天皇の南朝と尊氏の北朝が対立する南北朝内乱時代を迎えるが、宗広は一貫して南朝側につき、南朝勢力の立て直しを図ろうとした。
しかし、南朝勢力の退潮により宗広の子親朝は尊氏による北朝・武家政権への転身を図り、家の存続に腐心した。この建武元年(1334)から明徳 3 年(1392)の約 60 年にわたる南北朝内乱期を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握・領有した。
また、南朝後醍醐天皇・北朝足利尊氏の両政権から福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職に任じられ、その職権を背景に、室町時代には奥州南部から北関東にまで勢力を伸ばし、室町幕府やその出先機関である鎌倉府から南奥の雄として認識されるに至った。
南北朝内乱期を経て室町時代中期に至る時代は、白河結城氏がその勢力を最大に伸ばし、北関東から南奥にかけての諸勢力の盟为的存在として君臨した時代であり、白河を中心とした南奥地域が政治的にも安定した時代であった。
政治の安定は文化の発展をもたらした。連歌師宗祇は白河結城氏の当主、直朝に招かれて白河に下った際の出来事を「白河紀行」として残しているほか、文明 13 年(1481)春に白河結城氏の氏神、白河鹿嶋神社で行われたいわゆる「白河万句興行」は当主である政朝が催した連歌興行で、結城一門だけでなく家臣団も連歌の嗜みを身につけていたことが分かる。
応仁元年(1467)に起こった応仁の乱をきっかけにして全国に波及した争乱状態(戦国時代)は白河結城氏にも及んだ。永正 7 年(1510)に起こった「永正の変」は一族の小峰氏が惣領の結城政朝を那須に追放した事件であり、小峰氏の血統による新たな「白河結城氏」が創設された出来事とされている。
この争乱により、白河結城氏の周辺勢力への影響力は失われ、白河の南東部は常陸の佐竹氏、北西部は会津の葦名氏、北部では伊達氏が勢力を拡大するとともに、白河結城氏の支配領域は徐々に狭まり、佐竹氏、葦名氏を経て最終的には伊達氏に従属するに至った。そして天正 18 年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置で白河結城氏は改易となり、約 400 年にわたる白河結城氏の白河地方の支配は幕を閉じた。
白河結城氏が奥羽仕置で改易されると、白河は会津を領した蒲生氏郷の領地となり、家臣の関一政の支配による会津領の「支城」時代となる。天正 18 年(1590)から寛永4 年(1627)までの約 40 年にわたり、領主は蒲生氏-上杉氏-蒲生氏(再封)と変遷した。再度の蒲生時代(1601~27)に城郭の改修と町割がある程度進められた。近年「慶長古図」とみられる絵図が発見され、城郭には土塁(一部には石垣)が巡らされ、城下町の形も基礎的な部分は成立していることが明らかとなった。
これにより、初代白河藩主丹羽家の小峰城の大改修と町割の整備以前に、基礎的な城郭と町割が形成され、その形を基礎として丹羽家が城郭を大きく改修し、現在の形につながる町を町割したという二つの段階を経て、白河の城郭と城下町が形成されたといえる。
寛永 4 年(1627)、会津藩主蒲生忠郷が嗣子の無いまま死去し、領地を没収されたことにより会津藩の領地の再編がなされ、白河は 10 万余石をもって白河藩として独立した。この初代白河藩主となったのが丹羽長重である。
長重は織田信長の重臣で安土城造営総奉行を務めた丹羽長秀の子で、豊臣政権下では領地を削減され、関ヶ原合戦では改易されてしまうが、のちに大名として復活して転封を重ね、白河藩に封ぜられたのである。
長重はすぐに城郭改修に取り掛かり、4 年の歳月をかけて寛永 9 年(1632)に小峰城の大改修を完成させた。これにより、小峰城は東北地方にはまれな石垣を多用した強固な城郭に変貌を遂げた。
この改修は幕府の命であるともされ、「奥州の押さえ」として北の諸大名へ備え、江戸の防衛の一翼を担う重要な地と認識されていたことがうかがえるものである。
この地理的重要性は歴代の藩主にも認識されており、幕末には戊辰戦争において奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が小峰城の掌握を巡って戦いを繰り広げている。
長重は城下町の町割も行い、城下の水路を設けるとともに、「大工町」「金屋町」などの職人に関わる町を置き、現在の白河まで約 360 年にわたりほぼそのままの形を伝える町割を行った。
丹羽長重の死後、嫡子の光重が家督を相続し、のち二本松に転封されてからは譜代・親藩の大名のみが封ぜられ、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部の 7 家 21 代の大名が白河藩主を務めた。
目まぐるしく入れ替わった白河藩主の中で、最も長い 82 年(4 代)にわたって白河を治めたのが松平(久松)家であり、中でも白河に大きな功績を残したのが松平定信である。定信は、徳川将軍家の一門、田安宗武の七男として生まれたが、17 歳の安永3 年(1774)に松平定邦の養子となり、天明 3 年(1783)に家督を相続した。
相続直前より東北地方には「天明の飢饉」と呼ばれる大規模な飢饉が発生したが、定信は米穀の確保などの迅速な対応を図り、領内からは飢饉による餓死者が出なかったと伝えられる。
老中田沼意次とその一派の失脚後の天明 7 年(1787)、老中に抜擢された。翌年には幼い将軍家斉(11 代)の補佐も兼ねた定信は「寛政の改革」を断行し、幕府の立て直しに尽力した。改革は一定の成功を収めたが、定信は寛政 5 年(1793)に老中を退き、以後は隠居する文化 9 年(1812)まで約 20 年にわたり白河藩政に専念することになる。
荒廃した農村の復興にも力を注ぎ、飢饉対策として、米穀を貯蔵させる郷蔵の設置、人口増加策として間引きの習慣を改めさせた。間引きの影響で領内には女子が尐なかったため、越後から女性を招いて資金を支給し、領内の男性と婚姻させた。また、子供が生まれると養育金を支給するなどの対応策の結果、10 年で 3,500 人の人口増の成果がみられた。
諸産業では、専門家を招いて技術を取り入れ、町人に織物や漆器、製茶、和紙、キセル製造などを行わせ、織物などでは希望する下級家臣の妻女にも行わせたという。
定信の文化芸術の素養は、和歌や絵画、書、執筆活動をはじめ、茶道、雅楽、国学、蘭学などにまで多岐にわたり、当代一流の文化人としても知られている。例えば「集古十種」(全八十五巻)は、古物の価値を見出し、全国の古器物等を調査して日本初の文化財図録として編纂・出版したものであり、この他にも「古画類聚」等の古画の研究を行い、焼失した京都御所の調査を実施して古制に則り再建したことは故実研究の成果の一端である。
幕府に関することでは、幕府の公式記録である「徳川実紀」、大名、幕臣の系譜集「寛政重修諸家譜」編纂のきっかけをつくるなど、日本史上重要な文化的事業も多い。
一方、白河藩における文化事業も数多くあげられる。定信は、江戸・国元である白河で合計 4 箇所の庭園と「南湖」を築造している。そのうち現在唯一残る南湖は、定信の「士民共楽(武士と庶民が共に楽しむ)」の理念をもとに、庭園の要素を取り入れたもので、当時造られた大名庭園と異なり、場所を仕切り、囲む柵が設けられず、いつでも誰でもが利用できる場所であった。
また、領内にある「白河関跡」の場所が長い間不明となっていたのを、古文献の調査や古老への聞き取りをもとに現在地が白河関跡であると断定し、あるいは領内の名所古蹟について調査した「近治可遊録」を編纂させた。定信の跡は子の定永が相続し、松平家は文政 6 年(1823)に桑名に転封となった。
この転封は桑名の松平(奥平)家を武蔵国忍に、忍の阿部家を白河に移すという、いわゆる「三方領地替」の形であった。
こうして白河に移った阿部家は、3 代将軍徳川家光の時代に阿部忠秋が老中となって以来、計 5 人の老中を輩出した譜代大名の名門であったが、当時は老中の職に昇進する前に死去する当主が続いており、白河転封後にも早世の当主が続き、あわせて財政難や凶作による飢饉などが続いたため、藩主主導により一貫した方針のもとで藩政を行うことが困難であった。
しかし、幕末に一族である旗本阿部家から養子に入り、藩主となった阿部正外は、旗本時代には孝明天皇の妹である和宮と 13 代将軍徳川家茂との婚姻(和宮降嫁)の御用を務め、直後に神奈川奉行や外国奉行を務めて諸外国の交渉を担当し、その実績が幕府から評価されて元治元年(1864)3 月、白河藩主阿部家の家督を継ぎ、老中に任じられて外国御用取扱を命じられた。そのため翌慶応元年(1865)、米英仏蘭の四カ国が兵庫(神戸)開港を幕府に迫った際には直接交渉を担当し、緊急を要する事態であるために朝廷に許可を得ず、幕府の独断で開港を決断する方向に導いた。
しかし、このことが朝廷の不満を招き、老中罷免・官位剥奪の処罰を受け、蟄居謹慎を命じられて白河から棚倉への転封を命じられた。
白河はその後幕府領となり、戊辰戦争を迎えるが、城主のいない白河は交通の要衝であったため、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と新政府軍による拠点の争奪戦が約 3 ヶ月にわたって繰り広げられた。死傷者は 1,000 人を超え、これは会津戦争の犠牲者よりも多い数であった。
(白河市歴史的風致維持向上計画)
明治以降、城郭はその多くが民間へ払い下げられた。本丸を中心とした範囲は、陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられた。
二之丸・三之丸の城郭遺構については、その多くが埋められ、農地や官公庁舎、住宅地として利用された。三之丸には、明治20年(1887)に東北本線が敷設され駅が設置されるなど、近代白河のまちへと変化を遂げる。
昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心に都市公園としての整備が開始され、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の結果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元整備され、往時の姿をしのばせている。
小峰城を築いた白河結城家から江戸時代の歴代藩主7家(丹羽家、榊原家、本多家、松平(奥平)家、松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家)までの歴代城主の流れを紹介し、関係する古文書や美術工芸品を展示している。
稲村御所足利満貞御教書 応永7年(1400年)3月8日 差出先(受取人) 結城参河七郎殿
解説 奥州支配のため、鎌倉公方の出先として稲村(現在の須賀川市)に置かれた「稲村御所」の主人、足利満貞が小峰満政に出した御教書。満貞が満政に伊達政宗(※)・葦名満盛らの反乱の討伐を命じたもので、兄で鎌倉公方の満兼による伊達氏等の攻略が上手くいかず、満貞を通じて奥州の武将の動員を図ったと考えられる。
※伊達政宗(1353~1407)は室町時代に活躍した人物で、仙台藩祖の政宗の七代前にあたる。
重文・白河結城家文書。
中世において白河地域に勢力を誇った白河結城氏が受領した文書群90通で、秋田藩佐竹家に仕えた結城家に伝来した。
白河結城氏が所持していた文書は、改易によって全国に分散しているが、近年の調査で約800点近くの存在が確認され、東日本の中世武家文書では有数の文書群であることが分かってきている。
本文書は、そのうちの約1/10にあたり、古いものは文永元年(1264)10月の関東下知状であるが、元弘3年(1333)から康永2年(1343)5月までの10年間の文書が特にまとまっており、南北朝時代の宗広・親朝父子の活動や関東・奥州の情勢を検討する上で重要な史料である。またこれらの中には、その時代的特徴を示す北畠親房・北畠顕家御教書などの斐紙小切紙文書も含まれており、古文書学上でも注目される。
小峰城歴史館奥から眺める小峰城跡。