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福島県下郷町 大内宿

2024年07月21日 12時31分29秒 | 福島県

重伝建地区。大内宿。福島県下郷町大字大内。

旧街道の宿場町の両側に道に妻を向けた寄棟造の民家が南北500m東西200mにわたり田園の中に建ち並んでいる。

2024年5月31日(金)。

11時25分ごろ会津坂下町の立木観音から南へ向かった。昼食時間前に着きたかったが、工事渋滞や山間の道路を通ることもあり、12時25分ごろ大内宿の駐車場に到着。駐車料金500円。

大内宿は1990年代から知っているが来たことがなかった。旅行雑誌を見て、三澤屋の蕎麦、しんごろう、見晴台からの景観を目標にした。

福島県内で1位、2位を争う人気観光スポットとなっている大内宿には、30軒以上の茅葺き屋根の民家が建ち並び、江戸時代の宿場町がそのまま保存されている。

この街道は、すでに鎌倉の時代から会津と関東を結ぶ街道としてかなりの往来があったが、街道の整備に力を入れたのは戦国の時代からで、天正18年(1590年)に伊達政宗の小田原参陣に大内宿を通過したという記録や、豊臣秀吉が奥羽仕置きの際に通行した記録が残っている。

江戸時代には会津藩が会津五街道の一筋として整備した「下野街道(南山通り・会津西街道)」の主要宿駅のひとつで、会津城下と日光を結ぶ全長130キロにおよぶ下野街道の会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備され、荷役や人馬の継ぎ立てと宿場を経営する宿場町として栄えた。

下野街道は、脇街道のため幹線に比べると小規模で、大内は若松へは約四里半、田島へは五里、当時の一日の行程は約八~十里であることから、大内宿は中宿にあたり、昼食のための休憩の宿場であり、高地での農業生産をする半宿半農の集落であった。

もっとも利用した会津藩主は18回におよぶ江戸参勤で通行している。また江戸廻米の輸送や、当時の会津藩と友好関係にあった米沢藩や新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であった。

明治時代になると、鉄道開通に伴って宿場としての地位を失い、また、明治17年(1884)に会津三方道路のひとつとして、現在の国道121号が別ルートで開通したことから幹線道路からはずれ、かつての街道は人々の往来が無くなり、次第に忘れられた山間農村になっていった。

昭和40年代になり、研究者が大内宿の生活調査や、建築物調査などで盛んに来訪すると旧宿場の街並みが再評価されるようになり、街道宿場としての形態を色濃く残す町並みとして、昭和56年に重要伝統的建造物群に選定された。

三澤屋。

大内宿といえば高遠そばである。入口から近い場所にあり、周囲の景観も雰囲気が良い。

高遠そばは、会津松平家の初代藩主・保科正之が、長野県高遠から移封してきたことに由来する。保科正之は、会津転封の際に、家臣はじめ高遠城下の職人たちを一緒に連れて来たが、そのなかに蕎麦打ち職人がおり、蕎麦は、保科正之が初めて藩主となった高遠藩に由来して「高遠そば」と呼ばれ、福島県会津地方に根ざしてきた。保科正之は蕎麦好きだったといわれ、山形や会津に蕎麦をつたえるとともに、4代将軍・家綱の補佐をしていた江戸にも蕎麦を広めたと考えられており、高遠藩からは徳川将軍家に寒ざらし蕎麦を献上する慣例もあった。

水そば。1430円。高遠そばは、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

名物「しんごろう」。妻籠馬籠の五平餅に似ている。

道の両側には割石積みの側溝が築かれて、山からの清冽な水が引かれ、家の前には洗い場が設けられている。

道路を覆っていたアスファルトをはがして「土の道」に戻し、車の通行も禁止して街並みが保存されている。

町並みの代表的な特色として、旧街道の両側にほぼ均等に割られた屋敷割(間口6~7間、奥行30~33間)と街道から一定幅を後退して建てられている建築、茅葺寄棟造りで妻を旧街道に面させる主屋の形態、旧街道に面して二座敷を併置する旧宿駅住居の形態、二座敷の表及びその前後を化粧樽木で飾る軒形式があげられる。

集落の奥の見晴台からの景観。

 

このあと、須賀川市へ向かった。

福島県会津坂下町 恵隆寺・立木観音(会津ころり三観音) 重文・五十嵐家住宅 

 



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