いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

岩手県北上市 みちのく民俗村②旧黒沢尻高等女学校校舎と茅葺民家

2023年12月03日 12時38分57秒 | 岩手県

みちのく民俗村。岩手県北上市立花。

2023年6月11日(日)。

旧菅原家住宅(豪雪農家)。北上市指定文化財。

創建年代、明治時代後期。旧所在地、和賀郡西和賀町大沓(旧南部領)。建坪、158.7m2(約48坪)。桁行(横幅)16.1m、梁間(奥行)9.8m。直家(すごや)。寄棟造り。基礎、土台建て。

旧菅原家は、奥羽山脈の山懐にあり、雪が大変多い湯田地方(現西和賀町)の農家である。旧菅原家の馬屋は家の中にあり、旧南部領の特徴は、このような内馬屋と呼ぶ形式の民家が多い。特に「南部曲り家」は有名だが、旧菅原家は曲り家ではなく、直家と呼ばれる形状の民家である。

屋根に勾配をつけて雪を落ちやすくさせたり、軒に「船枻造り」という工法を用いて、雪の重みに対する耐久力をつけるなど、豪雪地帯ならではの工夫が見られる。

民俗資料館(旧黒沢尻高等女学校校舎)。登録有形文化財。

旧所在地、北上市鍛冶町一丁目。建築年代、昭和2年(1927)。建築面積、456.1㎡。木造2階建スレート葺き。昭和53年(1978)復元。

旧黒沢尻高等女学校の校舎は切妻屋根の学校建築である。外装の基調は白色下見板貼で、階上階下の腰を竪羽目とし、階上中央部を黒色ドイツ壁とする。昭和期の竣工であるが、端部妻のハンマービーム風の収まり、開口部のペディメントなどに明治建築の面影を色濃く残す。

中に農作業道具、手仕事、生活用品、信仰関係などの民俗資料を展示しており、北上地方の昔のくらしを知ることができる。

現在の岩手県立北上翔南高等学校(旧県立黒沢尻南高等学校)は、県立黒沢尻高等女学校を引き継いだもので、その前身である黒沢尻実科女学校は、大正8年創立でこの地域の女子教育を担っていた。

旧大泉家住宅。北上市指定文化財。

創建年代、江戸時代中期。旧所在地、北上市口内町荒町(旧伊達領)。建築面積、151.8㎡。桁行(横幅)16.2m、梁間(奥行)8.9m。直家。寄棟造り。基礎、石場建て。柱の主要材、上・下座敷、常居は杉、裏座敷、納戸、台所は主に栗。

仙台藩にとって戦略的に重要な場所は「要害」と呼ばれ、譜代の重臣を配置し、仙台の縮刷版のような城下を形成していた。口内要害も同様で、伊達一族の格式をもつ中嶋氏が、浮牛城と呼ばれる城の城主となり、城下を形成していた。

大泉氏は、城主・中嶋氏の家老職を代々歴任した家柄で、旧大泉家住宅は城下の要となる大手門の前にあった。正式な玄関となる式台、控えの間となる下座敷、書院造りの上座敷など、武家住宅ならではの特徴が見られる。

国史跡・南部領伊達領境塚。間沢挟塚(まのさわはさみづか)。

南部領伊達領境塚は、江戸時代における南部領と伊達領との境界を示す施設で、岩手県北上市鬼柳町・和賀町ほかと胆沢郡金ケ崎町六原に設置された。1642年(寛永19)、徳川幕府の裁定によって境界が決定され、奥羽山脈の駒ヶ岳頂上から釜石市の唐丹(とうに)湾までのおよそ約130kmの境界線上に設置された。境塚としては全国に類を見ないほどの規模であり、徳川幕府草創期からの東北地方の政治的緊張状況が表れている。

大塚(おおづか)と小塚(こづか)があり、先に大塚が築かれたあと、17世紀末の元禄期までに小塚が間を埋めるように設置された。とくに重要な地域では相対する挟塚(はさみづか)も築かれた。2000年(平成12)、大塚17、挟塚2、小塚198を含む地域が国の史跡として指定された。

北上川の西側では、和賀町岩崎地区、上鬼柳地区(旧南部領)と、相去町の三十人町地区・成沢地区・滝の沢地区(旧伊達領)との境界線上に、北上川の東側では、立花地区(旧南部領、みちのく民俗村)と、稲瀬町地区、口内町地区(旧伊達領)との境界線上に残されている。

旧お駒堂。復元。

旧仙台藩寺坂番所。北上市指定文化財。

創建年代、江戸時代前期。旧所在地、北上市稲瀬町内門岡(旧伊達領)。建築面積、92.9㎡。桁行(横幅)16.2m、梁間(奥行)5.7m。直家。寄棟造り。基礎、石場建て。柱の主要材、杉。

江戸時代、各藩の境界付近には、藩ごとに人馬や物資の出入りを監視する御番所が設置されていた。寺坂番所は、南部領と境を接する伊達領側の村(下門岡村)にあった御番所である。

元禄3年(1690)に創設された寺坂番所には、岩谷堂城(現奥州市江刺区)の役人が、2人ずつ交代で勤めていた。畳敷2室と台所だけの小規模な建物だが、柱に杉材が使われるなど、武家住宅的な要素を持っている。

商家 旧今野家。北上市指定文化財。

創建年代、江戸時代末期。旧所在地、奥州市江刺区梁川舘下(旧伊達領)。建築面積、149.8㎡。桁行(横幅)14.3m、梁間(奥行)6.7m。直家。寄棟造り。基礎、土台建て。柱の主要材、杉。

旧今野家は、明治・大正時代、日用品の販売や、行商人などが利用する宿を営んでいた商家(町家)である。旧今野家があった梁川の野手崎という地域は、旧大泉家があった口内と同様に、江戸時代、南部領との境を守る伊達領側の警衛の地として計画的に整備された場所である。

旧今野家の間取りを見ると、通りに面して店を構え、その奥に生活の場となる座敷や台所などの部屋を配置しており、縦に細長いつくりは商家ならではの特徴といえる。

みちのく民俗村表口の受付になっており、商品も販売している。屋根の形状は、兜造り、多層民家といわれるものであろう。

金精様(こんせいさま)。

金精神は勃起した男根の形をしており、金は金色に輝くような、精は勢であり精力絶倫な男根を意味しているとされる。

金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。

金精神を祀った神社は全国各地にあるが、特に東日本の東北地方から関東地方にかけての地域に多くみられる。

旧菅野家住宅。重要文化財。

主屋の創建年代、享保13年(1728)。旧所在地、北上市口内町長洞(旧伊達領)。建築面積、250.8㎡。桁行(横幅)21.3m、梁間(奥行)、10.8m。直家。茅葺寄棟造り。基礎、石場建て。柱の主要材、栗。

旧菅野(かんの)家は、江戸時代、南部領と境を接する伊達領側の村(下口内村)にあった上層農家である。伊達領の住宅規定が書かれた「御郡方式目」(享保4年・1719)との照合から、大肝入(村長のなかでもさらに上役の村長)のものと考えられている。伊達領の肝入(村長)以上には苗字・帯刀・門の設置が許されていたといわれる。旧菅野家にも享保5年(1720)の棟札をもつ立派な薬医門がある。

旧星川家住宅。北上市指定文化財。

創建年代、江戸時代末期。旧所在地、紫波郡矢巾町北伝法寺(旧南部領)。建築面積、200.7㎡。桁行(横幅)主屋棟15.9m、馬屋棟7.8m、梁間(奥行)主屋棟9.3m、馬屋棟6.6m。曲り家。寄棟造り(馬屋棟の一部は入母屋造り)。基礎、土台建て。柱の主要材、栗。

旧星川家があった紫波郡は、盛岡から10kmほど南に位置し、旧南部領の中でも、特に曲り家が多い地域である。

旧星川家は、幕末の建築と推定されており、主に明治以降のくらしを伝える民家である。台所から馬屋の様子がよく見えるつくりになっており、南部曲り家の特徴は馬の飼育に便利なことといわれている。

 

旧菅野家住宅見学後、北西近くにある北上市立博物館を見学した。みちのく民俗村の南側裏口駐車場へ戻るときに、旧星川家住宅の外観を眺めた。

岩手県北上市 みちのく民俗村①茅葺民家 遠野の曲り屋・旧北川家住宅



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。