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根室市歴史と自然の資料館③オホーツク文化期 北のビーナス・牙製婦人像 

2024年07月20日 08時24分47秒 | 北海道

根室市歴史と自然の資料館。根室市花咲港。

2022年6月14日(火)。

オホーツク文化期は、5〜12世紀(北海道では9世紀まで)の間、アムール河口部からサハリン全域、北海道のオホーツク海岸、千島列島に展開した。その過程は土器型式から前期・中期・後期の三つの時期に区分できる。もっとも分布を広げていたのは中期(7世紀頃)である。後期(8〜9世紀頃)になるとオホーツク文化の中でも地域差が目立つ。

5世紀になると、それまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもった人びとが、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸にやってきた。この人びとの文化を「オホーツク文化」とよんでいる。オホーツク文化は日本海沿岸にも広がり、もっとも南では道南の奥尻島にも遺跡が知られている。しかしオホーツク文化の遺跡は、オホーツク海の沿岸部にあり、内陸部からは見つかっていない。この文化の人たちは「海洋の民」ともよばれている。

オホーツク文化の遺跡からは、帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっている。これらは、アムール川(黒龍江)中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるものと同じもので、オホーツク文化が、サハリン(樺太)や大陸などと交易や交流をもっていたことが分かる。

オホーツク文化には、同時期の続縄文文化・擦文文化とは大きく異なる三つの特徴がある。

一つめは、北海道からみて外来の文化となる点である。オホーツク文化の人々の骨からわかった顔かたちなどの形質を現代の東北アジア地域の人々と比較すると、ナナイ・ウリチなどのアムール下流域の人々に近いことが判明している。また、大陸の靺鞨系文化からもたらされた金属器などの大陸系製品が多く出土する点も、北方との海を越えたつながりを示すものとして注目される。

二つめは、海獣狩猟や漁労を生活の基盤とする高度な海洋適応が認められる点である。オホーツク文化の人びとは、漁労を行い、クジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州との交易を行っていた。また、人びとは海岸近くに集落をつくった。住居は地面を五角形あるいは六角形に掘りさげた竪穴住居に住み、なかには長さが10mをこす大型のものもある。こうした大型住居には、15人以上もの人が共同で生活していたと考えられている。

オホーツク文化の遺跡は、北海道では全て海岸部に位置し、魚類や海獣類などの海産物を利用していた痕跡が多く残る。漁労や海獣狩猟に使われた銛頭や釣針などの狩猟具・漁労具も質・量共に多く出土しており、高い技術をもっていた。

三つめは、動物を対象とした儀礼の痕跡が目立つ点である。儀礼の存在を示すのは、竪穴住居内に設けられた動物の頭骨を積み上げた祭壇(骨塚)や、動物を表現した骨角器などの製品である。なかでもクマは、儀礼の対象として特別視されていた。

十和田式土器樺太の十和田遺跡を標式遺跡とする土器。外面より内面方向へ “ 突き ”、内側まで穴を貫通させずに、内面に “ 瘤状 ” の高まりをのこす技法は、円形刺突文もしくは突瘤文と呼ばれる。

土器を焼成する前に断面円形の棒状の施文具を使って、おもに土器の口縁部下の位置に、内面より外面方向へ “ 突き ”、外側まで穴を貫通させずに、外面に “ 瘤状 ” の高まりを残す技法である。

刻文系土器。根室市弁天島貝塚竪穴群出土。

貼付文土器。トーサムポロ湖周辺竪穴群出土。8~9世紀頃。土器の装飾に細い粘土紐を貼り付けている。この細長い粘土紐は形状が素麺に似ていることから「ソーメン文」や「貼付文」とよばれている。

トーサムポロ湖周辺竪穴群。根室市温根元のオホーツク海に面したトーサムポロ湖開口部右岸、標高10mの海岸段丘に位置する。オホーツク文化期の6軒の竪穴住居跡と10ヵ所の小貝塚があった。昭和11年(1936)から同15年に北構保男と須見洋によって調査が実施されたが、当時は竪穴住居跡が窪んで地表面から観察できた。しかし現在は埋まったり削られたりしており、地表面からは確認できない。オホーツク文化期の刻文土器とおびただしい骨角器、竪穴周辺の貝塚からは石匙・骨針・骨銛・骨斧・石鏃・管玉、人の頭蓋骨の一部、鳥管骨、鹿角器、ペン型骨銛などが多数出土している。遺跡周辺には擦文時代の墳墓があり、またトーサムポロ湖の周りには約1700軒の竪穴住居跡が肉眼で観察できる。

牙製婦人像。北のビーナス。温根元(おんねもと)竪穴群。

温根元竪穴群。根室市温根元。根室半島北面の温根元漁港の西の海岸段丘、標高10mに位置するオホーツク文化期の遺跡。隣接して根室半島チャシ跡群のヲンネモトチャシ跡がある。昭和41年(1966)と同42年に竪穴2個と貝塚が発掘された。ほかに竪穴と思われる窪み1ヵ所がある。一部は宅地造成・整地などで消滅している。発掘調査ではオホーツク式土器の貼付式浮文が主体で、炭素同位体法による年代測定では2310±90年前。

 

オホーツク文化の集落遺跡 熊木俊朗 東京大学大学院人文社会系研究科教授

1 集落遺跡の分布と立地

オホーツク文化は、5 世紀から 12 世紀まで(北海道では 9 世紀まで)、アムール河口部からサハリン、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に至る地域に拡がっていた文化である。北方起源の文化であり、海での生業を生活の基盤とする点や、動物儀礼の痕跡が多く認められる点など、併行する続縄文文化・擦文文化とは別系統の異質な文化として、北海道の先史時代史の中でも注目されてきた。

北海道におけるオホーツク文化の集落遺跡の分布は、礼文島・利尻島・稚内から根室半島に至るまでのオホーツク海沿岸部にほぼ限られている。オホーツク文化と重なる時期、すなわち7〜9 世紀の擦文文化の集落の分布をみると、上記の地域には進出しておらず、石狩低地帯や石狩川上流、日本海沿岸までの分布範囲となっており(塚本 2003)、両文化の分布域は排他的な関係となっていたことがわかっている。一方、オホーツク文化の終焉後に道東部に進出した擦文文化の竪穴群と、オホーツク文化の竪穴群とで規模を比較すると、遺跡の数や竪穴の総数はともに後者の方が少ない。ただし、例えばオホーツク文化で最大の集落遺跡となる栄浦第二遺跡では一地点に 53 軒の竪穴が残されており、オホーツク文化も個々の集落の規模自体は決して小さくはなかったとみられる。

集落遺跡の立地にも特徴がある。ほぼ全ての遺跡が海岸線から 1km 以内の地点に立地している点は、海が生活の舞台であったことをよく示している。同じ地域の擦文文化の集落遺跡と同様の立地の遺跡、すなわち河口部付近の砂丘上や台地上に位置する集落遺跡もあるが、小さな島や高い崖の上といったような、周囲から孤立し眼下に海を眺望するような地点に位置する例も目立つ。このような特異な立地も、この文化の集落遺跡を特徴づける点の一つといえる。

2 集落遺跡の構成と竪穴住居跡の特徴

オホーツク文化の集落遺跡を構成する主な遺構は、竪穴住居跡、土坑墓、貝塚(動物遺体の集中)である。これら三種の遺構が全て確認されているモヨロ貝塚や目梨泊遺跡などでは、墓は住居跡に近接した場所につくられており、貝塚も住居跡の近接地の竪穴の窪み内部などに形成されている。集落遺跡内にこれら三種の遺構が密接してつくられるという集落の構造も、この文化の特徴といえよう。ただし、特に墓については集落内に存在が確認されていない遺跡も多く、その点は各集落遺跡の性格を読み解く上で興味深い差となっている。

オホーツク文化の竪穴住居跡が特徴的な形態を有することはよく知られている。すなわち、形状は大型で六角形を呈し、床面上には「凹」の字形の粘土の貼床を設け、奥壁部にはクマの頭骨を中心とする動物骨等を積み上げた「骨塚」を有するのが一般的である。常呂川河口遺跡15 号竪穴では、複数の「家族」が一軒の住居跡に同居していたことをうかがわせる遺物の出土状況が確認されたが(武田 1996)、このような「大型住居内での同居」という居住形態の背景には、10 名程度が乗る船で行うクジラ猟など、協業の存在を想定する意見もある(大井 1979)。

ほかに、竪穴住居跡で興味深いのは、建て替えと、家を焼く行為である。オホーツク文化の竪穴住居跡では、同一地点に重複して家を建て替える例が見られる。ただし、遺跡によって建て替えのあり方は異なっており、建て替えられた住居が多い遺跡がある一方で、建て替えがほとんどみられない遺跡もある。建て替えの有無は後述する「拠点的な」性格の集落と関連する可能性があり、その背景が注目される。また、建て替えや廃絶の際に家を焼く行為が多くみられるのも特徴で、その割合は発掘された住居跡の 3 割以上に及ぶ(佐藤 2012)。これらの焼失住居については、アイヌの「家送り」儀礼と関連づける解釈が多くみられる。

3 「拠点的な」性格の集落遺跡とその指標

同じオホーツク文化の集落遺跡でもその内容は一様ではなく、地域間や集落間における様々な差が指摘されてきた。顕著な差としてまず注目されるのは、威信材の偏在である(高畠 2005)。

青銅製装飾品などの大陸系遺物や、蕨手刀・直刀などの本州系武具といった威信材は、道内のオホーツク文化の遺跡では目梨泊遺跡とモヨロ貝塚で突出して多く出土しており、偏在が認められる。この二つの遺跡は、大陸や本州との交易の拠点として機能していたと考えられている。

ほかに「拠点的な」性格と関連づけられる属性としては、住居跡や墓の数といった規模の側面がまずは考えられよう。窪みで残る住居跡数では栄浦第二遺跡(53 軒)、チャシコツ岬上遺跡(31 軒)、知床岬遺跡(28 軒)が多く、発掘された墓の数ではモヨロ貝塚(300 基以上?)、目梨泊遺跡(48 基以上)が突出して多い。

ほかに「極端な偏在」を示すものとして注目されるのは、骨塚に残されたクマ頭骨の数である。この数は、トコロチャシ跡遺跡 7a 号竪穴(110 個体)が突出して多く、実数は不明だが写真でみるとモヨロ貝塚 10 号竪穴の骨塚もほぼ同規模であった可能性が高い。これに続くのが常呂川河口遺跡 15 号竪穴(42 個体)、目梨泊遺跡 5 号竪穴(26個体)、栄浦第二遺跡 23 号竪穴(20 個体)となる。

また、集落内の大半の住居跡が同一地点に重複して建て替えられた例からなる遺跡も、集落の継続性や先住権といった観点から注目されるが、そのような例としては香深井 1 遺跡、目梨泊遺跡、トコロチャシ跡遺跡、モヨロ貝塚、弁天島遺跡がある。以上の属性は、それぞれの意味や背景は異なるものの、集落遺跡の性格を読み解く上での重要な指標の一つになり得ると考えられる。

根室市歴史と自然の資料館②縄文時代 初田牛20遺跡の土偶 縄文土器



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