5番の刺繍糸

趣味の針仕事・庭仕事・料理を中心に、日々のあれこれを綴ります。

衣替え

2015年10月04日 | 日々のこと

とある記事で、衣替えの3つのコツを読みました。

ワンシーズン(1年)着なかったものは、処分する。
〇1年着なければ、やっぱり次の年も着ないという理屈〇

値札が付いたままのものは、処分する。
〇次の年もまた新しい洋服を買う。
ということは、値札付き候補品は来年も増える〇

プチプラで流行を楽しんだものは、処分する。
〇来年も新たな流行プチプラを買うんだから、
どんなに着回した洋服でも、今年でサヨナラ〇

ふぅむ、なるほど、そういうこと…
一見合理的で、潔いスッキリ具合に思えます。
が、私はこれを鵜呑みにしません。



基本的に、モノをたくさん持つことが苦手です。
身の回りがごちゃごちゃしているとストレスを感じますし、
生活の場を飾ることも好みません。

あげると言われても、活用できないものは貰いませんし、
例え母からの「譲る」という名の高級品の「処分」であっても、
使わないと思うもの、パッと収納場所が思い浮かばないものは、
いいなと思っても断ることがほとんどです。
(母もよく承知してくれていますが、持って行きなさいとも言う。笑)

しかし、ワードローブについては、
身を整え、演出するという役目においてこの割切りは当てはまらず、
洋服は単なる“モノ”ではない別次元の意味を持っていると、
私は常々思っているんですね。

うちのクローゼットには、値札の付いたままの洋服が4~5着あります。
一回も袖を通してないということなら、その3倍はあるでしょう。
しかし、これは単なる無駄や処分対象ではないですね。

見ているだけでうっとりするもの、
持っているというだけで幸福に満たされるもの、
“もうちょっとおなかが引っ込めば、カッコ良く決まる!”ワンピース、
“これだけでは派手だけど、どうにか着こなしたい”ジャケット……
これらがクローゼットに下がっていることで、
スタイル維持(私は改善)に気を使いますし、
来シーズンを夢想し、出掛けるシチュエーションを模索するようにもなり、
合わせるアクセサリーや靴、バッグの冒険にも滑り出せば、
実際に取り入れるかどうかは別としても、
世の中のファッション動向は把握しておこうとするものです。
そうしてアドレナリンやフェロモンの栓は開かれ、
興味と感動の泉が、もこもこと動き出そうというものです。

これは、着物の場合にも如実に現れます。
私は週に数回、着物を着て出掛ける集まりに行きますが、
“とりあえず着物を引っ掛けて、帯を巻き付けて来ました!”という感の人、
事情が許さないのかもしれないけど、
全く年不相応な色、柄、品の着物を延々と着てくる人、
そうかと思えば、同じ着物でも合わせる帯を変えて、
ガラッとイメージ(格)を変えてくる強者もいれば、
外しギリギリの差し色の帯揚げ帯締めを合わせてくる、素敵な達人もいて、
要は洋服でも和服でも、自分をどう演出し何を目指しているか、
これを考え工夫し、叶えるためのアイテムひとつひとつ、
それがクローゼットの中身だと思っています。

それには、失敗と無駄が必要不可欠。
ということは、試行錯誤、ある程度の数が要る訳で、
右から左への理屈で済むものならば、冒頭の3つのコツのように、
鍋の数と同じように管理すればいいのでは?
いや、それどころか、もはや処分する基準などではなく、
月々に割り振られた洋服が、定期的に送られてくるような、
そんなシステムの紹介がよっぽど有用じゃありません?

だから、スッキリと片付けたい心理を重々知りながら、
私は「NO」と言いたいのです。

女は色気がなくなっては終わりです。
これは88歳になる祖母の弁であり、母の持論でもあります。
いわば目に見えない色香というのか、
自己演出の気遣いと気迫に裏打ちされた、
女の余白、探求心、品性と言ってもいいでしょう。

蛇足ながら、もうひとつ付け加えると、
「ある年齢以上になれば、普段着こそいいものを着なさい」と、
最近母からよく言われます。本当にそうだと思います。
身に着けるということは、身に付けていくということなのです。
よそ行き感が透けて見えること、
ある程度の年になって、これほど空しいことはありません。
必ずしも、いいものを高価な値段で買う必要はないのですから、
工夫次第で状況に応じて手にする方法はあるはずです。



ストイックでミニマムな衣生活に、皆さんは憧れますか?
過去の経験から吟味し余分を削ぎ落した、揺るぎない生活。
自分にとって完全なものを置き、ルーティンで完結した生活。

私は率直に言って、胡散臭さを感じます。
極々直感的な感想で平に容赦頂きたいが、
単純に言って、信用できない……?

その道のプロがあらゆる経験と浪費を経て、
人よりも早くたどり着いた場所ならば、またその意味も違うのでしょうが、
それでもやっぱり、私はそういう人にあまり魅力を感じないかなぁ。
その人の歴史を傾聴はしても、真似てみたいとは憧れない。
もうこれは、個人の志向であって、
これが正解とか言うつもりも毛頭ないのですが、
チャレンジをしなくなった人、失敗しなくなった人に、
私は人間的魅力を感じないのだと思います。
この人は何を考えて、どういうことをしてる人だろう!
そういう興味を掻き立てられません。

同じ理由により、ひとつの
テイストに固まるのも私は好みません。
「お洒落な人は、自分のスタイルを持っている」といいますが、
自分のスタイルとは、ややもするとそれ以外着られないという罠であり、
そもそも、私が目指すのは「お洒落な人」ではなく「粋で洒落た人」です。

洋服のドレッシーもカジュアルも、和服のクラシカルもモダンも、
私に合う選択とやり方で、着られるように常に訓練していたい。
当然、これを着れば間違いないというコーディネートも持ってますが、
甘んじることなく、年齢も立場も変わる中で自分に似合うものを更新し続け、
(それは、“これをが似合うようになるのよ”と自らに言い聞かせ、
似合うカラダ、雰囲気にしていくことでもあるのですが)
「分かっている」「出来る」「似合う」を続けたい、そのように思います。

所詮、偉そうなことを言っても、
ここに私の写真を載せる訳にいかないので、
“好きなことを言ってるわ…”と笑納してもらうしかないのですが、
まあ、そもそも衣替えとは、
それほど簡単に片付くものなら、誰も苦労しやしない!
という話に、まとめさせて下さい。(笑)








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