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その地図は使えますか?

2017年11月27日 | 日記
先日の毎日新聞に、ある大学の名誉教授の談話が載っていた。「保守」とは何かがテーマである。冒頭、「・・・日本固有の「国柄」を守るのが保守である。その中核には天皇のご存在がある」と言っている。次に、「「保守」を名乗るのであれば、天皇を崇敬する心は皆同じである」とある。どちらも説明は一切なしに、いきなりの断定なので、戸惑ってしまう。特に後者の「皆同じである」の強引さはすごい。ほかにも、「・・・各国指導者は栄光の時代を国の理想に掲げる。日本においては明治維新である」というのも、問答無用の断定だ。

ここで私は、かつて感激して読んだS.I.ハヤカワ『思考と行動における言語』を、本棚から出してこないわけにはいかない。(大久保忠利訳.原書第三版.岩波書店,1974年,改版1976年)


三‐4「うなりコトバとゴロゴロ・コトバ」という章がある。何かを報告しているようでも、実は「俺は嫌いなものはどこまでも嫌いだ」「好きなものはどこまでも好きだ」と言っているにすぎないようなケースを説明している(うなりコトバとゴロゴロ・コトバという命名は、獣が唸ったり猫がのどを鳴らしたりするのと変わらない、ということ)。「それらは少しも外在的世界の状態をのべた報告ではないのだ」。

三‐5「どんなぐあいに断定は思考を止めるか」もおもしろい。「早すぎる断定は、直接に目の前にあることをわれわれに見えなくすることが多い」とある。

この談話の先生も、ハヤカワくらいは読んでおいてほしいと思う。念のために言っておくが、私は保守の論者に対して含むところはまったくない。ただ、同じことを主張するのでも、きちんとしたステップを踏んでほしいだけなのです。


最後に、二‐5「地図と現地」より。「言語的世界と外在的世界との関係は、地図とそれが代表する現地との関係に似ている。」「想像やアヤマリの報告で、または正しい報告からのアヤマリの推論で、または単にコトバを飾ろうとするために、われわれは気ままに、外在的世界と何の関係もない「地図」を、言語で、作ることができる。・・・誰かがそのような「地図」が現実の地域を再現していると思い誤らない限り、害はない。」だれしも、このくらいのことは知っていると言いそうだけれど、あなたや私の地図はだいじょうぶですかね(笑)?