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【書評】基督抹殺論〈現代語訳〉 (幸徳秋水・著)

2022年01月30日 | デモ



『基督抹殺論』発刊当時としても、スキャンダラスな題名だったのではなかろうか。その名の通り、キリスト教の急所を突きまくる。その結論は、「基督にしても、たとえその実体が太陽神そのもので、たんに名前を改めただけであり、十字架が生殖器を表わす記号の遺物にすぎない」(p.178)ということになる。現代において学術的当否がどうなのかは置くとしても、心の奥底に仕舞ったことすら忘れていたトラウマに光を当てられ、揺さぶられる感覚になる。この調子で著述は展開され、イエスや十二使徒の歴史的実在に嫌疑をかけ、キリスト教の正体は万物を創造する太陽を神と崇める古代信仰や自然崇拝の寄せ集めであり、太陽を中心とする星々の循行に等身大の人格を当てはめたフィクションでしかないと喝破する。

この観点からキリスト教の原罪という教義を照射すると、その背景が浮かび上がる。神たる太陽の片割れであるイエスが刑死し復活昇天することにより、人間が神に背くという原罪をイエスが贖う一連の流れは、人間が太陽を中心とする自然循環に埋没せず自然支配する主体となることへの躊躇いに、人の姿形をした神イエスが復活という例外を現象させることで、神の側から許可を与えたという体裁になる。キリスト教徒になるということは、自然支配の主体となる特別な資格を得られるということであり、古代信仰を飛び越える解放であった。本来これは超自然界である天国の住人になれる証明という意味で用いられたと思われるが、次第に人間が人間を支配することを正当化する論理として読み替えられる。期待した終末が訪れず、教会を延命する必要に迫られたからだ。

これまでの民族ごとに現れた幾つもの太陽信仰は、同じ天上の太陽を崇めており、宗教としての優劣を位置づけられなかった。これに対しキリスト教は、イエスの刑死・復活・昇天を通じて原罪=古代信仰を清算し、太陽と直接通じ合う唯一の宗教となった。太陽を観念的に独占したキリスト教は、創造の源である太陽から遣わされた人格神イエス・キリストを人類全体の父と擬制することで、それを相続し代理する教会の支配力を担保した。やがてその支配力は国家に延長され、ローマ帝国国教化まで至る。本書の中で、十字架に釘付けされるキリスト像が用いられるようになったのは7世紀頃だと記されている。この時期にキリスト教が家父長制宗教として完成し、生殖を意味する十字架に自然を支配する男性が乗りかかるというシンボルが作られたのだろう。神と直接結びついた家父長制は、古代信仰の祖先崇拝を基にした家父長制と異なり、民族の範囲をこえた普遍的支配力を及ぼすことができる。現在においても、キリスト教はその役割を果たし続けている。

『基督抹殺論』はキリスト教支配が続く現代においても、題名通りの任を果たす生きた古典である。訳者解説でも述べられているが、天皇制批判というのもこの書の隠されたテーマだろう。その辺り、唐突な天理教批判で匂わせている。幸徳は天理教の在り様に、キリスト教と国家神道の中間形態を見て取ったのかもしれない。キリスト教批判は、明治維新以来代替キリスト教的性格をもった天皇制への批判と表裏一体である。


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