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【書評】憂国の文学者たちに 60年安保・全共闘論集 (吉本隆明)

2022年01月14日 | 書評




「60年安保・全共闘論集」という副題が暗に示すように、本書は反前衛党という吉本思想の変転をなぞる構成になっている。吉本隆明は、スターリン批判やハンガリー動乱を経て唯一前衛党たる日本共産党から分離独立した共産主義者同盟(共産同)に、『これら社会の利害よりも「私」的利害を優先する自立意識』(p.66)を見て取った。それを60年安保闘争の中から日本社会全体に広めるべく、共産同と共闘する。共産党と併存する新前衛党となった共産同は、学生団体として社会主義学生同盟(社学同)と全学連を据えた。だが安保闘争敗北後に共産同は分裂し、もう一つの新前衛党である革命的共産主義者同盟(革共同)に一部が移行するなどして、社学同を遺棄する。前衛党という価値が崩壊し、四散した共産同や社学同のメンバーは行場を失うかに見えた。その時「けっきょく、学生運動は、いっさいの政党支配をたたき出して、インテリゲンチャ運動として自立するほかはないし」(p.75)という水路が、吉本によって切り開かれる。

吉本思想の衝撃をもろにかぶったベビーブーム世代の学生と、分散した共産同社学同のメンバーが繋がり、前衛党の指導を拒絶する諸大学生の連合運動、全共闘が成立する。吉本の主著「共同幻想論」の出版は1968年であり、吉本思想は60年代と70年代を反前衛党という意識で結び、その実践に決定的影響を与えた。吉本にとって前衛党とは、啓蒙型知識人を間に挟んだ天皇制の反転刷りであった。『それらは、古典的円環、スターリニズム→アナキズム→ファシズムのなかの相互の「鏡」の対立に過ぎないからである』(p.86)。天皇制、啓蒙型知識人、前衛党のサイクル構成が織りなす共同幻想と、それに基づく支配構造を溶解することにこそ、戦後思想家吉本隆明の存在証明がある。全共闘運動はそれが現実で通用するのか試される場となった。

結論からいえば、周知のようにそれは敗北で終わった。「〈閉じられた〉共同性から、たえず〈大衆の原像〉を繰り込んだ〈開かれた共同性〉へ」(p.185)を目指した全共闘運動は、東大闘争をピークに萎んでいく。別著『わが「転向」』(1994年発表)で書いているが、吉本自身1980年代に入り1972年に時代の変化があったと断定してからは、左翼の会合に顔を出すのは止めたようである。1972年といえば、連合赤軍事件とニクソンの中国訪問があった年になる。全共闘という聖域を成り立たせていた外延が退き、吉本は自らの限界を悟ったのではないか。「思想の基準をめぐって」(p.168)では、前衛的な党派に対峙するこれまで提示した概念を心的領域から天皇制まで通関し、今後どこへ向けて延長するのか素描されており、吉本思想の結節点ともいえる。この小論の初出が1972年なのも示唆的だ。これ以降の吉本は、ひたすら日本における「高度資本主義」(p.230)礼賛の道を歩む。前衛党的な権威や権力に抵抗できないでいた人々を覚醒させた、大衆の原像を繰り込むことで共同幻想の呪縛が溶解するという吉本の論究は、大衆の原像に高度資本主義を上書きすることで、高度資本主義の発展が自立した個人を大量に生み出し、大衆となった彼らの存在が天皇制、前衛党、啓蒙型知識人を相対化し無力にする、という政治的摩擦なき予定調和説に読み替えられた。「理念的にいえば〈大衆の原像〉とは〈日常性〉の代名詞」(p.188)という非日常性と連関した変革の基軸が、緊張を失い日常性に埋没する。

これはつまり、全共闘運動を卒業した学生が「一サラリーマン」(p.67)になるに当って、罪悪感を持つことなく反前衛党的左翼性(吉本主義)を保持したまま会社勤めができるようにするアフターケアであり、敗戦処理であった。はっきりいえば、そうなっても吉本本の読者を繋ぎとめられるよう信者ビジネスに改装されたのである。「わたしたちは高度資本主義下の一般的な民衆の平和を護持し擁護していることを意味している」(p.244)。こうしてインテリゲンチャから一般的な民衆になった「わたしたち」吉本信者は、年々中身が薄っぺらくなる吉本本を免罪符代わりに買い続けることで精神の安定と密かな選民意識を持つ、前衛党なき前衛戦士、あるいは会社を擬制前衛党にするプロレタリアートに化けることができた。吉本思想が最終的に、吉本隆明と吉本信者の共同幻想になってしまったのは皮肉としか言いようがない、と吉本に当てこする機会があるとすれば、彼は「なぜならそれが大衆にとって無意識でもあるし、どんなつまらなそうな平和でも、社会主義の大衆よりも高い解放水準を保っているからだ、といっておこう」(p.244)と、返答するに違いない。245ページから始まる「七〇年代のアメリカまで-さまよう不可視の「ビアフラ共和国」-」では、終戦後日本にやってきた米兵を見てその豊かさに打ちのめされた吉本の姿と、ビアフラ共和国、全学連、東大闘争、ベトナム戦争が同時代に前衛党を一瞬逃れた感覚が並んで語られ、一括してノスタルジー的に処理されている。

2011年3・11フクシマ原発事故の翌年2012年1月、吉本隆明は「『反原発』で猿になる!吉本隆明の遺言」と銘打たれた週刊誌記事で原発推進を明言した。これが文字通り遺言となり、彼は2012年3月に亡くなった。「〈観念〉を高度化」(p.172)したその先に「科学理性」(p.230)を導き出すエンジニア出身の吉本にすれば、脱原発など「〈退化〉」(p.174)「反動」(p.230)以外の何物でもなかったのだろう。物資も食糧も無い戦後焼け野原から出発した吉本にとって、科学技術による生産力を大衆の原像の血肉として繰り込むことは、思想以前に生命としての生き残り戦略であり「〈自然〉過程」(p.176)であった。そこに、思想家吉本隆明の上昇と失速の原因が潜む。吉本没後10年、今でも生半可な反前衛党意識でもって自由の戦士を気取る小吉本が後を絶たない中で、真なる共同幻想を溶解する闘いは途上にある。



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