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みずから我が涙をぬぐいたまう日 - 大江健三郎 (講談社文芸文庫)

2024-05-24 05:30:30 | 読書メモ

万延元年のフットボールの次は、中編2編を読んでみました。

三島の死に衝撃を受けたというキャッチに惹かれました。

で、大江健三郎の文体は、万延元年のフットボール、芽むしり仔撃ちなどを読んで、だいぶん慣れたと思っていたのですが、このみずから涙をぬぐいたまう日、はそれでも読みにくかった。

文体だけでなく、構成もややこしい、主人公への客観的な描写、遺言代執行人の言葉、本人の言葉が交じっていて、その境界線があいまいになることがしばしばでした。

三島の「英霊の聲」のように直接的な表現や、大江の「セブンティーン」のような過激な表現による天皇制論の展開という先入観(思い込み)があったせいで、本書の内容はどこまで読んでも、すっきりとしないままでした。

そんなわけで、一度読み終えたあと、「著者から読者へ」を読み、最初からまた読み直してみました。そこでやっと、大江のユーモアというか、批判内容というのが理解できました。かなり時間が掛かった一冊です。

最初に読んだときは、遺言代執行人の正体が最後まで曖昧模糊のままでした。というのは、P30の「、、と遺言代執行人はいった。そこで限定された「看護婦」という名詞で呼ばれることになったところの」の箇所から、遺言代執行人=看護婦だと脳にインプットされたまま読み進めたせいです。実際には後半、母親の言葉を遮り「私もそう思います!」と遺言代執行人が発するところで、それまでのもやもやがクリアになって、その後はストーリーが綺麗につながりました。

また、「あの人」は、直接的には父親を指すのですが、純粋天皇もしくは昭和天皇の暗喩もあると考えながら読み進めていたのですが、これもわかりにくい暗喩ではありました。

2回目を読み終えたあとに、やっと頭の中が整理され、大江健三郎の主張がわかったように思います。三島への批判というのもわかりました。ユーモアを交えている小説ですが、内容はすこぶる重い、暗いものです。

構成はこんな感じ。2つの中編と、その前に「二つの中編を結ぶ作家のノート」があります。
P263からの「著者から読者へ」は、1986年頃に書かれたものです。

なお、もう一遍の「月の男」は、すらすらと読めます。最後で、「みずから涙をぬぐいたまう日」の主人公との接点がみられます。

初出は1972年。文庫化は1974年ですが、本書は1991年にふりがななどの改訂を行い、「著者から読者へ」を追加したものです。

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p.s. 朝ごはんが贅沢。



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