「生協だれでも9条ネットワーク」

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【情報】2018/11/03「生協だれでも9条ネットワークの集い」その6:沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない②(大久保厚)

2019-01-29 23:57:25 | 情報提供
【情報】沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない~:大久保厚②
4)北緯 29 度以南の分離と沖縄の要塞化
①中国の青島「花石楼(蒋介石別荘)」には以下の記述がある。
「45 年 9 月日本軍が無条件降伏すると、国民党軍は共産党支配地を攻撃し、国共合作は崩壊した。46 年 7 月から国共内戦が本格化し、人民解放軍は 48年に東北を奪回し、49 年に北平(現北京)に入城、4 月南京を占領する。蒋介石は、政権を広州に移すが、自身は、米軍基地のある青島に逃走した。蒋介石は、米軍の青島駐留を望み、秘密協定を結び、一時 20 万人を駐留させた。5 月人民解放軍は、青島攻略を宣言し、6 月 2 日、米軍は撤収した。」
②49 年 10 月 NSC13/3 政策転換=「沖縄要塞化と長期支配」
・軍事基地を長期保存し、基地開発を進める
・沖縄基地安定化のために、経済的、社会的福祉計画を実施する。
・長期的戦略支配を可能とするための国際的承認を追求する。
③1949 年からの基地建設ブーム
沖縄島だけでは人手が足りず、宮古、八重山などの先島離島、そしてなにより「琉球」の辺境として当時貧窮に追い詰められていた奄美諸島から労働力が調達された。その数3~7万人、最大で奄美人口の3分の1が沖縄にきていた。

5)島ぐるみ闘争と 57 年岸・アイゼンハワー共同コミュニケ
①53 年3月講和後の新たな基地建設のための土地収用法が公布されて現那覇市の安謝、銘苅、小禄などで武装米兵による暴力的な土地接収が始まった。
②55 年3月と7月に米軍は、数百の武装部隊による伊江島・伊佐浜の軍事制圧に乗り出した。陸海で展開する部隊の前に座り込んだのは、老人、子供も無防備のまま殴る蹴るの暴行を受けて、逮捕拘引され、家屋や田畑は焼き払われ、ブルドーザーで敷きならされた。
③56 年沖縄統一メーデー大会の勢いをえて、立法院は5月19日、「軍用地問題に関する四原則」を全会一致で採決した。
・軍用地料の一括払いによる土地買上反対
・新規接収に反対する。
・適正補償・損害賠償。
④56 年5月沖縄からの渡米折衝団の要請でアメリカ下院軍事委員会派遣調団は、この沖縄四原則を全面否定する報告書:プライス勧告を発表した。
⑤56 年6月、行政院、立法院、市町村会、土地連合会(4万地主)からなる四者協議会は。四原則貫徹で総辞職し、翌日総辞職「決意書」を民政府に提出。島ぐるみ闘争の開始である。
⑥「1957 年1月30日、群馬県相馬が原演習場にて、米兵が薬莢拾いをしていた日本人女性を射殺するという、いわゆる「ジラード事件」が起こる。同事件に触発されて、1956 年9月7日に静岡東富士演習場で、第三海兵師団第三連隊の兵士が、同様に薬莢拾いの日本女性を撃った事件についても、国会で野党が取り上げるようになり、日本政府が遅まきながら、調査をはじめざるを得なくなった。」(「沖縄と海兵隊」P40 )
⑦57 年6月岸・アイゼンハワー共同コミュニケ:「合衆国は、日本の防衛力整備計画を歓迎し、よって、安全保障条約の文言及び精神に従って,明年中に日本国内の合衆国軍隊の兵力を、すべての合衆国陸上戦闘部隊のすみやかな撤退を含み、大幅に削減する。なお合衆国は、日本の防衛力の増強に伴い,合衆国の兵力を一層削減することを計画している。」
⑧このコミュニケは、日本政府が始めて、北緯 27 度以南の琉球諸島に対する「潜在主権」をもつことを両国間で公式に確認した。これは講和条約締結時に用意した〈住民の主権性〉封じ込めを現実に発動させた「島ぐるみ闘争」の鎮圧策であった。この声明により、社会運動で沖縄住民の発揮しつつある自己決定権が日本政府による決定に従属するものであることが明確にされた。そのため米軍統治下からの解放という課題にかかわって、沖縄の政治空間は、それ自体では完結できない̶̶これが最大のポイントであった。戦後沖縄の社会運動は、沖縄内部の自治社会の建設に基礎を持ちながら、日本を単位とした主権の回復に解放の展望に求めざるをえないように構造設定されていた。
⑨「50 年代の極東米軍再編の過程で、1957 年の陸上兵力撤退の決定を境に、在日米軍基地が文官や補給部隊が駐留する後方支援部隊へとその役割を転じた。逆に、沖縄には 1960 年に陸軍第一特殊部隊が配備され、さらに 1961 年から 1963 年にかけて、戦闘戦力が倍増された結果、1965 年初頭の時点で陸軍1万 4000 人、海軍 2000 人、空軍1万 2000 人、海兵隊2万人が沖縄117 ヶ所の基地に駐留するに至る。同年に米国がベトナム戦争への本格介入を開始すると、沖縄は、出撃基地としてだけでなく、対ゲリラ戦の訓練基地、補給基地、運輸・通信の中継基地として重要な役割を担うようになり、同島に駐留する米軍兵力や爆撃機と戦闘機の数はさらに膨れ上がった。(「沖縄と海兵隊」P45 )

6)沖縄返還と在沖海兵隊(以下「沖縄と海兵隊」より)
①「69 年1月に発足したニクソン政権は、(中略)1969 年から 1972 年にかけて、南ベトナムから約47万人(主に陸軍)、韓国から約2万人(主に陸軍)、フィリピンから約1万人(主に海・空軍)の米軍が撤退することを発表した。」
②「沖縄返還が合意されたまさにその時期に、沖縄にはベトナムから撤退した米海兵隊が再配備されていく。1969 年7月から8月にかけて第9海兵連隊がキャンプシュワブへ、11 月には、第3海兵師団司令部がキャンプコートニーへ、同時期に第4海兵連隊がキャンプハンセンへ、1971 年8月には第12海兵連隊がキャンプヘイグへ、それぞれ再配備された。また 69年 11 月には第 1 海兵師団を構成する第36海兵航空群が、普天間基地を本拠地とする。さらには、1971 年4月には第3海兵水陸両用軍司令部がキャンプコートニーへ移転する。こうして在沖海兵隊は、1967 年の1万人から、1972 年の約1万 6000 人へと増大した。」
③「1970 年1月の記者会見で、チャップマン海兵隊総司令官は、「沖縄返還後も沖縄の海兵隊基地を整理縮小または撤退させる計画はない。半永久的にこれらの基地を残すというのが、我々の計画である」と宣言している。3月チャップマンが米下院軍事委員会で説明したところによれば、ベトナムから撤退した沖縄の米海兵隊はいつでもベトナムに出動できる態勢になっていた。(朝日新聞 1970 年 3 月 12 日夕刊)
④「ところが、日本政府は、日本本土の米軍プレゼンスの縮小によって、むしろ沖縄に駐留する海兵隊をより重視するようになっていく。1970 年末の防衛庁内での論議では、在日米軍の削減によって、有事において米軍が来援するという「大きな前提の決め手の人質がいなくなる」ので「米軍が来ない危険性」があるという懸念が指摘される。それゆえ、「アメリカはどこまで引くかという歯止めが必要」で、沖縄の米軍基地や海兵隊は「抑止力として最低必要なもの」だと論じられていた。」
⑤「久保拓也防衛庁防衛局長は、1971 年 2 月の論文で、アジアからの米軍の大幅縮小を予想した上で、日本有事において、「日本に米軍の第一線兵力がいない場合、米軍の来援が制約される可能性」があることを懸念している。なぜなら、もし日本に米軍が駐留しなければ「人質がいないので事実上米軍が自動的に介入することにならない。」ということが考えられるからだった。それゆえ、久保は「米国の第一線兵力の一部が日本の領土(たとえば沖縄)に顕在することが望ましいこととなった場合、日本は、将来 NATO諸国の如く、米国より防衛費の分担を要求されることのありうべきことも考慮しておく必要があろう」と論じた。つまり久保は、沖縄をはじめとして日本国内に「人質」としての米軍は駐留し続けるため、日本政府が防衛上の負担分担を引き受ける必要を示唆したのである。」

7)金武湾をめぐる反公害運動(現在の沖縄の住民運動の原点として)
①1960 年代半ばから、琉球政府は基地依存経済から脱却しようと日本資本の誘致による「平和産業」への転換に取り組んできた。これを受けて日本政府はと三菱グループは、沖縄島東海岸の金武湾(辺野古が面する大浦絵湾の南)に大浦湾南に世界最大 2600 キロリットル規模の石油備蓄基地(CTS)やアルミ工場、原子力発電所など巨大コンビナートを建設する計画をたて 72 年復帰直後に駆け込みで、琉球政府から許可を得て埋め立てを開始した。(1000 坪の内、発覚時 73 年夏の64万坪で埋め立てを阻止)
②米軍統治記に建設された石油関連施設は、すでに東海岸で深刻な公害被害を生み出しており、そこに巨大な CTS 建設が重なれば、東海岸は、生物の棲めない死の海とかすことが明らかだった。そのため計画が露呈した1973 年夏以降、沖縄中部の与那城村・具志側(現在はともにうるま市)の地元住民を中心とした「金武湾を守る会」の反公害住民運動が激しく展開された。
③金武湾闘争は(1973 年~83 年)は、それ以降、「一坪反戦地主会」(83 年~)、新石垣空港建設をめぐる白保の海を守る運動(83 年~)、恩納村都市型戦闘訓練施設工事阻止(89 年~92 年)、本部村の自衛隊 P3C 基地阻止運動(88 年~08 年)など、地元住民や反戦地主などの当事者を外部の幅広い支援体制で包み込んで守り、1歩ずつ地歩を固めていく運動が続いた。
④「金武湾を守る会」は、a)組織の論理の押し付けを防ぐため、団体加盟を禁じ個人加盟とする。b)会長はおかず、会議・集会に参加した全員が代表となり、トップの籠絡による切り崩しを防ぐ。c)地元住民が主体となり、党派の内ゲバは排除する方針を立てた。

8)辺野古新基地建設
①1995 年5月9日、沖縄北部のある町で、文房具点でノート買って家路を急いでいた小学6年生が後から掴まえられ、自動車に押しこめられ連れ去られた。激しく殴打され、目も口もガムテープでふさがれ、抵抗したため、手も足もぐるぐる巻きにされて、ビーチでレイプされ、放置された。少女は警察に被害届を出し、担当の弁護士に「あの悪い兵隊たちは二度と外に出られないように、一生刑務所に閉じ込めてください」と頼んだと言う。
②犯行からまだ間もない。沖縄県警は、緊急配備を敷き、現場を確保、遺留品のビール瓶から指紋を採取し、犯行に使われたレンタカーを割り出した。8日米兵三人の逮捕状をとり、米軍に身柄の引く渡しを要求した。だが米軍は、日米地位協定を盾に、起訴前の身柄引渡を拒否した。
③丁度その時、国連の第4回世界女性会議・北京 95 から帰国したばかりの沖縄の女性人権団体のメンバーたちが、ラジオ・新聞が伝えたこのニュースに愕然として、わき目を振らずに、走り出した。「一刻も猶予できない」。二年前にも同様の事件で被害届を出した女性が現れたが、米軍が身柄引渡を拒否している間に容疑者は逃亡した、4ヶ月後にアメリカでつかまった時、孤立感を深め、被害者は、告訴を取り下げてしまっていた。
④週明けの 11 日午前、那覇市議の高里鈴与さんを中心とする北京 95 実行委員会と東門美津子副知事は、県庁で抗議声明を発表した。軍隊に NO!を突き付ける声が全沖縄に広がった。
⑤96 年末、沖縄の基地負担軽減のため、市街地の真ん中にあり、老朽化た米軍普天間飛行場を閉鎖し返還する日米合意は米側が主導して発表された(SACO 合意)。
⑥これまでと同様に代替施設をつくるとの条件がつけられ、97 年1月さっそく、地元辺野古地区による「命を守る会」が結成された。沖縄戦を体験したお年寄りが精神的な支柱となり、基地建設反対運動は、急速に名護市全体に広がった。だが当初は明確だった市長から商工会まで含む全市的な反対姿勢は、政府のなりふりかまわぬ利益供与(賛成派一人あたり数万円の金銭授受などの噂が絶えなかった)や振興策提案によって上層部から切り崩されていった。
⑦名護市民は、一からの手作りで、市民投票条例を制定し、97 年 12 月建設反対が多数を占める勝利を収めた。しかし比嘉鉄也市長は、大田昌秀知事に面会を求めたが、かなわず孤立して上京し橋本首相らと面談した。そして投票から3日後 12 月 24 日、基地受入と市長辞任を発表した。
⑧98 年2月の名護市長選は、前市長が後継指名した一坪反戦地主であった岸本建男が僅差で勝利し、11 月沖縄県知事選は、基地受入派が推す稲嶺恵一が基地反対の大田知事を破った。
⑨99 年末知事・名護市長が、15 年使用期限などの条件付きで基地建設受入を正式表明した。その見返りとして、2000 年からの毎年 100 億円、10 年間で 1000 億円を投下する北部振興事業がスタートした。更に7月とどめを刺すように名護市で G8 サミットが開催された。
⑩2005 年海上案の撤回を余儀なくされた小泉内閣の後を継いだ第一次安倍政権は、2007 年3月、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)の記述を「誤解を招く」と、日本軍による命令・強制・誘導などの表現を修正削除させた。続いて5月、辺野古沿岸部の事前調査のために、大砲・重機関銃を装備した自衛隊掃海空母「ぶんご」を投入した。
⑪07 年9月、開催された教科書検定に抗議する超党派県民大会は、宜野湾市の主会場に11万人、会場に入りきれない人が約1万人、宮古・八重山会場に6千人、人口 130 万人の「県民の10人に1人」が集まり、復帰後最大の集会となった。
⑫大人たちのなかでもっとも喝采を浴びたのが、うちなーぐちをまじえて熱烈な演説を振るう翁長武志さん、自民党の那覇市長であった。「いまこそ、国は、県民の平和を希求する思いに対し、正しい過去の歴史認識こそ未来の道標になることを知るべきだ。沖縄戦の実相を正しく後生に伝え、子供達が平和な国家や社会の形成者として育つ為にも県民一丸となって、強力な運動を展開しよう。」
⑬岩波・大江「集団自決」訴訟も、「自由史観研究会」支援の原告敗訴の判決が3月にだされた。08 年7月沖縄県議会は、辺野古への移設計画に反対する決議を可決した。
⑭2009 年政権交代で首相の座についた民主党鳩山由紀夫は、普天間基地の県内移設を一度は取り下げ、県外・国外の移設先を探したが、翌 2010 年 5月の日米首脳会議で、ふたたび、辺野古案に回帰し、責任をとって辞任した。
⑮2010 年 12 月森本敏防衛大臣は、普天間飛行場の移転先は「軍事的には沖縄でなくともよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」、日本国内には米軍基地を「許容できるところが沖縄にしかない」。

 沖縄の歴史を振り返り、一番感じたことは以下の通りである
 今日の沖縄に関わる基本的な問題構造は、1957 年の「57 年6月岸・アイゼンハワー共同コミュニケ」のなかにある。57 年 6 月岸・アイゼンハワー共同コミュニケは、日本政府が始めて「北緯 27度以南の琉球諸島に対する「潜在主権」をもつことを両国間で公式に確認した。これは講和条約締結時に用意した〈住民の主権性〉封じ込めを現実に発動させた「島ぐるみ闘争」の鎮圧策であった。この声明により、社会運動で沖縄住民の発揮しつつある自己決定権が日本政府による決定に従属するものであることが明確にされた。そのため米軍統治下からの解放という課題にかかわって、沖縄の政治空間は、それ自体では完結できない̶̶これが最大のポイントであった。
 戦後沖縄の社会運動は、沖縄内部の自治社会の建設に基礎を持ちながら、日本を単位とした主権の回復に解放の展望に求めざるをえないように構造設定されていた。
 つまり
①米国の陸上戦闘部隊を撤退する(米軍基地の沖縄依存を強化する。)
②沖縄の潜在主権がどこにあるのかが明確となった。
③つまり沖縄の自決権は日本政府の決定に従属することが明確になった。
④従って沖縄の新の意味の主権は、日本の主権回復がない限り実現できない。
ということである。
 沖縄の本土復帰は沖縄の自主決定権を実現する道になったのであろうか?その問いは沖縄人からの本土人に対する以下の問いとして受け止めることが不可欠ではないだろうか。
「日本は本当に自決権を行使できる独立した自由な国家なのだろうか?」と。「日本は、自決権さえ持てない最も奴隷的な国家ではないだろうか?」と。


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