「生協だれでも9条ネットワーク」

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【情報】2018/11/03「生協だれでも9条ネットワークの集い」その6:沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない①(大久保厚)

2019-01-29 23:44:26 | 情報提供
<管理人より>
 昨年11/3に開催された「生協だれでも9条ネットワークの集い」の報告その6です。大久保厚さんは当日参加できなくなりましたが、「レジュメ:沖縄と地位協定について~日本の戦後が終わらない~」を参考資料として提出されました。長いので4回連載にしてご紹介します。
【情報】沖縄と地位協定について考える~日本の戦後が終わらない~:大久保厚①
はじめに
 沖縄と地位協定は同根である。その元凶は日本が独立したと言われる 1951年9月調印の「サンフランシスコ条約」にある。
 沖縄は「サンフランシスコ条約」3条により、南西諸島(北緯 29 度以南)・琉球諸島・大東諸島などをアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意することよって、米軍の軍事占領が継続されることになった。
 日米地位協定の前身は、この講和条約に続いてサンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地内にある下士官集会所に移動し、吉田全権大使一名のみが署名調印した日米安全保障条約第3条に基づく「日米行政協定」であり、60 年安保改定時に国会審議を経ることなく、安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定:「日米地位協定」として改定されたものである。
 沖縄はすでに沖縄戦以降 30 年に渡る運動を通じて、軍事占領下からの公民権運動と自主決定権運動としての祖国復帰運動をすすめ、1972 年に祖国復帰を果たしたが、この祖国復帰を契機に日本本土の米軍基地の沖縄移転が更に加速し、日本国土面積 0.6%に過ぎない沖縄に敷地面積 70%の米軍基地が存在する島となり、その上更に今日米海軍と海兵隊基地を併設する軍港として辺野古新基地の建設が強行される事態の渦中にある。
 ここでは、日本政府の戦後沖縄に関する歴史的な経緯を振り返りながら、今日の沖縄について考える視点について考察し、合わせて日米地位協定に関する基本的な問題について検証する。

1. 沖縄について
1)沖縄戦の実相
「沖縄スパイ戦史」より
①陸軍中野学校(出身者 42 名)は、兵役に満たない少年兵「護郷隊」1000名を徴用し、沖縄戦でゲリラとスパイの戦闘を指揮し、「護郷隊」146 名を戦死させ、敗走中に逃走に適さない者を殺害した。
②日本軍は、波照間島と石垣島においてスパイが先導した軍命の強制移住に伴うマラリア地獄によって 3700 名に及ぶ死者を産み出した。波照間島は米軍の上陸がなく、戦死者はいないが、マラリアで病死した島民は3分の1にあたる 500 名に及ぶ。軍事作戦に価値がないと判断され、徴兵で家長が出征し、婦人と幼年者だけとなった波照間島民にマラリアの蔓延る西表島への移住が強要され、二千頭の牛馬は軍食用とされた。
③沖縄戦敗残兵と在郷軍人「国士隊」は、スパイリストを作成し、住民を虐殺した。部隊から離散した敗残兵は投降兵を、在郷軍人は、英語を話す住民やまた勤労奉仕で軍事施設を知る住民をスパイリストに掲載し、順次殺害した。つまり沖縄戦では米軍との戦闘で戦死したばかりではなく、日本兵や在郷県民によって殺害された犠牲者が多数存在する現実があったという。
*「戦後沖縄民衆史」より
④日本陸軍を引き継ぐ陸上自衛隊の戦史は沖縄戦をこう総括している。「この軍民官一体の敢闘は、米軍に多大の出血を強要してその心胆を寒からしめ、もってその本土攻撃を慎重にさせ、わが本土決戦準備に貴重な日時を与えた。」(陸戦史研究普及会編「沖縄作戦」)つまり作戦は成功をおさめてその上に現在の政府があると認識されているからである。
⑤「たしかに沖縄戦で米軍は太平洋戦争で最大の 12,000 人の死者を出し、負傷者との合計でいえば、8,5000 人。死傷者数では、日本軍の 10 万人と大差がない。戦力の差が歴然としていた相手になぜここまでの大打撃をうけたのか?」
⑥「時間かせぎのための死を強要された日本兵たちは、勝負を度外視してあたかも死ぬためだけに切り込み突撃を繰り返した。捕虜・傷病兵の保護に関する国際条約を無視し、人間の尊厳などみじんもない「狂信的な敵との終わりなき接近戦」は、米兵にとって悪夢の連続であった。そのためかつてない比率と深刻度で戦争神経症の発症者が膨大にあらわれ、その人数は公表された部分的なデータをみただけでも米軍の戦死者数を上回った。それも死傷者数のなかに含まれている。」

2)戦後直後の沖縄
①「沖縄戦は、住民のおよそ四人に一人が亡くなった戦争として知られている。だが、その一方で戦火を生き抜いた“残りの三人” ——約 33 万人にとって、この戦争は〈捨て石〉の戦争であるにとどまらず、米軍に郷土を奪ばわれた住家から追い立てられていく〈占領〉の進行過程としてあった。」
②「膨大な民有地・公有地が問答無用にうばわれ、日本軍の読谷、嘉手納の二大飛行場は、沖縄戦上陸からわずか 10 日後に米軍飛行場に生まれかわって運用を開始した。」
「その間、住民は主として、東海岸中北部に設置された沖縄島面積 10%ほどの軍政地域に送られ、12 ヶ所の民間人収容所(地区)に押しこめられていった。その数は、4月末で 11 万人、7月末には生存した住民の全員にちかい 32 万に達した。」 、、
③「そしてこの〈捨て石〉作戦の膨大な効果は、戦後の〈占領〉の在り方を決定づけた。米軍部は、自国の若者の大量の「血を流して得た」他に代え難いたい征服地として、その後もながく沖縄の排他的な長期保有に拘った(宮里政玄「アメリカの沖縄政策」ニライ社 1986 年)。それは隠された歴史的な報復である。在沖米軍基地につけられているキャンプ・シュワブ、ハンセン、キンザーなどの名は、沖縄戦で名誉勲章を受章した戦死米兵の名前にちなんだもので、かれら青年の血であがなったという歴史性が基地の固有名のなかに埋め込まれている。」
④那覇奥武山の収容所にいた日本兵たちは、軍作業場にくる沖縄女性たちが使う便所の清掃を米兵から命じられたが、ある日、こう書き残して去った。「お前達は、それでも日本の女か!ヤンキーだけにチヤホヤしやがって。俺たちは男だぞ、日本の男だぞ。お前たちの便所の掃除までさせられるのは真っ平だ。今後は絶対にお前たちの便所の清掃はお前たちでやれ!売他女共!」翌日、同じ場所にこう記された紙がおかれていた。沖縄の娘を侮辱しないでください。私達は戦ってきたのです。それでもあなた方は日本の軍人ですか。日本の軍人なら軍人らしくずっと前に何故戦死なさらなかったのでしょう。PW(捕虜)なんか恥ずかしいとは思いになりませんか。
PW(捕虜)は米軍の命令を守ればいいのです。たとえ命ぜられた仕事が女便所の掃除でも̶̶それがいやだったら日本の男らしく腹を切ったらいかがです。
⑤米兵によるレイプは、家族や人びとの目の前でも、いたるところで起こり、抵抗すれば射殺されることも珍しくなかった。これに対して収容所生活の時代でも、男たちはときに夜陰に紛れ鎌や鍬、モリ、石などを手に侵入者に迫っていった。
それから、どのようにしれ葛に脚をとらせるための藷畑に黒人兵を追い込んだことか。五、六名の白人兵とどのような石合戦をやり、半殺しにしたか。どのように越来城付近の崖に一ダースばかりのアメリカ兵を追い込み、ついにかれらが崖から墜落せざるを得ないところまで、攻撃したか。人びとの話は尽きないのである。(関広延「だれも書かなかった沖縄」講談社文庫 1985 年)

3)裕仁:「天皇メッセージ」
①沖縄の切り捨ては、沖縄戦で一度きり行われただけではすまなかった。戦後日本の外交にもそれは大きな呪縛を投げかけた。連合国軍総指令部(GHQ)のダグラス・マッカーサー最高指令官は、1947 年6月沖縄占領に対する日本側の意向について「琉球はわれわれの自然の国境である。沖縄人が日本人でない以上、米国の沖縄占領に対して反対しているようなことはないようだ」と来日した米国記者団に見解を披露した。
②「これに反応したのか9月、昭和天皇は GHQ 政治顧問ウィリアムジョセフ・シーボルトのもとに側近を送り、いわゆる「天皇メッセージ」を届けさせた。「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球の他の諸島を軍事占領しつづけていることを希望している」、但し占領にあたっては日本がアメリカに沖縄を長期租借(25 年から 50 年或いはそれ以上)させる形式をとって両国の共通利益をはかり、共産主義の脅威にたいする日本の安全を確保すべきだ
(進藤榮一:世界 1979 年4月号̶̶これがその内容である。
③「天皇の行動により、戦後日本の対沖縄政策の方向性が明確にされた。「天皇メッセージ」をめぐるもっとも重要なポイントはここにある。」インパクトは、アメリカの占領政策の立案ではなく、日本の長期的政治・外交方針の方にこそあった。第一に十数万の住民を巻き添えにして米軍の長期占領を決定づけた沖縄守備軍の作戦行動が、ここで天皇によって是認され活用された。第二に、日本政府は、決して沖縄を無条件に手放したのではなく、戦後も引き続き〈捨て石〉として活用する政治が開始された。」
④「昭和天皇は、翌 48 年2月に二度目の「天皇メッセージ」をシーボルトに送り、中国ソ連の共産主義勢力に対する防衛線を「南朝鮮、日本、琉球」、台湾、フィリピンにかけて引くこと」を提案した。前回のメッセージで提起した日本と沖縄の分離方針を再確認するとともに今度はそれをアメリカのアジア防共戦略全体のなかに定置させようとした(進藤榮一:「分割された領土̶もうひとつの戦後史」)。
⑤自分が自由にできる〈捨て石〉をできるだけ好条件でアメリカに貸し付けそうすることで、そこに居着いた米軍をもって、当時明確に帝政・天皇制廃止をめざしていた共産主義諸国からの防衛態勢を築く̶̶昭和天皇の「国体護持」工作は日本の敗戦をまたいで完遂された。後に天皇はこのメッセージ外交を「アメリカに占領してもらうのが、沖縄の安全を保つ上から一番よかろう」と回顧している(『入江相政日記 5』朝日新聞社)

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