臭く純友 追捕小野。
939年 藤原純友の乱 追捕使 小野好古
[ポイント]
1.藤原純友の乱は小野好古と源経基が平定した。
[解説]
1.藤原純友(?~941)は、伊予掾(いよのじょう)として海賊(かいぞく)追捕(ついぶ)にあたっていたが、939年東国で平将門の乱が起こると(呼応(こおう)の証拠(しょうこ)はない)、立場を一転して瀬戸内海の海賊の首領となり、日振島を根拠地として反乱を起し、大宰府を焼き討ちしたりした。
2.朝廷は小野好古(884~968)を追捕使(ついぶし)とし、源経基(生没年不詳、清和源氏の祖)に命じて941年にようやく平定した。
〈2014早大・政経
3.下線部(3)承平天慶の乱についての説明として誤っているものはどれか。
ア 乱はいずれも藤原忠平の摂政在任中に起こった。
イ 乱を起こした藤原純友と平将門は、それぞれ国府を攻め落とした。
ウ 乱を起こした藤原純友と平将門は、いずれも任官の経験がある。
エ 乱の鎮圧には追捕使か押領使が関与した。
オ 乱を鎮圧した者の家柄はともにのちに武門の棟梁と呼ばれた。
(答:ウ ※藤原純友は従五位下伊予掾(じょう)(つまり伊予国の行政官で守(かみ)・介(すけ)に次ぐ三等官)。平将門は、滝口の武士でしかなく検非違使の佐(すけ)や尉(じょう)を望んだが任官できていない)〉