中世212.鎌倉文化(兄弟と著書) ◇C
[ゴロ]軍艦エンジンに/苦情はたまよ
(愚管抄・慈円)(九条兼実(かねざね)・玉葉(ぎょくよう))
[句意](我が社製の)軍艦エンジン(機関)に対する苦情はたまにしかないよ、という句。
[ポイント]
1.兄九条兼実は日記『玉葉』、弟慈円は史書『愚管抄』を著した。
[解説]
1.九条兼実(1149~1207)は 関白太政大臣。保元の乱の勝者藤原忠通の子。
2.『玉葉』(1164~1200)は、兼実の日記で、平安時代末期から鎌倉初期の基礎資料。朝廷側の視点で書かれており、鎌倉幕府正史『吾妻鏡』と比較検討する事で、この鎌倉初期の歴史を客観的にみることができる。
3.慈円(慈鎮、1155~1225)は九条兼実の弟で、天台宗の最高位天台座主となった学僧。謚(おくりな)は慈鎮。『新古今和歌集』の歌人としても有名。
4.『愚管抄』(1220成立)は、道理と末法思想によって歴史をみている。神武天皇から承久の乱直前までを7期に分けている。承久の乱直前(1220)に著し、後鳥羽上皇に献じて、討幕計画を諫めたといわれる。(従って承久の乱そのものの記述が有るはずがない←2012早大文化構想正誤問題(×『愚管抄』は承久の乱について詳しい)。我国最初の歴史哲学書。
5.なお鎌倉幕府の公式史書に上述の『吾妻鏡』(13C半~14C初)がある。編者不詳で、1180年の源頼政の挙兵以後から1266年宗尊親王の帰京までの諸事件を、日記体で記しており、鎌倉時代の最も重要な資料。
〈2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))
鎌倉幕府が成立すると、将軍家の女性も妻・母として政治への影響力を強めていった。源頼朝の妻( ア )は頼朝死後2代・3代将軍の母として御家人の信頼を集めつつ、幕府政治を安定させ、( イ )の後には、摂関家から幼少の将軍を出しつつも、彼女が政治を左右していた。もちろん、正式に征夷大将軍に任命されていないが、幕府の正史である( ウ )は彼女のことを「尼将軍」と誇っている。
問1 空欄( ア )に入る姓名を記述解答欄に漢字で記入しなさい。
問2 空欄( イ )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
1宝治合戦 2元弘の変
3承久の乱 4霜月騒動
問3 空欄( ウ )に入る語句として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
1大鏡 2吾妻鏡
3愚管抄 4十訓抄
(答:問1北条政子、問2→3、問3→2)〉
〈2014立大・現代心理社会コミュ福祉
問6.この鎌倉時代の文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.西行は出家し、諸国を流浪しながら『東関紀行』を著した
b.慈円は歴史を貫く原理をさぐり、『愚管抄』を著した
c.道元はひたすら座禅に徹せよと説き、臨済宗をひろめた
d.源実朝は万葉調の歌をよみ、『新古今和歌集』を編んだ
(答:b ※a『東関紀行(とうかんきこう)』は1242年成立の紀行文で作者未詳、c曹洞宗の誤り、d『金槐和歌集』の誤り)〉
〈2013明治大学・商
〔I〕以下の文章は歴史書『愚管抄』について記したものである。文章内におけるのa~eに入る最も適切な語句を1~5の中から選べ。また空欄[1~5]の中に入る最も適切な語句を漢字で記しなさい。
鎌倉時代の僧、慈円(慈鎮)は、関白[ 1 ](1149~1207)の弟であり、比叡山延暦寺の最高位[ 2 ]にまでのぼった人物である。その著書『愚管抄』は、歴史を貫く「道理」と末法思想を柱にして。神武天皇から承久の乱直前までのわが国の歴史を叙述した書物であり、とくに901年成立のa[1『日本三代実録』2『続日本後紀』3『日本文徳天皇実録』4『類聚国史』5『日本後紀』]を最後にして勅撰正史がつくられなくなった平安中期以降の歴史を知るうえでは、重要史料とされている。
類似の書物としては、南北朝時代の北畠親房によって書かれた歴史書『神皇正統記』が有名である。北畠親房はb[1『応安新式』2『樵談治要』3『建武年間記』4『職原抄』5『公事根源』]の著者としても知られているが、南朝の公家であったため『神皇正統記』は政治的には南朝の立場を正統とする思想が貫かれている。これに対し『愚管抄』には、慈円が[ 1 ]の弟であることからもわかるように、過去の摂関政治を肯定する叙述がしばしばうかがえる。
摂関政治とは、早くは藤原忠平がc[1清和 2光孝 3醍醐 4朱雀 5冷泉]天皇(923~952)の幼少時に摂政、成人すると関白についたように、藤原氏の氏長者が独占的に摂政・関白の任につき、天皇権を代行する政治形態のことである。とくに969年の安和の変で左大臣[ 3 ](914~982)を失脚させたのを最後にして、藤原北家が天皇の外戚の地位を独占し、摂政・関白がほぼ常置される体制が整った。
たとえば、以下の引用文は後三条天皇の荘園整理政策について叙述した『愚管抄』の有名な一節である。
延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ、公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿(藤原頼通)ノ時、一ノ所ノ御領々々トノミ云テ、庄園諸国ニミチテd[1受領 2記録所 3宇治殿 4郡司 5院庁]ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。
ところが、このとき藤原頼通は「ナンデウ文書カハ候ベキ」(なんで文書など持っていようか)と述べて、記録所への公験(権利を証明する文書)の提出を拒んでいる。そのため、最後は後三条天皇が折れ、「前太相国(頼通)ノ領ヲバノゾク」(頼通の荘園は除外する)ということを決定したという。ここの部分の叙述では、摂関家の荘園が他とは異なる由緒をもつものであり、後三条天皇もそれを容認していることが強調されている。
また『愚管抄』は武士の世の到来を「保元元年七月二日、[ 4 ]院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆卜云コトハヲコリテ後、ムサ(武者)ノ世ニナリニケルナリ」と表現したことでも有名であるが、一概に武家政治を否定していたわけではなかった。とくに1219年、将軍源実朝が暗殺された後、わずか二歳で将軍後継者として鎌倉幕府に推戴された三寅については、以下のように語っている。
二歳ナル若公、祖父(西園寺)公経ノ大納言ガモトニヤシナヒケルハ、正月寅月ノ寅ノ歳・寅時ムマレテ、誠ニモツネノヲサナキ人ニモ似ヌ子ノ、占ニモ宿曜ニモメデタク叶ヒタリトテ、ソレヲ、終二六月廿五日ニ、武士ドモムカヘニノボリテ、クダシツカハサレニケリ。京ヲ出ル時ヨリクダリツクマデ、イササカモイササカモナクコヱナクテヤマレニケリトテ、不可思議ノコトカナト云ケリ。
ここで慈円が、その器量を褒めたたえている「寅月ノ寅ノ歳・寅時」に生まれた三寅こそは、のちに初代の摂家将軍となる[ 5 ](1218~1256)である。慈円は「将軍ニハ摂籙ノ臣ノ家ノ君公ヲナサレヌル事ノ、イカニモイカニモ宗廟神ノ、猶君臣合體シテ昔ニカヘリテ、世ヲシバシヲサメントヲボシメシタル」(将軍に摂関家の若君を立てるということは、皇室の祖先神が君臣一体の昔の頃に帰ってしばらく世の中を治めさせようと、お考えになったために実現したものである)と述べて、自身の血統から出た三寅を必要以上に高く評価し、摂家将軍の誕生に大きな期待をかけたのである。
なお『愚管抄』は、この摂家将軍を擁立した北条政子についても、「女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリ」(日本国は女性が最後のしあげをする国だというのは本当だ)と高く評価している。こうした女性に対する高い評価がなされる背景には、慈円が生きた当時の社会では、実際に女性が政治や経済に大きな力をもっていたという事情があった。たとえば、内親王e[1障子 2姸子 3得子 4嬉子 5時子](1137~1211)は父母から伝領した膨大な荘園群を管理し、八条女院とよばれ、治承・寿永の内乱の政局にも大きな影響力を発揮している。
(答:1九条兼実、2天台座主、3源高明、4鳥羽、5九条頼経〔藤原頼経〕、a1、b4、c4、d1、e1)〉
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