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隋の統一と唐の隆盛

2018-09-23 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

用語リストへア.隋の統一と唐の隆盛
■ポイント 統一を再現した隋はどのように中国を統治したか。なぜ短期間で唐に代わったか、を知る。
 隋 の統一
581年 北朝、北周の軍人出身a 楊堅 が禅譲を受け即位(文帝)。都b 大興城 を建設。長安の東南。
589年 南朝のc 陳 を滅ぼす。 意義 d 南北朝の分裂を終わらせ、中国を統一した。  

解説

楊堅は、鮮卑族の出身であるが、鮮卑は北魏の孝文帝以来、漢文化に同化しているので遊牧生活を送っていたわけではない。しかし、西魏に始まる府兵制など、軍事力の組織化にすぐれ、楊堅も強力な軍事力を有していた。外戚という立場で禅譲(平和的に帝位を譲り受けること)を受けたが、その権力を支えたのは強力な軍隊で会った。なお、楊堅は北周を建国した宇文泰や後の唐を建国する李淵らとおなじ関隴集団といわれる陝西省・甘粛省一帯を基盤とした武人集団に属し、かれらが互いに血縁関係を結び、北魏から隋唐に至る支配層を形成していたことが注目されている。
・土地制度:北魏の土地公有の原則にもとづくe 均田制 を継承。
・税制:f 租庸調制 を整備。(後出)
・軍事制度:西魏で始まったg 府兵制 を継承。(後出)
・官吏登用制:h 九品中正制 を廃止し、官吏登用(選挙)に科目別試験を用いるi 科挙 の制度を始める。
→ 唐以降の各王朝に継承され、清朝末期の20世紀まで続く。(後出)
・▲法律の整備:j 律令 を制定。→ 皇帝を中心とした中央集権化をはかる。
 → 唐に受け継がれて完成する。さらに朝鮮・日本など東アジア諸国でも取り入れられる。
・北方の遊牧国家 k 突厥 、隋に圧迫され、583年、東西に分裂。(後出)
 煬帝  第2代皇帝 604~618年
・a 大運河 の完成:開発の進んだ江南の物資を、華北に運ぶ動脈となる。後代にも大きな役割を果たす。

隋代の運河

隋代の運河
 a 広通渠   
 b 永済渠   
 c 通済渠   
 d 山陽瀆   
 e 江南河   
 主要都市
 1 大興城(長安)  
 2 洛陽    
 3 汴州(開封)  
 4 江都(揚州) 
 5 余杭(杭州)  
 6 涿郡(北京)  

607年 日本のb 聖徳太子 、遣隋使(小野妹子)を派遺、煬帝と交渉し、対等な外交を望む。
612年以後、3度にわたるa 高句麗 に遠征するも、失敗。土木工事と共に農民の困窮をもたらす。
 → 各地に反乱起こる。 → 618年 江都で暗殺され、隋滅亡。
 唐 の建国
・隋の武将a 李淵 、山西で挙兵、大興城を占領する。東突厥と結ぶ。
618年 隋を滅ぼし、建国。即位してb 高祖 。都は大興城近くにc 長安 を建設。

解説

李淵も隋の楊堅と同じように鮮卑系の関隴集団に属しており、鮮卑系の家系であるが、すでに漢化しており漢民族と自覚されていた。武人集団を率いて強力な軍事力を持ち、東突厥など遊牧民の力を利用しながら隋末の混乱を乗り切り、建国した。しかし、李淵(高祖)の時はまだ全中国に支配は及んでいなかった。

Text p.88

 太宗 による中国統治
・李淵の子、a 李世民 、実権を握り2代皇帝D 太宗 となる。

解説

李世民は李淵の次男で、父親に挙兵を勧め、隋との戦いでも最も勲功があった。皇太子ではなかったが、626年に兄の皇太子を殺害して皇太子となり、まもなく父を幽閉して即位し、太宗となった。このような非常手段で即位したが、その治世は貞観の治と言われて安定し、唐王朝の繁栄を築いた名君と言われている。
 → 唐の統治を安定させ、最初の繁栄期を迎える。=▲e 貞観の治 (627~649)といわれる。
630年 c 東突厥 を服属させ、遊牧民諸部族から▲d 天可汗 の称号を贈られる。
 = 可汗は柔然以来の北方遊牧民の王位。太宗が漢民族と北方民族を共に統治する皇帝となったことを意味する。

解説

630年、唐の太宗(李世民)は軍隊を派遣してモンゴル高原の東突厥を攻撃した。唐軍は突厥と同じトルコ系の鉄勒と結び、東突厥を服属させた。このとき、鉄勒諸族は、太宗に対して、天可汗(テングリカガンの漢訳)という称号を贈った。この称号は遊牧民の最高君主、「世界皇帝」を意味するもので、これによって唐の太宗はまさに「世界帝国」の統治者として認知されたことになる。
・3代 e 高宗 (649~683年) 東のf 百済 ・g 高句麗 を破る。西はh 西域 を領有。
・征服地にはi 都護府 をおく。安東都護府、安西都護府、安南都護府、安北都護府など。
 = 実際はその地の有力者に統治を任せるj 羈縻政策 をとる。

解説

羈縻(きび)とは、馬や牛をつなぎ止めておくこと。唐王朝はその支配領域に多くの異民族を組み入れ、それらを治めるために、六都護府を置き、その下に都督府、刺史をおいて監督した。都護府には中央から長官と付属の軍隊を派遣したが、都督、刺史には現地の異民族の族長を任命した。このような、一定程度、現地人に支配を任せる体制を羈縻政策と言った。なお、それとは別に東アジアの諸国には、漢以来の冊封体制も維持されていた。ただし、奈良時代の日本は遣唐使を派遣して朝貢したが、冊封体制には入らなかった。
・7世紀 唐の全盛期
 a 世界帝国 としての唐 b 唐は多くの異民族をその支配下に置き、都長安には国際都市として繁栄した。  
先頭へ
用語リストへイ.唐代の制度と文化
■ポイント 日本など東アジア諸地域に大きな影響を与えた律令制度と唐文化の概要を理解する。
(1)律令制度
 律令制度  法体系 a 律 =刑法 b 令 =行政法 c 格 =臨時法 d 式 =施行細則
・中央機構=e 三省 :f 中書省 (詔勅の起草) g 門下省 (詔勅の審議) h 尚書省 (執行)
 i 六部 :吏部(官吏の人事)・戸部(財政)・礼部(儀礼)・兵部(軍事)・刑部(司法)・工部(土木・建築)
 監察機関=御史台
・地方制度=j 州県制  全国を州に分け、州を県に分ける。それぞれに中央から官吏を派遣。
・官吏登用制度=k 科挙制度 :秀才・明経・進士などの科目別の試験による官吏登用制度。次の宋時代に完成。
        貴族の子弟には蔭位の制の特権(親の地位によって子の官位が決まる)があった。
 均田制  意味:a 土地の公有を原則として成年男子に均等に土地を支給し、租税と兵役を負担させる制度。 
・16才以上の男子にb 口分田 (80畝)を班給して耕作させ租税を負担させる。
・死ねば国家に返還する。ただし、他に世襲の▲c 永業田 20畝を支給した。
・60才以上の老人やには40畝、未亡人には30畝を支拾した。(北魏の制度との違いに注意)
  → 日本のd 班田収授法 の手本とされる。
 ※実施状況は西域の敦煌文書やトルファンで出土した給田文書などで知ることが出来る。
・口分田の支給のためにe 戸籍 を作成して本籍地を定め、f 租税台帳 を作成して租庸調・雑徭を賦課した。
・高級官僚の私有地は認められており、貴族はe 荘園 を小作人(隷属的な農民)に耕作させていた。
 租庸調制  均田制をもとにした租税制度。口分田を耕作する丁男(成年男子)にかかる人頭税。
・a 租 :粟2石の現物で納める。
・b 庸 :年20日の労役を「正役」といい、その代償物の絹を納める。
・c 調 :絹、綿、布または麻斤の現物で納める。
・d 雑徭 :年40日の地方での労役に従事する。
※ポイント
 口分田を耕作する丁男にかかる人頭税で、現物納で定額制であることと、労役(徭役ともいう)の比重が大きいこと。
 府兵制  a 西魏 に始まる軍事制度を継承。b 口分田を班給される男子から徴兵する制度。 
・農民から徴発された兵士は地方の折衝府に勤務する。租庸調は免除になるが、武器は自弁した。
・兵士の中から、都の警備(衛士)、辺境の防備(防人)などに選ばれる。
 貨幣制度
・621年  高祖がa 開元通宝 を発行。漢の五銖銭以来の統一貨幣として使用された。

Text p.89

(2)唐代の文化
 長安  の繁栄
長安城・皇帝の居城であり、執務の場である宮城を中心とし、
 南に延びる朱雀大路を軸に、東西対称の都市計画をもつ。
 日本のa 平城京  ・平安京、渤海の上宮龍泉府のモデル。
・西域を通しササン朝ペルシアからイラン文化が伝えられ、
 各地から朝貢使節や商人、留学生などが集まった。
・各宗派の寺院が混在していた。
  右図 ① 大極殿    ② 西市    ③ 東市  
     ④ 大慈恩寺   ⑤ 大雁塔   ⑥ 大秦寺  
     卍 仏教寺院      ┼ 景教寺院   
     × ゾロアスター教寺院  
     △ 道教寺院(道観)  

 豊かな国際性 
景教流行中国碑・唐代の外来宗教(三夷教とイスラーム教)
 a 景教  :b ネストリウス派 のキリスト教。
  → 長安に『大秦景教流行中国碑』が建設される。(右図)

解説

ネストリウス派キリスト教は431年のエフェソス公会議で異端とされ、ローマ領内での不況を禁止された。そのため東方に伝えられ、ササン朝ペルシアを通じて唐にもたらされ、景教と言われた。745年には長安にネストリウス派キリスト教の寺院である大秦寺がつくられた。またその不況を記念してつくられたのが『大秦景教流行中国碑』である。唐末には廃仏と共に景教も弾圧され、次第に衰えた。
 c 祅教 :イラン人の宗教d ゾロアスター教 。拝火教とも言われた。
 e 摩尼教 :イランのf ササン朝ペルシア 起源の宗教。以上を「三夷教」という。
 g 回教 :h イスラーム教 のこと。8世紀に伝えられた。清真教ともいう。
・イラン文明の伝来 651年 f ササン朝ペルシア の滅亡 → イラン人の長安移住
 → ポロ競技などが長安で流行した。
 → 日本にもイラン文化伝わる。
   例 法隆寺の獅子狩文錦、正倉院の漆胡瓶・白瑠璃椀など(第1章1節参照)

Text p.90

・i ムスリム商人 (イスラーム教徒のアラブ人商人)との交易
 j 揚州 ・k 広州 など華中・華南の港市に来航し、盛んに交易した。

解説

唐ではイスラーム教徒であるアラビア人(アラブ)をタージーといい、大食の漢字を当てた。イラン人がアラビア人をそう呼んだことからきているらしい。またイスラーム教徒をムスリムというのでアラビア人商人をムスリム商人と呼ぶ(イスラーム教については次章で説明)。7世紀の唐時代にすでにイスラーム商人が中国に来ていることに注意すること。
 → 広州に海上貿易を管轄するl 市舶司 がおかれる。外国人居留地は蕃坊という。
 → ▲唐ではアラブ人(イスラーム教徒)はm 大食 と言われた。

図と解説

打球図 唐への外国使節
上の図はいずれも唐の高宗の皇子、章懐太子(李賢)の墓に描かれた壁画の一部。皇族の墓に唐朝の風俗とは異なる地域の文化を示す図が描かれていて興味深い。左図のポロのような騎馬競技は古代ペルシアで盛んに行われ東方に伝えられたと言われている。騎士の服装は乗馬に適した筒袖・ズボン・長靴である。右図は唐朝に朝貢に来た外国使節を描いたもの。左側三人は唐の漢人で、漢民族固有の服装をしており、右側の三人が外国使節。右から、靺鞨(中国東北地方の民族)・新羅(鳥羽冠を着けている。高句麗、渤海説もある)・ビザンツ帝国の使節と推定されている。なお、ビザンツ帝国からは貞観年間・開元年間などの使節の派遣があり、西安の遺跡からビザンツの金貨が出土している。<2003年度センター試験世界史A追試、山川詳説世界史、中国中学校歴史教科書などによる>
 中国仏教  の発展
・朝廷・貴族の保護を受け繁栄し、インドとの仏僧の往来も活発だった。
・唐僧のインドへの旅行
 a 玄奘 :629年、陸路インドに向かう。ヴァルダナ朝のハルシャ王の保護を受け、
  b ナーランダー僧院 に学び、645年に多数の経典を持ち帰り法相宗を開く。長安に慈恩寺を創建。
  旅行記c 『大唐西域記』 を著す。 → 後の『西遊記』の原作となる。
 d 義浄 :671年、海路インドに到達。経典を持ち帰る。その旅行記がe 『南海寄帰内法伝』 
・仏教の各宗派の形成。仏教教理の研究も進み、多くの宗派がおこる。
 f 浄土宗 末法思想が興り、念仏により阿弥陀如来のいる極楽浄土への往生を願う。
 g 禅宗 :インドから伝わり、坐禅により悟りを開くことを求める。
 ▲他に、華厳宗(華厳経を重視)、天台宗(法華経を重視)、h 密教 である真言宗などが興る。
 ▲後半の8世紀中期、武宗の時には弾圧を受け(会昌の廃仏)、一時衰退する。
 貴族文化 の隆盛
・儒学はa 科挙  の試験内容とされ、貴族の必須の教養となった。
・b 孔穎達 :太宗に仕え『五経正義』=五経の公式解釈書を編纂。
 → 経典の解釈を主とするc 訓詁学 が復興。内容的には固定化し、思想や学問上の発達はみられず。
・文学
唐三彩

 唐三彩 

 唐詩:初唐(太宗~則天武后の時代=7世紀)
    盛唐(玄宗の時代=8世紀前半) a 王維 ・b 李白 ・c 杜甫 
    中唐(安史の乱後から9世紀初め) d 白居易(白楽天) 
    晩唐(9世紀中頃~唐滅亡まで)
    文章:e 韓愈(韓退之) ・f 柳宗元 ら、古文の復興をとなえる。
      = 四六駢儷体の技巧を排し、漢以前の自由な表現を重んじる。
    背景:g官吏登用試験の科挙で、詩作の能力が問われたこと。  
・絵画:六朝に始まる山水画が進歩。初唐の閻立本(人物画)
   盛唐のh 呉道玄 ・李思訓・王維などが活躍。
・書道:初唐に欧陽詢・褚遂良・虞世南ら、中唐のi 顔真卿 が有名。
・工芸:j 唐三彩  緑、褐色、白で彩色した陶器。(右図)

 

 

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