意志置いてこそ民国へ。
(1401年 (祖阿(そあ)・肥富(こいつみ))(源道義(げんどうぎ)
[ポイント]
1.足利義満は、遣明使として祖阿と肥富をおくり、日本国王源道義宛ての国書をうけて国交をひらき、以後自ら日本国王臣源を名乗った。
[解説]
1.足利義満は、1401(応永8)年、明に使者として僧祖阿と博多の商人肥富に託して国書を送り国交をひらいた。明の返書は「日本国王源道義(げんどうぎ)」宛て。義満は1403(応永11)年の国書より以後「日本国王臣源(しんみなもと)」と署名、臣従を示した。
2.1404(応永12)年に明国の査証である勘合符を入手し、勘合貿易を開始。日本からの船は本字勘合を持参した。
3.わが国の輸入品は銅銭(永楽通宝など)・生糸・陶磁器など、輸出品は銅・硫黄・刀剣など。東夷どう出る どうせきっと入る
4.遣明船の請負商人は利益の10分の1を抽分銭(ちゅうぶんせん)として幕府に上納した。義満時代は幕府直営船が、その後は興福寺大乗院など寺社や大名の名義の請負船が多い。遣明船は『真如堂縁起絵巻(しんにょどうえんぎえまき)』に描かれている。
5.日明両国の国書史料出典は瑞溪周鳳(ずいけいしゅうほう)の『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』。同書は義満の対明外交を非難している。
〈2013上智大・法総合人間科神外国語
B 明から帰国した海商( イ )らの進言により遣明使を派遣した足利義満は、靖難の役といった明の政治情勢の変化を受けて、( ウ )年には「日本国王臣源」と名乗って国書を送り、翌年には朝貢貿易のいわば査証としての勘合を入手した。
問4 空欄(イ)に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選べ。
1王直 2至本 3李旦
4肥富 5陳外郎 6五官
問5 空欄(ウ)に当てはまる年代はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選べ。
1)1392 2)1399 3)1401
4)1403 5)1429 6)1433」
(答:問4→4、問5→4)
〈2013立大・文
5)日本准三后某、書を大明皇帝陛下に上る。日本国は開闢以来、聘問を上邦に通ぜざることなし。某、幸いに国鈞を秉り、海内虞なし。特に往古の規法に遵いて、肥富をして[ ]に相副え、好みを通じ、方物を献ぜしむ。(後略)
出典[ ヌ ]『善隣国宝記』
問ヌ 空所ヌに当てはまる語句を選べ。
a桂庵玄樹 b瑞渓周鳳
c無学祖元 d夢窓疎石
(答:b)
1466瑞渓周鳳『善隣国宝記』
人読むムズい国宝記。
1466瑞渓周鳳『善隣国宝記』
問 文中の空所に当てはまる語句を記せ。
(答:祖阿)
問5 下線部5に関する記述として正しいのはどれか、一つ選べ。
a 海禁政策をとっていた明は、これにこたえて日本との貿易のために塩浦を開いた。
b 遣明船は、幕府の作成した勘合と呼ばれる証票の持参を義務づけられた。
c 日本准三后某は、のちに日本国王臣源を名のった。
d 明の朱元璋は翌年、日本国の大君宛てに返書を送った。
(答:c ※b×明側が作成)
〈2012明治大・政経
問5 下線部オ)国交の回復を行った室町幕府第3代将軍についての説明として正しいものはどれか。A~Eから一つ選べ。
A 大内義弘による明徳の乱を鎮めた。
B 南朝と北朝の合体を仲介した。
C 朝廷に段銭徴収権を与えた。
D 側近である僧の肥富と博多商人の祖阿を明に派遣した。
E 死後、朝廷は「太上法皇」の称号を送ろうとしたが息子の義教が辞退した。
(答5:B ※A明徳の乱は山名氏清を滅ぼした、D肥富が商人・祖阿は僧、E義持の誤り)
問6 下線部カ)日明貿易における日本側と明側の主要な輸出品の組み合わせとして正しいものはどれか。A~Eから一つ選べ。
A(日本)銅 (明)硫黄
B(日本)生糸 (明)茶
C(日本)蒔絵 (明)漆器
D(日本)陶磁器(明)銅銭
E(日本)刀剣 (明)陶磁器
(答:問6:E)〉
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