●古墳時代(欽明天皇)
Buddhism is introduced to Japan.
ご参(さん)拝しよ 仏(ほとけ)来りゃ。
538年 『上宮聖徳法王定説』 仏教の伝来 百済
『上宮聖徳法王定説』『元興寺縁起』などの書によると、仏教は欽明天皇戊午年(538年)に聖明王から伝来したとされ《仏教を伝えた百済の王が聖明王なら日本は欽明天皇。ついでに当時の蘇我氏は稲目!〈目〉ばっかり!》、仏教公伝のはじめの年として有力視される《『日本書記』は仏教伝来の年を552年としている。552年の〈2〉を『日本書紀』の「に」と尻取りにして覚えよう!》。
渡来人や蘇我氏などに信仰された仏教は、朝廷の保護下で栄えたが、仏教の受容をめぐって崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿が対立した。
問題
2013青山学院・文
百済からわが国に仏教が公的に伝えられたのは[ a ]天皇の時代である。『日本書紀』にはその仏教伝来の翌年、百済にたいして暦博士の交替と暦本の送付を要請し、翌々年には新しい暦博士が来日したことが記される。
この時期に伝えられた暦は、百済と密接な関係にあった中国南朝の[ b ]で最初に作られた元嘉暦とされるが、そのわが国での本格的な定着は、602年に百済僧[ ア ]によって暦本・天文地理書・遁甲方術の書などがもたらされ、暦法が教授されてからであった。
(答:a欽明、b宋、ア観勒)
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
Ⅰ.次の文1~3を読み、下記の設問A~Cに答えよ。解答は解答用紙の所定欄にしるせ(一部文化に関係ない部分および後半中世部分を省略)。
1.6世紀の半ばごろ( イ )天皇の時代に、百済の聖明王から、釈迦仏の金銅像や経論が公的な形で伝えられた。このとき天皇が仏への礼拝の可否を臣下に尋ねたところ、受け容れに積極的な( ロ )が、物部尾輿と対立した。587年、( ロ )の息子は尾輿の息子を滅ぼし、一族の権勢を固めていった。
594年、(2)推古天皇は(3)三宝を興隆せよとの詔をくだした。その摂政を務める厩戸皇子が、自分に仕える渡来人系の〈 あ 〉へ、新羅から伝来した仏像を贈ったことが『日本書紀』にしるされている。
仏教を中心とする飛鳥文化が興隆するなか、わが国にも仏像を造る者が現れた。その代表的人物が鞍作鳥であり、( ハ )金堂におかれた国宝、釈迦三尊像は彼の作とされる。
2.(4)天武・持統天皇の時代を中心とする白鳳文化は、律令国家が形成される時期のためか生気あふれる作品が多い。仏像としては、興福寺の仏頭などがある。この寺は、( ニ )の死去に際し彼の邸を私寺にした山階寺が前身であり、( ニ )の子によって平城京へ移され、藤原氏の氏寺となった。
政変や飢饉、疫病の流行が相次ぐなか、聖武天皇は鎮護国家の思想に基づく国分寺建立の詔、大仏造立の詔をくだした。そして聖武天皇の跡を継いだ( ホ )天皇の時に、大仏の開眼供養がおこなわれた。
東大寺の大仏は銅像の表面に鍍金を施した金銅像であるが、天平文化の時代には、( へ )や乾漆像の制作技法も発達した。( へ )は木を芯として粘土を塗り固めて造る像で、乾漆像は粘土などの原型の上に麻布を漆で幾重にも覆い固め、中の原型を抜き取って造る像である。
3.(7)奈良時代の後期、一木造が盛んになった。量感にとみ、神秘的な表現の施された作品が多く、平安時代前期には(8)密教興隆の影響もあって造立数はさらに増えた。たとえば河内長野市の〈 い 〉の国宝、如意輪観音像がある。
末法の世が到来するとされた〈 う 〉年が近づくにつれて、浄土信仰が盛んになった。来世における極楽往生を願う貴族たちは、極楽浄土を模した仏堂を造立しだした。
藤原頼通が宇治川のほとりに建立した鳳凰堂が代表例である。鳳凰堂の本尊の阿弥陀如来像をつくったのが、( ト )である。また( ト )の時代には。仏像の身体をいくつかのバーツに分け、大勢で別々に彫った上で組み合わせる寄木造の技法が発達し、末法思想を背景とする仏像への需要の増大にこたえた。
A.文中の空所(イ~ト)それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
(答:イ欽明、ロ蘇我稲目、ハ法隆寺、ニ中臣(藤原)鎌足、ホ孝謙、ヘ塑像、ト定朝)
B.文中の空所〈あ~う〉にあてはまる適当な語句または数字を、それぞれ対応する次のa~dから1つずつ選べ。
〈あ〉a.観勒 b.高野新笠 c.裴世清 d.秦河勝
〈い〉a.観心寺 b.元興寺 c.法界寺 d.室生寺
〈う〉a.1016 b.1052 c.1112 d.1156
(答:あd、いa、うb)
C.文中の下線部(2)~(8)にそれぞれ対応する次の問に答えよ。
2.下線部(2)推古天皇に関連する記述として正しくないのはどれか。次のa~dからlつ選べ。
a.甥の厩戸皇子が編纂したとされる書に『天皇記』と『国記』がある
b.小野妹子が遣隋使として派遣された
c.十二階からなる冠位の制度がもうけられた
d.中国の文物を学ばせるため、高向玄理、南淵請安、玄を留学させた
(答:d ※×玄→旻)
3.下線部(3)三宝は、憲法十七条にも「篤く三宝を敬へ」という形でしるされている。この三宝とは何か。すべてしるせ。順序は問わない。
(答:仏・法・僧)
4.下線部(4)天武天皇に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.飛鳥浄御原令の編纂を命じた
b.額田王に『万葉集』を編纂させた
c.皇子の1人、草壁皇子を謀反の疑いで捕らえた
d.皇子の1人、有間皇子に、『日本書紀』の編纂にあたらせた
(答:a)
7.下線部(7)奈良の都への望郷の思いから、大宰府の地にて、「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と詠んだのは誰か。次のa~dからlつ選べ。
a.小野老 b.小野篁 c.小野道風 d.小野好古
(答:a)
8.下線部(8)密教に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.これを天台宗に導入した円珍の門流はのちに寺門派と呼ばれた
b.これを天台宗に導入した円仁の門流はのちに山門派と呼ばれた
c.これを日本に伝えた空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三蹟と呼ばれた
d.これを日本に伝えた空海は、庶民に門戸を開いた綜芸種智院を創設した
(答:c※三筆の誤り)〉