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平成 27 年度 金沢学院大学(一般入試後期) 世界史 第4問

2016-01-15 | 『新世界史頻出年代暗記』

 次の文章を読み、下の問いに答えよ。

 義和団事件の後、清朝は近代国家の建設に向けて改革にふみきった。しかし、清朝の 改革は増税がともなったことなどから、地方の有力者や民衆の反発をまねいた。このよ うな状況の中で、海外では、華僑や留学生を中心に漢人による清朝打倒の革命運動が盛 んになった。( ア )を指導する孫文は、1905 年、日本の東京で( イ )を組織した。  1911 年、満州皇族を中心とした内閣が幹線鉄道を国有化し、外国からの借款によっ て鉄道建設を進めようとした。これに対し、民営の鉄道建設をおこなおうとしていた民 族資本家や地方有力者は一方的な国有化に猛反発し、四川でおこった暴動をきっかけ に、( ウ )で軍隊の中の革命派が蜂起し、( エ )革命が始まった。革命軍は、帰 国した孫文を( オ )に選出し、1912 年 1 月、南京で( カ )の建国を宣言した。  清朝は、(A)北洋軍をにぎる( キ )を起用して革命側との交渉に当たらせたが、清 朝を見限った( キ )は (B)宣統帝の退位と共和政の維持を条件に、孫文から( オ ) の地位をゆずりうけ、北京で就任した。しかし、共和政は安定せず、議会の力をおさえ ようとする( キ )と、孫文を中心とする( ク )が激しく対立した。

問1 文中の( ア )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 31 ① 太平天国 ② 白蓮教 ③ 興中会 ④ 東学 問2 文中の( イ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 32 ① 中国同盟会 ② 中国共産党 ③ 人民解放軍 ④ 中国国民党 問3 文中の( ウ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 33 ① 南京 ② 重慶 ③ 広州 ④ 武昌 問4 文中の( エ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 34 ① 壬辰 ② 甲午 ③ 戊辰 ④ 辛亥 問5 文中の( オ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 35 ① 臨時首相 ② 臨時大総統 ③ 臨時大統領 ④ 臨時大総督 問6 文中の( カ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 36 ① 中華民国 ② 中華人民共和国 ③ 台湾民主国 ④ 太平天国 −8− 後−世 問7 文中の( キ )に適当な人名を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 37 ① 李鴻章 ② 陳独秀 ③ 袁世凱 ④ 段祺瑞 問8 文中の( ク )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 38 ① 中国同盟会 ② 中国共産党 ③ 人民解放軍 ④ 国民党 問9 下線 A の基盤となった淮軍をつくりあげた人物を、①~④の中から 1 つ選べ。    解答番号は 39 ① 李鴻章 ② 林則徐 ③ 洪秀全 ④ 魯迅 問 10 下線 B の説明として適当でないものを、①~④の中から 1 つ選べ。    解答番号は 40 ① 清朝最後の皇帝である。 ② 満州国の執政に擁立された。 ③ 満州国大総統になった。 ④ 満州国皇帝となった。

解答

問1 文中の( ア )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 31 ① 太平天国 ② 白蓮教 ③ 興中会 ④ 東学 問2 文中の( イ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 32

① 中国同盟会 ② 中国共産党 ③ 人民解放軍 ④中国国民党 

問3 文中の( ウ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 33 ① 南京 ② 重慶 ③ 広州 ④ 武昌 問4 文中の( エ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 34 ① 壬辰 ② 甲午 ③ 戊辰 ④ 辛亥 問5 文中の( オ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 35 ① 臨時首相 ② 臨時大総統 ③ 臨時大統領 ④ 臨時大総督

問6 文中の( カ )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 36 ① 中華民国 ② 中華人民共和国 ③ 台湾民主国 ④ 太平天国 −8− 後−世 問7 文中の( キ )に適当な人名を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 37 ① 李鴻章 ② 陳独秀 ③ 袁世凱 ④ 段祺瑞 問8 文中の( ク )に適当な語句を、①~④の中から 1 つ選べ。解答番号は 38 ① 中国同盟会 ② 中国共産党 ③ 人民解放軍 ④ 国民党 問9 下線 A の基盤となった淮軍をつくりあげた人物を、①~④の中から 1 つ選べ。    解答番号は 39 ① 李鴻章 ② 林則徐 ③ 洪秀全 ④ 魯迅 問 10 下線 B の説明として適当でないものを、①~④の中から 1 つ選べ。    解答番号は 40 ① 清朝最後の皇帝である。 ② 満州国の執政に擁立された。 ③ 満州国大総統になった。 ④ 満州国皇帝となった。

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1083(永保3)年 〈後三年の役〉★

2016-01-15 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) 源義家軍は、の飛ぶ列の乱れから敵の伏兵(左下)を知った。

●平安時代(白河天皇)

EmLater Three Years’ War begins against the Kiyohara family in Dewa and Mutsu provinces.
(い)を挟む気よ 誤算だね。
 1083年      清原氏 藤原清衡 後三年の役 

前九年の役の後、陸奥・出羽両国で勢力を広げた清原氏一族の内紛に陸奥守であった源義家が介入し、藤原清衡を助けて内紛を平定した。これが後三年の役である。この戦では義家に対して朝廷から恩賞は出ず、義家は私財で家来に恩賞を出した。このことによって源氏の名は高まった。

2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)

この源頼光に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した
 b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
 c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
 d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。

(答:a ※b安倍氏の内紛は前九年合戦の誤り、後三年合戦で勝利したのは子の義家、c源満仲は安和の変で藤原氏に協力して左大臣源高明を密告。藤原純友の乱の鎮圧は源経基、d保元の乱は源義朝(義家の嫡子為家の長男))

 〈2013明大・文

C.10世紀の前半、日本列島の東西で二つの大きな戦乱がおこった。(オ)坂東(関東地方)と瀬戸内海を舞台におこった承平・天慶の乱とよばれた二つの乱で、乱を鎮圧した勝者とその子孫たちは中央の官人となり、「都の武者」となっていった。清和源氏の頼光は摂関家とつながり受領として活躍していったが、その弟の[ d ]は、11世紀前半に再び坂東でおこった[ e ]の乱で追討使に任じられ、乱を平定したことで坂東に進出する足がかりを得た。そののち、子の頼義が前九年合戦を、頼義の子義家が(カ)後三年合戦を鎮圧したことで、源氏は東国での基盤を固めることになった。

 8.空欄d・eに入る語の組み合わせとして正しいもの次の1~4のうちから一つ選べ。

 1)d.満仲 e.平国香

 2)d.満仲 e.平忠常
 3)d.頼信 e.平国香
 4)d.頼信 e.平忠常

 9.下線部(オ)に関連して、坂東でおこった戦乱を描いた書物として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1)『将門記』  2)『純友追討記』
 3)『陸奥話記』 4)『保元物語』

 10.下線部(カ)の後三年合戦以後の出来事として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1)戦乱などの社会不安を背景に、末法思想が民衆の間に急速に広まった。

 2)後三条天皇は、荘園の乱立をおさえるため、延久の荘園整理令を発した。
 3)東北地方は、清原(藤原)清衡やその子孫が支配する地となった。
 4)武士の実力が認められ、宮中を警護する滝口の武士がはじめておかれた。

 (答:8(4)、9(1)、10(3))〉

 

永保3(1083)-寛治元(1087)出羽清原氏征討(後三年の役)。 

From 1083 through 1087, the Kiyohara clan in Dewa Province was subdued through the Later Three Years' War.

 

ところが義家の裁定によって原氏の所領の6郡が清衡と家に3郡ずつ分割継承されることになると、しばらくしてこれを不服とした家清衡との間に戦端をひらいてしまった。

 

Nevertheless, shortly after six counties in the possession of the Kiyohara clan were divided between Kiyohira and Iehira under the rule of Yoshiie so that each could inherit three counties, Iehira, dissatisfied with this decision, took up arms against Kiyohira.


 

後三年の役が平定されたは、奥州藤原氏が奥羽一帯の実質的な支配者となり、陸奥国司は徴税官的側面が強くなった。

 

After the Gosannen War was suppressed, the Oshu-Fujiwara clan became the effective ruler of Ou region and the position of kokushi of Mutsu Province became more like a revenue agent.

源義家は後三年の役で出羽清原氏と戦って勝利したが、朝廷は私戦として論功行賞を認めなかった。

MINAMOTO no Yoshiie fought against the Dewa Kiyohara clan in Go Sannen no Eki (Later Three-Year Campaign) and won, but Chotei (Imperial Court) did not approve the grant of honors because Chotei considered it was private warfare.

原家には、清衡の異父異母兄になる武貞の長子原真清衡、異父弟になる原家があったうえに、吉彦秀武が原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。

 

The Kiyohara family had KIYOHARA no Sanehira, who was the first son of Takesada and Kiyohira's older brother-in-law, Kiyohira, and KIYOHARA no Iehira, who was Kiyohira's younger maternal half-brother, as well as KIMIKO no Hidetake, who was a cousin and son-in-law of KIYOHARA no Takenori, and thus this complex kinship relationship might easily cause a dispute between the family members.

 


 

当然、家は裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷属を皆殺しにする。

 

Iehira was of course discontent about the decision, and in 1086, attacked the residence of Kiyohira and killed his wife, children and all family members.


後三年の役が終結した翌の寛治2(1088)、源義家が陸奥守を解任されると、その任として赴任する(藤原基家について)。

In 1088, in the following year of the year when Gosannen no Eki (the Later Three Years' War) was over, he succeeded the post from MINAMOTO no Yoshiie after he was dismissed from the post of Mutsu no kami.


清衡、家は大敗して逃走するが、直後に真が死亡する。

Kiyohira and Iehira were severely defeated and escaped, but immediately after that, Sanehira died.


義家は難を逃れた清衡に助力し、家を滅ぼした。

Yoshiie supported Kiyohira, who had escaped, and destroyed Iehira.

後三年の役の時に苦戦する兄の源義家を助けるため都での官位を捨てて奥州へ向った。

When his older brother MINAMOTO no Yoshiie became hard-pressed during the Gosannen no Eki (The Latter Three Years' War), Yoshimitsu, who was in the capital, renounced his court rank and headed for Oshu (Mutsu province) in order to help.

後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、義家は河内国石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。

Because there was no reward for the Later Three Years' War due to it being considered a private war, he is said to have awarded his own property to his men, thereby enhancing his popularity as a warrior.

秀武が真衡に背くと清、家はこれに同調したため、真衡は陸奥守であった源義家の支援を受けて清、家を攻めた。

When Hidetake turned against Sanehira, Kiyohira and Iehira supported Hidetake, and Sanehira, being supported by Governor of Mutsu Province MINAMOTO no Yoshiie, attacked Kiyohira and Iehira.

・清は兵を挙げて真衡の館に迫ったが、それを知った真衡が軍を返して家・清を討とうとすると、彼らは本拠に退いた。

The troops of Iehira and Kiyohira closed in on the residence of Sanehira, but Sanehira came to know it and tried to counterattack Iehira and kiyohira, who withdrew to their bases.

真衡、家の死後、清原氏の所領は清が継承することとなった。

After the deaths of Sanehira and Iehira, Kiyohira inherited the territories of the Kiyohara clan.

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