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ベック式!難単語暗記法ブログ

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ローマの地中海制覇 

2020-01-15 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

05 学習院大・経済(一部・改)

【問】次の文章を読み、それぞれについての設問に答えなさい。

 その昔,地中海地方のほぼ真ん中のイタリア半島に拠をおくローマの国と,今のテュニスの地に都市国家を築いていたカルタゴの国とが,西地中海の覇権を争って,(1)三度の大戦争をくり返した。
 カルタゴという国は,その本国は,島のようにつき出た小さな岬の先の,猫の額ほどのほんの小さな国であった。(2)地中海の東岸から来たフェニキア人のたてた植民市であった。そこを本拠にして,西地中海各地に植民地と商館を網の目のようにはりめぐらし,大商船隊を擁して,世界の富をかき集めた。(中略)

 しかし,カルタゴの隆盛は,軍事力による隆盛ではなかった。カルタゴは末期の一時期を除いて,国民軍をほとんどもたなかったのである。(3)カルタゴが隆盛を誇った時代には,各国とも市民皆兵で,カルタゴのように国民軍をもたずに長期の存続ができたのは,稀有の例であった。カルタゴはその歴史の初めから,軍事力で権勢を得ようと思ったことは一度もなかった。カルタゴは必要な時,豊かな財政力に物を言わせて,傭兵隊を募集し,編成しただけであった。
 カルタゴに集まる貿易船の航路,シーレーンも,軍事力で守ろうとはしなかった。当時の世界各地と密接に連絡をとりあった外交のつながりが,カルタゴの防衛の基本線であった。

 ところが,このカルタゴは,西地中海の覇を握り(4)東地中海まで雄飛しようとしていたローマには,邪魔 であった。ことにカルタゴの歴史の最後の百年間は,ローマにとって宿敵であった。(中略)
 ローマの保守的政治家,タカ派の大カトーは,老齢になっても打倒カルタゴの執念を燃やしつづけた。彼は(5)元老院でどんな演説をした時でも,その最後に,「ところで,カルタゴは滅ぼされるべきである」と言ってしめくくった。
 しかし, (6)ローマには,ローマの健全な発展のためには,競争者のカルタゴを存続させるべきだ,とする有力な反対意見もあった。が,結局は大カトーのタカ派路線が勝った。

(弓削達『ローマはなぜ滅んだか』より)

〔設問〕

(1)
ローマとカルタゴの間で戦われた三度の戦争に関する次の質問(a)~(e)に答えなさい。
 a.
この戦争の一般的な名称を答えなさい。
 b.
この戦争の発端の地であり,第一回目の戦争後にローマの支配下に入った地中海の島の名前を答えなさい。
 c.
第二回目の戦争でローマを苦しめたカルタゴの将軍の名前を答えなさい。
 d.
その将軍が初めて敗北し,戦争の帰趨を決めた戦いの名称を答えなさい。
 e.
第二回目の戦争でローマを勝利に導いた将軍の名前を答えなさい。
(2) 地中海に雄飛したフェニキア人であったが、彼らは文化史でも重要な役割を担っていた。彼らの文化史上の業績で最も重要と考えられることがらを答えなさい。
(3) 市民皆兵体制をとったのはギリシアの都市国家も同様であった。ギリシアやローマ都市国家に見られる市民兵士の形態を何というか、漢字で答えなさい。
(4) 第二回と第三回の戦争の聞にローマは,東地中海に進出してヘレニズム世界を支配下に入れた。その時期に,ヘレニズム世界を代表するこ王国がローマと戦って敗北した。
 a.
この二王国のうちシリアにあった王朝を答えなさい。
 b.
また、その二王国のうちギリシアを支配していた国名を答えなさい。
 c.
そのギリシア人でこの時ローマの捕虜となり、第三回の戦争に従軍してローマの強国化を目の当たりにし、後に『歴史』を著して政体循環史観を展開し、ローマの優れた点を君主政・貴族政・民主政を融合していることと論じた人物は誰か。
(5) 元老院議員は,コンスルをはじめとする公職経験者など支配階層の構成員だったが,共和政ローマには成人男子市民全員が参加でき,立法や公職者を選出する権限のある民会が存在した。第一回の戦争がはじまるより約20年前に民会の一つである平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の権利における平等が実現した。その法はその時の護民官の名前を付けて呼ばれる。その法の名称を答えなさい。
(6)
古代ローマの歴史家の中にはカルタゴの滅亡後に,ローマの退廃と内部分裂の時代が始まったと主張する者がいる。実際,カルタゴの滅亡の年(前146年)から,十年余りの後にローマにおいて、ある兄弟が行おうとした改革をめぐって市民間の意見の対立と内紛が始まった。この改革をおこなった兄弟の姓を答えなさい。
 

解 答 

(1)a (1)b (1)c (1)d (1)e
ポエニ戦争 シチリア島 ハンニバル ザマの戦い スキピオ
(2) (3) (4)a (4)b (4)c
アルファベット 重装歩兵 セレウコス朝 マケドニア王国 ポリビオス
(5) (6)      
ホルテンシウス法 グラックス      
 
(4)C

ポリビオスの政体循環史観

 

 ▲歴史家ポリビオス

歴史・地理…ギリシア人ではポエニ戦争期にポリビオスが『歴史』を著した。

マケドニア戦争でローマの人質となったがローマの繁栄ぶりに魅せられ、その原因はローマの優れた政体、すなわち混合政体にあるとした。君主制から貴族政、そして民主政へと変化し、民主政は結局衆愚政に陥り、君主政へと循環するという、政体循環史観を持っていたが、ローマはそれぞれの利点を融合しているという考えを示した。

ポリビオスは第3回ポエニ戦争の際、小スキピオに随行した。プルタルコス(『対比列伝』)・ストラボン(『地理誌』)も有名。

  歴史 〈ポリビオスの政体循環史観〉

ポリスの歴史 循環し。

ポリビオス 『歴史』 政体循環史観

(第3回) ポエニ戦争 (小)スキピオ

(5)

BC287  〈ホルテンシウス法〉貴族、平民間の抗争完全に沈静化。

 認は無くとも 法典に。

前287年 元老院の承認がなくとも ホルテンシウス法

 

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ エジプト文明 

2020-01-14 | 入試問題+ゴロ合わせ
2006 高崎経済大

【問】以下の文章を読み,空欄に当てはまる適当な語句を答えよ。同じ記号には,同じ語句が入るものとする。

 エジプトのナイル川流域には,( ア )と呼ばれる多数の村落ができていたが,メネス王によってそれらは統合され,下エジプトの( イ )を都とした統一国家が形成された。この頃から,古代エジプトの王はファラオと呼ばれており,エジプトの主神である太陽神( ウ )の息子として神格化され,専制的な神権政治を行っていた。古代エジプト史においては,約30の王朝が交替していたが,今日では,一般的にエジプトが栄えた時期を古王国,中王国,新王国の3つに分類している。

 古王国時代は,下エジプトの( イ )を中心に栄えていたが,この時代はピラミッド建設の最盛期であったと言われている。最大級の( エ )王とカブラー王,( オ )王の三大ピラミッドがギザに建造されたのは,この頃であった。その後,第6王朝の王権が弱体化し,一時,国内は混乱した。しかし,第11王朝によって国内が統一されて再ひか繁栄することになった中王国時代には,上エジプトのテーべに都が移され,テーべの守護神である( カ )神が最高神となり,後に( ウ )と融合し,( キ )が国家神として誕生した。

 中王国時代末期には,シリア方面から遊牧民族の( ク )が( ケ )と戦車で武装して侵入し,エジプトを支配することになった。( ク )による支配は約100年間続いたが,やがて第18王朝の王たちによって( ク )が追い出されるかたちで,新王国時代が幕を開けた。その後,エジプトは,シリア,パレスチナ方面に進出して領土を拡大し,ファラオであった( コ )の時にエジプトの領土は最大になった。前14世紀,アメンホテプ4世は,従来の神々の崇拝を禁じて( サ )神のみを信仰することを強制する改革を実行し,都をテーべから( シ )に移すとともに,自らの名前も( ス )に改めた。この改革の影響によって,伝統にとらわれない写実的な( セ )が生み出されることになった。しかし,このファラオが亡くなると,ツタンカーメンによって都は再びテーべに戻され,( カ )信仰が復活した。

 第19王朝のラムセス2世は,シリアに進出し,カディシュで( ソ )と激しく戦ったが,後に平和条約を結んだ。その後,度重なる異民族の支配によって,古代エジプトは衰退していった。
 当時使用されていた象形文字は, 1799年,フランスの( タ )がエジプト遠征中に発見した( チ )を手がかりにして解読されるようになった。そこには,神聖文字の( ツ ),民衆文字のデモティック,ギリシア文字の三書体で同じ内容が併記されていたが, 1822年,フランスの( テ )によってそれらは解読され,次々に神殿の壁や石棺,パピルスに書かれた内容が分かるようになった。
 古代エジプト人は,霊魂の不滅と死後の世界を信じており,魂が帰ってくる場所として死体を( ト )にし,死者の書と共に埋葬していた。

解 答 

ノモス メンフィス ラー クフ メンカウラー
アモン アモン=ラー ヒクソス トトメス3世
アトン テル=エル=アマルナ イクナートン アマルナ芸術 ヒッタイト
ナポレオン ロゼッタ=ストーン ヒエログリフ シャンポリオン ミイラ

※別解:セ:アマルナ美術

ア.

ノモス古希νόμος, pl.: νόμοι古代ギリシア語ラテン翻字nomos)とは、古代エジプト行政的かつ社会的な地域単位であり、現代のに相当するものである[1]。古代エジプト語ではセパト(spȝt[2])と呼ばれた。本記事では、エジプト語に触れる場合除きノモスの語を使用する。時代による変遷を経て、最終的に上エジプトに22、下エジプトに20のノモスが確定した[3][4]。ノモスは行政単位であると共に信仰、土木、水利等を管理する地域共同体であり、古代エジプトの人々の生活空間としての役割を果たしていた。

イ.米中心に食べ。

 古王国 メンフィス

ナハメテーテル 綿花あれ。

ナイル川 ハルツーム メロエ(クシュ王国の首都)テーベ(現在のルクソール) テル=エル=アマルナ メンフィス カイロ アレクサンドリア

エ.クフ(Khufu)、またはクヌム・クフ(Khnum-Khufu)は古代エジプトファラオ古王国前半エジプト第4王朝を統治した。クフは第4王朝の第2代王であり、前王のスネフェルから王位を継承した。一般的に世界七不思議の一つ、ギーザの大ピラミッドを建造させた人物であるとされている。しかし、彼の治世の記録はあまり多く残されてはいない[5][10]

ク.

前2181クフ王、ギザにピラミッドを建てる。

二位は嫌だよ 気障クフ夫。
2181年  第4王朝 ギザ クフ王 


前1674年頃〈エジプト〉セム系遊牧民ヒクソスが侵入、ナイル川下流デルタを占領。

一路戦車で 轢く餌食。

前1674年 戦車 セム系 ヒクソス エジプト 

オリエント世界の変化 前16世紀~前12世紀

 オリエント 前16~12世紀

 ヒッタイト  B カッシート  C ミタンニ   D エジプト新王国   E エラム   F アッシリア 
 ボアズキョイ   2 バビロン   3 テーベ   4 テル=エル=アマルナ   5 スサ 
 アッシュール 7 カデシュの戦い 

 

解説:

前1274年〈ラメス2世、カデシュでヒッタイトと戦う〉★

 

 ▲カデシュの戦いでのラメス2世

●エジプト(新王国時代)

The Battle of Kadesh took place between the forces of the Egyptian Empire under Ramesses II and the Hittite Empire under Muwatalli II at the city of Kadesh. The conflicts were finally concluded by an official peace treaty.

古代エジプト19王朝の王(在位前1304年頃~前1237年頃)ラメス2世はシリア方面に出兵してヒッタイトと戦い(カデシュの戦い)、文献に残る最古の和議を結んだ。

以後、デルタ地帯に諸都市を営み、カルナックに百柱殿を造り、また多くの神殿を建てた。

 

カデシュの戦い

畏怖カデシュ ラメヒット。 

1274年 カデシュの戦い ラメス2世 ヒッタイト

 

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★★ 0101-01 オリエント史 

2020-01-14 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2004 早稲田大学教育

【問】メソポタミア古代に関する設問(1)~(10)について,a~dの選択肢の中から最も適切な解答を一つ選び,マークしなさい。また,設問①,②の解答を記入しなさい。
(1)メソポタミアの環境に関して述べた次の各文のうち,正しい説明はどれか。
a.
メソポタミアとは川の間の地方を意味し,南側を流れるティグリス川と北側を流れるユーフラテス川とにはさまれた地域とその周辺をさす。
b.
ティグリス川とユーフラテス川はアナトリア高原東部から流れ出ており,メソポタミアでは毎年4,5月に増水し,大洪水をもたらすこともあった。
c.
「肥沃な三日月地帯」とは,潅漑の必要がなく,自生していた麦を簡単に栽培化しえたアナトリア,メソポタミア,イランの農耕文明成立地帯をさす。
d.
メソポタミアは周囲を砂漠と山脈でまもられ,外敵の侵入を受けにくかった。
(2)
シュメール人の建てた都市国家に当てはまらないものはどれか。

a.ウル     b.ウルク   c.スサ    d.ラガシュ

(3)
前3千年紀後半にメソポタミアを統一したのは何人か。

a.アッカド   b.アムル   c.アラム   d.カツシート

(4)
ハンムラビ王が編纂した法典(ハンムラビ法典)に関して述べた次の各文のうち,誤った説明はどれか。
a.
「目には目を,歯には歯を」の章句で知られるように,刑法では復讐法の原理に立っている。
b.
貴族,平民,奴隷など身分間で刑罰が異なっている。
c.
犯罪が故意に行われたか,過失によるかで量刑に差を設けている。
d.
ハンムラビ法典は,メソポタミア最古の法典である。
(5)
ヒツタイトに関する次の各文のうち,誤った説明はどれか。
a.
前17世紀半ばに,小アジアに建国された。
b.
前2千年紀半ばにバビロンを急襲し,古バビロニアを滅ぼした。
c.
前1000年頃史上初めて,鉄製の剣と戦車を用いた。
d.
ヒツタイト人は,インド=ヨーロッパ系の民族である。
(6)
前15世紀にアッシリアを一時服属させた国はどれか。

a.ウラルトゥ    b.カナーン     c.ヒクソス   d.ミタンニ

(7)
前8世紀末以降のアッシリアの首都はどこか。

a.アッシュール   b.クテシフォン   c.ニネヴェ   d.ボアズキョイ

(8)
アッシリアに関して述べた次の各文のうち,正しい説明はどれか。
a.
前7世紀前半にエジプトを征服した。
b.
王は専制君主であり,イシュタル神を名乗り,神政一致の統治を行った。
c.
全土は州に分けられ,各地に州長官と監察官が中央から派遣され,中央集権が行われた。
d.
「王の道」が建設され,駅伝制が整えられた。
(9)
アッシリア崩壊後,メソポタミアを支配下に置いた国はどれか。

a.カルデア   b.パルティア   c.メディア   d.リデイア

(10)
メソポタミアの文化・経済に関して述べた次の各文のうち,誤った説明はどれか。
a.
メソポタミアで使用された暦は、月の満ち欠けに基づく太陰暦で,後に太陽暦的要素が加わった。
b.
メソポタミアではほぼ一貫して楔形文字が使用され,主に石板に刻まれた。
c.
メソポタミアでは60進法が使われたが,そのもとには円周の分割があったとされる。
d.
メソポタミアでは前7世紀後半から貨幣使用がはじまった。
設問①
 親友エンキドゥとの冒険をテーマとする英雄叙事詩の主人公はだれか。
設問②
 首都に大図書館を建てたアッシリア王はだれか。
 

解 答 

10
b※
設問1 ギルガメシュ 設問2 アッシュール=バニパル

※別解: 4: d 

解 説: 

(1)
a、ティグリス川が北側、ユーフラテス川が南側を流れる。c、潅漑農業が発達した。d、外敵の侵入は常にあった。
(2)
cのスサはペルシア帝国の政治上の首都。
(3)
前3千年紀の前半がシュメールの都市国家。後半の前24世紀にアッカドが征服した。

BC2371年  アッカド人のサルゴン1世、メソポタミアを初めて統一。

罪ないメソッド 圧巻さ。

BC2371年 メソポタミア統一 アッカド サルゴン1世  

(4)
現在ではメソポタミア最古の法典はシュメール人の残したシュメール法典とされている。   
(5)
ヒッタイトは建国した前17世紀にすでに鉄器を使用していた。

前1650年頃 ヒッタイト王国成る。

披露これ鉄 ヒッタイト。

前1650年 鉄器 ヒッタイト王国

(6)
アッシリアははじめミタンニに服属していた。なおaのウラルトゥとは、前9~前6世紀、小アジアの北西部にあってアッシリアと対抗した国。

ミタンニ

前15世紀、メソポタミア北部に王国を建設した民族。系統は不明。

 前16世紀からメソポタミアの北方の山岳地帯を支配したミタンニ人が建てた国で、ミタンニ人はインド=ヨーロッパ語族であるがその国を構成していた多くは、もともとコーカサス地方にいたフルリ人(フリ人ともいう)といわれているが、その民族系統は不明である。
 前15世紀にはシリア・イラク地方に進出してきたエジプト新王国と対抗、他方で小アジアのヒッタイトとも抗争した。前14世紀にはヒッタイトに敗れて衰退する。メソポタミア北部でははじめはアッシリア人を服属させていたが、そのアッシリア人がヒッタイト人から鉄器を学び、次第に有力となる中でミタンニは前13世紀ごろ滅亡した。 
(7)
初めはティグリス上流のアッシュールに都を置いた。メソポタミアを統一した前8世紀末からは中流域のニネヴェに遷都した。アッシュール=バニパル王はこの都に図書館などを建設した。
(8)
bのイシュタル神はシュメール以来のメソポタミアの普遍的な神。アッシリアはアッシュール神を最高神とした。

前671年 アッシリア、エジプトを征服してオリエントを統一。

労無い圧勝 オリエント。

671年 アッシリア オリエント統一 エジプト

(9)
4国分立時代の新バビロニアはカルデアともいう。パルティア・メディアはイラン、リディアは小アジア。
(10)
この設問には問題がある。楔形文字は粘土板に記されたのでbが誤りであるのは明確だが、dのメソポタミアにおける貨幣の使用開始年代を前7世紀と断定することはできず、すでに前4000年紀の末に銀を貨幣として使用したとする見解もある。旺文社の全国大学入試問題正解は両方を正解とし大学側は受験生の不利にならないように処置したと回答しているという。

 

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★★ オリエント文明とその影響 

2020-01-12 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2007 早大・商

【問】次の文章を読み、設問A~Jに答えよ。

 人類が最初に農耕・牧畜生活をはじめた地域のひとつは,西アジアの「肥沃な三日月地帯」の山麓山地方であったと考えられています。西アジアとエジプトをふくむ地域はオリエントとよばれ,(A)メソポタミア文明(B)エジプト文明が誕生し,初期の都市国家や王国が樹立されました。オリエント地域では早くから(C)金属器が使われ,(D)文字も考案されました。また,農耕や祭りのために(E)天文学や暦を発達させるとともに,(F)数学や建築学などが大いに栄えました。メソポタミアとエジプトで発達した科学技術は,その後,(G)この地域を支配した多くの民族に受け継がれていきましたが,前4世紀にギリシア世界の拡大の中で新たな文化であるヘレニズム文化に融合されていきました。(H)エジプトのアレクサンドリアには,大図書館や研究所(ムセイオン)がつくられ,様々な分野の人々が活躍しました

 7世紀にアラビア半島に誕生したイスラーム教は,短期間のうちにオリエント地域に拡大し,イスラーム世界が出現しました。イスラーム教の信仰によって結ぼれたイスラーム世界では,(I)イスラーム暦など古い伝統を守りつづけているものもある一方で,古代オリエント以来の豊かな文化のうえに,ギリシア,イラン,(J)インドなど周辺の先進諸文化をとりいれた特色ある文化が生みだされました。

問A.
下線部(A)について前4千年紀に南メソポタミアに住みつき,この文明をつくりだした人々はどれか。
1.シュメール人  2.エラム人  3.アッカド人  4.バビロニア人
問B. 下線部(B)について,この文明の記述として正しい文章はどれか。
 
1.ピラミッドが盛んに建設された古王国時代が終わると,すぐにヒクソスの侵入を受けた。
 2.
国王はファラオとよばれ神の化身として崇拝され,王国を支配していた。
 3.
ヒクソスを撃退して成立した新王国は,アッシリアの侵入によって滅んだ。
 4.
中王国の第18王朝のトトメス3世時代に,王国の領土は最大となった。
問C.
下線部(C)について前2千年紀に鉄器をはじめて本格的に使用した人々はどれか。
1.カッシート人  2.アッシリア人  3.ミタンニ人  4.ヒッタイト人
間D.
下線部(D)について正しい文章はどれか。
 1.
バビロニア人が粘土板に記した文字は,ヒエログリフとよばれる。
 2.
フェニキア人は,アルファベットをギリシア人から学んだ。
 3.
メソポタミア最古のシュメール文字は,未解読である。
 4.
シナイ文字は,エジプト文字から誕生した。
問E.
下線部(E)について正しい文章はどれか。
 1.
バビロニア人は, 1週間を7日とした。
 2.
アッシリア人は, 1年365日の太陽暦をつくった。
 3.
シュメール人は,昼と夜をそれぞれ12等分した。
 4.
アッカド人は, 1週間を10日とした。
問F.
下線部(F)について古代メソポタミアで考え出したとされるものはどれか。
1.2進法   2.12進法   3.30進法   4.60進法
問G.
下線部(G)について正しい文章はどれか。
 1.
ヒッタイトは,メソポタミアをふくむオリエント地域をはじめて征服した。
 2.
エジプトは,ヒッタイトを破りメソポタミアをふくむオリエント地域を支配した。
 3.
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は,マケドニアを滅ぼしオリエント全域を支配した。
 4.
アッシリアは,前7世紀前半にエジプトをふくむオリエント地域をはじめて征服した。
問H.
下線部(H)について,ヘレニズム時代のアレクサンドリアで活躍した人物はだれか。
1.アリストテレス  2.へロドトス  3.エウクレイデス  4.プルタルコス
問I.
下線部(I)のイスラーム暦の1年は何日か。
1 . 354日  2.356日  3.358日  4.360日
問J.
下線部(J)についてインドからの影響で導入されたものはどれか。
1.アーチ建築  2.ゼロの概念  3.ドーム建築  4.πの概念

解 答 

解 説: 問A.シュメール人の「メ」

A).エラムElam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。紀元前3200年頃から紀元前539年までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。
B)3.「海の民」の侵入によって衰退し前1069年に滅ぶ。
4.前1504年 トトメス3世の親征

行こうシリアに 止め刺せ。  

前1504年 シリア 新王国 トトメス3世

(C)HIT & TIGHT で「鉄」はできる。

(D)4.のシナイ文字は山川教科書の記載がないが、20世紀初頭に発見され、象形文字から表音文字への移行期にある文字ではないかと注目されている。シナイ半島の古代エジプト時代の遺跡から出土したたもので、前18~前15世紀ごろ、エジプトの象形文字から発展して生まれたものと考えられている。アルファベットの起源とする説もあるが、まだ確定していない。

(D)2.表音文字を線文字化したフェニキア文字は、ギリシア人に伝えられ、ラテン文字のもとになった(アルファベットの起源《「フェニキア」の〈〉で「ギリシア人」、〈〉で「アルファベット」を覚えよう!》)。
(E)1.バビロニア成す一週間。
(G)前671年 アッシリア、エジプトを征服してオリエントを統一。

労無い圧勝 オリエント。

671年 アッシリア オリエント統一 エジプト

(H).アレクサンドリアのエウクレイデス古代ギリシャ語ΕὐκλείδηςEukleídēsラテン語Euclīdēs英語Euclidユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシア数学者天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。
(I)
イスラーム暦がヒジュラ(聖遷)の年である西暦622年を元年とすることは必須であっても、その1年が354日であるというのは受験生の盲点。これは太陰暦(月の満ち欠けによる暦)を厳格に守ったものである。なお、7月16日を元日として、354日を一日としたので、イスラーム暦の年代の数え方は西暦と一致しないから、簡単には換算できない。現在でもイスラーム世界ではその暦が使われている。
イスラム暦は参考書。
イスラム暦 1年=354日
 

第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ギリシア文化 

2020-01-11 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010 関西学院大・全

【問】次の文中の(   )に最も適当な語を語群から選び、また下線部に関する問いに答え、最も適当な記号1つをマークしなさい。

 古代ギリシアでは、文学や美術といった芸術の分野だけでなく、哲学や自然科学の分野においても、後の西洋近代文明の先駆けとなるような豊かな文化が花開いた。

 文学では、数々の詩人や劇作家が才能を競い合い、すぐれた作品を生み出した。初期の詩人としてはホメロスとヘシオドスが、少し遅れて女性詩人(  イ  )が登場した。紀元前5世紀のアテネでは演劇が盛んになり、 「三大悲劇詩人」と呼ばれるアイスキュロス、ソフォクレス、(  ロ  )が、人間の運命をテーマにした重厚な悲劇を残した。

 調和と均整のとれた美を追求した古代ギリシア人は、彫刻と建築にもすぐれた才能を発揮した。アテネのアクロポリスの丘にある③.パルテノン神殿は、古代ギリシアを代表する建築である。
 哲学や自然科学の分野では、自然現象を神話的に解釈するのではなく、ひとつの根本原理によって合理的に説明しようとする④.自然哲学が生まれた。その後、ギリシア人の学問的関心は自然現象の説明だけにとどまらず、政治や倫理・道徳の領域にまでひろがった。ソクラテスに始まる真理の探究は、プラトンの(  ハ  )に結実し、さらに⑤.アリストテレスにおいてこれまでの諸学問の成果が集大成されることになる。

 ヘレニズム時代に入ると、ギリシア文明とオリエント文明との融合により、学問や芸術が新たな発展をとげた。ポリス共同体の狭い境界にとらわれない生き方を理想とする考え方も生まれた。こうした旧来のポリスの枠を超えた人間のあり方を探求する人々のなかから、ストア派やエピクロス派といった個人の心の平安を求める哲学が現れた。

〔語群〕
イ. a.アナクレオン  b.サッフォー  c.プロタゴラス  d.ピンダロス. e.プラクシテレス
ロ. a.トゥキデイデス  b.ガレノス  c.アリストファネス  d.エウリピデス  e.ウェルギリウス
ハ.
a.経験論    b.合理論    c.唯物論   d.イデア論   e.汎神論
〔問い〕
① ホメロスとへシオドスに関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.ホメロスの『イリアス』はトロイア戦争の英雄の活躍をうたった叙事詩である。
b.
ヘシオドスの『農耕詩』は農村での労働の教訓をうたった叙事詩である。
c.
ヘシオドスの『神統記』はギリシアの神々の系譜をうたった叙事詩である。
d.
ホメロスの『オデュッセイア』はオデュッセウスの放浪と冒険をうたった叙事詩である。
e.
ホメロスが活躍したのはポリス形成期の頃とされる。
ソフォクレスの作品はどれか。
a.『女の平和』      b.『オイディプス』    c.『縛られたプロメテウス』   d.『アエネイス』     e.『メディア』
パルテノン神殿に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
ベルシア戦争で破壊された。
 b.
彫刻家のフェイデイアスが再建工事の総監督を務めた。
 c.
再建工事を命じたのはペリクレスである。
 d.
柱は優美なイオニア式である。
 e.
内部にはアテナ女神像が安置されていた。
自然哲学に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
前6世紀にミレトスを中心に起こった。
 b.
ピタゴラスは万物の根源は数であるとした。
 c.
タレスは万物の根源は水で、あるとした。
 d.
デモクリトスは原子論をとなえた。
 e.
ヘラクレイトスは「人聞が万物の尺度」だとした。
アリストテレスに関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
アカデメイアで学んだ。
 b.
哲人政治を理想とする『国家論』を著した。
 c.
アレクサンドロスの教育を任された。
 d.
リュケイオンを設立した。
 e.
イスラームや中世ヨーロッパの哲学や神学に影響を与えた。
ヘレニズム時代の文化に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
アリスタルコスは地球の周囲の長さを計測した。
 b.
「ラオコーン」に代表されるヘレニズム美術はガンダーラ美術にも影響を与えた。
 c.
コイネーと呼ばれるギリシア語が共通語となって普及した。
 d.
アレクサンドリアにムセイオンという研究施設がつくられた。
 e.
エウクレイデスは『幾何学原本』を著し、平面幾何学を大成した。
ストア派の哲学者でないのはだれか。 
a.ゼノン    b.プロティノス   c.エピクテトス   d.セネカ
e.マルクス=アウレリウス=アントニヌス
解答

 解 説

イ.a.アナクレオンAnacreon紀元前570年頃生)は、古代ギリシア抒情詩人である。酒飲みと頌歌で著名。後に9歌唱詩人に加えられる。アテネの僭主ヒッパルコスの庇護の下、軽快な酒と愛の歌を綴った。

Arte romana, testa di anacreonte, 130-140 dc. ca. 02.JPG

アナクレオン

d.ピンダロスPindaros)

前518年頃~前438年頃。古代ギリシアの詩人。オリンピックの祝勝歌(epinikia)が多い事で知られる。テーベ(テーバイ)の近くの出身。2004年のアテネオリンピックでは表彰メダルの表に彼の祝勝歌が公式に採用され彫りこまれている。Pindar Musei Capitolini MC586.jpg

ピンダロス

c.プロタゴラス  

「人間は万物の尺度である」という言葉で知られ、相対主義を唱えた人物の一人として有名である。人間それぞれが尺度であるから、相反する言論が成り立つのである。

こうした主張からソフィストは詭弁を用いて黒を白と言いくるめる、とみなされるようになった。一方で、ルネサンスが人間を尺度とする復興であったことから、尺度の基準は人間であると主張したギリシア哲学西洋哲学におけるソフィストの存在を軽視してはならないことが分かる。

晩酌は人 プロソフト。

「万物の尺度は人間」プロタゴラス 相対主義 ソフィスト 

e.アテナイのプラクシテレスPraxiteles)は大ケフィソドトスの子で、紀元前4世紀の最も有名なアッティカ彫刻家

ロ.

b.ガレノス129年頃 - 200年頃)は、ローマ帝国時代のギリシア医学者。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった。〈ガ〉

d.エウリピデス 

前5世紀 三大悲劇詩人が活躍。

愛崇め、双方おいで 絵売り愛で。

アイスキュロス 『アガメムノン』  ソフォクレス 『オイディプス王』  エウリピデス 『メディア』

① 『農耕詩』はローマのウェルギリウスの作品。ヘシオドスは『労働と日々』。

兵士労働 飢え残し。

ヘシオドス 『労働と日々』ウェルギリウス 『農耕詩』

農耕詩

のうこうし

Georgica

ローマの詩人ウェルギリウスの教訓叙事詩。前 36~29年にカンパーニャで執筆。4巻から成り,第1巻は作物栽培と気象,第2巻は果樹,特にオリーブとぶどうの栽培,第3巻は家畜の飼育,第4巻は養蜂を扱い,アリスタイオス神話,オルフェウス神話を語るものとして有名。宮廷文学サークルのパトロンであったマエケナスの指示により,国土への愛と農事への尊敬の念を呼びさますために書いたといわれるが,少年期を田舎に過した作者の自然に対する深い愛情,田園生活の賛美,古人の簡素な生活と趣向への復帰を願う気持がこめられている。

② 三大悲劇作家の主要作品は覚えておく必要がある。アイスキュロスは『アガメムノン』・『縛られたプロメテウス〈〉〈〉』、ソフォクレスが『オイディプス王』、エウリピデスが『メディア』など。なお、『女の平和』は喜劇でアリストファネスの作品。『アエネイス』はローマの建国物語でウェルギリウスの作品。

③ パルテノン神殿はドーリア式の代表的な例。
④ ヘラクレイトスは「万物は流転する」と考えた。「人間は万物の尺度」はソフィストの代表的人物プロタゴラスの言葉。

晩酌は人 プロソフト。

「万物の尺度は人間」プロタゴラス 相対主義 ソフィスト 

⑤ 『国家論』はプラトンの主著。
⑥ アリスタルコスは地球の自転説。地球の周囲を計測したのはエラトステネス。

近代哲学…イギリスのフランシス=ベーコン帰納法〈induction〉による経験論を説き、フランスのデカルトは数学的演繹法〈deduction〉による合理論をうちたてた。

近代哲学 〈ベーコンとデカルト〉★★★
不便(ふべん)危険と デカ援護(えんご)
フランシス=ベーコン 帰納法 経験論 デカルト 演繹法 合理論

 

 

前6世紀 イオニアのミレトスを中心に自然哲学が発達。

水は垂れます 数ぴたり、流転ヘラっと 原子でも。

万物の根源は 「水」 タレース 「数」 ピタゴラス 「流転」 ヘラクレイトス 「原子」 デモクリトス

⑤ 
『国家論』はプラトンの主著。
⑥ 
アリスタルコスは地球の自転説。地球の周囲を計測したのはエラトステネス。 自転有りたる 周囲エラ。

第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ローマ帝政

2020-01-10 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2008 日大・法

【問】次の文章を読み、問1~問10に答えなさい。

 紀元前31年のアクティウムの海戦でアントニウス・(a).クレオパトラの連合軍を破ったオクタウィアヌスは、紀元前(  b  )年に元老院からアウグストゥスの称号を与えられるとともに、重要な国政上の権限を手に入れ、(c)帝政を開始した。その後1世紀の末から2世紀の末頃にかけて、(d)「五賢帝」とよばれる皇帝たちが出て政治は安定し、ローマ帝国は大きな繁栄をみた。帝政前半期には、帝国全域にわたって道路が建設され、 (e)都市文化が普及した。商業も発展し、 (f).東方との貿易も盛んにおこなわれた。こうした繁栄は、 2世紀の末頃からかげりを見せ始める。3世紀のはじめに(  g  )帝は帝国の全自由人に ローマ市民権を与えたが、これは帝国の社会構造が大きく変化したことを示すものであった。さらに(h)軍人皇帝の時代にはいると、大きな混乱が帝国をおそった。3世紀の末に即位したディオクレティアヌスは、(i)こうした混乱を収拾して国家の建て直しをはかった。続いてコンスタンティヌス帝も帝国の体制の強化につとめたが、(j)4世紀の後半には再び混乱が支配的となり、476年に西の帝国は消滅した。

問1 下線部(a)のクレオパトラは、どの王朝の女王であったか。次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.プトレマイオス朝  2.アンティゴノス朝  3.アルサケス朝  4.セレウコス朝

問2 空欄( b)に該当する年を、次の1~4の中から一つ選びなさい。
1.29   2.27    3.25    4.23

問3 下線部(c)に関連して、次の1~3の文のうち、アウグストゥス(オクタウィアヌス)の帝政についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、共和政時代の制度を尊重しながらも、さまざまな要職を兼任し、最高の権威をもって統治した。
 2.
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、プリンケプス(第一人者)と称したので、この体制をプリンキパトゥスとよぶ。
 3.
アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、エジプトをも属州として支配し、地中海世界は以後約200年にわたって「ローマの平和」とよばれる平穏な時代を迎えた。
問4
 下線部(d)に関連して、次の1~3の文のうち、 「五賢帝」についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
「五賢帝」とは、ネルウァに始まる5人の皇帝たちをいう。
 2.
「五賢帝」の一人トラヤヌスの時代に、ローマ帝国の領土は最大となった。
 3.
「五賢帝」の一人マルクス=アウレリウス=アントニヌスはストア派の哲学者でもあり、『国家論』を著した。
問5
 下線部(e)に関連して、次の1~3の文のうち、ローマ都市についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
標準的なローマ都市は、水道、浴場などの公共施設を備えていた。
 2.
パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリンなどは、この時代のローマ都市から発展した。
 3.
都市の貴族層は、ローマ市民権を与えられ、さらに帝国の支配層に上昇していくものもいた。

問6 下線部(f)に関連して、次の1~3の文のうち、この時代のローマ世界と東方との交流についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。
 1.
中国・東南アジア・インドから、絹や香辛料がもたらされた。
 2.
インド洋の季節風を利用した、紅海からイ ンドに至る航路が開拓され、 『エリュトゥラー海案内記』が書かれた。
 3.
2世紀に、大秦王の使者と称する者が中国に来航した。

問7 空欄(g)に該当する皇帝を、次の1~4の中から一人選びなさい。
1.カラカラ   2.ネロ   3.ハドリアヌス   4.ユリアヌス

問8 下線部(h)に関連して、次の1~3の文のうち、この時代の状況についての記述として適切でないものがあればその番号を、すべてが適切である場合は0をマークしなさい。

1.各地の軍団が次々に皇帝を立て、その皇帝たちの多くは短期間のうちに殺された。

2.ゲルマン人の侵入が相次ぎ、東方国境ではササン朝ペルシアの脅威が強まった。

3.戦争や疫病で人口が減少したため農民の地位が高まり、大土地所有者の所領は衰退した。

問9
 下線部(i)に関連して、次の1~4の文のうち、ディオクレティアヌスの政策についての記述として適切でないものを一つ選びなさい。
 1.
帝国を4つに分けて4人の皇帝が支配する四分統治(テトラルキア)制を採用した。
 2.
税制や軍制の改革につとめ、官吏と兵士の数を大幅に削減した。
 3.
皇帝権力の絶対化を進め、専制君主として支配した。
 4.
キリスト教徒に対する大迫害をおこなった。

問10
 下線部(j)に関連して、この時代に起こった次のa・b・Cの出来事を左から古い時代順に並べるとどのような順序になるか、下の1~6の中から一つ選びなさい。
 a.
キリスト教が国教とされた。
 b.
ローマ帝国が、最終的に東西に分割された。
 c.
ゲルマン人の大移動が始まった。

 1.a・b・c  2.a・c・b  3.b・a・c
 4.b・c・a  5.c・a・b  6.c・b・a

 
 

解 答 

10
 
問1. エジプトの〈プト
 
問2. 前27年 〈ローマ〉オクタヴィアヌス、元老院よりアウグストゥスの称号を受ける(~14年)。 

担う帝国 労多く。
27年 ローマ帝国成立 オクタヴィアヌス  

 
問4.『国家論』はプラトンかキケロにその名の著書がある。マルクス=アウレリウス=アントニヌスの著書は『自省録(Meditations)』。

前51年 キケロ、『国家論』。

強引聞け論 国家論。

51年 キケロ 『国家論』 ローマ


問5.ギリシア都市から発展。
 
問6 2.エリュトゥラー海は紅海のこと。

問7 

212 年〈ローマ〉カラカラ帝、帝国内全自由民にローマ市民権賦与。

ついに市民やあんたから。

212 年ローマ市民権アントニヌス法 カラカラ帝 

問8.軍人皇帝時代の混乱期を境に、コロナトゥス制が発達した。〈コウ〉。
 
3.

166 年  〈党錮の禁~169〉 李膺をはじめ百数十人が殺される。 

166年    〈大秦国王安敦の使者、日南郡に来る〉

一路ローマの 遠くから。

166  ローマ マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者 党錮の禁 桓帝

問8 2.

 

●イラン(ササン朝)

 260エデッサの戦い

The Battle of Edessa took place between the Roman Empire and Sassanian forces under Shapur I.

The Roman army was defeated and the Emperor Valerian was captured by the Persian forces.

踏む俺はシャー 捕らえてさ

260年 ウァレリアヌス シャープール1世 エデッサの戦い ササン朝  

226年にパルティイアを倒したササン朝ペルシアアルデシール1世は、勢いを増して小アジアに進出。260、2代の王、シャープール1世は東征してきたローマ軍にエデッサの戦いで勝利し、軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした。エデッサはユーフラテス川上流、現在のトルコの東部の地。以後ローマ帝国は僭称皇帝の乱立・領土の分裂などでその混迷を一層深めてゆくこととなる。

 問9 2だけトーンが違う。

 問10.a 392年 〈ローマ帝国〉キリスト教国教化。        

  Theodosius I issues an edict reinforcing the prohibition of prayers or sacrifices at non-Christian temples.

さぁ国のもの 手をどうぞ。

392年  国教化   テオドシウス帝

b.

395年 テオドシウス帝の死:2子アルカディウス・ホノリウスが分治安〈ローマ帝国東西分裂〉

裂くことにして ローマ分け。 

395  年      テオドシウス帝  ローマ帝国東西分裂

c.

375年 西ゴート族、フン族に圧迫され南下開始(ゲルマン大移動開始)。

皆来い逃げろ 西へゴー。

375年 ゲルマン大移動  西ゴート 

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第1章・オリエントと地中海世界 ★★ ローマの文化 

2020-01-09 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2007 駒澤大・文仏法他

【問】次の文章の(   )の中に入る最も適当な語句を下記の語群から選び、その記号をマークせよ。

 古代ギリシア人たちが神々との関係や哲学を重んじたのとは異なり、古代ローマ人たちは、帝国の領土拡大に伴う政治的支配体制上の必要性から、実学・実用文化を発展させた。その最も顕著な例がローマ法である。古くから使用されていた慣習法を紀元前450年頃に成文化した(  1  )が最古のものである。この(  1  )は、最初(  2  )のみを対象としていたが、ローマの領土拡大に伴い他民族の慣習法を取り入れつつ発展したことから、帝国内の全ての人民に適用される万民法となっていった。そして最終的に紀元後6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌスの在位中、法学者(  3  )らによって『ローマ法大全』が編集された。その後、ローマ法はヨーロツパの中世・近代を通して現代にまで受け継がれている。またユリウス=カエサルが(  4  )の太陽暦を基に制定したユリウス暦から、現在の(  5  )が生み出され、ギリシア文字からローマ字が創られ、ローマ人たちの話した(  6  )は、中世以降、近代に至るまで学術語や教会の公用語として使用された。帝国内への(  6  )の普及に伴い文化も盛んになり、 『農耕詩』を著した(  7  )や『叙情詩集』を著した(  8  )、そして『愛の歌』を著した(  9  )らが活躍した。ギリシアを起源とする弁論術も発展し、ローマは『国家論』の著者でローマ最高の弁論家(  10  )を生み出した。歴史家としては(  11  )ゃ(  12  )が良く知られている。前者はアウグストゥスの厚遇を得て『ローマ建国史』を著し、後者はアウグストゥスからネロまでのローマの政治史を記述した『年代記』を著した。土木建築にも才能を発揮したローマ人たちは、市民の娯楽施設としての公共浴場、周囲に官庁や市場を持つ(  13  )と呼ばれる中央広場、そして(  14  )のような円形闘技場などの公共建造物を中心として、現代に匹敵するような都市文化を形成した。このような公共建造物はローマ帝国内各地においても建設され、各々の都市は小ローマの観を呈した。またそれら地方都市とローマとを結ぶ大規模な土木工事が実施された。石で舗装されたローマ最古の軍道であるアッピア街道は、全長540キロメートルにも及び、南フランスのニーム近郊にある石造りの(  15  )は、全長約270メートル、高さが約50メートルで三層アーチからなる巨大なものである。

〔語群〕
 あ.ローマ市民     い.タミル語      う.ヒジュラ暦       え.アゴラ
 お.パルテノン     か.セゴビア水道橋   き.ヴェルギリウス     く.トリボニアヌス
 け.属州民       こ.へロドトス     さ.ホラティウス      し.ガール水道橋
 す.ホルテンシウス法  せ.オヴィディウス   そ.リキニウス・セクスティウス法
 た.セネカ       ち.コロッセウム    つ.タキトゥス       て.エジプト
 と.ペルシア      な.十二表法      に.ディオクレティアヌス  ぬ.プリニウス
 ね.エピクテトス    の.プルタルコス    は.ラテン語        ひ.パンテオン
 ふ.リヴィウス     へ.キケロ       ほ.凱旋門         ま.グレゴリウス暦
 み.フォルム
 

解 答 

10
11 12 13 14 15
 

 
解説 1. 
  • ●ローマ(共和政)

 451 〈十二表法の制定〉★★

The first ten codes of the Roman Law of the Twelve Tables are completed by the first Decemvirate.

横(よこ)一列に 十二表。

    前451年    十二表法 平等化の第一歩

 

ローマでは公職はパトリキ(貴族《〈〉と〈〉で尻取り!》)により独占されていたため、次第にプレブス(平民《〈plebs〉の〈ple〉は「平ら」の意。》)は不満を募らせた。前494年、プレブスはパトリキの譲歩を勝ち取り、護民官、続いて平民会の設置を認めさせた。そして前451年、旧来の慣習法が明文化され、12枚の板で公示された十二表法が制定され、貴族に対する平民の法的平等化の第一歩となった。十二表法は、最初ローマ市民のみを対象としていたが、領土拡大に伴い他民族の慣習法を取り入れつつ発展したことから、帝国内の全ての人民に適用される万民法となっていった。


7.『農耕詩』はローマのウェルギリウスの作品。

兵士労働 飢え残し。

ヘシオドス 『労働と日々』 ウェルギリウス『農耕詩』

農耕詩
のうこうし
Georgica

ローマの詩人ウェルギリウスの教訓叙事詩。前 36~29年にカンパーニャで執筆。4巻から成り,第1巻は作物栽培と気象,第2巻は果樹,特にオリーブとぶどうの栽培,第3巻は家畜の飼育,第4巻は養蜂を扱い,アリスタイオス神話,オルフェウス神話を語るものとして有名。宮廷文学サークルのパトロンであったマエケナスの指示により,国土への愛と農事への尊敬の念を呼びさますために書いたといわれるが,少年期を田舎に過した作者の自然に対する深い愛情,田園生活の賛美,古人の簡素な生活と趣向への復帰を願う気持がこめられている。

 〈オヴィディウス、『愛の歌』を著す〉

 Ovidius was a Roman poet best known for the Metamorphoses and for collections of love poetry in elegiac couplets, especially the Amores and Ars Amatoria

叙情を帯(お)びて 愛の歌。

叙情詩人 オヴィディウス    『愛の歌』

 

ヴェルギリウス、ホラティウスとともに三大ラテン詩人に数えられる、ローマ帝政初期の叙情詩人オヴィディウスは軽妙な作品で名声を得たが、露骨な性的描写が多かったため、実際に読んだアウグストゥス帝が激怒し、黒海沿岸の僻地へ流されて客死した。代表作は『愛の歌』『転身譜(メタモルフォセス)』など。

10.

前51年 キケロ『国家論』。

強引聞け論 国家論。

前51年 キケロ『国家論』 ローマ

12.『ゲルマニア』が有名なタキトゥスであるが、『年代記』も「」「」に着目して覚えよう。
 
13.アゴラはギリシアのアクロポリスの麓にあった公共広場。Forumのrとmでローマ。

15.ニームにアーチはガール。
 

第2章1節・インドの古典文明 ★ インドの古代文明 

2020-01-08 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2011 関西学院大学(経他)

【問】次の文中の(   )に最も適当な語を語群から選び、また下線部に関する問いに答え、最も適当な記号1つをマークしなさい。

インド亜大陸の各地には旧石器文化、新石器文化の遺跡が残されている。最も早くこの地に住みついたのは、中部・東部の丘陵地帯に分布するオーストロアジア語系の諸民族とされる。その後西方から①.ドラヴイダ系の民族が到来し、居住域を広げていき、紀元前2300年頃、ハラッパーなどの遺跡で知られる青銅器時代の②.都市文明が興った。インド=ヨーロッパ語系の言語を話す③.アーリヤ人の一分派は、この文明が衰退した後の前1500年頃から、徐々にパンジャーブ地方に移住した。その後、前6~前5世紀にはヒンドゥーの古代国家が( イ )中流域で形成された。そのなかでマガダ国が最も有力で、その国家体制を完成させたのが⑤.マウリヤ朝の統一国家である。それ以後はグプタ朝など強大な王国が時にインドの一部を支配したが、分裂の時代が長く続いた。また13世紀初頭には( ロ )の成立によってイスラームの進出が本格化した。

 スリランカに( ハ )が建てられたのは前5世紀頃とされている。前3世紀に仏教が伝えられ、王をはじめ有力者が帰依した。現在も東南アジアなどで盛んな( ニ )の源流である。

〔語群〕
イ.a.ガンジス川  b.チャオプラヤ川 c.メコン川   d.ティグリス川

ロ.a.ロデイー朝  b.サイイド朝   c.奴隷王朝   d.サーマーン朝

ハ.a.ヴァルダナ朝 b.チョーラ朝   c.チャンデーラ王国 d.シンハラ王国

ニ.a.バラモン教  b.上座部仏教   c.シク教      d.大乗仏教

〔設問〕
①  ドラヴイダ系の民族に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
タミル語は、ドラヴイダ系の言語である。
 b.
ドラヴイダ系のサータヴァーハナ朝は、ローマ世界との交易で栄えた。
 c.
ドラヴイダ系の人々の間で、仏教に帰依するバクティー運動が広がった。
 d.
現在は主にインド南部に居住している。

②  この都市文明に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 
a.メソポタミア文明との交流があったとされている。

b.都市の内外には巨大な宮殿や王墓がつくられた。

c.ろくろでつくられた彩文土器が使用された。

d.象形文字の刻まれた印章を用いた。
アーリヤ人に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
馬と戦車を使用していた。
 b.
シヴァ神を唯一神として信仰していた。
 c.
アーリヤとは「高貴な」という意味である。
 d.
『リグ=ヴェーダ』は神への賛歌集である。
マガダ国に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
『ラーマーヤナ』はマガダ国の王子を主人公とする叙事詩である。
 b.
ガウタマ=シッダールタはマガダ国で悟りを得た。
 c.
マガダ国でジャイナ教が生まれた。
 d.
前5世紀にコーサラ国を併合した。
マウリヤ朝に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
創始者はチャンドラグプタである。
 b.
アレクサンドロス大王が西北インドに侵入した後に建てられた。
 c.
アショーカ王の時代に仏典結集が行われた。
 d.
プルシャプラ(ベシャーワル)を都とした。
グプタ朝に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
 a.
チャンドラグプタ1世の時代に最盛期を迎えた。
 b.
宮廷詩人のカーリダーサが活躍した。
 c.
アジャンタ一石窟寺院の壁画は、グプタ美術の代表とされる。
 d.
中央アジアの遊牧民エフタルに攻撃されて衰退した。
 

解 答 

〔設問〕

解 説: 

〔設問〕

ロ.

1206年 アイバク、北インドを統一し奴隷王朝をたてる(~90):デリー=スルタン朝の始まり(~1526年)

市にお迎え 奴隷です。

1206 奴隷王朝 イスラーム王朝 デリー=スルタン朝の始まり

ハ さ(前3世紀)し(小乗仏教伝来)す(スリランカ)せ(セイロン島)
バクティ運動はヒンドゥー教の側からの仏教・ジャイナ教攻撃。

バグって酷い ぶっちゃいな。

バクティ運動 ヒンドゥー教 仏教・ジャイナ教 7世紀

② インダス文明の遺跡には今のところ宮殿跡や王墓は発見されていない。

住居跡から彩文土器が発見されている。

アーリヤ人の信仰は原始的な多神教。シヴァ神は後のヒンドゥー教の主神のひとつ、破壊の神。
『ラーマーヤナ』の主人公ラーマはコーサラ国の王子。〈-〉と〈コーサラ-ラーマーヤナ〉で。
マウリヤ朝の都はガンジス流域のパータリプトラ。プルシャプラはクシャーナ朝などの都でガンダーラ地方。
チャンドラグプタ2世が全盛期。よく見かける引っかけ問題なので要注意。
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第3章3節 中国の古代文明 ★★ 中国文明~春秋時代 

2020-01-07 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2009 福井大学

 【問】次の文をよく読んで、下記の設問に答えなさい。

 東アジアは、日本列島を含む、中国とその周辺の朝鮮半島・ベトナム北部などからなる地域である。この地域は、西方を砂漠や山脈でさえぎられており、そのうちの中国では、独自で高度な文明を数千年にわたって途切れることなく発展させてきた。黄河文明が形成された北部の華北では、雨量が少なく、( 1 )などの乾燥地作物が早くから栽培されてきた。また、( 2 )とよばれる長江(揚子江)流域の華中とその南の華南及び島|興部は、ともに比較的温暖で雨量が多く、( 3 )が発展した。朝鮮半島・日本・ベトナム北部などの周辺地域でも、中国農耕文化の影響をうけながら独自の文化が成立し、発展した。また、中国文化は、早くから内陸アジアの諸民族の遊牧文化と交流し、さらにはオアシスの道・( 4 )・海の道を通じて、西方の異質の文化とも接触した。オアシスの道は、のちに( 5 )と呼ばれた。

 具体的にみてみると黄河中流域に住みついた人びとは前5000~前4000年ころ、豚・犬・鶏を家畜とし、( 1 )など雑穀を中心とする農耕文化を発達させた。素焼きの淡紅色の土器面に赤・白・黒などで文様をほどこした( 6 )を使用していたこの文化は、( 7 )と呼ばれる。その後下流域では、(ア)技術のすすんだ( 8 )がさかんにつくられるようになり、そのほかに灰陶もあらわれた。特徴的な器形として、 3本足の鼎や鬲などの( 9 )があり、その形状はのちの青銅器に影響をあたえた。

 ( 8 )や灰陶が使用されていた文化を( 10 )という。前2000~前1500年ころのことである。( 10 )の終わりのころになると黄河の中・下流域にまわりを高くて厚い土の壁で防禦した多くの集落(邑)が生まれた。やがて前16世紀ごろ、これら多くの邑を支配する殷(商)王朝が出現した。その後期を代表する遺跡が( 11 )である。 ( 11 )からは、大型の建築跡や巨大な王墓をはじめ、亀甲・獣骨にきざまれた( 12 )などが発見されている。これによると殷代では、典型的な(イ)神権政治がおこなわれていたことが知られる。

 ( 13 )世紀ごろになると、西方にあって殷に服属していた邑のひとつ、周が殷を滅ぼして都を( 14 )においた。周王は、一族や功臣を諸候に任命してその地をおさめさせ、かわりに貢納と軍役の義務を課した。王や諸侯のもとには、卿・大夫・士とよばれる家臣団がいて、卿や大夫には邑があたえられた。(ウ)このような政治制度を周の封建制とよぶ。周は、王一族の争いと周辺民族の侵入によって、前770年に都を東の( 15 )に遷した。東遷以前を西周、以後を東周とよび、また東周の前半を(エ)春秋時代、後半を(オ)戦国時代という。

設問1  文中の括弧( 1 )~( 15 )に適当な語句を記入しなさい。
設問2 下線部(ア)に関して、( 8 )は( 6 )と比べてどのように技術がすすんでいたか、二つ挙げなさい。
設問3  下線部(イ)に関して、神権政治を説明しなさい。
設問4
下線部(ウ)に関して、西洋中世の「封建制度」(フューダリズム)との違いを簡潔にのべなさい。
設問5
下線部(エ)に関して、この時代名の由来について記しなさい。
設問6
下線部(オ)に関して、戦国の七雄とは何か、説明しなさい。

解 答 

問1

アワ 江南 稲作 草原の道 絹の道
彩文土器 仰韶文化 黒陶 三足土器 10 竜山文化
11 殷墟 12 甲骨文字 13 前11世紀 14 鎬京 15 洛邑

※別解:1:ひえ、キビ  5:シルクロード  6:彩陶

問2 ろくろの使用。1000度以上の高温での焼成。
問3 農事・軍事などの決定にあたって卜辞による神の意志に従うなど、王の宗教的な権威によって行われる、祭政一致の政治。
問4 西洋の封建制度の土地を仲立ちとする主従関係は個人間の関係で双務的であるが、周の封建制は宗法によって結ばれた血縁集団である宗族間の関係が基本である。
問5 孔子が編纂したとされる魯の国の年代記『春秋』に由来する。
問6 戦国時代に独立した教国となった、韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の七ヵ国を言う。

 

4.「草原の道 オアシスの道」の画像検索結果

 

7.仰韶文化 8.黒陶

 故郷採用三流コック。

紀元前5千年紀 仰韶文化 彩陶 紀元前3千年紀 竜山文化 黒陶

9.▼三足土器

「三 足 土器 鬲」の画像検索結果

 

10.竜山文化 13.前11世紀 ※  文字形利用記憶法  「」の字にある〈〉は「」と「」。

前1027 年  殷の紂王、牧野の戦いで周の武王に敗死し、殷滅亡。

 威を担う僕 周武王。
   前1027年 牧野の戦い 周 武王

 14.鎬京 ※  同音利用暗記記憶法  「」は「口径」→「鎬京」。15.洛邑

 

▲c.渭水 e.仰韶 ◎m.鎬京 ◎n.洛邑 ●iは竜山 ◎kは殷墟

問2.黒陶だけにくろを使用している。轆轤でコクと鮮度増す。

問3.農事・軍事などの決定にあたって卜辞による神の意志に従うなど、王の宗教的な権威によって行われる、祭政一致の政治。

問4※ 「」だけに「族間の関係」が基本!

▼彩文土器

彩文土器

▼彩陶

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第2章1節  インドの古典文明 / 総合・仏教と古代インドの宗教 ★★ インドの仏教 

2020-01-03 | 入試問題+ゴロ合わせ
2009 中央大学(法・国際企業関係法)

【問】つぎの文章(A~C)は、古代インドにおける仏教の歴史について述べたものである。よく読んで、下記の設問に答えなさい。なお、漢字は正確に書くこと。

A.世界の3大宗教のひとつと称される仏教は、(  1  )族のカピラ国の王子ガウタマ=シッダールタの教説に基づくものである。王子が生まれた時代のインドには、支配的な宗教として、すでにバラモン教が存在していた。バラモン教はイラン高原からインドの地へ侵入して、先住民族を征服したアーリヤ人の社会のなかで誕生した宗教である。バラモンとは、(a).ヴァルナ制の最上位に当たる司祭階層の名称であり、そしてバラモン教とは自然現象のうちにひそむ力を、太陽神・火神・雷神などと神格化して崇拝する宗教だった。仏教が登場する以前のインドの社会において、前6世紀ごろまで何世紀にもおよんだ時代を、このバラモン教の聖典の名にちなんで(  2  )時代と呼ぶ。

 のちに仏教として体系化されていくガウタマ=シッダールタの新しい教えはこの(b).バラモン教に対する批判という側面をもっていた。バラモン教にとって重要だった複雑な祭式と動物の供犠を、さらにはバラモン教の根底にあるヴァルナ制をガウタマ=シッダールタは否定し、すべての人の平等、すべての生き物への慈悲を唱えた。より具体的には、正見・正思・正語などを含む教えである(  3  )の実践と、生老病死からの脱却を説いた。この教えはおもに武士や貴族の階級の支持を獲得して、(  4  )川の中流域に栄えたマガダ国に保護された。また前6世紀には、極端な不殺生主義を唱え、そして仏教と同様にヴァルナ制を否定する宗教(c).ジャイナ教も誕生しこちらは商人階級に多くの支持者を見出した。

B.インド最初の統一王朝マウリヤ朝は前3世紀中ごろ第3代アショーカ王のときに最盛期を迎える。アショーカ王は即位後8年に、デカン東北部の(  5  )国を征服したさい多くの犠牲者を出したことから、仏教に帰依するようになった。王は各地に、仏舎利を納める建造物(  6  )を建立し、仏教の保護と布教にも努めた。とりわけ、王子マヒンダを遣わしたという伝説もあるスリランカへの布教は大きな成功をおさめた。これ以降、この地に伝えられた上座部仏教と呼ばれる部派は、東南アジア方面へ伝わっていき今日に至っているが、その伝達経路から南伝仏教とも呼ばれている。

 マウリヤ朝はアショーカ王の没後には弱体化し、前180年ごろには滅亡する。その後、西北インドには、ギリシア系の王国(  7  )が進出し、ヘレニズム文化を伝えた。つづいて(  8  )族というイラン系遊牧民が侵入し、紀元後1世紀になると、新たにこの地に侵入してきたクシャーナ族による王朝が成立した。2世紀中ごろクシャーナ朝の最盛期を築いたカニシカ王は仏教にたいして手厚い保護をおこなった。しかし、この時代の仏教には、アショーカ王の時代のものとくらべて大きな2つの相違点が存在している。第1に、クシャーナ朝で主流となったのは(d).大乗仏教と呼ばれる新しい仏教だった。大乗とは「大きな乗り物Jという意味であり、この新しい仏教は、修行による自己救済にとどまらず、(  9  )信仰を中心として、すべての人間の救済を目ざすものだった。第2にヘレニズム文化の影響から、さかんに仏像が造られ、信仰されるようになった。このギリシア的要素の濃い仏教美術はガンダーラ美術と称される。そして、このような新しい仏教は、その美術とともに、中央アジアを経由して中国や日本にまで伝えられたためスリランカ経由の仏教と対比して北伝仏教と呼ばれている。

C.クシャーナ朝は3世紀には滅びるが、4世紀にはグプタ朝が新たに成立した。このグプタ朝時代のもっとも重要な出来事のひとつとしては(e)ヒンドゥー教がインドの社会に定着したことをあげなければならないが、しかし、この時代に仏教はただちに衰退したわけではない。まず仏教美術の領域では、ギリシアの影響を脱した、優美なグプタ様式と呼ばれる純インド風の芸術が出現し、この時代はインド古典文化の黄金時代とも称される。また仏教の教理の研究もさかんにおこなわれていた。グプタ朝最盛期の王チャンドラグプタ2世の時代には(f)法顕がインドを訪れている。5世紀にはナーランダー僧院が建立されて、仏教研究の中心地として発達した。グプタ朝そのものは、6世紀の半ばには、騎馬遊牧民(  10  )の侵入によって衰微し滅びることになるが、ナーランダー僧院はその後も存続し、7世紀にインドを訪れた玄奘や(g).義浄もこの地で学んだ。

 そして7世紀後半には大乗仏教の一流派として(  11  )が成立した。この呪術的で、神秘的な色彩の濃い仏教のうちにはヒンドゥー教からの影響を見ることもできるが、この流派はのちに唐を経由して、9世紀に最澄と空海によって日本にも本格的に伝えられることになる。しかし、こうした繁栄ののち、仏教は急速にインドの地では衰微していく。7世紀ころから、南インドでは、仏教やジャイナ教を否定し、ヒンドゥー教の神々への絶対的な帰依を唱える(  12  )運動と呼ばれる宗教活動がさかんになった。農民社会のなかに定着できなかった仏教とは異なり、ヒンドゥー教は確実にインドの民衆のあいだに定着していったのである。仏教は、 8世紀から12世紀のあいだべンガル地方を支配した(  13  )朝のもとで保護されて、最後の繁栄をみせるが、その後はインドでは衰え、影響力を失った。

設問
1 空欄(1 ~13)に入るもっとも適切な語句を答えなさい。

2 下線部(a)について。ヴァルナは、アーリヤ人が定住した当初、 4つの基本的身分によって構成されていたが、バラモン以下の残りの3つを、身分の高い順に答えなさい。

3  下線部(b)について。この時代、バラモン教に対しては内部からの改革運動も発生した。この改革運動に関して述べた記述のうち正しいものはどれか。1つ選んで記号で答えなさい。
  あ.
カルマによって決定されている輪廻からの解脱を説いた。
  い.
この世界をアフラ=マズダとアーリマンとの闘争であると説明した。
  う.
仏教やジャイナ教に対抗して、祭式至上主義の徹底を目指した。
  え.
ブラフマンとアートマンを主神として崇めることを説いた。
  お.
運動の中心的役割を果たした人物の名前からウパニシャツド哲学と呼ばれている。
下線部(c)について。この宗教の開祖は誰か。その名前を答えなさい。
下線部(d)について。『中論』を著して、大乗仏教の理論の確立に寄与した人物は誰か。その名前を答えなさい。
下線部(e)について。ヒンドゥー教に関して述べた記述のうち正しいものはどれか。1つ選んで記号で答えなさい。
  あ.
ヒンドゥー教の戒律集マヌ法典はチャンドラグプタ2世の命により編纂された。
  い.
シヴァ・ヴイシュヌ・ブラフマーを3大主神とする多神教だった。
  う.
ジャワ島のシャイレンドラ朝はヒンドゥー教の王国だった。
  え.
中国では祅教と呼ばれ、寺院も建設された。
  お.
マハーバーラタjは
ヒンドゥー教の開祖の生涯を描いた叙事詩である。
下線部(f)について。法顕は中国の何という王朝の僧か。その王朝名を答えなさい。
下線部(g)について。義浄が残した旅行記を何というか。その題名を答えなさい。

解 答 

設問1

シャカ ヴェーダ 八正道 ガンジス カリンガ
10
ストゥーパ バクトリア サカ 菩薩 エフタル
11 12 13  
密教 バクティ パーラ  

設問2~8

クシャトリヤ  ヴァイシャ  シュードラ  あ  ヴァルダマーナ
ナーガルジュナ(竜樹)  い  東晋 南海寄帰内法伝

解 説: 

設問1・八正道

お釈迦さまが発見された、人生の苦しみから解放され、心を安らいだ状態に保つ、8つの方法を
『八正道(はっしょうどう)』といいます。
1.「正見」 しょうけん  正しいものの見方をすること
 
2.「正思」 しょうし 正しく思うこと
  (正しい心を保つことを心がけること)
 
3.「正語」 しょうご
  正しく言葉を使うこと
 
4.「正業」 しょうごう
  正しい行いをして、戒律(かいりつ)を守ること
 
5.「正命」 しょうみょう
  正しい生活をすること
 
6.「正精進」 しょうしょうじん
  正しく努力、修行すること
 
7.「正念」 しょうねん
  正しく教えを覚えて念じること
 
8.「正定」 しょうじょう
  正しく瞑想(坐禅)ができるようになること

「検視後・ごう・みょ  諸事・ねん・じょう」

設問1・5:カリンガ国は前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王に征服された、デカン高原東北にあった国。この時の大殺戮を反省したアショーカ王が仏教に帰依することとなったといわれている。「借りがある国」というわけだ。

設問1・8:サカ族は前1世紀ごろ、大月氏に追われて中央アジアからインド北西部に移動したイラン系民族。次のクシャーナ族に服属した。サカはシャカともいい、漢字で釈とも書くが釈迦(ブッダ)とは関係がない。

設問1・9:ぼさっとしてて 大丈夫?

設問1・13:パーラ朝は8~12世紀にベンガル地方に存在したインドの王朝で、仏教を最後に保護したことで知られる。

750年パーラ朝

なぁこれ最後 パーラ朝。

750年 最後に仏教を保護 パーラ朝

設問2.2:バラクシャ ヴァイシュ。
設問1・12 7世紀頃に南インドに始まり、16世紀までに全インドに広がった、ヒンドゥー教による、ジャイナ教と仏教を排除し、インド古来の神々(シヴァ神やヴィシュヌ神など)への信仰を復興させようという民衆の宗教運動。バクティとは最高神への帰依をさす言葉で「信愛」ないし「誠信」と訳される。

バグって酷い ぶっちゃいな。
 バクティ信仰 ヒンドゥー教に帰依  仏教・ジャイナ教を排除
設問2・4 威張る旦那は死んじゃいな。
設問5.ベック式!ナーガールジュナの覚え方
 
設問6.ヒンドゥー教三大主神の覚え方
う.ボロブドゥールを意識すれば仏教国だとわかる。
設問8.691年 唐の義浄、『南海寄帰内法伝』なる。

報いる義浄 何か聞き。

691年 唐の義浄、『南海寄帰内法伝』

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第5章1節 イスラーム帝国の成立 / 総合・イスラーム教史 ★★ アラブ人とイスラーム教 

2020-01-02 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2009 中央大学(法・国際企業関係法)

【問】つぎの文章(A~D)はアラブ人とイスラーム教の歴史について述べたものである。よく読んで、下記の設問に答えなさい。なお、漢字は正確に書くこと。。

A.イスラーム教はメッカのアラブ人商人であったムハンマドにより7世紀初めに創始された。アラブ人はアツカド人やヘブライ人と同じ(  1  )語系の言語を使用する民族で、諸部族に分かれてアラビア半島に居住していた。彼らは主に隊商による交易活動を営んでおり、その一部はイラン方面や地中海沿岸へも進出していた。

6世紀、ササン朝とビザンツ帝国のあいだで戦争が続き、中国・インドと西域を結ぶ貿易ルートが遮断された。その結果、東西貿易の多くがアラビア半島を経由するようになり、アラブ人商人たちに莫大な利益をもたらした。ムハンマドは商人による富の独占を批判し、(a).唯一神アッラーへの絶対的服従により生活を律するよう説いた。ムハンマドは迫害され、一時(b)メッカからメデイナに移住したが、ここで多くのアラブ人たちの信仰をあつめ 630年にはメッカに帰還した。

B.ムハンマドの死後彼の後継者の下でアラブ人たちは周辺地域への聖戦を開始した。彼らはササン朝を滅ぼし、ビザンツ帝国からはシリア・エジプトを奪取、これらの地域に征服者として移住した。661年、(c)4代目後継者アリーの暗殺を機に、シリア総督だった(  2  )が実権を握りダマスクスを拠点としてイスラーム圏の指導者となった。彼が開いたウマイヤ朝は北アフリカからイベリア半島へと征服地を拡大したが、750年にムハンマドの叔父の子孫(d).アッバース家により倒された。アッバース朝は新首都バグダードを建設し、東はインダス川から西はモロッコに至る大帝国となった。イスラーム教の聖典である『コーラン』はアラビア語で記されており、イスラーム教に改宗した被征服民の多くは(イラン人などを除き)しだいにアラビア語を話すアラブ人たちに同化していった。

C.10世紀になるとアッバース朝は弱体化する。946年、東部でイラン人軍人が興した(  3  )朝がバグダードに入り、アッバース家から統治権を奪った。アラビア半島東部のアラブ人たちは(e)異民族であるイラン人の支配を嫌い、その統治からしだいに離脱した。11世紀になると中央アジアでトルコ人たちが興したセルジューク朝が(  3  )朝を滅ぼしアッバース家から(  4  )の称号を得てバグダードの統治者となった。セルジューク朝は小アジアに進出して強大化したが、(f)十字軍との戦闘で疲弊し、やがて分裂・滅亡した。アッバース朝は1258年モンゴル軍のバグダード襲来により滅亡した。このときトルコ系のマムルーク朝がシリアでモンゴル軍を撃退し、アッバース家を首都(  5  )に迎えて(  4  )の称号を得た。これ以降、マムルーク朝はメッカ・メデイナの庇護者となったが、アラビア半島の多くのアラブ人たちは(g)異民族であるトルコ人の支配を嫌いトルコ系王朝の統治下に入らなかった。

D.バグダードの支配者はその後、モンゴル人から中央アジアのティムール朝へ16世紀初めにはイラン人王朝のサファヴイ一朝へ、さらに(h)トルコ人が興したオスマン帝国へと移り代わった。13世紀末に小アジアで勃興したオスマン帝国は、 16世紀になるとシリアへ進出してバグダードやイラク南部を奪取、またマムルーク朝も滅ぼしてメッカ・メデイナの保護権を獲得した。オスマン帝国はアラブ入居住域の大部分を支配するに至ったが、アラビア半島の完全な支配はできなかった。18世紀になると、そのアラビア半島で(i)反トルコ・反イランを旨とするイスラーム改革運動が起こる。この運動の最中、サウード家を中心とする(  6  )王国が建設され、メッカとメデイナをオスマン帝国から奪った。これに触発されて、トルコ人支配下のアラブ人たちのあいだには独立の動きが高まった。オスマン帝国は徐々に弱体化し1922年には滅亡するが、これと相前後してアラブ人たちは千年に及ぶ異民族支配からパレスチナを除き独立することになる。

設問
1 空欄(1~6)に入るもっとも適切な語句を答えなさい。

2  下線部(a)について。イスラーム教徒には六信五行が課されているが、この内容として正しくないのはつぎのうちどれか。答えは1つであるとは限らない 
 
あ.天使を信ずる い.来世を信ずる う.聖戦をする え.断食をする お.喜捨をする か.多くの妻を妻る(一夫多妻)

3 下線部(b)のメッカとメデイナ、そしてイェルサレムがイスラーム教の三大聖地となっている。イェルサレムと縁が深いユダヤ教徒たちとキリスト教徒たちは、イスラーム教では何と呼ばれるか。その名称を答えなさい。
 
4 下線部(c)のアリーとその子孫のみがムハンマドの正統の後継者である、とするイスラーム教の宗派は何派と呼ばれるか。その名称を答えなさい。また、この宗派が国民の多数を占める現代国家をつぎの中から1つ選んで記号で答えなさい。
 あ.サウジアラビア   い.エジプト   う.イラン   え.シリア   お.トルコ

5 下線部(d)について。アラブ人優遇政策をとるウマイヤ朝への不満が、あらゆるイスラーム教徒を平等に扱うアッバース朝の誕生につながった。アッバース家によるウマイヤ朝打倒運動の拠点となったイラン北東部の地方は何と呼ばれるか。その地方名を答えなさい。

6 下線部(e)について。イラン人が話すペルシア語は何語族に属するか。その名称を答えなさい。また、つぎの言語のうち、イラン人と同じ語族に属する民族を1つ選んで記号で答えなさい。 
あ.アッシリア人 い.フェニキア人 う.アムル人 え.ドラヴイダ人 お.ギリシア人
 
7 下根部(f)の十字軍は、アラビア文化が本格的にヨーロッパに伝えられる契機の1つとなった。この文化の伝播は紙という媒体を通して可能になったが、紙がイスラーム圏にもたらされたきっかけはアラブ人たちが8世紀に起こしたある戦いである。その戦いの名称を答えなさい。また、その戦いはアラブ人たちとどの国とのあいだで発生したか。その国名を答えなさい。
下線部(g)について。トルコ語は何語族に属するか。その名称を答えなさい。また、つぎの言語のうち、トルコ語と同じ語族に属さないのはどれか、1つ選んで記号で答えなさい。
 あ.モンゴル語   い.ウイグル語   う.ソグド語   え.キルギス語   お.満州語
下線部(i)の改革運動は、 10世紀以降とりわけイラン人たちに広まった神との内的な一体感を求める考え方を排撃した。この考え方は求道者が羊毛で作った粗末な衣服をまとっていたことにちなむ名称で呼ばれる。その名称を答えなさい。
10
下線部(h)のオスマン帝国など、 10世紀以降のイスラーム圏王朝では、軍人に土地の徴税権を与え、各人の俸給に相当する額を直接、農民や都市民から徴税させる制度(イクター制)が広く採用されていた。オスマン帝国で騎士階級に与えられた土地の徴税権は何と呼ばれたか。その名称を答えなさい。

解 答 

設問1

セム ムアーウィア ブワイフ スルタン カイロ ワッハーブ

設問2~10

う・か 啓典の民 シーア派・う ホラーサーン地方 インド-ヨーロッパ語族・お
10
タラス河畔の戦い・唐 アルタイ語族・う スーフィズム ティマール

解 説

設問1.1.セム語系の言語を使用する民族は、バビロニア人、アラブ人、アッシリア人、アツカド人、フェニキア人など、「ア」の付く民族が圧倒的に多い。

設問1・2

661年  〈ウマイヤ朝〉

無論言うまい騙し討ち。

661年 ムアーウィア ウマイヤ朝 ダマスカス

3

946   〈ブワイフ朝、バグダード入城〉

苦心、武は畏怖 アッバース       

   946年  シーア派  ブワイフ朝のバグダード入城イラン系 アッバース朝

 5 ホラーサーン地方 〈ホ〉北東、〈ラ〉と〈ン〉イラン


設問1 7

751   〈タラス河畔の戦い〉

なぁ来いったら 紙持って。

751年 アッバース朝 高仙芝 タラス河畔の戦い 製紙法の伝達

設問2・2

六信五行

イスラム教徒が信ずべき六つの信条と、実行すべき五つの義務。六信とはアッラー天使啓典預言者来世・予定、五行とは信仰告白礼拝サラート)・喜捨ザカート)・断食サウム)・巡礼(ハッジ)をいう。五行六信

 受信綺麗だ 五行見た。

巡礼 信仰告白 喜捨 礼拝 断食 五行

設問6.イランはインド-ヨーロッパ語族。「」「

設問8.う.ソグド語は、インド=ヨーロッパ語に属する。ソグド人もインド=ヨーロッパ語族のイラン系の民族。

設問9.スーフィズム スース―する服

 設問10 ブセイクビザプ 押すティマる。

ブワイフ朝・セルジューク朝 イクター制

         ビザンツ帝国 プロノイア制   オスマントルコ ティマール制

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センターテスト 過去問 ★ 東南アジア関連

2019-12-31 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2007 センター本試験 第1問の一部

【問】聖地や霊場への巡礼について述べた以下の文章を読んで問に答えなさい。

B カンボジアにある④.アンコール=ワットの石柱には,参詣人の落書きが少なくない。17世紀前半日本の肥前,肥後,堺などからの来訪者による墨書もいくつかある。なかでも森本右近太夫一房のもの(下図参照)が有名で,彼は1632(寛永9)年に,父母の後世を願い,仏像4体を奉納したことを書き残した。この折に一房は,伽藍の配置を写し取り, 『平家物語』で有名な祇園精舎の図として持ち帰ったという。当時日本からの参詣人は,アンコール=ワットを,インドに存在した,⑤.ガウタマ=シッダールタゆかりの修行場と勘違いしていたようである。ともあれ「仏教の聖地」として,この地を訪れることができたのは,⑥.当時朱印船が日本と東南アジアの間を行き来していたからにほかならない。

アンコール=ワットの石柱に残る森本右近太夫一房の墨書
問4 下線部④について述べた文として最も適当なものを,次の①~④のうちから一つ選べ。 

 シュリーヴィジャヤ王国によって建設された。

 インドのヴァルダナ朝と同時期に建設された。
 
 チャンドラグプタ2世によって建設された。
 
 当初はヒンドゥー寺院として建設された。

問5 下線部⑤の人物が説いた教えの伝播について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。

 ① インドではマウリヤ朝時代に,大乗仏教が広まった。

 ② 中国では唐の時代,玄奘がインドに旅し,仏典を持ち帰った。

 ③ インドネシアのパガン朝で,上座部仏教が広まった。

 ④ 朝鮮半島には,朝鮮(李朝)時代に初めて伝わった。

問6 下線部⑥に関連して, 16世紀後半から17世紀前半までの東南アジアについて述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ
 ① マニラは,スペインの交易拠点であった。
 ② ヴエトナムに,陳朝が成立した。
 ③ マレ一半島では,マラッカ王国が海上交易で、繁栄していた。
 ④ タイでは,スコータイ王朝が交易で繁栄していた。
 

解 答

問4 問5 問6

解 説

問5 正解は④ アンコール=ワットは12世紀、カンボジアのアンコール朝でスールヤヴァルマン2世によって、はじめヒンドゥー寺院として造営され、後に仏教寺院とされた。
 ① シュリーヴィジャヤはスマトラ島を中心とした国。

650年 シュリーヴィジャヤ王国成立。

婿を修理じゃ 暴れすぎ。

650年 シュリーヴィジャヤ王国 パレンバン スマトラ島 義浄


② ヴァルダナ朝は7世紀前半、唐の玄奘が訪問した。

606年   〈インド〉ヴァルダナ朝(~647 年)成立:ハルシャヴァルダナ(戒日)王即位。

群れろはるばる 叶うよな。 

606 ハルシャ=ヴァルダナ カナウジ~47


 チャンドラグプタ2世はインドのグプタ朝全盛期の王。

問6 正解は② 玄奘はヴァルダナ朝時代のインドに赴き、ナーランダ僧院で学び、多数の仏典を中国に持ち帰った。
 ① 大乗仏教は紀元前後のクシャーナ朝時代。

200年頃 ナーガールジュナ(龍樹)が大乗仏教を確立。

荷を負いながら ダイブ中。

200年 ナーガールジュナ 大乗仏教 『中論』

  ③  パガン朝はビルマ(ミャンマー)の王朝。

  ④ 朝鮮への仏教伝来は三国時代。
問7 正解は① マニラは1571年にスペインが建設した。メキシコのアカプルコとのガレオン貿易の拠点とされた。

1571年〈スペイン〉フィリピンのマニラ市を建設。

遺恨ない間に 建設す。

1571年 マニラ スペイン
 ②.陳朝はモンゴル軍を撃退したのだから13世紀。

 1225年 〈陳朝の成立(~1400年)〉

 The Trn dynasty was a ruling dynasty in Vietnam between 1225 and 1400. The dynasty was founded when emperor Trn Thái Tông ascended to the throne after his uncle Trần Thủ Độ orchestrated the overthrow of the Lý dynasty. The dynasty ruled for a total of 175 years, until emperor Thiếu Đế, then five years old, was forced to abdicate the throne in favor of his maternal grandfather Hồ Quý Ly. Among other things, the Trn dynasty are noted for defeating three Mongol invasions, most notably in the decisive Battle of Bạch Đằng River, in 1288.es.

人にニコチン 注意しょう

1225  陳朝   チュノム  昇竜

1225年、李朝の王女の婿陳煚(けい)が王位を譲り受けベトナム北部に陳朝を建国。大穀倉地帯であるソンコイ河デルタ地帯を一手に押さえる昇竜を都とした(現ハノイ)。13世紀末には3回に及ぶの遠征軍を退け、チャンパーと争った。行政制度・仏教文化が発達し、民族的意識の高揚は字喃(チュノム)と呼ばれる国字を生む。外戚の胡氏に国を奪われ、1400年に滅亡した。

 ③ マラッカ王国は14世紀末から16世紀初めまで。

意志をマラッカ言い歩け。
1400年 マラッカ王国 1511年 アルブケルケ

④ スコータイ朝は13~14世紀。アユタヤ朝が正しい

1350 年  アユタヤ朝の成立(~1767年)

いざこれからも 歩みたい。
1350年 ラーマ・ティボディ1世 アユタヤ朝 タイ
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センターテスト 過去問 ★ 清の文化 

2019-12-30 | 入試問題+ゴロ合わせ
2006 センター追試験 第4問の一部

【問】音楽、演劇と、政治との関係について述べた以下の文章を読んで問に答えなさい。

B 1644年に明朝が滅亡してから半世紀あまりのち,戯曲『桃花扇伝奇』が作られた。この戯曲は男女の悲恋を描きつつまた滅亡した明朝への追慕を濃厚に宿すものであった。⑤.そのため,清朝は現体制への批判を煽るものと見なして,戯曲の上演に神経質になった。劇中の登場人物である史可法は,揚州防衛の指揮を執って落命した明朝官僚として有名である。『桃花扇伝奇』では揚州陣中における史可法の嘆きを次のように描く。(岩城秀夫訳による。一部書き改め,省略したところがある。)

史可法:
この史可法は,日ごと中原を回復せんと考えているが,計略は少しも思うにまかせぬ。斥候の知らせでは本月二十一日清軍の兵士はすでに准安の境まで侵入したということだ。麾下の兵士は三千たらず,どうして太刀打ちできょう。この准安・揚州を失えば,南京の陥落は自に見えている。明の国家もいよいよ終わりか,ああ,残念至極だ。

揚州陣中で血涙を流す史可法
問4

下線部④に関連して, 17世紀の世界各地で起こった出来事として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①
ヴェトナムで西山(タイソン)党の反乱が起こった。
 ②
フランスがニューアムステルダムをニューヨークと改称した。
 ③
ポーランドとリトアニアが合同して,ヤゲウォ朝が成立した。
 ④
モルッカ(マルク)諸島で、アンボイナ事件が起こった。
問5
下線部⑤に関連して,清朝の文化や政治について述べた文として最も適当なものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①
科挙を停止して,清末に再開した。
 ②
満州人を官僚に登用し,漢人を官界から排除した。
 ③
文字の獄と呼ばれる思想統制を行った。
 ④
戯曲『琵琶記』が作られた。

問6 下線部⑥の都市について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。

① 殷王朝の遺跡,殷墟がある。

② 三国時代の呉の都,建業が置かれた。

③ 南宋の都,臨安が置かれた。
 ④
郊外の雲崗に,石窟寺院がある。
 

解 答 

問4 問5 問6

解 説: 

問4 正解は④  アンボイナ事件はは1623年。
① 西山党の乱は1771年。
  • ●ベトナム(西山朝)

 1771年 〈西山の乱(1802年)〉

The Tây Son brothers upraised and united Viet-nam for a short period of time.

否無いタイン 破裂阮。

1771年  西山の乱 西山朝 阮3兄弟 ~1802年 阮朝

 

チャン李陳黎 タイン阮。

チャンパー 李朝 陳朝 黎朝 タイソン朝 阮朝

18世紀のベトナムでは、黎朝皇帝が名目上のものとなり、北部は鄭氏が北河国を称し、南部は阮氏が広南国を称していた。1771年、ベトナム中部の西山邑出身の阮文岳・文呂・文恵3兄弟(阮姓だが広南阮氏とは無縁)らが、黎朝の衰退に乗じて起こした反乱。3兄弟は77年に阮氏を、86年には鄭氏を滅ぼして西山朝を建て、短期間ベトナムを統一したが1802年阮氏政権の生き残りで南シナ海の諸勢力に支援され、フランスの援助を受けた阮福暎に滅ぼされた。

② フランスはイギリスの誤り。1664年の出来事なのでイギリスになっていれば〇だった。

1664年8月〈イギリス〉北米のオランダ領ニューアムステルダムを占領、ニューヨークと改称。

異論無視して ニューヨーク。

1664年 イギリス ニューヨーク


ヤゲヴォ朝の成立は1386年。

1386 〈ポーランド〉ヤゲロー朝成立:(~1572):リトアニア大公ヤゲローがポーランド王女と結婚、王位を兼ねる。   

いざヤゲローがリードする。

1386年 ヤゲロー朝 リトアニア


問5 正解は③ 文字の獄は雍正帝・乾隆帝の時のものが有名。
① 清は科挙を継承。清末の1905年に廃止した。

清は満漢併用制を採用した。

『琵琶記』は元朝末期の元曲。
問6 正解② 南京は三国時代の呉の建業。東晋以降、南朝では建康と言われた。
① 殷墟は黄河の北側の河南省。

南宋の都臨安が置かれたのは杭州。

雲崗は山西省、北魏の都平城(現大同)の郊外。
 

 


三関

2019-12-30 | 入試問題+ゴロ合わせ

「三関」

愛(あら)美不破 伊勢鈴鹿。

(北陸道)越前 愛発関 (東山道)美濃 不破関 (東海道)伊勢 鈴鹿関


2018関西学院大・済国際総合2月4日

 古代で最も重要な港といえばa難波津であろう。西国の物資はここに集積され都に運ばれた。難波津は西国との交通の拠点でもあり、遣唐便などの出発地でもあった。那津とも呼ばれた博多津の近くにはb大宰府が置かれ、西海道諸国の統括と外交にあたった。大輪田泊(兵庫津)は平清盛の修築が有名であるが、ここは奈良時代に既に[ c ]が整備したとする記録がある。

問1.下線部aに関して、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。

 
 ア.律令制では摂津職がおかれ、議政官が長官を兼務した。

 イ.孝徳天皇の時に宮がおかれた。
 ウ.聖武天皇の時に一時都がおかれた。

問2.下線部bの官人で、反乱を起こした人物を下記より選びなさい。


 ア.大伴家持 イ.藤原広嗣
 ウ.橘奈良麻呂
 エ.藤原仲麻呂


問3.空欄cには、用水や救済施設を作る社会事業を行ない、一時は政府から弾圧された僧侶の名前が入る。該当するものを下記より選びなさい。


 ア.空海 イ.最澄
 ウ.鑑真 エ.行基


(答:問1ア※議政官は合議体で官職名ではない、問2イ、問3エ)

 

740年 藤原広嗣の乱 

詰れ広嗣元気よく。

740年 藤原広嗣の乱 玄昉・吉備真備の排斥を訴える 恭仁京


2017早大・文化構想

 ここでは、交通の歴史についで考えてみよう。
 まず、大化改新詔の第2条では、a関塞(せきそこ)、駅馬(かゆま)などを置くことが命じられているが、この時期に設置されたとは考えにくく、潤色だと思われる。実際に、国家による道や駅家が建設されるようになったのは7世紀後半であったと、現在では推測されている。
 その後、中央から地方に及ぶb七道が整備きれ、一定の距離ごとにc駅家が置かれた一方、地方では、駅路から離れて郡家などを結ぶ[ A ]と呼ばれる道が敷かれた。近年、d日本各地で官道が発掘調査により検出されるようになり、実態が解明されつつある

問1 下線a関塞(せきそこ)は関のことであるが、古代には3つの関(三関(さんげん))が官道に設置された。このうち、関ヶ原の戦いが起きた場所の近くに位置していた関の名は何か。漢字2字で記入しなさい。


問2 下線b七道に含まれないものはどれか。1つ選べ。


 ア 北陸道 イ 南海道 ウ 山陰道

 エ 西海道 オ 中山道

問3 下線c駅家について述べた丈章で誤っているものはどれか。1つ選べ。


 ア 駅長が統轄した。

 イ 経費は駅田でまかなわれた。 
 ウ 庶民は利用できなかった。
 エ 官人は皆利用できた。 
 オ 駅務には駅子が当たった。

問4 空欄Aにあてはまる語句は何か。漢字2字で記入しなさい。

問5 下線dについて述べた文章で正しいものはどれか。1つ選べ。


 ア 道幅は10mを超えるものもあり、地形に合わせて曲がっている場所が多かった。

 イ 道幅は5m以下のものがほとんどで、直線的であった。
 ウ 道幅は10mを超えるものもあり、直線的であった。
 エ 道幅は5m以下のものがほとんどで、地形に合わせて曲がっている場所が多かった。
 オ 道幅や形態に規格性はなかった。」

(答:問1不破、問2オ、問3エ※原則は公務、例外的に高官は私的にも可、問4伝路、問5ウ)

2016立命館大・全学部2月3日

問b 下線部2固関に関連して、古代の三関の一つである不破関は、七道のうちいずれに設置されたものであったか。もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ 東海道 い 東山道
 う 北陸道 え 山陰道

(答:い)


2016学習院大・文

 律令制下では、地方諸国が七道の交通路で都と結ばれた。正確には、②〔イ西海道 ロ山陰道 ハ山陽道 ニ南海道〕は大宰府が管轄していたので、残る六道が都から放射状に②以外の諸国をつないでいたのである。その中で、都から東や北に向かう三道には③〔イ愛発関と白河関と鈴鹿関 ロ愛発関と白河関と不破関 ハ愛発関と鈴鹿関と不破関 ニ白河関と鈴鹿関と不破関〕が置かれ三関と言われた。七道の交通路には緊急連絡のための馬が④〔イ郡家 ロ駅家 ハ国府 ニ関 ホ里〕ごとに用意されて管理されていた。また、緊急時でない場合の公的乗用のためには伝馬が置かれていた。東国の道は、東北地方で蝦夷との戦争が起きた際には、大規模な軍隊が通る道にもなった。

(答:②イ、③ハ、④ロ)


2014立教大・現代心理(映像身体)・社会・コミュ福祉(福祉)

問4.このうち東海道におかれたのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。

 a.愛発関  b.鈴鹿関
 e.箱根関  d.不破関

(答:b)


2008東大・前期

第一問.次の1~6の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

 1.奈良時代の東国の郡司には、金刺舎人(かなさしのとねり)など6世紀の大王宮があった地名を含む姓が見える。これはかつて国造たちが、その子弟を舎人として、大王官に仕えさせていたことによると考えられる。

 2.672年、近江朝廷と対立し、吉野で挙兵した大海人皇子は、伊賀・伊勢を経て、美濃に移って東国の兵を集結し、不破の地を押さえて、近江朝廷に勝利した。

 3.大宰府に配属された防人は、全て東国の諸国から徴発されており、前の時代の国造に率いられた兵力のあり方が残っていたと考えられる。

 4.律令制では、美濃国不破・伊勢国鈴鹿(すずか)・越前国愛発(あらち)にそれぞれ関が置かれ三関(さんげん)とよばれた。奈良時代には、長屋王の変や天皇の死去など国家の大事が発生すると、使者を三関のある国に派遣し、関を閉鎖する固関(こげん)が行われた。
 5.聖武天皇の詔には、「額(ひたい)に矢が立つことはあっても、背中に失が立つことはあるものか」と身辺警護の「東人」が常に誇っていたことが見える。古代の天皇の親衛隊は、東国出身者が中心であったらしい。

 6.764年、反乱を起こした藤原仲麻呂は、平城京から山背・近江を経て、越前に向かおうとしたが、愛発関で阻まれ 近江国高島(たかしま)郡において斬殺された。

A 東国は古代国家にとって、どのような役割を果たしていたのか。3行以内で述べなさい。


B 律令国家は、内乱にどのように対処しようとしたのか。古代の内乱の傾向を踏まえて、3行以内で述べなさい。」


(解答例:A東国は古代国家の軍事力の供給源であった。すわち東国の豪族の子弟は、平時には王宮警備・北九州をはじめ辺境防備の主力であり、戦時には反乱に対する勝利を決定づける軍事力の要であった。

B古代の内乱では、東国の武力の帰趨が勝敗を決する傾向が強かった。このため反乱勢力は軍事力の加勢を受けんとして東国に向かうことが多かった。これを未然に防ぐために三関が設置され、有事の際に閉鎖された。)

 



★東南アジア関連 センター試験

2019-12-29 | 入試問題+ゴロ合わせ
2004 センター本試験 第4問の一部

【問】アジアの都市について述べた以下の文章を読んで問に答えなさい。

B アラビア海からベンガル湾を経て南シナ海に至る海域は古くからモンスーン(季節風)を利用した海上交通によって結ばれており,東南アジアの沿海部は,航海上必要な風待ちゃ中継のために恰好の港を提供していた。
東西交易の発展とともに東南アジアの港は数を増し中には国際色豊かな都市(下図参照)を形成して,政治権力の中心となるものが現れた(港市国家)。
14世紀半ばに成立したアユタヤ王国のような典型的な港市国家は,国際的な交易ネットワーク上に位置しつつ,内陸にも支配を及ぼして物産を集荷し独占的な貿易管理を行うことによって強大化した。

17世紀後半に描かれたアユタヤ市街と外国人居留区の図
問5 下線部⑤に関連して,外来の文化の影響を受けて形づくられた東南アジアの文化について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
 
①  シャイレーンドラ朝では,ボロブドウールなどのイスラム寺院が建立された。

パガン朝では,スリランカから入った大乗仏教が普及した。
 
シュリーヴィジャヤでは,仏教が保護され,アジャンタ一石窟寺院が建立された。
 
ヴエトナムでは,漢字を利用してチュノム(字喃)が考案された。
問6
下線部⑥の王国は1680年代に親フランス政策を採り,ルイ14世の宮廷に使節を派遣した。ルイ14世治世下のフランスについて述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①
親政開始後,フロンドの乱が起こった。
 ②
フランス東インド会社を創設した。
 ③
ルイジアナを領有した。
 ④
財務総監ケネーが,重農主義政策を採った。

問7
同じく下線部⑥の王国が存続していた時期に,東南アジアで起こった出来事について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①
李朝が,モンゴルの侵入を退けた。
 ②
扶南が,カンボジアに興った。
 ③
トゥングー(タウングー)朝が,ビルマ(ミャンマー)を統ーした。
 ④
シンガポールが,イギリス領になった。
 

解 答:

問5.④ 問6.③ 問7.③

解 説: 

① ボロブドゥールは仏教寺院。ボロブドゥールの〈〉を意識!

752年 〈ジャワ島〉古マタラム王国を圧倒してシャイレーンドラ朝(~832)成立。

なぁ興奮じゃ 闇にボロ。    

752  古マタラム王国を圧倒   ジャワ島 シャイレーンドラ朝 ~832 ボロブドゥール


② パガン朝(ミャンマー)の仏教は小乗仏教。
一応小乗 あのパガン。

1044年 小乗仏教 アノーラタ王 パガン朝

③ アジャンターはインド(グプタ様式)の石窟寺院。グプタの文化 ナマグサヒ。
                              グプタ様式
問5 正解は④ 字喃はベトナムの陳朝で、漢字をもとにつくられた。

 1225年 〈陳朝の成立(~1400年)〉

 The Trn dynasty was a ruling dynasty in Vietnam between 1225 and 1400. The dynasty was founded when emperor Trn Thái Tông ascended to the throne after his uncle Trần Thủ Độ orchestrated the overthrow of the Lý dynasty. The dynasty ruled for a total of 175 years, until emperor ThiếĐế, then five years old, was forced to abdicate the throne in favor of his maternal grandfather Hồ Quý Ly. Among other things, the Trn dynasty are noted for defeating three Mongol invasions, most notably in the decisive Battle of Bạch Đằng River, in 1288.es.

人にニコチン 注意しょう

1225     陳朝   チュノム  昇竜

問6 正解は③ ルイジアナはルイ14世の名から付けられた。
① フロンドの乱はルイ14世がまだ幼く、宰相マザランが実権を握っていたときに起こった貴族の反乱。
ヒロシはブロンドマザコンさ。

東インド会社の創設ではなく、再建が正しい。
④ ケネーはコルベールの誤り。

フランソワ・ケネー(François Quesnay、1694年6月4日 - 1774年12月16日)は、フランス医師重農主義経済学者[1] 1758年に、重農主義の考え方の基礎を提供した"Tableau economique"(『経済表』)を出版したことで知られる。

1758年 ケネー、『経済表(Tableau economicque)』

イナゴや懸念 重農ぞ。

1758年 ケネー 『経済表』 重農主義の祖


問7 正解は③ アユタヤ朝は1350年から1767年まで存在した。

1350 年  〈タイ〉アユタヤ朝の成立(~1767年)

いざこれ鮎や ラマ成ろな。

1350年  アユタヤ朝 ラーマ・ティボディ1世 ~1767年

ベトナムでモンゴル軍を撃退したのは13世紀の陳朝。
扶南は1世紀ごろ、東南アジアで最初に出現した国家。

1531年 トゥングー朝(~1752年)成立。

以後サイトング なぁコツン。   

1531年    トゥングー朝   ~1752年

イギリスがシンガポールを領有したのは1819年



問5 正解は④ 字喃はベトナムの陳朝で、漢字をもとにつくられた。

 

問7 正解は③ アユタヤ朝は1350年から1767年まで存在したが、問題文中に時期についての記述があるので、年代がわからなくとも判断できる。

1531年 トゥングー朝(~1752年)成立。

以後サイトング なぁコツン。   

1531年    トゥングー朝   ~1752年

①.フロンドの乱はルイ14世がまだ幼く、宰相マザランが実権を握っていたときに起こった、貴族の反乱。
②.東インド会社の創設ではなく、再建が正しい。創建はアンリ4世で1604年のこと。そしてルイ14世が1664年に再興。4ばっかりなのを意識!
問7 正解は③ アユタヤ朝は1350年から1767年まで存在したが、問題文中に時期についての記述があるので、年代がわからなくとも判断できる。
ベトナムでモンゴル軍を撃退したのは13世紀の陳朝。
扶南は1世紀ごろ、東南アジアで最初に出現した国家。
イギリスがシンガポールを領有したのは1819年。

 

 

●イギリス(ハノーヴァー朝)

Sir Stamford Raffles lands on the island of Singapore.

いや行(い)く紳士 ラッフルズ。

1819年      シンガポール    ラッフルズ

 

18世紀末からマレー半島に進出していたイギリスは、対中国貿易がさかんになると、1819年に東インド会社のラッフルズは、ジョホール王からシンガポールを買収して港を建設。

1824年にオランダからマラッカを買収し、1826年にはペナン島を加え海峡植民地を建設した。

 

1824年 イギリス=オランダ協定

 

いやに新米 「オラ須磨じゃ」。

 

1824年 シンガポール マレーシア インド イギリス=オランダ協定 スマトラ島ジャワ島

 

1826年〈イギリス〉ペナン島・マラッカ・シンガポールで海峡植民地を設ける。

 

いや風呂快挙 マラがペシッ。

 

1826年 イギリス 海峡植民地 マラッカ・ペナン島・シンガポール


1826年〈イギリス〉ペナン島・マラッカ・シンガポールで海峡植民地を設ける。

いや風呂快挙 マラがペシッ。

1826年 イギリス 海峡植民地マラッカ・ ペナン島・シンガポール