会いにし米公 嵌めり籤 嘉蔵復讐 飽きめい巫女と。
会津・日新館(にっしんかん1664) 米沢・興譲館1697)(萩・明倫館(めいりんかん)1719)(熊本・時習館(じしゅうかん)・1755)(造士館(ぞうしかん)・鹿児島1773)(福岡・修猷館(しゅうゆうかん)1784)(秋田・明徳館1789)(水戸・弘道館1841)
[ポイント]
1.東日本の主な藩校は、会津・日新館、米沢・興譲館、秋田・明徳館、水戸・弘道館。
[解説]
1.秋田藩の藩校は明徳館。佐竹義和(さたけよしまさ)が1789年に設立した。
2.会津藩の藩校は日新館。保科正之が1664年に建てた学問所が始まり。
3.米沢藩の藩校は興譲館。1697年の設立だが衰微していたものを、中興の祖上杉治憲(はるのり)が再興。治憲が招いた折衷学者細井平洲(ほそいへいしゅう)が命名した。
4.水戸藩の藩校は弘道館(こうどうかん)。徳川斉昭(なりあき)が1841年に設立。
〈2016早大・文化構想:「
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。
イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」
(答:エ ※広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)は正しいが、古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉
〈1995大学入試センター
史料C(問題文はある水戸藩史料)を提出した徳川斉昭は、水戸藩の藩政改革を実施し、水戸学と呼ばれる学問をさかんにした。この時期の水戸学に関する次のア~ウの記述について、その正(〇)誤(×)の組合せとして正しいものを、下の1~6のなかからから一つ選べ。
ア.水戸学は、尊王論と攘夷論を結び合わせた尊王攘夷論を中心に発展した。
イ.会沢安(正志斎)や藤田東湖は、水戸学の発展に大きな役割を果たした。
ウ.徳川斉昭は藩校明倫館を設立し、水戸学の普及につとめた。
1.ア-×、イ-〇、ウ-〇
2.ア-〇、イ-〇、ウ-×
3.ア-×、イ-×、ウ-〇
4.ア-〇、イ-×、ウ-×
5.ア-×、イ-〇、ウ-×
6.ア-〇、イ-×、ウ-〇」
(答:2 ※ウ×明倫館→弘道館の誤り)〉
□近世317.藩校(西の4校)の覚え方 ◇B
[ゴロ]次週のくまモンと/萩(はぎ)メリは/御曹司(おんぞうし)のカゴで/福岡周遊
(時習館(じしゅうかん)・熊本)(萩・明倫館(めいりんかん))(造士館(ぞうしかん)・鹿児島)(福岡・修猷館(しゅうゆうかん))
[句意]次週、くまモンと萩の(羊の)メリーさんは土地の御曹司のカゴで福岡県を周遊観光する、というナンセンスの句。「萩の羊のメリーさん」は「くまモン」の4語に合わせて「萩メリ」と略しています。なお詳説日本史(山川出版)では、時習館は熊本のみ掲載されていますが、三河吉田藩など他5藩(ただし小藩)でも藩校名は時習館です。
[ポイント]
1.西日本の主な藩校は、熊本・時習館、萩・明倫館、鹿児島・造士館、福岡・修猷館。
[解説]
1.熊本藩の細川重賢(しげかた)は、1755(宝暦5)年、熊本に時習館を設立した。他藩の模範となり、ほかに5藩に同名の藩校が生まれた。
2.長州藩の藩校は、1719(享保4)年、萩の明倫館。ほかに7藩に同名の藩校がある。
3.薩摩藩の島津重豪(しげひで)は、1773(安永2)年、鹿児島に造士館を設立した。ほかに2藩に同名の藩校がある。
4.福岡藩の藩校は、福岡の修猷館。1784(天明4)年設立の2学問所のうち、東学問稽古所をいう。
〈2016早大・文化構想〉
問12 下線f多くの藩校(藩学)、郷校(郷学)、私塾、そして寺子屋などが誕生したに関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 明倫館は長州藩の藩校(藩学)であり、日新館は会津藩の藩校(藩学)である。
イ 弘道館は水戸藩の藩校(藩学)であり、修猷館は福岡藩の藩校(藩学)である。
ウ 閑谷学校は岡山藩の郷校(郷学)であり、大坂の懐徳堂も郷校(郷学)と言える。
エ 豊後日田の咸宜園は広瀬淡窓の私塾であり、江戸の古義堂は大槻玄沢の私塾である。
オ 寺子屋は手習塾・手習所などと呼ばれ、女性の師匠もいた。」
(答:エ ※古義堂は京都堀河にあった伊藤仁斎の私塾)〉
〈2016関西大・全学部2月8日:「
江戸時代には、諸藩が藩士の子弟を教育するために藩校を設立した。米沢藩の興譲館や長州藩の(1){ア時習館 イ日新館 ウ明倫館}は有名である。また、庶民が出資して設立した自主的な教育機関には、摂津平野郷の(2){ア懐徳堂 イ含翠堂 ウ古義堂}などがある。」
(答:1ウ、2イ ※含翠堂(がんすいどう)は大坂南部の平野郷にあった郷学で、1717(享保2)年創設)〉
〈2012立教大・文学部:「
山本覚馬は会津藩の砲術指南の家に生まれ、江戸で砲術・兵学・蘭学を学び、藩校〈 つ 〉に開設された蘭学所の教授となった。京都守護職に任じられた藩主( ヌ )に関連して上洛し、皇居が戦場となった1864年の〈 て 〉では砲兵隊を指揮して勲功を立てた。その後失明し、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩邸に幽閉されたが、その学識と先見性の故に厚遇された。維新後は京都府庁に出仕し、府政の顧問として開明的な政策を推進した。その後新島と知り合い、その学校創設計画に共鳴して、ともに( リ )英学校の創業・運営にあたった。」
(答:つ日新館、ヌ松平容保、て禁門の変、リ同志社)〉
□近世318.熊本・細川重賢(江戸時代中期名君3) ◇C
[ゴロ]くまモン次週に/細か地毛カット
(熊本・時習館)(細川重賢(ほそかわしげかた))
[句意]くまモンは次週、細くて黒い地毛をカットする、というナンセンスの句。
[ポイント]
1.細川重賢は、藩校時習館を設立した。
[解説]
1.細川重賢(1721~85)は、5男だったが、兄の死で急遽藩主となる。しかし当時の藩財政は困窮の極みにあり、知行の召し上げなどによる藩士の疲弊や綱紀の乱れが著しかった。そこで重賢は、藩校時習館、医学校再春館の創設による人材の育成をはかり、公正な私法や年貢徴収を確立をめざした。また守旧派の反対をおさえて綱紀の粛正にも成功、、見事に藩政改革を成し遂げた。
〈2012立教大・全学部
問3 18世紀後半頃からおこった各地での藩政改革では、特産物の生産が奨励された。漆・桑・楮の生産の奨励、絹織物産業の普及をはかるなど、米沢藩の藩政改革を行った人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
a.上杉治憲 b、佐竹義和
c.細川重賢 d.山内豊信」
(答:a)
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