醍醐天皇の名により編集された延喜式神名帳(927年完成)にその名があるという。
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これに名が挙がっているものを式内社と言うそうであるが、島内には九社あるといわれる。旧畑野町にはここ物部神社(ものべじんじゃ)を含めて四社が集まっているという。以下は、物部神社と同神社境内に合祀されている藤源神社についての説明書きからのものである。
【物部神社】
当社は延喜式九社の第一に挙げられ、かつ延暦十年(791)県下で最初の神階(従五位下)を授けられた旧県社である。 創建は穂積朝臣の老(ほづみあそみのおゆ)が養老六年(722)佐渡配流、謫居二十年の間物部氏の先祖「宇麻志麻治命」を祀り小祠を建立。
清和天皇の貞観三年(861)社殿建築し元文五年(1740)再建する。順徳上皇御遷幸あらされし際、当社に御幸遊ばされる。また天和年間(1681~)小倉大納言実起卿此里に居を占めて、崇敬斜めならずと言う。
今も住吉さんなる別称で呼ばれている。これは当地が往古水連の国府川の上流に在り船材の主産地であったあったことに由良いし航海安全の守護神であったことも象徴している。 現に日蓮上人の住吉大明神なる木札もある。
昭和三十二年、小倉地内の四神社統合の議が成立、八幡神社及び二つの白山神社を当社に合祀し今日に至る。 佐渡市・畑野観光協会
【境内社 藤源神社】
佐渡代官藤沼源左衛門を祭神とし、嘉永五年六月十六日小倉村全村の崇敬の象徴として旧八幡社の境内に創立、爾来六月十六日(現在七月十六日)の祭日には近隣の村々からの参拝の老若男女村人に加わり、神殿前は位置をなすほどの賑わいを見せていた。
大正十一(1922)年十一月、老朽化の為旧真野宮本殿を譲り受け、移転改築、さらに昭和三十二年の四社統合によりここに遷宮現在に至る。
藤沼源左衛門時房は佐渡代官として、宝暦三年(1753)八月来島、就任当時の全島不作に続き、五年六年には当地と猿八村は凶作の様相を呈するほどで餓死者続出の窮状にあえぐに至る。諸説あれども、一説には、「小倉村三百軒中、餓死者三百余人死絶百二軒」とある。
この惨状に心痛めた藤沼氏は佐渡奉行石谷備後守清昌に願い出て幕府に請い租税減免の措置をとり貧民の救済に専念する。
また飢渇人の田地植付人足を全島の村々より集めて耕作地の維持に努め、宝暦九年その職を辞するまで救援は続行された。その恩情を偲ぶ村人の慕情が当社の建立となった所以である。
なお、餓死者供養の為に立てた二百万遍塔が近くの小倉川河畔に在り毎年供養が続けられている。
この本殿が旧真野宮の本殿であった大正五年皇太子であらせられた昭和天皇が佐渡(行啓)の砌(みぎり)参拝された由緒ある建造物である。
同年皇族朝香宮殿下も参拝される。小倉の地に移築後の昭和二年には新潟県知事藤沼在平氏も佐渡巡視の折り日程を繰り延べて当地へ訪れ参拝祭粢を献じている。佐渡市・畑野観光協会
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写真撮影:2006:12.29 佐渡市小倉
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2007年 地理の部屋と佐渡島 sadorekisi
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http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
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「以前は、海外旅行と言いますと、36枚撮り20本
とか言う量を持ってでました」.....
偶然の一致でしょうか私も海外は20本と決めてお
りました。この時はウオークマンも持参し録音も
したので乾電池もかなり持参しました。余った
電池は現地ガイドさんに贈呈、電池不足の現地
事情で大変喜ばれました。
>この時はウオークマンも持参し録音も
したので乾電池もかなり持参しました。
ということは、街中でアザーンの音も入っ
ていますでしょうか?
アザーンとは、礼拝を呼びかける決まった
かけ声です。
アッラー・アクバル! で必ず始まります。