四万十川レコード 公式ブログ

四万十と言う小さな町に生まれ、思春期に音楽に目覚めそして今も、長い長い音楽の旅をしています。

非時(ときじく)を求めて

2013-04-24 02:30:27 | コラム
非時(ときじく)、古事記や日本書紀の中では
非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)として
不老不死の力を持った霊薬として記されている。
垂仁天皇(すいにんてんのう)が田道間守(タジマモリ)を
常世の国に遣わして求めたものだ。

古代日本では常緑樹の「橘(たちばな)」を指す。
また橘は氏(うじ)の総元として「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」
の中にもその名は残されている。
常緑の緑の葉が永遠の命、不老不死のイメージと重なり珍重されたのが由来らしい。



万葉集の中にはこの橘(非時)を詠んだ句が数多く残されている。

橘(たちばな)の、蔭(かげ)踏(ふ)む道の、八衢(やちまた)に、物をぞ思ふ、妹(いも)に逢(あ)はずして

橘(たちばな)の影を踏む分かれ道のように、あれこれ思うのです。あなたに逢わないので。

作者は三方沙弥(みかたのさみ)、万葉集らしいロマンチックな恋の歌だ。



そう言えば僕は柑橘系の果実の匂いが好きだ。
実際に今もアロマオイルのグレープフルーツとラベンダーをミックスして
アロマランプに入れて焚いている。
日本書紀には永遠の命を求めて常世の国へと向かった田道間守(タジマモリ)が
非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を見つけて帰国した時には
垂仁天皇はすでに崩御されていて田道間守は悲しみの余り死んでしまったとある。

ちなみにタジマモリはお菓子の神でもあるが、彼が持ち帰った橘(みかん)の
実が菓(かし)の始まりである由縁らしい。
古来日本では甘味(かんみ)の菓子は果物の甘味(あまみ)を指している。
生成された砂糖も当初は高貴薬として薬の部類に分類されたいたものが
醸造技術の進歩と共に一般に広まって菓子の原料の中に含まれれるように
なったとものの本に書いてあったのを記憶している。

そう言えば僕がまだ子供の頃は家庭料理で使う砂糖はまだ「ザラメ」を
使うのが一般的で白い生成された砂糖はザラメよりも高かった記憶がある。
「黄色いお砂糖」と「白いお砂糖」と言う言い方をしていた。
今の子供には多分「黄色いお砂糖」は分からないのではないかと思う。
値段もひょっとして「ザラメ」の方が高いのか?



僕はずっと非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を捜しているのではないか?と思う時があります。
ありもしない永遠や完成を求めているのではないか?

芸術や音楽の世界では本当の意味の完成はないと思います。
鑑賞する人間には完成と見える絵画や楽曲も創作者にとっては過程でしかないでしょう。
アーティストとは何時も完成を希求しながら生きている人種です。
そうでなければ創作を続ける事など出来はしないだろうと思います。
絶えず足りないものを埋めて行こうとする魂が芸術家と言われる人達なのではないでしょうか?

んっ?、こう言う書き方をすると僕が芸術家を気取っているみたいに思われるか?
えっと、それは違います。
僕は芸術家でもゲージュツカでもゲイでもありません(*゜▽゜*)
ただ何となく何処にいても違和感を感じるし何をやっていても満足感が余りありません。
これは普通の場所や仕事をやっている時の感情ね。
どうもしっくりと来ないです。
生まれた家や土地にいてもそう感じたのだからそれ以降の生活をした土地にも
余り愛着や未練がありません。
それと不思議なんですが僕が東京に来て働いた場所や住んで居た所の殆どが残っていません。
まぁこれは全ての人が年を取ると感じる感情であろうとは思いますが。



僕が多少なりとも充実や満足感を感じる場所は音楽のある所です。
そう言う場所で仕事や創作をしている時が今は一番楽しいし自分が自分であると感じる場所です。
ど~もそれ以外の時間や場所では(仮)みたいな感覚がありますね、仮の自分がいる。
でもガキじゃないんだから全部含めて自分なのは分かりますよ(笑)
どの自分も自分だしそこで得ている評価も自分です。

あ~、久し振りにたっぷりと寝たのにどうも思考がまとまらない(笑)
大体こんな事をボケ~ッと考えている事自体が現実逃避なんですけどね。

自分で決めた仕事の期限が次から次へと来ちゃって…
これを片付けるのも自分しかいないんですよね(笑)
分かってはいるんだけどねぇ…