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ダカーポ ♯002

2023-07-17 21:00:00 | Keyword/話題

 ■イデオロギー

 イデオロギー
(独: Ideologie, 英: ideology)

 観念(idea)と思想(logos)を組み合わせた言葉であり観念形態である。
 思想形態とも呼ばれる。
 文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。
 
 意味内容の詳細については「定義と特徴」を参照。

 通常は政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。

 ・世界観のような物事に対する包括的な観念。

 ・日常生活における哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。

 《歴史》

 イデオロギーという用語は初め、観念の起源が先天的なものか後天的なものかを中心的な問題とする学の名であった。  
 この用法はデステュット・ド・トラシー(英語版、フランス語版)(Destutt de Tracy)『観念学原論』(1804-1815)に見られる。
 彼に代表される活動家達はイデオローグ(idéologue)と呼ばれ、1789年のフランス大革命以降、怪しげなものとして見られていたアンシャン・レジーム時代の思想のなかで啓蒙主義的な自由主義を復興させようとし、革命期から帝政にかけてフランスリベラル学派の創始者、指導的立場となった。
 こうした国家の在り方を決めるイデオロギーを政治イデオロギーと呼ぶ。
 当初は人間の観念に関する科学的な研究方法を指していたが、やがてその対象となる観念の体系そのものをいうようになった。
 20世紀は政治イデオロギーの対立による世界的な戦争が数多く発生した。特に冷戦は自由主義・資本主義と社会主義・共産主義の対立構造が極端に顕れた事例である。
 21世紀に入ってから国際協調の進展によって世界的な戦争は沈静化したものの、中国や北朝鮮等の社会主義国とその他自由主義国の対立構造は存続している。
 また、経済においても、新自由主義の弊害から修正資本主義が注目され、両者の間で対立が起きるなど、イデオロギーの対立が起こっている。

 《定義と特徴》

 イデオロギーの定義は曖昧で、また歴史上その定義は一様でない。

 イデオロギーの定義には認識論を含むもの、社会学的なものがあり、互いに矛盾している。
 しかし、それぞれが有意義な意味を多数もっている。
 そのためディスクールや同一化思考などの類似概念と置き換え可能ではない。
 以下イデオロギーの定義の重要な意味内容について、主に認識論や社会学的成果をもとに解説する。

 ・イデオロギーは世界観である。しかしイデオロギーは開かれた世界観であり、対立的な世界観の一部を取り込んでいることがある。
 イデオロギーは何らかの政治的主張を含み、社会的な利害に動機づけられており、特定の社会集団や社会階級に固有の観念である。
 にも関わらずイデオロギーは主張を正当化するために自己をしばしば普遍化したりする。
 またほかのイデオロギーに迎合したり、それを従属させたりする。
 イデオロギーは極めて政治的である。

 ・同時にイデオロギーは偏った考え方であり、何らかの先入観を含む。イデオロギー的な見方をしている人は何らかの事実を歪曲して見ており、その主張には虚偽や欺瞞を含んでいることがある。イデオロギーは非合理的な信念を含んでいるが、巧妙にそれを隠蔽していることが多い。また事実関係や社会状況の一部を偽り、自己に都合のいいように改変していることがある。

 ・イデオロギーは闘争的な観念である。
 イデオロギーは何らかの立場を社会において主張、拡大しようとする。
 また実際ある政治理念が違う立場に立つ政治理念を批判する場合、相手の政治理念が「イデオロギー的である」と指摘することがおこなわれる。
 イデオロギーはその意味においても何らかの価値観対立を前提としている。
 またあるひとがある種の政治理念を「イデオロギー」として定義している場合、そのひとはその政治理念とは異なった立場に立っていることが多い。

 ・ある政治理念がイデオロギーであるかそうでないかは多くの場合、理念の内容それ自体よりもその理念が拡大しようとしている立場やその理念の社会状況に対する評価の仕方によって判断される。
 大抵の政治理念はイデオロギーになりうる。
 またある政治理念に「イデオロギー的である」という評価を加えた場合、それはその政治理念がある種の問題解決において本質を誤った見方をしていることを示す。
 日本において戦前はリベラルな思想とされ、リベラリストから支持されていた天皇機関説は、戦後天皇主権を認めるその立場が同じリベラリストの側から保守主義を擁護するイデオロギーであると批判された。
 戦前は天皇主権であることは当たり前であったから、国体論や軍国主義といったイデオロギーに対抗する上で天皇機関説は正当でリベラルな思考様式であるとされたが、戦後天皇主権が自明のものでなくなったとき、天皇主権を前提とする天皇機関説によって天皇制を擁護することはイデオロギー的行為とされたのである。
 以上のことから、イデオロギーは表面上中立的な政治理念を装っていることがあるが、実際は政治理念それ自体とは別個に隠蔽された政治目的を持っていることがある。
 イデオロギーは政治理念と政治目的が何らかの形において結合したものということができる。
 中立的な政治理念とイデオロギーはこの限りにおいて明確に区別される。また何がイデオロギーか何がイデオロギーでないかは立場や時代状況により一定ではない。

 ▼マルクス主義による定義

 以下はイデオロギーの定義で代表的なものと考えられるマルクスの定義をあげる。

 マルクス主義におけるイデオロギーとは、観念そのものではなく、生産様式などの社会的な下部構造との関係性においてとらえられる上部構造としての観念を意味している。
 マルクスは最初、ヘーゲルとその後継者たちによって示された観念の諸形態について、社会的な基盤から発しながらあたかも普遍的な正当性を持つかのようにふるまう、と批判したことからイデオロギーの階級性について論じるようになる。
 マルクス=エンゲルス共著『ドイツ・イデオロギー』(1845年)においてはじめてイデオロギーという用語が登場し、階級社会におけるイデオロギーの党派性が分析された。
 すなわち、階級社会では特定の階級が利益を得るための特定のイデオロギーが優勢になり、上部構造と下部構造の相互作用が生じて、必然的に自らを正当化するというのである。マルクスはイデオロギーのこのような性質を虚偽意識としてのイデオロギーと呼び、階級的な利害に基づいて支配体制を強化するものであると考えた。
 この分析に従えば、階級制度は必ずイデオロギーを伴うものであるから、イデオロギーを批判することは階級闘争の中で最も重要な活動である。
 その一方で、旧ソ連には、軍隊にはイデオロギー担当将校、議会にはイデオロギー担当議員が配置されていた。

 ▼科学技術とイデオロギーの関係

 ユルゲン・ハーバーマスは、現代社会では科学技術が個人の思想とは関係なく客観的に体系化されており、目的合理性において科学技術の体系は絶対的な根拠を持っているとした。ゆえにあらゆる政治行為の価値はまず目的合理性において科学的あるいは技術的に正当なものであるかどうかの判断抜きには成立せず、イデオロギーが何らかの制度を社会に確立するときに目的合理性に合致しているかどうかということは大きな影響を持つとされた。ときにはこのような目的合理性がそれ自体で支配的な観念となり、人間疎外をもたらすと指摘した。すなわちこのような目的合理性が支配的な社会では、文化的な人間性は否定され、人間行動は目的合理性に適合的なように物象化されていくと警告したのである。これは後述のシュミットに通じる考え方である。 しかし一方でトーマス・クーンのパラダイム理論が示唆するように、歴史的には科学理論も技術的に十分検証可能でないときは、必ずしも目的合理的でない、思想的な理論信仰によって主流な科学理論 —したがって科学の方向性も— が決定されてきたということが指摘されている。

 このような見方に従えば、歴史的には科学とイデオロギー(と呼びうるような思想信条)の間に相補的関係が成り立ってきたということもできる。
 たとえば天動説はキリスト教信仰と密接に結びついていたし、地動説についても太陽崇拝であるヘルメース信仰との関連性を指摘する説がある。
 技術的な進歩によって地動説の正しさが裏付けられたが、技術的に完全な検証が不可能な段階では、どちらの説をとるかは思想信条によって判断されたという見方である。
 実際にダーウィンの進化論を否定して、聖書的な創造論を学校で教えるべきという運動がアメリカ合衆国で広汎に存在するが、これは進化論が技術的には必ずしも完全に検証されているわけでなく、たとえばパウル・カンメラーによるサンショウウオやサンバガエル、ユウレイボヤの実験のように、現在のダーウィン的な進化論で説明がつかないとされる実験結果が報告されていたり、宇宙物理学や心理学の立場からダーウィン的な進化論と対立するような目的論的な見解(サイバネティクスによるコンプトン効果の説明[注 2]や心理学的な目的論など)が提示されていることによる。
 もちろんこれらの事実はダーウィンの進化論に懐疑を促す事実であっても、創造論を積極的に支持するような内容ではない。
 とはいえ、科学理論に対して技術的に検証不可能である場合、思想信条により科学理論が選択されうることは、多くの科学史家が認めるところである。
 したがってあらゆるイデオロギーが科学技術のような、客観的な目的合理性の上に成り立っているならば、その次元での正当性を論じることによってイデオロギー的政治行為と正しい政治行為の間に判別が可能であると考えられる。
 目的合理性において明らかに欺瞞を含む政治行為が、正当な政治行為であるわけはないから、社会的なコミュニケーションのレベルでのイデオロギーの摘出には十分効果を期待できる分析であるといえる。

 しかしハーバーマスも指摘しているように、このような見方の欠点は、イデオロギーが目的合理性に則った社会的なコミュニケーションの場のみで成り立っているかという点に盲目なことである。
 上述したように、イデオロギーの核心をなす信条や信仰は目的合理性とはほとんど関係ないから、イデオロギー的政治理念が目的合理性に則った政治行為を主張するということも成り立つため、このようなイデオロギーの分析にはあまり有効ではない。
 また技術的発展によってイデオロギー的な観念支配から脱却できるかという問題がある。
 カール・シュミットはハーバーマスが目的合理性と呼んだような、技術を中立的で、したがって中性的であると見なす考え方を技術信仰と呼んで非難している。
 技術信仰の立場に立つと、中立で中性的な技術の進歩により、あらゆる思想的な対立は解消されていくとされる。しかしシュミットによれば、このような技術は中立的であるがゆえに、さまざまな政治理念に武器として奉仕することができる。
 技術は中立的ではあるが、政治的に中性的ではない。技術は道徳的な目的に奉仕することもあるが、逆に非人道的な目的に奉仕することもできる。
 それゆえに技術的進歩は道徳的進歩ではない。
 したがって技術の進歩が政治的な対立を解消して、何らかの非政治的な解決をもたらすとは考えられないとした。
 シモーヌ・ヴェイユは技術のもたらす生産性の発展が必ずしも約束されたものではないこと、ある種の濫費形態が排除されても別の濫費形態が生じてくることを指摘している。
 ヴェイユは具体例としてエネルギー源をあげ、石油や石炭が枯渇した場合、代替されると予想されるエネルギー源が生産性において石油や石炭に勝っているというようなことは簡単に予想されず、社会がエネルギー的に優れた方向へ進化し続けるということを疑問視している。
 社会の生産力の発展が抑圧を必然的に解消する —なぜならマルクスによれば階級社会が消滅すればイデオロギー的抑圧なるものは存在しなくなるから— というマルクスの見方にも否定的である。またヴェイユは抑圧を批判しているはずのマルクス・レーニン主義が抑圧を生み出していることを指摘し、このことは抑圧がどのような政治体制のもとであれ存在していることを表しているとした。
 したがって社会発展がどんなに進んでも抑圧は存在し、その抑圧の根拠となるイデオロギーは常に存在することになる。
 ヴェイユによれば抑圧の形態に対し常に注意を払い、研究を怠らないことでイデオロギーの潜在を明らかにしていくべきだと述べている。

 《日本におけるイデオロギー研究》

 日本におけるイデオロギー研究の先駆としては幸徳秋水の『廿世紀之怪物帝国主義』が注目される。
 この著作において幸徳は、当時の政府の膨張政策を愛国主義と軍国主義の産物であると分析し、おもに道徳的立場から批判している。
 当時の膨張主義が非合理な野性に発していること、国家生存の原因を領土の広狭であると偽っていること、挙国一致の名のもとに政治闘争を封殺していることなど、そのイデオロギー的性格を指摘している。
 大正期の哲学者である左右田喜一郎は『文化価値と極限概念』のなかで当時の官僚的な政府の哲学を宗教的非合理的であると批判し、あらゆる文化価値を同等に尊重する文化主義・人格主義を主張した。
 すなわち日本の独自性という欺瞞を掲げ、学問・政治の自由を抑圧している藩閥政府イデオロギーに対して大正デモクラシーを擁護した。
 しかし同時にプロレタリア独裁を掲げる「社会民主主義」を階級主義的な「限られたる民主主義」と定義し、イデオロギー的に抑圧した。
 戸坂潤は『日本イデオロギー論』を著し、日本におけるイデオロギー批判を初めて体系的にまとめあげた。
 日本の特権階級のイデオロギーを哲学的観念論にあるとし、その社会的適用を通じて復古主義的な日本主義が出現し、ファシズム的軍国主義と結びついて日本イデオロギーが形成、発展してきたとする。また自由主義思想がたやすく日本主義に転化しやすいという点を指摘し、自由主義を中間的な勢力とみる当時の風潮を偽りであるとした。
 彼はイデオロギーを客観的現実(すなわち下部構造)の歪曲された模写であり、独自に発展法則をもつと指摘している。

 丸山眞男は『日本の思想』のなかで、日本社会においては伝統的にイデオロギー批判が理論的・政治的立場でおこなわれることがなく、現実肯定という形で既成の支配体制への追従が繰り返されてきたと述べた。
 この現実肯定という形である種の理論を無価値化することを丸山は「実感信仰」とよび、西洋の「理論信仰」と対置させているが、これは論理より感覚を重視するという意味での単なる感覚主義ではない。
 「実感信仰」は事実主義や伝統主義を含み、「理論信仰」は科学主義あるいは理論主義的な立場を念頭に置いていると考えられる。
 藤田省三は『天皇制国家の支配原理』において、天皇制を支えたイデオロギーとしてヨーロッパ的な社会有機体説と東洋的な儒教政治論が矛盾しながら結合した「家族国家論」を措定した。
 この「家族国家」は内面的には政治・学問の分野において官僚主義的立場を徹底させ、外面的には「家」の拡大という形での膨張主義を伴うとされた。
 またこのような「家族国家論」は天皇制国家を家と同質に自然的なものと見なす非政治的な本質を持っており、このことによって天皇制それ自体は日本社会のあらゆる利害を中和する象徴としてイデオロギー的に祭り上げられたと説いている。

     〔ウィキペディアより引用〕


Horror Movie 補足Ⅱ

2023-07-16 21:00:00 | 編集後記/追記

 先日、ホラー映画を綴らせて貰いました。

 その補足と言うか、少しだけ深堀させて下さい。

 『貞子』こと、山村貞子のモチーフ(モデル)とされているのは御船千鶴子ですよね。有名だから、御存知の方は多いと思いますが、敢えて綴らせて下さい。

 御船 千鶴子(みふね ちづこ)
(生没:1886年(明治19年)7月17日〜
    1911年(明治44年)1月19日)

 透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された日本の女性。

御船千鶴(国会図書館所蔵『透視と念写』より)
 
生涯》

 ▼生い立ち

 熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)にて、漢方医・御船秀益と、その妻・ユキの二女として生まれる。
 生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえにくかったという。
 繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。
 また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。

 ▼透視能力の発現

 22歳のとき、陸軍中佐・河地可謙[要出典]と結婚。
 ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こした。
 それがもとでほどなく離婚することになり、実家に戻る。
 実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられた際に優れた結果が出たため、修練を続けることとなった。
 その後、日露戦争時に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした。
 また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた。
 評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、1909年(明治42年)から翌年の1910年(明治43年)にかけて京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた。

 ▼透視実験により「千里眼」と話題に

 1910年(明治43年)4月10日、熊本の清原の自宅で福来と今村は清原の立ち会いのもと、透視実験を行う。
 人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせたが、この方法では不的中に終わった。
 今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたという。
(福来友吉博士)

 千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した。
 これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。
 千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子をはじめとした「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れた。

 ▼マスコミによる否定論調

 1910年(明治43年)9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験を行った。
 千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚する。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。
 透視実験において、医院で接する患者には正面から向き合っていたにもかかわらず、上記の通り実験時の千鶴子は常に観察者に背を向けて10分以上時間をかけており、成功したのは封筒の透視である。これだけ時間をかければ、背後からは分からないよう手の先だけを動かしてつばで封をはがし、体温で乾かして元に戻すことは可能であろうとの指摘は当時から出ていた。
 いずれの実験も条件としては不十分で、中には千鶴子を別室に入れて行ったものまである。
 さらに、福来の著書「透視と念写」においてでも、最初の実験で送った19通の封印つき封筒のうち、「透視」が成功して帰って来たのは7通のみで、3通はうっかり火鉢に落として燃えた、残りは疲れてできないということであった。
 福来は単純に結果に驚愕したと書いているが、燃えたものはともかく、疲れてできない分は返送されていない。これは火鉢の湯気を当てて封を剥がし、綺麗に戻せたものだけを返送したと考えられている。

 ▼服毒自殺により24歳で死去

 そんな中、長尾郁子の念写を非難する記事を見て失望と怒りを感じた千鶴子は、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったとされ、1911年(明治44年)1月18日には重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡した。
 一般には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したといわれるが、地元では自殺の原因は「父親との金銭的なトラブルによるもの」だと見られていた。

 関連項目 ー 千里眼事件 ー

 千里眼事件(せんりがんじけん)

 明治末(1900年代から1910年代初頭まで)の日本で、当時の社会状況・学術状況を背景として起きた、超心理学に関する公開実験や真偽論争などの一連の騒動である。
 千里眼・念写の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者とともに巻き起こした。

 ▼御船千鶴子の出現

 熊本県生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、1909年(明治42年)、23歳の時のことである。
 その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。
 1900年(明治30年代半ば)頃の日本では、催眠術ブームが起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在した。
 最初に千鶴子を取り上げたのは、1909年年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議なる透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じている。
 実際に千鶴子の透視能力を直接に実験したのは、今村新吉である。
 1910年(明治43年)2月19日、熊本を訪れた今村が、カードを用いた透視実験を行い、高い的中率を得た。
 同年4月9日には、福来友吉と今村の二人で熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれたが、この時は失敗した。
 しかしその後、方法を変えて実験を行なうと、的中した。4月25日には、東京に戻った福来が、東京帝大内で実験報告を行い、一躍脚光を浴びるようになった。

 同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれた。
 が、その結果は、試験物のすり替え事件によって、問題の「千里眼」能力の真偽に対する答えを出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなった。
 翌9月15日、9月17日に少数の関係者を集めて、千鶴子の得意な方法で行なわれた再実験では、好結果が出たが、集まった学者たちの反応も、一歩下がった立場からの冷めた論調に終始した。
 その一因として、千鶴子の場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人の同室を固辞し、また、ふすま越しに隣室からの同伴を認めた場合でも、終始、千鶴子は背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験を行なったため、問題の千鶴子の手元が臨席者の目に触れることがなかったため、福来らの能力を信奉する立場の者たちにしても、その疑惑を払拭することができなかった点が挙げられる。
 結局、千鶴子は熊本に帰った後、1911年(明治44年)1月19日に自らの命を絶ってしまう。その死の前後に、長尾郁子の事件が報道されたことから、死後の千鶴子に関しても世間からの非難が集まることとなってしまった。

 ▼長尾郁子の登場



長尾郁子(「福来博士記念館」の展示

 長尾郁子は、香川県丸亀の判事であった長尾与吉の夫人であり、当時40歳であった。
 郁子の場合、その数年前から災害等の予言が的中するということで身近な人たちから注目されるようになったという。
 それが、千鶴子の一連の報道を知ったことで、同様の実験を行なったところ、見事に的中したということで、福来の耳に郁子の情報が入ることとなったのである。
 福来と今村が郁子に対して初めて実験を行なったのは1910年11月12日のことである。
 郁子の場合、千鶴子との最大の相違点は、同席者と相対した位置で透視を行い、的中させた点である。
 さらに、実験方法においても、千鶴子の場合とは異なった手段が用いられた。それが、福来の考案した現像前の乾板を用いるというもの、いわゆる「念写」実験の始まりである。
 福来は千鶴子に対しても同様の実験を試みたが、不成功に終わった。郁子の場合は、福来のあらかじめ示してあった文字を念写することに成功したため、福来らはもっぱら丸亀において郁子の実験を中心に活動することとなる。

 1911年1月4日から、物理学者で東京帝国大学元総長の山川健次郎が同席した透視・念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれた。8日には、助手として参加した東京帝国大学物理学教室講師の藤教篤が、実験物である乾板を入れ忘れるという事件が起きている。
 山川からは、長尾側が透視する文字を書く場所に特定の部屋を要求したり(山川がその部屋で体を盾にして書いた文字を長尾は透視できなかった)、山川側が一度開ければわかるように細工しておいた透視用の封筒に開封の跡が発見されるなど、不審な点があまりにも多いことが指摘された。
 山川らの実験は一つ一つ意味を持っており、透視が当たった時と当たらなかった時はどのような条件であったかがわかるように計画を立てていた。こうして透視が当たった時は、全て袖で隠さずに書いた時か、封を空けた跡が見られた時など、前述のような不審な点が見受けられたときだけであった。
 また、同年1月12日の実験でも妨害行為があったことが報じられ、その妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密であった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がるに及んで、郁子と横瀬の不倫疑惑というゴシップへと世間の関心は移ってしまい、やはり、肝心の「千里眼」「念写」の真偽は二の次になってしまった。
 そうして、同年2月26日に長尾郁子が病死。だが、これさえもマスコミは長尾家への非難の材料として取り扱った。
 山川らは、同年のうちに写真を添えて物理の実験結果と同様に公表し、手品の一つに過ぎないと結論付けた。

 ▼終焉

 この結果、超能力者達の研究に携わった科学者達もマスメディアの攻撃対象になったため、ついに研究者達は「千里眼は科学に非(あら)ず」という見解を公表した。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなった。
 結果、「千里眼」「念写」の真偽が明かされる機会は失われた。
 同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となった。
 千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末であった。
 福来は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職。その後、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は千鶴子や郁子の時のような科学的な公開実験ではなくなり、また福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味の事を公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなどオカルティズムへの傾斜を加速度的に深めて行くこととなる。

 関連項目 ー 高橋貞子 (超能力被験者) ー

 高橋 貞子(たかはし さだこ)
(生没 : 1886年〈明治19年〉〜 不明)
日本の明治時代から大正時代にかけての人物。
 岡山県和気郡和気町出身。
 超心理学者である福来友吉に、透視・念写能力を持つ超能力者として協力し、超能力実験の被験者となった人物である。

高橋貞子(国会図書館所蔵『透視と念写』より)

 ホラー小説および映画作品『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来、または山村貞子のモデルとの説もある。
 明治末期に超能力者とされた御船千鶴子、長尾郁子らと並んで紹介されることも多いが、2人と比較すると生涯についての資料に乏しく、謎が多い。

 《経歴》

 岡山県和木郡和木町で、二男二女の末子として誕生した。
 幼少時より無口で、静かな場所でもの思いにふけることを好んだ。
 他人に対しては不愛想である一方で、困っている人には手を差し伸べずにはいられない、同情心の深い性格であった。
 感受性が強く、気持ちの起伏によって吐血、発熱、痙攣といった生理的な変調をきたす一面もあった。
 また、父が日蓮宗の熱心な信者だった影響で、貞子もまた日蓮宗への篤い信仰心を抱いていた。

 ▼夫・高橋宮二のもとでの実験  

 貞子の夫・高橋宮二は超心理学の専門家ではなかったが、独自に精神修養のための呼吸法を研究しており、貞子も彼に倣ってこれを実践しているうちに、精神統一の方法を学んだ。
 宮二はこれを通じ、貞子に霊的能力があると感じたという。
 宮二が貞子の能力に気づいたのは、奇しくも長尾郁子の初の念写実験が行われた1910年(明治43年)11月12日とされ、夫妻は当時、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現・東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生活していた。
 福来の著書『透視と念写』によれば同日、貞子は宮二に、自分の手にした火箸がひとりでに火鉢の上を動いて「清」の字を記したと告げた。
 宮二はウィジャボードを試したところ、「貞子は清原千鶴子(御船千鶴子のこと、清原は千鶴子の義兄の姓)のように千里先を見通す」と出た。
 これにより宮二は貞子に透視実験の提案をした。
 同月より、字を書いた紙や物を箱に入れて透視するという方法で、20回以上にわたって実験が行われた。
 この経緯は福来の『透視と念写』にまとめられており、貞子はことごとく透視を成功させたとある。

 ▼福来友吉のもとでの実験

 当時、貞子たちは鵜澤總明の邸宅内の一戸に住んでおり、鵜澤が福来と面識があったことから、鵜澤の紹介を通じて福来が貞子に関心を示し、福来のもとで実験の行われる運びとなった。
 この実験では、貞子は精神統一の後、あたかも別の人格が宿ったかのような言動で透視や念写を行った。
 これが御船千鶴子や長尾郁子と異なる大きな特徴であり、福来はこの別人格を「霊格」と呼んだ。
 1913年(大正2年)3月2日の最初の実験では、高橋宅の近くの医師の家で、久保良英、後藤牧太、桑田芳蔵、今村力三郎らの同席のもと、福来が持参して隠し持っていた写真乾板に念写を行うことが試みられた。
 しかし、福来は12枚の大きな乾板を用意したにも関わらず、貞子は「昨夜の夢で乾板が5枚と知っている」「5枚の小さな乾板」と、違うことを言った。
 念写の結果も、福来の乾板へは成功せず、すでに医師宅にあった別の乾板に感光していた。
 福来は、貞子の能力は福来の方ではなく、その医師宅の乾板の方へ向かったものとも解釈したが、この実験に学術的価値はないと認めざるを得ず、第1回実験は失敗と見なされた。

 翌月の4月27日には第2回実験が、福来の自宅で行われた。
 福来は新品の乾板12枚から3枚を抜き出し、紙で何重にも包み、さらにボール箱に入れて封をして用意し、信頼のおける書生に監視させておいた。
 夜6時頃に貞子が福来宅を訪れ、「妙法」の2字を念写する旨を告げた。
 夜8時半頃より、久保と高橋穣(心理学者)が立ち会いのもとで、実験が始められた。
 この結果、3枚の乾板の内の1枚に「妙法」の2字が感光していた。
 5月10日には、第3回実験が行われた。
 貞子はこの3日前に頭痛を患い、福来より催眠術による治療を受けており、その催眠状態において「次の実験では『天』の字と自分の指3本を念写する」と告げていた。
 実験当日、福来は前回同様に、新品の乾板を包装した上に封をして用意しており、久保、後藤、桑田、井上哲次郎、筧克彦が立ち会った。
 この実験では、貞子が前もって告げていた「天」の1字と自分の指3本の他、「金」の字や、丸い形、サンゴ礁、小さな丸い点の感光が確認された。
 福来が貞子に、前もって宣言した内容以外の感光内容について尋ねると、貞子はその記憶はまったくないとのことであった。
 福来は、長尾郁子の実験でも同様のことがあったため、貞子の潜在観念が念写に現れたものと解釈した。
 福来はこれらの実験結果をもって、貞子の透視や念写能力を事実と確信するに至った。
 宮二は福来を深く信頼し、貞子を学会研究のために献上することを宣言した。

 ▼実験の終焉

 これらの貞子の実験結果は、福来により御船千鶴子、長尾郁子の実験結果と前述の彼の著書『透視と念写』(1913年)として出版されたが、逆にこれは「迷信を増長させる」として、多くの学者たちの反発と批判を招いた。
 福来はさらに貞子の実験に立ち会う学者を求めたものの、これ以降、学者陣は福来に関心を示すことはなくなった。    
 かつて福来の超能力実験に懐疑的だった物理学者の山川健次郎らへの再挑戦として、公の場で貞子の超能力実験を行うことも試みられたが、立ち会う者は皆無であり、この試みも失敗に終わった。
 孤立無援となった福来に代り、宮二は山川に実験の協力を仰いだが、山川は多忙などを理由として取り合わなかった。
 宮二はこれを不誠意な対応と受け止めて憤慨し、今後一切の学者の協力に応じないことを決断した。
 やがて福来が休職命令を受けると、貞子たちは自分たちの実験が福来に害をおよぼしたとして責任を感じ、福来への詫びのけじめとして夫妻ともども東京を去り、1915年(大正4年)に、郷里の岡山へ転居した。
 こうして貞子は公の場で能力を披露することのないまま、念写実験を終えることとなった。 宮二によれば、岡山での貞子は心霊治療を行っており、周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば渡航して治療していたとされる。
 こうした治療行為は、1925年(大正14年)まで続けられていた。
 宮二が1933年(昭和8年)に出版した『千里眼問題の真相』によれば、貞子は同1933年頃まで岡山にいたことが記録されているが、その後の記録は未確認であり、晩年の様子や没年も定かではない。

     〔ウィキペディアより引用〕



今日此頃 令和5年7月 中旬

2023-07-15 21:30:00 | 日記

 夏の甲子園、高校野球地区(大阪)大会は
 「まだか、まだか」と思っていたら大相撲7月(名古屋)場所が初日を迎え過ぎていた。
 しかし、暑い。

 部屋内の温度が35℃以上ある。
外の方が涼しいくらいである。

 夕方から買い物する。
 “ゴミ箱”と“便座シート”を購入予定でスーパーに隣接している100円均SHOPに行かなければと。
 そそくさと家を出る。

 トボトボと歩いていると、後ろからオカンが乗る自転車が猛スピードで追い抜いてゆく。

 世間で言う“オカン”はマイペースである。
 特に関西オカンは強烈で、自転車乗るのも猫なで声から虎の声に早変わり。
 あの性格を伺い知りたいものだ。

 電子辞書で調べてみた。

 ▼解説

 おかん

 おかあさん、おふくろ 。
 (英 : mother)

 上方でもともと「おかあはん」と言っていたものが縮まったもの。

 大阪ならではの味わいのある呼び方。
 男の子も「おかあはん」と言っていたのが中学生になると「おかん」と言うようになる。
 東京のように「パパ」「ママ」とは絶対に言わず、これはみなマンガやテレビの中の出来事と思っている。
 「おかかん」や「おっかさん」などを押さえ、全国標準語となった系列の最新形態の語。

 オカンの派生は、留まる事を知らず、
 「オカン あるある」や「オカンの口癖」、「オカンの生態」など、
 これからも、“オカン”は、突き進むだろうと思われます。

 でも「オトン」は、何故に“時々”なのだろう?

 「存在感」なのか?!

 

Horror Movie 補足Ⅰ

2023-07-15 21:00:00 | 編集後記/追記

 知っている人は、知っているんですが、再確認での意味でも綴らせて貰います。

 しかし、B級映画を含めると沢山の”ホラー映画”があるものですね。

 さて、本題に
     入りたいと思います ー。

 バッファロー・ビルのモチーフ(モデル)について補足させて貰います。

 総覧に際し、グロテスクな文章が含まれています。御注意下さい。

 ■エド・ゲイン

 エドワード・スィアドア・ゲイン
(英語: Edward Theodore Gein[ɡiːn])
 (生没 :1906年8月27日〜
          1984年7月26日)

 アメリカ合衆国の殺人犯、死体泥棒。「プレイン・フィールドの屠殺解体職人」(The Butcher of Plainfield)、
「プレイン・フィールドの墓荒らし」(Plainfield Ghoul)との異名を取る。
 ウィスコンスィン州プレイン・フィールドにある墓場から死体を盗掘し、その死体の皮膚や骨を使って創り上げた「記念品」を州当局が発見したことにより、その名を知られるようになった。



 1954年に居酒屋の女主人、メアリー・ホーガン(Mary Hogan)を、1957年に金物工具店の女主人、バニース・ウォーデン(Bernice Worden)を殺害したことを告白した。
 当初、彼の精神状態は裁判には耐えられない、と判明したことで、精神療養施設に収容されていた(1968年の時点では、彼は「裁判に耐えうる」と判断されていた)。
 ゲインはバニースを殺した廉で「有罪」とされたが、法的に「正気を失っている」と判断されたことで精神病院に収容された。
 1984年7月26日、ゲインは呼吸不全(Respiratory Failure)で亡くなった。   
 プレイン・フィールド墓地内部にある自分の家族が眠るすぐ隣に、人目に付かない形で埋葬されている。

 《生い立ち》

 1906年8月27日、ウィスコンスィン州ラ・クロス郡にて、父ジョージ・フィリップ・ゲイン(George Philip Gein, 1873年 - 1940年)と、母アウグスタ・ヴィルヘルミーネ(Augusta Wilhelmine)の第2子として生まれた。
 エドワードには、ヘンリー・ジョージ・ゲイン(Henry George Gein, 1901年〜1944年)という兄が1人いた。
 母・アウグスタは1877年7月21日、父フリードリッヒ・ヴィルヘルム・リアケ(Friedrich Wilhelm Lehrke)と母アマリエ・マチルデ・フレギン(Amalie Mathilde Fregin)の間に生まれ、1900年12月11日にジョージと結婚した。 
 ドイツ人は、19世紀にウィスコンスィン州に定住した最大の移民集団であり、ヨーロッパにおける政治、社会、宗教、経済の大変動を促進した。
 アウグスタは、当時のプロイセン帝国からアメリカ大陸に移民としてやってきたフレデリックとアマリエの8人の子供の一人として生まれた。
 夫となったジョージは、ドイツ人の移民を母に持つ人物であった。
 「旧ルーテル派」(Old Lutherans)とは、ルター派による教会改革に反対し、変化を拒否し、教義の面で保守的なキリスト教徒を指す。
 ルーテル教会においては、「人間のあらゆる思考と行為は罪業と邪悪な動機に汚染されており、ゆえに全人類は地獄に堕ち、そこで永遠に続く神罰を受けるに値するのだ」と教えていた。
 アウグスタは、ジョージと結婚したのは間違いであったと思いつつも、厳格で狂信的な宗教観ゆえに離婚はせず、やがて全ての男性に対し、侮蔑の込もった目を向けるようになった。
 アウグスタは女児が欲しかったが、1906年8月に生まれたのが男児であることを知ると、ほかの男性と同じようにはしない、と決心したという。

 アウグスタは、どの仕事も長続きしないことに加えてアルコール依存症でもあった夫・ジョージを憎んでいた。
 ジョージは大工仕事、なめし革業、保険勧誘員といったさまざまな仕事に就いていた。
 ジョージは地元にある食料雑貨店の所有主であったが、のちに事業を売却し、ウィスコンスィン州プレイン・フィールドにある155エイカー(約63ヘクタール)の広さがある孤絶した農場に移住し、ここが永住の地となった。
 アウグスタは、この辺境の地に住んでいる点に付けこむ形で、息子たちに悪影響を与える可能性のある部外者・よそ者を遠ざけようとした。
 ヘンリーとエドワードは、ロシュ=ア=クリ小学校(Roche-a-Cri Grade School)に入学するが、通学時を除いて、農場から離れることは無かった。
 学校にいる時を除き、エドワードはほとんどの時間をこの農場で過ごした。
 母・アウグスタは苛烈なルーテル教会のプロテスタントであり、2人の息子に対して、「人間は生まれながらにして邪悪であり、飲酒は悪徳行為であり、そして、(自分を除いた)すべての女は淫乱であり、悪魔の手先である」という自身の信念を説教していた。
 彼女は毎日午後に、主に旧約聖書と黙示録(新約聖書の最後にある預言書的な書)の中から、死、殺人、神罰(Divine Retribution)に関する節を選び、息子たちに読み聞かせた。
 また、母アウグスタは「性行為は罪深いものであり、純潔のままでいるように」とエドワードに教え聞かせた。
 エドワードは内気な少年であり、自分自身に関する冗談を飛ばしては笑い出すが如く、一見でたらめに笑うことがあり、彼の同級生や学校の教員たちは、エドワードには独特の風変わりな癖があったことを覚えていたという。

 母・アウグスタは、エドワードが友人を持とうとすると、「その子は『よこしまな』一族の出身なんだよ」と叱り、「父のような負け犬になってはいけない」と言い聞かせた。
 エドワードの社会性の発達は哀れなものであったが、学校での成績、とりわけ読み書きはかなり優秀であった。

 《家族の死》

 1940年4月1日、父ジョージが、アルコール依存症が原因の心不全で亡くなった。
 66歳であった。
 生活費を賄うため、エドワードは兄・ヘンリーと臨時の仕事を始めた。
 地域の住民はこの兄弟について、「頼りになる正直者」と見なしていた。
 2人とも雑役夫として働き、エドワードは近所の住人の子守をやっていた。
 エドワードは子守の仕事を楽しんでおり、大人が接する以上に子供と仲良く過ごしているように見えた。
 兄・ヘンリーは、2人の子供を連れた離婚歴のある母親と交際し始め、2人で移住する計画を立てていた。
 ヘンリーは、母・アウグスタへの執心を強める弟のことが気掛かりであった。
 ヘンリーはエドワードのいる前でアウグスタを悪し様に言い、それに対してエドワードが見せた反応は動揺と精神的苦痛であった。
 1944年5月16日、ヘンリーとエドワードは敷地内の湿地帯に生えている草木を焼き払っていた。
 炎は制御不能なまでに燃え盛り、地元の消防隊が出動する事態となった。
 その日のうちに鎮火活動が終わり、消防隊員が撤収したのち、エドワードは「兄が行方不明になった」と通報した。
 捜索隊は、角燈と懐中電灯を使ってヘンリーを捜索し、やがて発見した。
 ヘンリーはうつ伏せの状態で倒れて死んでいた。
 ヘンリーの死は、「一見すると、この発見現場で死んだように見受けられる」「火傷や怪我の形跡は無く、心不全で死んだ」と判断された。
 しかし、伝記作家のハロルド・シェクター(Harold Schechter)によれば、ヘンリーの頭には打撲の跡があったという。
 何らかの犯罪が絡んでいる可能性について警察は却下し、郡の検死官はヘンリーの死因について、正式に「窒息」と発表した。
 ウィスコンスィン州当局は「事故死」として受理したが、公式の調査も剖検も行われなかった。
 ヘンリーの変死の真相については謎が多い。のちの1957年のバニース・ウォーデンの死について、州当局の捜査官ジョー・ウィリモフスキー(Joe Wilimovsky)はエドワードを尋問した際、ヘンリーの死についても尋ねた。
 事件について調べたジョージ・W・アーント(George W. Arndt)は、回顧録の中で、ヘンリーの死について「この事件における『カインとアベル』の側面である可能性が高い」と記述している。

 エドワードは母・アウグスタと2人きりになった。ヘンリーの死からまもなく、アウグスタは脳卒中を起こして体を動かせなくなった。
 エドワードは母の世話に専心した。1945年のある時期、彼ら親子は麦わらを購入するために「スミス」という名の男性を尋ねた。
 エドワードによれば、アウグスタはスミスが犬を殴る場面を目撃したという。
 スミスの家の中にいた1人の女性が外に出て、犬を殴るのを止めるよう叫んだ。だがスミスは犬を殴り殺した。
 これを目撃したアウグスタはひどく狼狽した。
 しかし、彼女を狼狽させた要因は、スミスが犬を容赦無く殺したことではなく、女性の存在であったように見受けられた。
 アウグスタはエドワードに「あの女はスミスと婚姻関係にあるわけではなく、彼女にはここにいる資格は無い」と伝えた。
 アウグスタは彼女に向かって憤然と叫んだ。「スミスの娼婦め!」。その直後にアウグスタは2度目の脳卒中を起こし、健康状態が急速に悪化した。
 1949年12月29日、アウグスタは死んだ。67歳であった。
 エドワードは母の死に精神的に打ちのめされた。ハロルド・シェクターは、母を失ったエドワードについて、「彼は唯一の友人にして恋人を失い、
 天涯孤独の身となったのだ」と表現した。

 《日々の仕事》

 ゲインは農場を手放すことなく、臨時の仕事で収入を得ていた。
 母が使っていた自宅の2階、階下の客間、居間を木の板で囲み、手つかずのまま保存した。
 建物の他の部分はますます不潔になりつつあったが、木の板で囲んだ部屋は汚れが全く無かった。
 ゲインは台所の隣にある小さな部屋に移り住んだ。
 この頃のゲインは、低俗雑誌、冒険物語、食人、ナチズムによる残虐行為を描いた読み物に興味を引かれるようになった。
 雑役夫として働いていたゲインは、1951年にアメリカ連邦政府から農業の補助金を受け取った。
 彼は時折、この地域の自治体の道路整備や脱穀作業の仕事に従事していた。
 1946年から1956年にかけてのある時期に、兄・ヘンリーが所有していた80エイカー(約32ヘクタール)の筆地も売却した。
 ゲインが道路建設の作業員として働いていたころ、彼の雇い主はゲインについて「変わり者だが、礼儀正しく、信頼に足る人物だ」と評価していた。

 《犯行発覚》

 1957年11月16日の朝、プレイン・フィールドにある金物店の女主人、バニース・ウォーデン(Bernice Worden)が姿を消した。
 住民の1人は、午前9時半ごろ、店の裏手から貨物自動車が去っていった、と述べた。
 その日は丸一日、客がほぼいなかった。一部の住民は、「鹿狩りの季節だからだ」と信じていた。
 午後5時ごろ、バニースの息子で副保安官のフランク・ウォーデン(Frank Worden)が店に入った。
 店の金銭登録機が空いており、床には血痕が見付かった。
 フランクは捜査官たちに対し、母が失踪する前の晩にゲインが店を訪れ、翌朝、1ガロンの不凍液(Antifreeze)を買うために店に戻ってきただろう、と語った。
 1ガロンの不凍液の売上伝票は、彼女が失踪した日の朝に記録した最後の領収書であった。
 この日の夕方、ゲインはウエスト・プレインフィールドにある食料雑貨店で逮捕された。
 ウォシェラ郡保安局がゲインの農場を捜索した。
 郡保安官代理は、ゲインが所有していた小屋の中でバニースの死体を発見した。
 彼女は首を斬り落とされており、両足首は横木で、両手首には縄が回されて固定されており、両脚は逆さまに吊るされていた。
 胴体は「鹿の肉を食べるのと同じ要領で、『下ごしらえ』されていた(血や内臓が抜かれていた)」。
 彼女は22口径小銃で撃たれており、ゲインは彼女を殺したあとに身体を解体した。
 家宅捜索で当局が発見したものは以下の通りであった。

 ・ヒトの骨全部とその断片

 ・ヒトの皮膚で作ったゴミ箱

 ・ヒトの皮膚で覆われた椅子

 ・寝台支柱に引っ掛けられた頭蓋骨

 ・上部が挽き切られた女性の頭蓋骨
 
 ・ヒトの頭蓋骨から作ったボウル

 ・肩から腰まで皮を剥いだ女性の胴体
  から作った体型補正下着

 ・ヒトの脚の皮膚から作った脛当て

 ・女性の頭の皮膚から作った仮面

 ・メアリー・ホーガンの顔を使って作         
  った仮面(紙袋に入っていた)

 ・メアリー・ホーガンの頭蓋骨(箱の   
  中に入っていた)

 ・バニース・ウォーデンの頭部全体     
  (黄麻布のずた袋に入っていた)

 ・バニース・ウォーデンの心臓(達磨    
  ストーブの正面に置かれてあったポ
  リ袋の中に入っていた)

 ・9つの外陰部(靴箱の中に入ってい
  た)

 ・少女用の衣装と、「およそ15歳」と判
  断された女性の外陰部が2つ

 ・女性の乳首から作ったベルト

 ・4つの鼻

 ・日除けの引き紐にくっ付いた一揃い
  の唇

 ・ヒトの顔の皮膚から作ったランプシ
  ェイド

 ・女性の指と爪


 これらの人工的遺物は、州立犯罪研究所が写真に収めたのち、「礼儀正しく処分した」という。

 捜査員からの尋問に対し、ゲインは1947年から1952年にかけて「茫然自失」の状態にあったころ、最近になって埋葬された遺体を掘り起こす目的で、地元にある3つの墓地を夜間に40回訪れた、と語った。
 墓地にいる間に眩惑状態から解放され、気分良く墓地から去り、手ぶらで帰宅したという。
 ゲインは、最近になって埋葬された中年女性、-母アウグスタに似た女性- の墓を掘り起こし、
 その死体を自宅に持ち帰り、その皮膚をなめして「道具」を作った。
 ゲインは墓地から9体の死体を盗掘した行為を認め、
 自分が死体を盗んだ箇所を捜査官に案内した。州立犯罪研究所のアラン・ウィリモフスキー(Allan Wilimovsky)は、ゲインが暴いた3つの墓を開く検証作業に参加した。棺はいずれも木箱の中に入っていた。天板は交差されていた(縦方向ではなかった)。
 箱の上部は砂質土壌の表面からおよそ2フィート(約61㎝)下にあった。
 墓がまだ仕上がっていない間に、葬儀が終わった直後にその墓を奪った。 
 ゲインがわずか一晩の間に片手で墓を掘れるかどうかについては当局は確信が持てずにおり、墓の発掘の検証作業が行われた。
 ゲイン本人が説明したとおりとなった。
 発掘された墓のうちの2つには何も入ってはおらず、そのうちの1つには、死体の代わりにかなてこが入っていた。
 てこ棒を紛失したゲインには、棺の1つが開けられなかった。
 盗んだ死体の多くは3番目の墓場に埋葬されていたものであったが、ゲインは死体が身に着けていた指輪や、身体の一部の部位については元に戻しており、これらはゲインによる告白を裏付けるものであった。

 母・アウグスタの死からまもなく、ゲインは「文字通り、母の皮膚の内部に入り込み、母・アウグスタと一体化する」ために、「女性用スーツ」を作り始めた。
 盗掘した死体との性行為(屍姦)については、「匂いが不快過ぎるんだ」と否定している。
 州立犯罪研究所の職員による尋問で、1954年以降行方不明となっている居酒屋の女主人、メアリー・ホーガン(Mary Hogan)を撃ち殺したことを認めたが、その出来事の詳細については「知らない」と答えた。
 両親がゲインの友人であり、ゲインと一緒に球技をしたり映画を鑑賞したことがある16歳の若者は、ゲインが「フィリピンから届いたものだよ」と語った干し首(Shrunken Head)を自宅に保管していたことを話した。
 ゲインによれば、第二次世界大戦中に島で従軍していた従兄弟が送ってきたものだという。
 警察による捜査の結果、ヒトの顔の皮膚であると判定され、死体から注意深く剥がされたのち、ゲインが仮面として使っていたという。
 ゲインは1953年にラ・クロス郡から失踪したエヴリン・ハートリー(Evelyn Hartley)の件を始め、他の複数の未解決事件の容疑者でもある、と見なされていた。
 ウォシェラ群保安局の保安官、アーサー・シュリー(Arthur Schley)は、ゲインへの取り調べの最中に、彼の頭と顔をレンガでできている壁に叩き付けた、と伝えられる。この行為のせいで、ゲインの当初の自白と供述は「証拠として認められない」と裁定された。
 シュリーはゲインの裁判が始まる前の1968年、心不全で死亡した。43歳であった。
 シュリーのことをよく知っていた人々の多くは、シュリーはゲインによる犯行のおぞましさに対して精神的外傷(Trauma)を負ったのだ、と語った。
 そして、このトラウマは、証言の義務に対する恐れ(とくに、尋問中にゲインを暴行したことについて)とともに、彼の死につながった。
 シュリーの友人の1人は、「シュリーは、ゲインがシュリーの身体を解体したかの如く、間違いなくエド・ゲインの餌食となったのだ」と述べた。

 《裁判》

 1957年11月21日、ウォシェラ郡裁判所に出頭したゲインは、「第一級殺人」(First-degree Murder)の訴因で罪状認否を受けた。ゲインは精神異常(Insanity)を理由に無罪を主張した。
 「精神分裂病」(Schizophrenia)と診断され、精神面でも「証拠能力が無い」と判明したゲインは裁判に耐えられるような状態ではなかった。
 ゲインはウィスコンスィン州ウァパーン(Waupan)にある、精神異常者を収容可能で最大の防犯設備がある中央州立病院に送られ、のちにウィスコンスィン州マディスンにあるメンドータ州立病院に移送された。
 1968年、ゲインを診察した医師は、「彼は弁護士と話し合えるし、自身の弁護に参加できる」との判断を下した。
 11月7日、ゲインの裁判が始まり、一週間続いた。
 証人の1人として出廷した精神科医は、ゲインがバニース・ウォーデンを殺したことについて、「殺そうという意志を抱いての行為であったのか、それとも事故死であったのかが分からない」と語った、と証言した。ゲインは精神科医に対し、ウォーデンの店にあった一丁の銃を吟味していたとき、その銃が突然火を噴いて彼女は死んだ、と説明した。
 ゲインは「小銃に弾丸を装填しようとしたあとにそれが発射された」と証言した。
 ゲインはウォーデンに対して小銃を向けてはおらず、その日の朝に起こった出来事については何も覚えてはいなかった。
 弁護側からの要請に基づき、ゲインの裁判は陪審員抜きで行われた[69]。裁判の判事を務めたロバート・H・ガーマー(Robert H. Gollmar)は、ゲインに「有罪」を宣告した。
 二次裁判では「ゲインの精神が正常か異常か」が争点となった。
 検察側と弁護側の両方に向けられた医師による証言のあと、判事のガーマーはゲインを「精神異常により、無罪」との判決を下し、ゲインについて、「精神異常者である」として中央州立病院に収容するよう命じた。
 ゲインは精神病院で余生を過ごした。
 ガーマーは「ウォーデン夫人殺害の罪でゲインが裁判にかけられたのは1度だけだ。費用が高額ゆえに。
 彼はまた、メアリー・ホーガンを殺したことも認めた」と記述した。

 《資産》

 ゲインが住んでいた屋敷と、195エイカー(約79ヘクタール)の不動産資産は、「4700ドル = 5880840円」と評価された(2019年の時点で「42000ドル」に相当する)。
 彼が所有していたものは、ゲインが住んでいた屋敷および屋敷が建っていた土地が観光名所となるかもしれない、との噂が広まっている最中の1958年3月30日に競売にかけられる予定であった。
 しかし、3月20日の早朝、屋敷で火事が発生し、燃え尽きた。副消防署長は、ゴミ処理の仕事に従事していた清掃員により、ゲインの屋敷から75フィート(約23m)離れた場所で、ゴミ焼却の炎が放たれた、と報告した。
 さらに、焚火が行われていた場所からは熱い石炭が回収され、焚火が行われていた場所から上がった炎は、地面に沿う形で屋敷に伝播していったわけではなかった。
 放火の可能性が疑われたが、火災の原因については公式に特定されることは無かった。
 当時の消防署長はゲインの犠牲となったバニース・ウォーデンの息子、フランク・ウォーデンであった。
 この火災は、緊急の要件としては対処されなかった可能性があるという。
 ゲインは勾留されている時にこの火災を知ったが、それを伝えられた際のゲインは以下のように返答した。「Just as well.」(「そりゃ結構なこった」)。
 ゲインが犠牲者の遺体を運ぶのに使用した1949年のフォード・セダン(The 1949 Ford Sedan)は競売にかけられ、謝肉祭(Carnival)の余興運営者、バニー・ギボンス(Bunny Gibbons)が落札した。
 落札額は760ドルであった(2019年の時点で6700ドルに相当)。
 ギボンスは謝肉祭の常連客に対し、それの見物料として25セントを請求した。

 《死》

 1984年7月26日、ゲインはメンドータ精神衛生研究所(The Mendota Mental Health Institute)にて、肺癌(Lung Cancer)から来る呼吸不全で亡くなった。
 77歳であった。
 ゲインの死後、「記念品」を探し求める者がおり、プレイン・フィールド墓地内部にある墓石から破片を削り取り、2000年の時点で墓石が何者かに盗まれた。
 2001年6月、スィアトル近郊でこの墓石が発見・回収され、ウォシェラ郡保安局(The Waushara County Sheriff's Department)にて保管された。 
 ゲインは人目に付かない形で、両親と兄弟の間に埋葬されている。

     〔ウィキペディアより引用〕



銭の花《商魂》 ♯005

2023-07-14 21:00:00 | 日記

 ■NintendoーSwitch

 任天堂株式会社(にんてんどう)
 (英: Nintendo Co., Ltd.)

 主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を行う日本の企業。
 京都府京都市南区に本社を置く。
 TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。

 《概要》

 1889年に創業した老舗企業で娯楽に関するさまざまな事業を展開している。
 創業以来、多くの種類の玩具を製作しており、特に花札やトランプは創業初期から現在に至るまで製造、販売を続けている。
 1970年代後期に家庭用と業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始した。  
 1983年発売の据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」のゲームソフトとして1985年に発売した『スーパーマリオブラザーズ』が世界的にヒットしたことでゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。
 『スーパーマリオブラザーズ』の主人公「マリオ」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界的に認知されているものが多く、2010年代からはキャラクターIPのゲーム外での活用を進めている。

 《沿革》

 ▼山内房治郎社長時代
        (1889年〜1929年)

 当時は会社の形態ではないが便宜上「社長」と表記している。

 ・1889年9月23日
 山内房治郎が京都府京都市下京区で任天堂骨牌(山内房治郎商店)を創業。
 花札の製造を始める。

 ・1902年 日本で初めてとなるトランプの製造を開始。

 ▼山内積良社長時代
        (1929年〜1949年)

 ・1929年 任天堂骨牌(山内房治郎商店)2代目店主に山内積良が就任。

 ・1930年 本社となる鉄筋コンクリート4階建てのビルが完成。

 ・1947年11月 京都市東山区今熊野東瓦町に株式会社丸福を設立。

 ▼山内溥社長時代
       (1949年〜2002年)

 ・1949年9月 代表取締役社長に山内溥が就任。
 丸福かるた販売株式会社に商号変更。

 ・1950年3月 任天堂かるた株式会社に商号変更。
 合名会社山内任天堂(現・株式会社山内)よりかるた製造業務を継承。

 ・1951年7月 任天堂骨牌株式会社に商号変更。

 ・1952年10月 京都府京都市東山区福稲上高松町に工場(現・京都リサーチセンター)を設置。

 ・1953年 日本初となるプラスチックトランプの製造に成功。

 ・1959年9月 工場のある京都市東山区福稲上高松町に本社を移転。

 ・1962年1月 大阪証券取引所市場第二部、京都証券取引所に株式上場(現在は市場統合)。

 ・1963年10月 任天堂株式会社に商号変更。

 ・1971年 簡易複写機「コピラス」を発売。
 10万台以上を出荷するヒット商品になる。

 ・1973年 業務用レジャーシステム「レーザークレー射撃システム」を開発。

 ・1975年 - 業務用メダルゲーム機     
 「EVRレース」を開発。

 ・1976年4月23日 任天堂レジャーシステムがアミューズメント業界の団体である、全日本遊園協会へ加入。

 ・1977年7月1日 三菱電機と共同開発した据置型ビデオゲーム機「カラーテレビゲーム15」と「カラーテレビゲーム6」を発売。

 ・1978年 業務用ビデオゲーム機の販売を開始。

 ・1980年 4月 アメリカのニューヨーク州に現地法人「Nintendo of America Inc.」を設立。

  4月28日 携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売。
 その後、8年間で約70機種を展開して4,800万台以上を販売する。

 ・1981年7月9日 アーケードゲーム版『ドンキーコング』の稼動を開始。
 この中でのちに任天堂を代表するキャラクターとなる「マリオ」が初めて登場している。

 ・1982年 2月 アメリカのワシントン州に現地法人「Nintendo of America Inc.」を設立。既存のニューヨーク州法人を吸収合併。
 業績が前年の約3倍に拡大して8月連結決算の売上高は661億4,100万円、営業利益は227億200万円の黒字になる。

 ・1983年 7月 東京証券取引所市場第一部に株式上場[。

  7月15日 据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売。

 ・1985年 8月14日 アーケードゲーム機のリースおよび直営店の閉鎖を発表、
 業務用からの撤退は否定。

  9月13日 ファミリーコンピュータ用ゲームソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売。
 のちに世界でもっとも売り上げたゲームソフトとしてギネス世界記録に認定された。

 ・1989年 2月28日 アミューズメント業界の団体である、日本アミューズメントマシン工業協会から脱退。
 アーケード業界から既に撤退していることを受けたもの。

  4月21日 携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売。

 ・1996年 6月21日 任天堂公式サイトを開設。

  6月23日 - 据え置き型ゲーム機「NINTENDO64」を発売。

 ・1997年 任天堂製品の流通問屋親睦団体「初心会」が日本の流通環境の変化にともない解散。

 ・2000年11月 京都府京都市南区に本社を移転。

 ・2001年 3月21日 携帯型ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」を発売。

  9月14日 据え置き型ゲーム機「ニ
 ンテンドーゲームキューブ」を発売。

 ▼岩田聡社長時代
       (2002年〜2015年)


 ・2002年5月31日 代表取締役社長に岩田聡が就任。
 代表取締役増員による集団指導体制を開始。

 ・2004年 8月 前代表取締役社長の山内溥が個人で出資していたシアトル・マリナーズの持分すべてが、Nintendo of America Inc.へ移転されてNOAが球団の筆頭オーナーとなる。

  11月21日 携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売。
  世界で1億5,000万台あまりを売り上げ、最も普及した携帯型ゲーム機となった。

 ・2006年 7月 韓国に現地法人「韓国任天堂株式会社」を設立。

  11月19日 アメリカで据置型ゲーム機「Wii」を発売(日本では12月2日に発売)。
  同日発売のWii専用ゲームソフト『Wii Sports』は本体同梱版を含めると世界でもっとも売れたゲームソフトとなった。

 ・2009年 5月7日 3月期決算で売上高1兆8,386億2,200万円、営業利益5,552億6,300万円の過去最高益を記録したことを発表。

  10月 世界のグローバル企業2,500社を対象とした調査で、2009年の「グローバルチャンピオン」に任天堂が選出。

 ・2011年2月26日 裸眼3D液晶ディスプレイを搭載した携帯型ゲーム機「ニンテンドー3DS」を発売。

 ・2012年 2月 「ニンテンドー3DS」が日本における販売台数が500万台を突破。
 ゲームプラットフォームとしては史上最速の記録になった。
  「ニンテンドー3DS」の価格値下げによる逆ザヤ状態や円高などの影響により、3月期の決算で377億円の営業赤字を計上。

  11月18日 アメリカで据え置き型ゲーム機「Wii U」を発売(日本では12月8日に発売)。

 ・2014年 1月30日 QOL事業への参入を発表。
  7月から12月までの半年間で「ニンテンドー3DS」用ソフトのダブルミリオン達成ソフトが5本生まれる。
  これは日本のゲーム市場において初めての記録となる。

 ・2015年 3月17日 ディー・エヌ・エーと業務、資本提携してスマートデバイス向けのゲームソフトを開発することを発表。
  また、新型家庭用ゲーム機「NX(コードネーム。のちの「Nintendo Switch」)」を開発中であることを発表。


  5月8日 3月期決算で4期ぶりに営業黒字回復。

 ▼君島達己社長時代
        (2015年〜2018年)

 ・2015年9月15日 代表取締役社長に君島達己が就任。
  組織再編により、統合開発本部とシステム開発本部を統合して技術開発本部を、情報開発本部と企画開発本部を統合して企画制作本部を設立し、ビジネス開発本部を新設。

 ・2016年 6月29日 組織再編により、監査等委員会設置会社に移行して執行役員制度を導入。外国人役員としてレジナルド・フィサメィが執行役員に就任。
  7月6日 海外でポケモン(開発、配信、運営はNiantic, Inc.)からゲームアプリ『Pokémon GO』をリリース。
 その爆発的な人気から以降約半月にわたり任天堂の株価が高騰する。

  7月22日 ポケモンが任天堂の持分法適用関連会社であることを発表して以降は株価が落ち着いた。

  8月22日 Nintendo of America Inc.が保有しているシアトルマリナーズ運営会社の持分の一部を売却。

  8月25日 2017年4月3日付でジェスネットを子会社化と同時にジェスネットがアジオカより、ビデオゲーム卸売事業を譲受することを取締役会において決議。

  10月20日 - 据え置き型ゲーム機「Nintendo Switch」の情報を公開。


  11月29日 - ユニバーサル・パークス&リゾーツが運営しているユニバーサル・スタジオ・ジャパン、ユニバーサル・オーランド・リゾート、ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドで任天堂のテーマパークを展開することを発表。

  12月15日 iOS向けゲームアプリ『SUPER MARIO RUN』を150の国と地域のApp Storeで配信開始。開始4日間のダウンロード数が4,000万を超え、App Storeにおける最速記録になった。

 ・2017年 3月3日 日本、アメリカ、ヨーロッパなどで携帯型ゲーム機としても利用できる据え置き型ゲーム機「Nintendo Switch」を発売[。

  4月3日 - ジェスネットを子会社化し、任天堂販売株式会社に商号変更。

 ・2018年 2月1日 ユニバーサル・スタジオとの共同出資により、ユニバーサルの傘下であるイルミネーション・エンターテインメントと共同でスーパーマリオのアニメーション映画の製作を開始したことを発表。

  4月・3月期決算で7年ぶりに売上高1兆円超を計上。

  4月27日 株式会社サイバーエージェントの傘下である株式会社Cygamesの発行済み株式数の約5%を取得し、スマートデバイス向けゲーム事業での業務提携を行うことを発表。

 古川俊太郎社長時代
           (2018年〜)

 ・2018年 6月28日 代表取締役社長を務めていた君島の退任により、代表取締役社長に古川俊太郎が就任。

 ・2019年 4月16日 Nintendo of America Inc.代表取締役社長および任天堂執行役員を務めていたフィサメィの退任により、Nintendo of America Inc.代表取締役社長および任天堂執行役員にダグ・バウザー(英語版)が就任。

  11月22日 渋谷PARCO(東京都渋谷区)に日本初のオフィシャルショップ「Nintendo TOKYO」がオープン。

 ・2020年 1月30日 取締役会の諮問機関として「指名等諮問委員会」の設置を取締役会で決議。

  10月16日 ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに「マリオ・カフェ&ストア」がオープン。

 ・2021年 3月1日 Next Level Gamesを子会社化。

  3月18日 ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに「スーパー・ニンテンドー・ワールド」がオープン[70]。 6月2日 - 宇治小倉工場を改修し資料館施設にすることを発表。

 ・2022年 2月24日 2022年4月1日付でSRDを子会社化することを発表。

  4月12日 京都市が2021年12月8日に公募型プロポーザルにより募集していた市有地の有効活用事業者に選定され取得。2027年12月に本社第2開発棟(仮称)として竣工予定。

  7月14日 2022年10月3日付で、独立系のCGプロダクション会社ダイナモピクチャーズを子会社化し、商号を「ニンテンドーピクチャーズ子会社化し、商号を「ニンテンドーピクチャーズ株式会社」に変更する予定であることを発表。

  11月11日 二店目のオフィシャルショップとなる「Nintendo OSAKA」を大丸梅田店13Fにオープン。

 ・2023年 4月3日 DeNAとの合弁子会社としてニンテンドーシステムズを設立。

  7月 欧州子会社のNintendo of Europe GmbHにNintendo France S.A.R.LとNintendo Benelux B.V.を吸収合併する予定。

  10月17日 三店目となるオフィシャルショップ「Nintendo KYOTO」を京都髙島屋S.C.の新しい専門ゾーン「T8(ティーエイト)」の開業に合わせてオープン予定。

 ・2024年 1月 Nintendo of Europe GmbHの社名をNintendo of Europe AGに変更予定。

  3月 任天堂資料館(仮称)が完成予定。

  8月 Nintendo of Europe AGにNintendo Ibérica, S.A.を吸収合併する他、Nintendo of Europe AGの商号を Nintendo of Europe SE に変更予定。

 ●任天堂 企業理念

 『独創性』『柔軟性』『チャレンジ』

    〔ウィキペディアより引用〕