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もの思う葦 ♯06ー① Horror Movies

2023-07-05 21:00:00 | 日記

 ホラー映画は、流行り廃りが激しいと思います。

 好きな方は、そう思わないかも知れませんが、まぁ映画自体が混迷期が続いて特に日本映画は顕著に現れていると思います。

 さて、ホラーって何?スリラーとどう違うの?サスペンスは?
 その違い、定義についてを調べてみました。

 ・ホラー [名](horror) 恐怖。戦慄。

 ・スリラー [名] (thriller) 映画・演劇・小説などで、観客や読者に恐怖を感じさせることをねらった作品。

 ・サスペンス [名] (suspense 「未解決、不安、気がかり」の意) 映画、ドラマ、小説などの物語の展開が、観客や読者に与える不安と緊張感。

 ・サイコ[名](psycho)
 多く複合語の形で用い、精神・霊魂に関する意を表す。
 「—セラピスト」
 1960年製作のアメリカ映画。
 原題《Psycho》。アルフレッド・ヒッチコック監督によるサイコ・サスペンスの元祖。

 それらは、全て“類義語”なんですけどね。ニュアンス的には違いはあります。

〔情報元 : コトバンク〕    


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 私がホラー映画で心に残った、気になる作品を紹介します。

 私が最初にホラー映画を観たのは、中学生の頃、友達と。
 友達曰く「もの凄い怖いらしいゎ〜」という言葉に絆されて。

 『エクソシスト』(The Exorcist)

 1973年のアメリカ合衆国のホラー映画。監督はウィリアム・フリードキン、出演はリンダ・ブレア、エレン・バースティン、ジェイソン・ミラーなど。

 少女に憑依した悪魔と、自らの過ちに苦悩する神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作された。本国において1973年の興業収入1位を記録した。第46回アカデミー賞の脚色賞と音響賞を受賞。 題名となっているエクソシストとは、英語で"悪魔払い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師"という意味である。



 《ストーリー概要》

 イラク北部で古代遺跡の発掘調査に参加していたランカスター・メリン神父(マックス・フォン・シドー)は、悪霊パズズの像を発見する。
 彼は「この邪悪な宿敵と再び対峙する日が近い」と予感する。 女優のクリス・マクニール(エレン・バースティン)は体制側と対峙する若者を描いた学園映画撮影のためにワシントン近郊のジョージタウンに家を借り、一人娘のリーガン(リンダ・ブレア)と幸せに暮らしている。
 同じくジョージタウンに住むデミアン・カラス神父(ジェイソン・ミラー)は時おりニューヨークに住む母親のもとを訪れている。
 ギリシャからの移民である母親は小さなアパートで日がなラジオのギリシャ音楽を聴いて過ごしている。
 教会の援助で一流大学で学んだカラス神父は、貧しく孤独に暮らしている母に申し訳なさを感じる。
 プラグマティストの精神科医であるカラスは、医者として稼げば母に楽をさせられるが、現実には清貧の誓いに縛られ赴任地も遠く、母の世話もできない身の上だった。
 身体を鍛える一方で、神父の仕事にやり甲斐を持てず悩むカラス神父。やがて母は体調が悪化して入院する。
 設備の整った私立病院に移したいと思ってもその費用がない。病院に押し込められたと嘆いたまま母は死に、カラスは更に自分を責める。
 クリスの家では屋根裏から不気味な音が聞こえるようになるが原因がわからない。
 やがてリーガンの行動に異変が現れる。ベッドが激しく揺れだし、リーガンの部屋だけが異常に寒いなど謎の現象も起こるようになる。
 又、近くの教会ではマリア像を冒涜する事件が起きた。

 リーガンは病院でさまざまな検査を受ける。
 検査機器を付けられ血液を抜かれ、酷な体験をするがそれでも異常を見つけることは出来ない。
 臨床検査でリーガンはカウンセリングをする精神科医に暴力を振い罵り始めるが、その声は少女のものではなかった。



 マクニール家の周辺では更に異変が起き、クリスの友人である映画監督のバーク・デニングズ(ジャック・マッゴーラン)が、マクニール家の裏手に位置する階段で転落死した。
 首が180度ねじ曲げられたデニングズの死に様に疑問を抱いたキンダーマン警部補(リー・J・コッブ)は、怪死事件と教会の冒涜事件の関連を調べるためにカラスに会う。
 リーガンに対する治療方法が見つからない病院の医師のひとりがクリスに対して、荒療治のひとつとして〈悪魔払い〉を提案する。
 患者が「自分は悪魔に取り憑かれた」と信じている場合、それによって心が平静を取り戻すこともあるというのがその理由だった。
 リーガンの異常はますますエスカレートし、十字架で自慰行為をし、止めに入ったクリスを殴りつけると、首を180度後ろに向け、デニングズの声を使って嘲笑った。
 リーガンが悪魔に憑りつかれたと確信したクリスは、カラスに悪魔払いを依頼する。当初は悪魔憑きに否定的なカラスであったが、何度もクリスの家を訪れてリーガンの異常な姿を目にする。
 だがカラスの心を揺さぶったのは醜悪な姿になった少女の皮膚に浮かび上がる、助けて欲しいとのメッセージだった。
 彼は悪魔払いの儀式を行うことを決意し、大司教に許可を求める。
 儀式の責任者には悪魔払いの経験のあるメリンが選ばれた。
 霧の立ちこめる夜、クリス宅を訪れたメリンはカラスを従えてリーガンから悪魔を取り払う儀式に臨む。
 二人の神父は祈りの声を少女に掛け続け、悪魔も、また抗い神父たちの動揺を誘い緊張が続く。
 リーガンが苦しむ様子にカラスは心を痛めるが、メリンは「悪魔は我々に人間が救うべき存在ではないと思わせようとしている」のであり最後まで諦めないように励ます。
 しかし、戦いの途中でメリンは持病の心臓病の発作を起こして急死してしまう。
 一人残されたカラスは,ほくそ笑むリーガンを殴りつけ、悪魔を自分の身体に乗り移らせた上で窓から飛び降り、命と引き換えに悪魔をリーガンから引き離すのだった。

 関連項目 ー エクソシスム ー

 エクソシスム
 (ラテン語: exorcismus)
 (ギリシア語: ἐξορκισμός)

 ギリシア語で「厳命によって追い出すこと」を意味し、この語はギリシア語訳旧約聖書である『七十人訳聖書』創世記 24:3 「誓い」、第一列王記 22:16 「命令」、および『新約聖書』マタイ福音書 26:63 「生きている神によって命じ」から採られている。

 日本語では一般にエクソシズムとカナ書きされ、「悪魔祓い」または「悪霊払い」と訳されるが、『カトリック教会のカテキズム』の日本語版では「祓魔」(ふつま)と記されている。

 《語源》

 「悪霊を追い払うこと」を指して使われるギリシア語の exorkismos は、「厳かに問いかけること、または勧告すること」といった意味の名詞である。
 動詞 exorkizo は「誓言」を意味する horkos の派生語であり、悪魔の概念史の研究などで知られる宗教史家ジェフリー・バートン・ラッセルによれば、元はキリスト教ではなくギリシアの異教で用いられていた。
 この言葉は「衷心より真剣に請う、祈る」といった意味で用いられ、その本義は「誰かに向けて厳かに切実に呼びかける」である。
 これにはもとより「悪霊を追い出す」といった意味は含まれておらず、非キリスト教徒のギリシア人にとっても、初期のキリスト教徒にとっても、悪しきものに対してだけでなく善きものに対する呼びかけにも適用しうる言葉であった。キリスト教においては、エクソシズムはキリストの名の下に悪霊を追い払うという形のキリストへの間接的な祈りであり、3世紀頃までには明確に「高位の霊的権威の力を借りて人や物から有害な霊を追い出す儀式」を意味するようになった。

 《キリスト教のエクソシスム 》

 聖書にイエス・キリストが悪霊を追い出した記事があり、キリスト教においてはエクソシズムが今日でも行われている。
 カトリック教会のエクソシスム(祓魔)は叙階の秘跡により司祭に与えられた権能であるが、教会の判断によりエクソシストが任命されることがある。
 洗礼式では悪魔を拒否するエクソシズムが行われ、聖別の祈りにおいては悪しき力を排除する広義のエクソシズムがなされる。
 悪霊に憑かれた人に対して行われる狭義のカトリックのエクソシズムは盛儀祓魔式と呼ばれる。
 カトリック百科事典は、カトリックのエクソシズムは民族宗教などの悪魔払いと異なり、迷信ではないとしている。
 現代のプロテスタントの一部の教派で行われる「悪霊追い出し」も広義のエクソシズムである。

 《日本における悪魔払い 》

 神道大辞典によれば、悪魔払い(あくまはらい)

 遊魂変をなすもの、若しくは不正の邪気に犯さるるを払ふ調伏呪文、加持祈祷の類。
 『世事間談』には通り悪魔を払ふに、普門品を唱へて効験あることを載せ、陰陽道にては調伏呪文、修験道には加持祈祷によつてこれを払ふ秘法を説いてゐる。

          — 神道大辞典 ー

 すなわち、修験者や陰陽師による調伏呪文、加持祈祷などによって、游魂が変異をなして物の怪となったものを払う、あるいは邪気・邪霊に侵された人から邪気を払うものである。 「祓い」は古くは神道の祭祀であったが、大陸から渡ってきた宗教や陰陽五行説をもとに陰陽道が構築され、陰陽寮が発足してから、祓いの役割は陰陽師に移ったとされる。
 以来、明治時代に入り、再び「祓い」の祭祀が神道に戻されるまでの間に、仏教、儒教、民間信仰を吸収・習合しながら、様様な悪魔払いの儀式・行事・呪い(まじない)として民間にも広がり浸透していった。
 民俗学者の坪井洋文は、悪魔は民間信仰の次元で考えられることが多いとしながら、色々な信仰習合の歴史を経ても、日本における悪魔払いの根底には、日本固有の「祓い」の観念が潜在しているとする。
 「悪魔を払う方法も、民間信仰的なさまざまの形をとっているが、密教の調伏咒文、修験道の加持祈祷の類が典型的といえよう」「民間行事としての疫神送りや人形送りも、広義には悪魔払の一種であり、獅子舞などの民間芸能のなかにもその信仰上の名残りを見出すことができる」と説いている。
 修験道では悪魔を退散させる修法が行われ、修験道の影響を受けた民間芸能の中に悪魔払いの側面があるとも指摘されている。
 神仏習合の世界観の下、諸国を遊行して加持祈祷を行い、邪霊の調伏や憑き物落としに携わった修験者・山伏は、民間の芸能にも関わり、各地で神楽などを伝えた。
 その中には悪魔払いの意味をもつ獅子舞や祈祷舞が含まれており、たとえば岩手県に伝わる山伏神楽である黒森神楽の清祓には「この家に悪魔あらんをば祓い清め申す」といった文言がある。

 現在でも日本各地には「悪魔払い」としての民間行事や祭りがあり、金沢市の魔除けの舞いを修する「山王悪魔払い」のように、山王信仰の中にも悪魔払いの儀式が残っている。
 新潟の「十二山祭」では、山の安全を祈願して悪魔払いの弓を射る。
 どんど焼きとして知られる左義長(さぎちょう)も平安時代の悪魔払い「三毬杖」に由来するとされている沖縄や鹿児島県では、グシチと呼ばれるススキやその葉を束ねたり重ねて形を整えて悪魔払いの呪具とする。
 シマクラサー(悪疫払いの儀式)に家の決められた場に飾って魔除けとする他、祈願を終えた女性神役が、グシチで村の家々の壁や子供を叩くことで悪魔払いをする。

     〔ウィキペディアより引用〕