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Horror Movie 補足Ⅱ

2023-07-16 21:00:00 | 編集後記/追記

 先日、ホラー映画を綴らせて貰いました。

 その補足と言うか、少しだけ深堀させて下さい。

 『貞子』こと、山村貞子のモチーフ(モデル)とされているのは御船千鶴子ですよね。有名だから、御存知の方は多いと思いますが、敢えて綴らせて下さい。

 御船 千鶴子(みふね ちづこ)
(生没:1886年(明治19年)7月17日〜
    1911年(明治44年)1月19日)

 透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された日本の女性。

御船千鶴(国会図書館所蔵『透視と念写』より)
 
生涯》

 ▼生い立ち

 熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)にて、漢方医・御船秀益と、その妻・ユキの二女として生まれる。
 生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえにくかったという。
 繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。
 また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。

 ▼透視能力の発現

 22歳のとき、陸軍中佐・河地可謙[要出典]と結婚。
 ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こした。
 それがもとでほどなく離婚することになり、実家に戻る。
 実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられた際に優れた結果が出たため、修練を続けることとなった。
 その後、日露戦争時に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした。
 また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた。
 評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、1909年(明治42年)から翌年の1910年(明治43年)にかけて京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた。

 ▼透視実験により「千里眼」と話題に

 1910年(明治43年)4月10日、熊本の清原の自宅で福来と今村は清原の立ち会いのもと、透視実験を行う。
 人々に背を向け、対象物を手に持って行う千鶴子の透視が不審を招くことに配慮した福来は、背を向けても対象物を手に取らないで透視するようにさせたが、この方法では不的中に終わった。
 今度は清原が用意した名刺を茶壺に入れ、それに触れることを許可して透視させると、名刺の文字を言い当てたという。
(福来友吉博士)

 千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した。
 これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。
 千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子をはじめとした「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れた。

 ▼マスコミによる否定論調

 1910年(明治43年)9月15日、物理学の権威で東京帝国大学の元総長の山川健次郎が立ち会いのもと、透視実験を行った。
 千鶴子は鉛管の中の文字の透視を「成功」させたものの、それは山川の用意したものではなく、福来が練習用に千鶴子に与えたものであったことが発覚する。この不審な経緯に、新聞は千鶴子の透視能力について否定的な論調を強めて行った。
 透視実験において、医院で接する患者には正面から向き合っていたにもかかわらず、上記の通り実験時の千鶴子は常に観察者に背を向けて10分以上時間をかけており、成功したのは封筒の透視である。これだけ時間をかければ、背後からは分からないよう手の先だけを動かしてつばで封をはがし、体温で乾かして元に戻すことは可能であろうとの指摘は当時から出ていた。
 いずれの実験も条件としては不十分で、中には千鶴子を別室に入れて行ったものまである。
 さらに、福来の著書「透視と念写」においてでも、最初の実験で送った19通の封印つき封筒のうち、「透視」が成功して帰って来たのは7通のみで、3通はうっかり火鉢に落として燃えた、残りは疲れてできないということであった。
 福来は単純に結果に驚愕したと書いているが、燃えたものはともかく、疲れてできない分は返送されていない。これは火鉢の湯気を当てて封を剥がし、綺麗に戻せたものだけを返送したと考えられている。

 ▼服毒自殺により24歳で死去

 そんな中、長尾郁子の念写を非難する記事を見て失望と怒りを感じた千鶴子は、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったとされ、1911年(明治44年)1月18日には重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡した。
 一般には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したといわれるが、地元では自殺の原因は「父親との金銭的なトラブルによるもの」だと見られていた。

 関連項目 ー 千里眼事件 ー

 千里眼事件(せんりがんじけん)

 明治末(1900年代から1910年代初頭まで)の日本で、当時の社会状況・学術状況を背景として起きた、超心理学に関する公開実験や真偽論争などの一連の騒動である。
 千里眼・念写の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者とともに巻き起こした。

 ▼御船千鶴子の出現

 熊本県生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、1909年(明治42年)、23歳の時のことである。
 その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。
 1900年(明治30年代半ば)頃の日本では、催眠術ブームが起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在した。
 最初に千鶴子を取り上げたのは、1909年年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議なる透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じている。
 実際に千鶴子の透視能力を直接に実験したのは、今村新吉である。
 1910年(明治43年)2月19日、熊本を訪れた今村が、カードを用いた透視実験を行い、高い的中率を得た。
 同年4月9日には、福来友吉と今村の二人で熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれたが、この時は失敗した。
 しかしその後、方法を変えて実験を行なうと、的中した。4月25日には、東京に戻った福来が、東京帝大内で実験報告を行い、一躍脚光を浴びるようになった。

 同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれた。
 が、その結果は、試験物のすり替え事件によって、問題の「千里眼」能力の真偽に対する答えを出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなった。
 翌9月15日、9月17日に少数の関係者を集めて、千鶴子の得意な方法で行なわれた再実験では、好結果が出たが、集まった学者たちの反応も、一歩下がった立場からの冷めた論調に終始した。
 その一因として、千鶴子の場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人の同室を固辞し、また、ふすま越しに隣室からの同伴を認めた場合でも、終始、千鶴子は背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験を行なったため、問題の千鶴子の手元が臨席者の目に触れることがなかったため、福来らの能力を信奉する立場の者たちにしても、その疑惑を払拭することができなかった点が挙げられる。
 結局、千鶴子は熊本に帰った後、1911年(明治44年)1月19日に自らの命を絶ってしまう。その死の前後に、長尾郁子の事件が報道されたことから、死後の千鶴子に関しても世間からの非難が集まることとなってしまった。

 ▼長尾郁子の登場



長尾郁子(「福来博士記念館」の展示

 長尾郁子は、香川県丸亀の判事であった長尾与吉の夫人であり、当時40歳であった。
 郁子の場合、その数年前から災害等の予言が的中するということで身近な人たちから注目されるようになったという。
 それが、千鶴子の一連の報道を知ったことで、同様の実験を行なったところ、見事に的中したということで、福来の耳に郁子の情報が入ることとなったのである。
 福来と今村が郁子に対して初めて実験を行なったのは1910年11月12日のことである。
 郁子の場合、千鶴子との最大の相違点は、同席者と相対した位置で透視を行い、的中させた点である。
 さらに、実験方法においても、千鶴子の場合とは異なった手段が用いられた。それが、福来の考案した現像前の乾板を用いるというもの、いわゆる「念写」実験の始まりである。
 福来は千鶴子に対しても同様の実験を試みたが、不成功に終わった。郁子の場合は、福来のあらかじめ示してあった文字を念写することに成功したため、福来らはもっぱら丸亀において郁子の実験を中心に活動することとなる。

 1911年1月4日から、物理学者で東京帝国大学元総長の山川健次郎が同席した透視・念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれた。8日には、助手として参加した東京帝国大学物理学教室講師の藤教篤が、実験物である乾板を入れ忘れるという事件が起きている。
 山川からは、長尾側が透視する文字を書く場所に特定の部屋を要求したり(山川がその部屋で体を盾にして書いた文字を長尾は透視できなかった)、山川側が一度開ければわかるように細工しておいた透視用の封筒に開封の跡が発見されるなど、不審な点があまりにも多いことが指摘された。
 山川らの実験は一つ一つ意味を持っており、透視が当たった時と当たらなかった時はどのような条件であったかがわかるように計画を立てていた。こうして透視が当たった時は、全て袖で隠さずに書いた時か、封を空けた跡が見られた時など、前述のような不審な点が見受けられたときだけであった。
 また、同年1月12日の実験でも妨害行為があったことが報じられ、その妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密であった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がるに及んで、郁子と横瀬の不倫疑惑というゴシップへと世間の関心は移ってしまい、やはり、肝心の「千里眼」「念写」の真偽は二の次になってしまった。
 そうして、同年2月26日に長尾郁子が病死。だが、これさえもマスコミは長尾家への非難の材料として取り扱った。
 山川らは、同年のうちに写真を添えて物理の実験結果と同様に公表し、手品の一つに過ぎないと結論付けた。

 ▼終焉

 この結果、超能力者達の研究に携わった科学者達もマスメディアの攻撃対象になったため、ついに研究者達は「千里眼は科学に非(あら)ず」という見解を公表した。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなった。
 結果、「千里眼」「念写」の真偽が明かされる機会は失われた。
 同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となった。
 千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末であった。
 福来は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職。その後、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は千鶴子や郁子の時のような科学的な公開実験ではなくなり、また福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味の事を公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなどオカルティズムへの傾斜を加速度的に深めて行くこととなる。

 関連項目 ー 高橋貞子 (超能力被験者) ー

 高橋 貞子(たかはし さだこ)
(生没 : 1886年〈明治19年〉〜 不明)
日本の明治時代から大正時代にかけての人物。
 岡山県和気郡和気町出身。
 超心理学者である福来友吉に、透視・念写能力を持つ超能力者として協力し、超能力実験の被験者となった人物である。

高橋貞子(国会図書館所蔵『透視と念写』より)

 ホラー小説および映画作品『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来、または山村貞子のモデルとの説もある。
 明治末期に超能力者とされた御船千鶴子、長尾郁子らと並んで紹介されることも多いが、2人と比較すると生涯についての資料に乏しく、謎が多い。

 《経歴》

 岡山県和木郡和木町で、二男二女の末子として誕生した。
 幼少時より無口で、静かな場所でもの思いにふけることを好んだ。
 他人に対しては不愛想である一方で、困っている人には手を差し伸べずにはいられない、同情心の深い性格であった。
 感受性が強く、気持ちの起伏によって吐血、発熱、痙攣といった生理的な変調をきたす一面もあった。
 また、父が日蓮宗の熱心な信者だった影響で、貞子もまた日蓮宗への篤い信仰心を抱いていた。

 ▼夫・高橋宮二のもとでの実験  

 貞子の夫・高橋宮二は超心理学の専門家ではなかったが、独自に精神修養のための呼吸法を研究しており、貞子も彼に倣ってこれを実践しているうちに、精神統一の方法を学んだ。
 宮二はこれを通じ、貞子に霊的能力があると感じたという。
 宮二が貞子の能力に気づいたのは、奇しくも長尾郁子の初の念写実験が行われた1910年(明治43年)11月12日とされ、夫妻は当時、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現・東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生活していた。
 福来の著書『透視と念写』によれば同日、貞子は宮二に、自分の手にした火箸がひとりでに火鉢の上を動いて「清」の字を記したと告げた。
 宮二はウィジャボードを試したところ、「貞子は清原千鶴子(御船千鶴子のこと、清原は千鶴子の義兄の姓)のように千里先を見通す」と出た。
 これにより宮二は貞子に透視実験の提案をした。
 同月より、字を書いた紙や物を箱に入れて透視するという方法で、20回以上にわたって実験が行われた。
 この経緯は福来の『透視と念写』にまとめられており、貞子はことごとく透視を成功させたとある。

 ▼福来友吉のもとでの実験

 当時、貞子たちは鵜澤總明の邸宅内の一戸に住んでおり、鵜澤が福来と面識があったことから、鵜澤の紹介を通じて福来が貞子に関心を示し、福来のもとで実験の行われる運びとなった。
 この実験では、貞子は精神統一の後、あたかも別の人格が宿ったかのような言動で透視や念写を行った。
 これが御船千鶴子や長尾郁子と異なる大きな特徴であり、福来はこの別人格を「霊格」と呼んだ。
 1913年(大正2年)3月2日の最初の実験では、高橋宅の近くの医師の家で、久保良英、後藤牧太、桑田芳蔵、今村力三郎らの同席のもと、福来が持参して隠し持っていた写真乾板に念写を行うことが試みられた。
 しかし、福来は12枚の大きな乾板を用意したにも関わらず、貞子は「昨夜の夢で乾板が5枚と知っている」「5枚の小さな乾板」と、違うことを言った。
 念写の結果も、福来の乾板へは成功せず、すでに医師宅にあった別の乾板に感光していた。
 福来は、貞子の能力は福来の方ではなく、その医師宅の乾板の方へ向かったものとも解釈したが、この実験に学術的価値はないと認めざるを得ず、第1回実験は失敗と見なされた。

 翌月の4月27日には第2回実験が、福来の自宅で行われた。
 福来は新品の乾板12枚から3枚を抜き出し、紙で何重にも包み、さらにボール箱に入れて封をして用意し、信頼のおける書生に監視させておいた。
 夜6時頃に貞子が福来宅を訪れ、「妙法」の2字を念写する旨を告げた。
 夜8時半頃より、久保と高橋穣(心理学者)が立ち会いのもとで、実験が始められた。
 この結果、3枚の乾板の内の1枚に「妙法」の2字が感光していた。
 5月10日には、第3回実験が行われた。
 貞子はこの3日前に頭痛を患い、福来より催眠術による治療を受けており、その催眠状態において「次の実験では『天』の字と自分の指3本を念写する」と告げていた。
 実験当日、福来は前回同様に、新品の乾板を包装した上に封をして用意しており、久保、後藤、桑田、井上哲次郎、筧克彦が立ち会った。
 この実験では、貞子が前もって告げていた「天」の1字と自分の指3本の他、「金」の字や、丸い形、サンゴ礁、小さな丸い点の感光が確認された。
 福来が貞子に、前もって宣言した内容以外の感光内容について尋ねると、貞子はその記憶はまったくないとのことであった。
 福来は、長尾郁子の実験でも同様のことがあったため、貞子の潜在観念が念写に現れたものと解釈した。
 福来はこれらの実験結果をもって、貞子の透視や念写能力を事実と確信するに至った。
 宮二は福来を深く信頼し、貞子を学会研究のために献上することを宣言した。

 ▼実験の終焉

 これらの貞子の実験結果は、福来により御船千鶴子、長尾郁子の実験結果と前述の彼の著書『透視と念写』(1913年)として出版されたが、逆にこれは「迷信を増長させる」として、多くの学者たちの反発と批判を招いた。
 福来はさらに貞子の実験に立ち会う学者を求めたものの、これ以降、学者陣は福来に関心を示すことはなくなった。    
 かつて福来の超能力実験に懐疑的だった物理学者の山川健次郎らへの再挑戦として、公の場で貞子の超能力実験を行うことも試みられたが、立ち会う者は皆無であり、この試みも失敗に終わった。
 孤立無援となった福来に代り、宮二は山川に実験の協力を仰いだが、山川は多忙などを理由として取り合わなかった。
 宮二はこれを不誠意な対応と受け止めて憤慨し、今後一切の学者の協力に応じないことを決断した。
 やがて福来が休職命令を受けると、貞子たちは自分たちの実験が福来に害をおよぼしたとして責任を感じ、福来への詫びのけじめとして夫妻ともども東京を去り、1915年(大正4年)に、郷里の岡山へ転居した。
 こうして貞子は公の場で能力を披露することのないまま、念写実験を終えることとなった。 宮二によれば、岡山での貞子は心霊治療を行っており、周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば渡航して治療していたとされる。
 こうした治療行為は、1925年(大正14年)まで続けられていた。
 宮二が1933年(昭和8年)に出版した『千里眼問題の真相』によれば、貞子は同1933年頃まで岡山にいたことが記録されているが、その後の記録は未確認であり、晩年の様子や没年も定かではない。

     〔ウィキペディアより引用〕