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CTNRX的事件File. ♯008ー⑤

2023-09-11 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■アメリカ同時多発テロ事件

 《ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害》

 イスラーム過激派組織であるアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事で同国の報復を受け、その指導者ウサーマ・ビン・ラーディンがアメリカ軍によって殺害された事件である。

 《概要》

 アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、アメリカ合衆国連邦政府によって、2001年9月11日(以下、日付・時間はいずれもアメリカ東部夏時間 (EDT) )に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、それ以来アメリカにとってビン・ラーディンを抹殺することが一つの大きな目標となった。
 アメリカ合衆国による大規模な捜索にもかかわらず、拘束することができないまま10年近くが経過したが、2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によってウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認され、2001年以来続いてきた対テロ戦争は一つの節目を迎えることとなった。
 複数のメディアが、深夜の時間帯にもかかわらず、ビン・ラーディンが死亡したニュースを一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領がホワイトハウスから会見を行い、ウサーマ・ビン・ラーディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約60km北東にある地方都市アボッターバードの潜伏先と見られていた豪邸で、アメリカ軍の作戦により殺害されたことを全国テレビ中継で公式発表した。

 《経緯》

 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、アメリカ合衆国連邦政府はアフガニスタンのターリバーン政権に対して、首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同年10月7日にアフガン戦争が開始された。
 ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの国境地帯にある山岳などを捜索してきた。しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった。
 対テロ戦争を始めたアメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュ政権が、2009年1月にバラク・オバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、アメリカ中央情報局 (CIA) がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されているハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。
 2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った。
 これと相前後して、情報を得たレオン・パネッタCIA長官は、統合特殊作戦コマンド司令官であったウィリアム・マクレイヴン海軍中将に連絡を取った。
 アボッターバードは、パキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居は、パキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、英国放送協会(BBC)はパキスタン軍統合情報局(ISI)がビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じている。
 この情報はオバマ大統領にも報告された。

 これはアメリカ合衆国連邦政府内でも、限られた人間のみが知りうる最高機密情報として取り扱われた。
 その後も調査は続き、2011年3月中旬から4月28日にかけて、担当者とオバマ大統領のみが出席した国家安全保障会議が5、6回開催される。
 オバマは5回目の会議翌日の4月29日に、作戦決行の許可を出した。
 作戦名は「ネプチューン・スピア(海神の槍)作戦 - Operation ''Neptune Spear''」とされ、作戦の中ではビン・ラーディンの名はコードネーム「ジェロニモ」に置き換えられた。

 《潜伏先》

 ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅は3階建ての豪邸で、2005年頃に完成した。敷地の周辺は3メートルから5.5メートルもの高さの有刺鉄線に覆われた塀に囲まれており、豪邸に行くための通路には二重ゲートとなっているほか、入り口には見張りがつけられ、外部から内部の様子を容易に見えないようにする工夫がなされていた。
 周辺の家の約8倍もの広さを持ち、その価値は100万ドルを越えるとも言われる。
 なお、邸宅はイスラム過激派に聖地化されることのないよう、2012年2月25日より取り壊しが開始された。



 《ネプチューン・スピア作戦》

 2011年5月2日、アメリカ軍による作戦が開始される。目的はあくまでビン・ラーディンの殺害であり、生け捕りは想定されていなかった。
 一部報道によれば、これに参加したアメリカ海軍の特殊部隊 、Navy SEALs を中心とした約15人(25人説もあり)のメンバーは、SEALから派生した対テロ特殊部隊「DEVGRU」(デヴグル:海軍特殊戦開発グループ:旧SEALチーム6)のメンバーであったとされている。
 また、アメリカ陸軍のデルタフォースもDEVGRUの支援にあたったとされている(ビンラディンはネプチューン・スピア作戦前から追跡されており,過去にデルタフォースが主導で行った捕縛作戦もある)。
 隊員達は、情報担当のCIA要員が同乗するステルス型UH-60 ブラックホークヘリコプター2機とCH-47 チヌーク2機に分乗して(これらのヘリは「ナイト・ストーカーズ」の通称で知られる第160特殊作戦航空連隊が操縦を担当したとされる)、ビン・ラーディンと、その家族がいると推定された建物の敷地内に、ロープをつたって降下、建物を急襲して2階・3階部分には午前1時ごろ突入した。
 側近が応戦したが、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧した。
 ビン・ラーディンは武器を持っておらず、応戦したともしなかったとも報じられ、頭部と胸部を撃ちぬかれ死亡。米軍は遺体を収容した。
 他にビン・ラーディンの子息と思われる20歳の男性(後に、ハリド・ビン・ラーディンと判明)、また別に兄弟2人の男性と1人の女性も死亡。
 女性は夫人の1人と報じられたが、後に「別人で夫人は負傷した」と訂正された。
 アメリカ軍側に人的損害は出なかった。
 その死はパキスタン政府当局によっても確認されている。
 作戦後、妻のハイリア・サバルを含む親族複数名が拘束・連行された。
 また、後に後継者となるハムザ・ビン・ラーディンは確認されなかった。

 作戦中、ホバリングしていたアメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプター1機が揚力を失い墜落したため、爆破処理されるというトラブルはあったが、すぐに代替のチヌーク・ヘリコプターが駆けつけ、プラン変更を行うことで作戦は続行された。
 作戦は、アメリカ本国でもホワイトハウスのシチュエーションルームでオバマ大統領のほか、バイデン副大統領、ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、マレン統合参謀本部議長らによって同時進行で見守られており、またCIA本部の会議室でも、パネッタ長官らがリアルタイムで監視していた。
 いかなる方法で監視していたかについては公開されていないが、一部では映像が生中継で流れたとも報じられている。
 作戦成功の報をパネッタより受けたオバマは ''We got Him'' (奴を捕えた) と叫んだという。

 アメリカ合衆国は、この作戦をパキスタン政府に事前に通告することなく行い、終了後に報告した。アメリカはパキスタンだけでなく、他の国とも情報は共有しなかったとされる。
 このためパキスタンのムシャラフ前大統領は、アメリカによる一連の作戦は主権侵害であると非難している。
 ビン・ラーディンの死亡は、アメリカのCNNによって一報が伝えられ[34]、全世界のメディアも追随することとなった。
 その直後の5月1日午後11時半過ぎからオバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで深夜時間帯としては異例の記者会見を行い、ビン・ラーディンを殺害したことを正式に発表。全国テレビ中継を通じて ''Justice has been done'' (正義はなされた) と宣言した。
 このニュースが伝わると首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が押しかけて歓喜の声をあげた。

 《ビン・ラーディンの殺害の反響》

 ビン・ラーディンの殺害自体については歓迎する声明が次々に発表されたがテロ攻撃の可能性がなくなったわけではなく、各国の警察・軍事組織は報復攻撃を警戒し、国際刑事警察機構も各国に向けて警戒するよう呼びかけた。

 ❖各国の反応

 ✔アメリカ合衆国

 同時多発テロに直面し、ビン・ラーディンを追ったブッシュ前大統領は殺害を極めて大きな功績であると評価。
 崩壊した世界貿易センタービルのあるニューヨーク市のマイケル・ブルームバーグ市長は殺害の知らせをニューヨーク市民は10年間待っていたと評価。
 国民からも歓迎する声があがった。
 一方で国務省はアメリカに対する報復の可能性を懸念し、国外のアメリカ人に警戒を呼びかけた。
(以下アルファベット順)

 ✔ブラジル

 パトリオタ外相は、あらゆる形態のテロを糾弾すると同時に、今回の事件が世界で「さらなる暴力の拡大を引き起こさないこと」を期待すると表明した。

 ✔チリ

 上院外交委員会のトゥマ委員長は、パキスタンの主権を無視した今回の米国の作戦について「国際法の有効性をないがしろにするもの」と批判した。

 ✔中国

 外交部は対テロ戦争におけるポジティブな進展であると殺害を評価。
 同時に中国もテロの被害者であると付け加え、これは新疆ウイグル自治区における独立運動を念頭においているとみられている。
 また、中国の友好国でもあるパキスタンがビンラディンを匿っていたとする疑惑が持ち上がっていることに関して「パキスタン政府は確固たる決意でテロと戦っている」と擁護した。

 ✔フランス

 ニコラ・サルコジ大統領は、テロリズムが歴史的な敗北を喫したと表現。

 ✔ドイツ

 アンゲラ・メルケル首相はビン・ラーディンが殺害されたことで安堵しているとオバマ米大統領に表明。

 ✔イギリス

 デーヴィッド・キャメロン首相は世界に大きな安心感をもたらすと殺害を評価。
 一方でウィリアム・ヘイグ外務英連邦大臣は報復を懸念し各国にある大使館に警戒を呼びかけた。

 ✔インド

 外務省は殺害が対テロ戦争における勝利の記念碑になったとして歓迎。

 ✔イラク

 政府の報道官は、「多くのイラク国民を殺害し、国を破壊している組織の指導者の死に安堵している」と歓迎した。

 ✔日本

 菅直人内閣総理大臣は対テロ戦争における顕著な前進であると歓迎。

 ✔パレスチナ

 サラーム・ファイヤード首相は非常に画期的な出来事であると表現。

 ✔ロシア

 大統領府は殺害を大きな成功と歓迎。

 ✔ウルグアイ

 アルマグロ外相はビンラディン容疑者の殺害が「国際テロへの打撃」となったと述べる一方、同容疑者は「司法を通じて罪を償うべきだった」と指摘した。

 ✔ベネズエラ

 外務省は、同時多発テロの被害を受けた米国民に連帯を表明する一方、米国政府がとった方法は野蛮で不法なものだと批判した。

 ✔イエメン

 アリー・アブドッラー・サーレハ政権、反政府勢力共に殺害を歓迎。
 イエメンは中東諸国の中でもビン・ラーディンの殺害に対して公式なコメントを早い時点で発表した数少ない国家となった。

 ▼経済に対する影響

 テロに対する懸念が軽減したことから各国の株式市場は軒並み上昇した。
 東京株式市場は2011年3月11日の東日本大震災以来の終値1万円台回復を見せた。
 またアジア市場における原油先物相場が1%下落した。
 フランスのクリスティーヌ・ラガルド経済・財政・産業大臣はアメリカにおける消費者心理が改善し、景気拡大に寄与するとの予測を示した。

 《アメリカ同時多発テロ事件
          調査とその後》

 ▼サウジ政府の関与疑惑

 オバマ政権は2016年7月、米捜査官のダナ・レゼマンとマイケル・ジェイコブソンがまとめた「ファイル17」と呼ばれる文書を公開したが、その中には、サウジアラビアとハイジャック犯を結びつける ワシントンD.C.のサウジアラビア大使館付属のサウジアラビア諜報員の疑いがある人物を含む、3ダースの人物を名指しで挙げたリストが含まれていた。

 ▼対テロ戦争

 ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻を行い、さらに2002年に国際テロ組織とならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。
 これを元に、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。
 この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、日本・イギリス・フィリピン・スペイン・イタリアなどのアメリカ合衆国同調国と、フランス・ドイツ・ロシア・中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。
 その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。

 なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、民主党議員のバーバラ・リー僅か1人だけであった。

 またブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁政治が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。
 アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。
 さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。
 市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監、自白を取る為の拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、警察国家化傾向が国内の一部市民団体から批判されている。

 ▼WTCコンプレックス跡地の再開発

 ワールドトレードセンター・コンプレックスの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。
 しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たなオフィスビル・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。
 当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた建築設計競技の結果、アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンドの案が採用された。
 2004年7月、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。
 敷地内にはツインタワー北棟・南棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に1 ワールドトレードセンターに名称変更)と名づけられ、アメリカの独立した1776年にちなんで、1,776フィート (541 m)の高さとなる。
 2014年11月3日開業。周囲にはタワー4・タワー7が建設済み、タワー2・タワー3・タワー5が建つ予定。

 一方、崩落したワールドトレードセンター・コンプレックスの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。
 遺体はDNAすら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。
 しかし、2005年3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。
 鉄骨類は屑鉄として再利用のためインドへと輸出された。

 ▼アメリカ同時多発テロ以降の
     アメリカ国内でのテロ状況

 2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2022年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。
 この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。
 しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。
 それは2009年12月25日のノースウェスト機テロ、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。
 しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。
 したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。

 ▼戦死兵と自殺兵

 ブラウン大学が2021年6月に発表した調査によると、9・11以降、アメリカはアフガニスタンやイラクへの軍事作戦を展開し、この一連の軍事行動(2001年から2021年の20年間)で、戦死した米兵は7,057人であるのに対し、戦地から帰国した後にPTSDなどを発症して自殺した元米兵は、4倍以上の3万177人にのぼることが分かった。

 〔ウィキペディアより引用〕




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