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テントと大道芸人とムーランルージュと ♯15

2023-04-20 21:00:00 | 自由研究

 ■関連項目 Ⅱ ー マタ・ハリ ー

 離婚したマルハレータはオランダへ帰国し、間もなく職を求めフランスのパリへ渡る。だが、なかなか恵まれた仕事に就くことが出来ず生活は困窮していく。ある日、友人のパーティーの余興で見よう見まねのジャワ舞踊を披露するとそれが受け、ダンサーの話が持ちかけられる。1905年、エキゾチックな容姿を活かし、「インドネシア・ジャワ島からやって来た王女」ないしは「インド寺院の踊り巫女」という触れ込みでダンサーとしてデビュー。「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じた。ショーは好評を博し、興行的にも成功を収めた。この成功を機にマルハレータの踊りは話題となっていく。最初は小さなサロンで少人数の客を相手に踊りを披露する程度であったが、やがて活動の場は欧州中に広がり、遂にはイタリアのミラノ・スカラ座で公演を果たすなど、一躍人気ダンサーとなった。この頃から、より観客に受けるよう東洋的な「マタ・ハリ」の芸名を名乗り始める。なお「マタ・ハリ」とは、「太陽」あるいは「日の眼」を意味するムラユ語(マレー語またはインドネシア語)に由来する。
 彼女はまた、多くの高級士官あるいは政治家を相手とする高級娼婦でもあった。「マタ・ハリ」ことマルハレータは、数知れないほど多数のフランス軍将校あるいはドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、国際的な陰謀の道具となっていった。 1917年2月、彼女はフランスにおいて二重スパイとして第一次世界大戦で多くのドイツ人、およびフランス人兵士を死に至らしめたとの容疑で起訴された。その逮捕は、ドイツの在スペイン駐在武官がマタ・ハリを暗号名「H-21」なるドイツのスパイとした通信がフランスによって解読されたことからなされた。しかし、2017年に公開された情報によれば、マタ・ハリがフランス軍およびドイツ軍の諜報要員であったことは判明したが、彼女の諜報活動は非常に低質なものであり、フランス・ドイツのいずれの陣営に対しても有意義な情報をもたらしたという証拠は一つも見つからなかった。また、彼女の諜報活動が具体的にどのようなものであったかについても、報酬欲しさに功を奏しようとしたものが多く、具体性及び実効性は低かったことが判明している。 当時、戦況はフランスにとって不利であり、政府は戦争による甚大な被害の責任の所在を追及されていた。前年のソンムの戦いでも、膨大な損害を出しており、政府に対する国民の不満は頂点に達していた。そのため、フランス政府にとって全ての軍事上の失敗をマタ・ハリの責に帰することは大変好都合であり、輸送船がUボートに沈められたのも彼女の働きにされた。マスコミもフランス軍の作戦失敗及び大敗の原因をマタ・ハリに押し付けるように報じ、彼女をかばうことはなかった。フランス・ドイツの両国民も、かつてのスターだったマタ・ハリを売国奴として非難した。 大戦中の1917年7月24日、彼女は有罪となり死刑判決が下された。同年10月15日、サンラザール刑務所にて銃殺刑に処せられた。処刑前、マタ・ハリは泰然自若としており、気付けのラム酒一口は受けたものの、目隠しならびに木にくくりつけられることは拒絶したといわれている。

     〔ウィキペディアより引用〕



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