
午後母に会いに病室に行くと母の顔はこちらに向いていて、左手を少し私の方に伸ばして来たように思った。
手を握っても特に握り返す反応がないので、元の位置に戻すとやはり手を私の方に伸ばしてくる。三度繰り返して母が私に手を動かして応えているのだと分かった。「有り難う」と母に言い頬を撫でてやると安らかな表情になったように思えた。
2時間程いて、ナースステーションの看護師に「一旦帰って車で来ます。私物を少しもって帰るよ。ちょっとでも身軽にせんといかんからね」というと彼女は「そんな、にこやかに仰らないでください、私は胸が痛いです。」と応えた。
家に戻り病院に取って返して下着類、眼鏡、歩行器等を地下の車庫まで二回に分けて運んだが、折りたたみの見慣れない傘が置いてあった。ステーションに行き、「これどなたか他の方の傘ですよ」と言うと「でも奥の方に落ちていたんです。」というので「見舞いの方は一人しか来ていないし、その方は傘は持っていなかった。うちの母、ここに入院する時自分で傘さしては入ってこなかったでしょ(笑)」「そうですね~ではお預かりします。」
という事で母の歩行器は一足先に我が家に帰って来た。右に着いている赤い札はJALの取り扱い注意のタグシールである。思い入れが有ったのだろう、母はこの歩行器のタグをとても大事にしていた。受付カウンターで新しいタグが着くのを必ず確認していたし、普段使いでも外れそうになると又つけ直していた。
足が不自由になる前から通算するとどれくらいJAL便に乗っただろう。私の転勤先には年に10往復位、伊丹から一人で搭乗手続きをして、鹿児島時代も函館時代も羽田で乗り継ぎしてやって来て10日くらい居て「私は明日帰るから」と帰っていく半同居生活をかれこれ20年近くつづけた訳だから、多分一人で500便以上、そして私と一緒にも200便位は乗っていると思う。そんな彼女の晩年のお供を一足先に帰還させた。病院でも母のトイレ通い、そして私を母が見送ってくれる時に役立ってくれた歩行器、お帰り。
札幌のおでん「かつや」が今月で閉店するという新聞記事を読み、驚いて久々にこのブログを訪問したところお母様のことを知りました・・・
ブログを読んでるうちに涙がでてしまって・・こんな孝行息子をもって幸せなお母様だと思います。
それは寂しい話だね。札幌に行く動機が一つ減ってしまうね。
母の事は、何年かのち自分がどんな心持だったのだろうと振り返るよすがになるので書き留めています。誰もが通る路です。
何年前だろう、最後に会って別れるとき「もう会う事は生涯無いだろうね」と大通り公園で言った気がする。
その通りかもしれないし、お互い元気であれば又会う機会があるかもしれんな。
いずれにせよ昔の函館の仲間との愉しい思い出は忘れません。元気で暮らせよ。