ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

梅若六郎家の名品と能装束展レポート 

2023-05-11 | アート
リーガロイヤルホテル大阪・ギャラリーで5/14まで開催の展示は、人間国宝、梅若実桜雪先生の梅若家に伝わる能装束を目の前で鑑賞できる特別な展覧会。企画はダンスウエスト代表、芸術文化プロデューサー、西尾智子先生。実は、コロナ下で全く、お会いしてなくて、ご案内を受けて、三年ぶり?本当に久しぶりにお目にかかれました。それもとても嬉しいことなんですが…展示の素晴らしさに圧倒されたというか、色やデザインが「歌」のように降りてくるというか、この場にずっといたい…と思うような展覧会は滅多にないんですが、そういった類のものでした。何という機会をいただいたものか…梅若先生、西尾先生には感謝しかありません。


いえ、案内のハガキをいただいた時から、その予感はありました。「能装束 厚板萌黄地二ツ巴に雲」とあるその装束は、濃い緑に大きな紋のデザインが鮮やかで、「紋」というよりは、まるで現代アートの風情。形の面白さ以上に、色の配置の良さといったら…もう何とも言えません。緑の地に赤や金。普通、「赤と金」の組み合わせって、難しいと思うのですが、この装束の赤い雲の赤、朱色といった方がいいかも。何しろ見たことない、朱色なんです。江戸時代のものなので、当時の色がまま、見えているとはいえないにしても、年月を重ねて更に豊かな朱を見せてくれるというか、私には不思議と桜の色が入っているかのようにも見えました。ただの赤ではない、桜色や淡いグレーを内に含むような。
まさに実桜雪先生が、メインの展示装束に選ばれたにふさわしいものでした。
その装束を背景に、梅若先生と弟子の川口晃平さんが解説トークをするという、これまたスペシャルな時間が続きます。
「展示は今回が最後、だからこそ、点数を絞ってお見せする価値があるというものを選んだ。」と梅若先生。…ああ本当に見せていただけて良かった…とは私の心の声。お二人の話は展示の「能面」の話から始まりました。


・自分にとっての「面」とは…。
梅若家に伝わる国宝「伝山姥」。その写しが先の装束の隣に展示されていました。すごいというか、顔!口の開け方がすごくて、歯茎が見えるような…。梅若家では「山姥」でなく、「シンジャ(真蛇)」と呼ばれていたそうです。国宝の本物は室町時代に作られたとのこと。そこから面の写しの話になり、能面師、堀安右衛門のこと、そして良い面をつけることの、誉れと怖さを話されました。このあたり、わくわくしながら聞いたのですが、以下、先生の言葉より。
「いい面や装束をつけて舞台に出るのは誰もが夢みること。良いものを身につけるのだから、そもそもよく見える。ところが、ダメに見えることも多い。若いころ、熊野の写真をとった時、初めてその面をつけたが、写真があがってきた時、まるで面が死んでいた。」
梅若家には、赤い袋に入った「若女」と緑の袋に入った「若女」があるそうです。「面が死んでいた」その面が「赤い袋」の若女。それから、先生は何年かこわくて、つけられなかったとも。
「あなたには私は使えませんよ、と面が言っているような。体から面が離れている、面をつけているのにつけていない。」
一方、緑の袋の若女はつけていて安心でき、よく使われるとのこと。
「面はこわい。能面をつければ、舞台がそれで成立するので。良いものも悪いものも、「つけて」知る。(面をつけるということ、面そのものを)自分の方へひっぱっていけるかどうか。」
この面の話には本当に引き込まれました。身につけるものに、自分が試されているということ。それが「本物」であればこそ、自身も「本物」にならねばならぬ、そんな能役者としての矜持と誇りを感じる内容でした。
また、以下は、これも展示されていた面、「十六中将」について先生は、「元々は若くして亡くなった敦盛など、少年の貴公子のものだが、「融」にも使っている。「融」は月の光で舞うので、その月光の明るさと暗さを両方持っているのが、この十六中将。」と言われました。すると川口さんが「若い精霊のニュアンスですね。」と返されました。
お話を聞きながら、どの面を使うのか、面の持つ独自の詩情を、その詩の観念をまとい、私たちが到底会えない、歴史をさかのぼる人々を、今という時間に生き生きとリアルに舞台で見せてくださっている、梅若先生の感性とセンス、ものすごいなあ、と感じました。能に明るくない私ですが、演劇の戯曲を書き、演出をする時、会ったことのない「顔」に会ってみたいものだと、稽古しながらいつも思っているのですが、「面」の力、「顔」の力をつくづく感じるお話でした。先生の「十六中将」の面の「融」、拝見したことがないですが、なんだか、自分の中に妄想の舞台が見えそうです…。



・「能装束 厚板萌黄地二ツ巴に雲」のこと
先生「これはどこにもない。当家のみ。写しも出ない。」川口さん「(あまりに有名だから)写しようがないです。」
この話を聞いて、装束も写しが?!とは素人の私のびっくり。装束の再現は技術も伝わっていなくて難しいのと、とにかくすごい費用がかかるということ。こういうところに国が援助すべきともいわれました。
川口さん「二つ巴の雲はエネルギーを象徴しています。輪宝は魔除け。地が(何もなくて)萌黄色のままがとても良い。」
先生「この衣装を見るたび、梅若家に生まれてよかったと思う。けれど、貸してくれという人がいないんだ。」
川口さん「みんな知っている能装束で、先生の印象があまりに強く、とても自分など着てもダメだと思うんでしょうね。」

先生「装束と勝負しているという感じ。良いものを着ているとものすごく疲れる。」
先の面とつながる感覚、いかに身につけるものが役を引き立たせ、同時に、自分を試しているか、といった内容のお話。美術品をまとうということ、まさに「能」ならではですよね。でも、その美術品の中にリアルな人間がいて、生身の肉体と声が面や装束の歴史的時間を背負って一期一会の「今」に存在する…と思うと、なんだか果てしない…すごい世界です…。




さて、展示の方に戻ります。今回、腰帯と鬘帯が、なんとも豪華に並べてありました。舞台では、このような色や模様なのだということがわからない分、今回、集中して見入ってしまいました。「素晴らしい」としか言いようがないものばかり。
目をひかれたのは、紺地に鳥があり、まるで現代アートの山?のような腰帯があり、川口さんに解説していただくと、「海に千鳥と網」とのこと。
ああ、まさにそう、海の景色!なんですが、ものすごくモダンで…というより、私の頭の中に浮かんだのは、二十世紀を代表する画家の一人、パウル・クレー。「あ、ここにクレーがいる!」なんて、一人わくわく喜んでいました。しかし、この腰帯を作られた方は、江戸時代ですから、クレーよりももっともっと前ですね。



こうした装束の模様やデザインを通して、日本は四季が豊かであるということを、今さらながらに感じました。花鳥風月の形や色を装束に閉じ込めた、名も伝わっていない製作者たちの、センスと技が、梅若先生の家に伝わり、「今」輝いているということ。至福としか言いようがありません。
そして、装束や面のお話から、能は「自由」であることも知りました。もちろん、約束ごとはあるけれども、面や装束の可能性や美しさを今に伝えるのは、自由で開かれた素晴らしい芸術家、梅若先生あってのことなのだなあ、とつくづく…。
先生、どうぞこれからもお元気で、お話をまたお聞かせください。弟子の川口さんの感度の高いコメント、わかりやすく得るものが多かったです。
お二人ともお疲れ様でした。
その先生と共に歩み、この度の企画展を主催された、西尾智子先生、いつもパワフルで美しく元気!本当にありがとうございました。
最後に、能に不勉強な私も、装束や面を通して、「すごいものをみた」このことの意味をこれから考えていきたいです。