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ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

なら学談話会~喜夛隆子著 『わたしの額田部』から

2016-12-27 | 短歌
12/26、奈良女子大学で行われた「なら学談話会」の講師、喜夛隆子先生のサポートとして参加しました。女子大文学部の寺岡伸悟先生にお声かけいただきました。なら学プロジェクト」の一貫である、この談話会は「学内スタッフによる研究だけでなく、スタッフ自身も「なら学」の学びを広げるため、学内外の研究者との交流し、さらに学生や地域の方ともともに学ぶ場」(女子大HPより)とのこと。参加された皆さんは、大学や民俗学の専門家の方でしたが、喜夛先生のお話は、実際の暮らしの歴史であり、興味深く聞いておられました。
話は飛びますが、喜夛隆子さんは、歌人として『系統樹の梢』他3冊の歌集を出され、私の所属する短歌結社「ヤママユ」の編集委員であり、また民俗学の視点から『わたしの額田部』『フォークロアの畦道~前登志夫のうたとともに』を出版されています。私が前先生の歌の講座で初めて参加した時、隣の席が喜夛先生で、そこからのご縁です。(このあたりの経緯は、小野小町事務所HPをお読みください。http://komachi-office.saloon.jp/?page_id=251)
喜夛先生には、今年出版した、歌集『ラビッツ・ムーン』はじめ、本当にお世話になっています。私が図々しく、母のように、姉のように?!頼ってしまうのは、喜夛先生の独特の空気が好きなのだと思います。それは喜夛先生が理系出身である!というところからくる空気かもしれません。
民俗学の浦西勉先生が、喜夛先生の著作『わたしの額田部』について言われたこともまさにそうでした。理系出身であるということが、客観性や観察眼を持つということ。女性歌人では珍しい存在かもしれません。
さて、「なら学談話会」は、喜夛先生『わたしの額田部』から、実際に先生が関わった、額田部の祭りの様子や、伊勢講の話を、当時の映像を紹介しながらのお話でした。
先生は堺から、大和郡山は額田部に嫁がれたのですが、代々の医師のお家で、古いものが沢山あったとのこと。県立民俗博物館にも寄贈されたそうですが、古文書類はまだ沢山おありのようで、参加の先生方も興味をもっておられました。
方言の話も出ました。富山大学から来られた、中井精一先生から、奈良の方言を楽しくまとめたファイルをいただき、とても嬉しかったのですが、方言に関して触れながら、喜夛先生が言われたことが印象に残りました。言葉が消えるということは、人間の微妙な感情も消えてゆく。言葉が「白」か「黒」かでなく、その間にあるいろんなものを表現していたのに。それがなくなっている現実は残念、とぃつた内容であったかと思います。「民俗」はそうしたことを振り返り、はたと立ち止まる機会になると、今日のお話を聞いて強く思いました。喜夛先生のまとまったお話を聞く機会をいただけて、有り難い会でした。
余談ですが、奈良町にぎわいの家にある赤、白、青の立派な蚊帳は、喜夛先生から寄贈していただいたものです。昨年、この蚊帳をNHKが取材しました。喜夛先生の家の大きな長持からその蚊帳を取り出すシーンをカメラにおさめ、放送されました。その蚊帳をにぎわいの家では夏に吊っています。子どもたちは見たことのない「蚊帳」で盛り上がっています。また年配の方は懐かしく、喜ばれています。
その蚊帳を歌った、奈良町にぎわいの家のために作って下さった、喜夛隆子作、二十四節気短歌を紹介しましょう。

蚊帳に一つほたる放ちてほの青き夢見る子ども小暑の頃か

蚊帳の中に蛍を放ち、独特のささやかな光を感じながら、夢うつつに寝入る子ども。「ほの青き」は、蛍の光でもあり、幼い時間を刻む子どもの夢の色でもあります。蚊帳という不思議な空間の詩情がよく伝わる、素敵なお歌です。

最後に、1/14(土)午後2時から、奈良町にぎわいの家で喜夛先生をお招きして「はじめて短歌」講座を開催。はじめて短歌を作る方の会、ぜひご参加くださいね!

    なら学談話会

 NHKで紹介された喜夛先生の蚊帳(奈良町にぎわいの家)






12/8朝日新聞夕刊「都ものがたり」から~歌人・前登志夫のこと

2016-12-10 | 短歌
吉野から歌を発表し続けた、日本を代表する歌人、前登志夫。先生の特集が先日の朝日新聞に掲載されました。(デジタル版はこちら→http://www.asahi.com/articles/DA3S12697492.html)
全国版の「都ものがたり」というシリーズです。これまで「奈良」枠で取り上げられたのは、法隆寺で漫画家の山岸涼子(『日出処の天子』はリアルタイムで読み、盛り上がりました!)、薬師寺ではこれも漫画家の手塚治虫(『火の鳥』は奈良が舞台!)…そして吉野が前登志夫!でございます。「都ものがたり」の「都」を考える時、「吉野」をと考えて下さった朝日新聞の担当の方。吉野は南北朝もそうですが、なんというか、桜の都?!にふさわしい、歴史と深さが単に「首都」的な「都」というより、心の「都」的なものを感じたりする土地ですね。
さて、こちらの取材は急に決まり、実際に前先生のお宅への取材が11月末と慌ただしかったのですが、大雨で写真がとれず、次の日に出直して写真を撮られたとのことで、新聞の写真も靄でちょっとけぶった感じがしていました。ふわあと夢の中に山が漂うような感じでしょうか。
前登志夫は「今西行」と言われ、あの西行法師に重なる大きな人ですが、その西行は「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの望月のころ」(願わくば、桜の下で、如月は満月のころに死にたいものだ)と歌いました。如月というのは、今なら4月初め。前登志夫は、この歌の通り、まさに4月初めに亡くなりました。西行の思いと重ねた人生を全うしたわけで、この時期に私たちは師を偲んだ「偲ぶ会~樹下山人忌」を毎年、開催しています。
さて、この吉野の桜のイメージとは別に、先生にはもう一つ大事な吉野の「核」があります。それは「尻尾」。尻尾って何?って感じですよね。今回の記事は、こちらの「尻尾」からの前登志夫を探った内容になっています。掲載誌より紹介します。

「吉野の真の魅力の根源は生尾(せいび)の光につきる」と前は記す。「生尾」とは、「古事記」に描かれた吉野土着のしっぽが生えた神々。故郷の山に「超人的な神秘的な霊性」を感じ取り、単なる自然賛美でない前の歌の根底を流れる。」

さて、奈良では「記紀万葉プロジェクト」が続き、私も古事記を題材にファンタジーを2本書き、ラジオドラマとして放送しましたが、その古事記には、吉野の国つ神(土着の神)として、石押分之子(イワオシワクノコ)、井氷鹿(イヒカ)、贄持之子(ニヘモツノコ)が出てきます。このうち、イヒカは「井光」とも書き、「光る井戸から尾がある人が出てきた」という記述があります。先の前先生の「生尾の光」はここからくるものです。

あの美の目利きの御大、白洲正子は、前登志夫の著作『森の時間』について、「石押分之子(イワオシワクノコ)の神語り」と書き、それを前先生はとても喜ばれていました。お二人の対談(白洲正子著・『おとこ友達との会話』)からもわかりますが、先生は、こうした土着の神々の力を現代に甦らせた歌人であると思います。

ところが、「尻尾」というと、まるで動物で神様ではないというようなイメージもあるかもしれませんね。でも、それは「人間」を頂点とした文明のヒエラルヒーの中の話で、そもそも地球の時間で考えたら、「尾」のあるものたちが長年、この星を生きてきたのですから、そのほんの端っこに人間がいるのだし、そもそもは私たちは大きな顔が出来ないと、思ってしまいます。前登志夫の大きさは、おそらく、私たち人間の一瞬、点のような文明の時間など遙かに超えて、それ以前の長い生命の営みと、歌で交わり、その息吹を生き生きと、現代に伝えるところでないかと思います。1300年の歌の歴史と同時に、それ以前の時間をバーチャルでない肉体感覚をもって、歌に出来るというのは、山の仕事に実際に携わり、その大きな体で汗を流した、まさに「山人」の力によってでしょう。そこのところを、朝日新聞では「山の神々に魅せられ 根源問う」という見出しであげていました。

私たちの生きてきた時間軸を、大昔まで引き延ばして考えれば、まあ、もうちょっとゆっくり、となるのでは。若い人たちへ、前登志夫の山を見てほしいなと思います。









歌集『ラビッツ・ムーン』批評会

2016-12-01 | 短歌
私の所属する短歌結社は「山繭の会」と言い、歌誌『ヤママユ』を刊行しています。吉野から歌を発表し続けた、日本を代表する歌人、前登志夫が主宰した短歌結社というか「歌と民俗の集団」です。ヤママユは漢字の通り、「山繭」。蛾の「山繭蛾」のヤママユです。この蛾は光を紡ぐ、特別な蛾です。普通の蚕は白い糸をはきますが、ヤママユ蛾は、光合成をして綠色の糸を作ります。できた糸はさわやかな綠色、素朴な光沢の、なんとも良い色なのです。私はヤママユに入ってから、この光を紡ぐ虫のことを知りました。それから改めて、「ヤママユ」という言葉は、特別なものになっています。
さて、歌の集団のヤママユは、各地で歌会を開催しています。現在は、奈良、東京、大阪、京都、神戸とヤママユの各地のメンバーが集まり、前登志夫の研究と、自分たちの歌を批評し合う歌会をしています。私は、奈良歌会に参加しています。
その奈良歌会が中心になって、11/30、歌集『ラビッツ・ムーン』の批評会を企画してくださいました。いつもお世話になっている奈良歌会の皆さんに、私の大学の恩師であり、短歌結社「白珠」の撰者、そして国語学の専門家である、歌人の小谷博泰先生も来て下さいました。(小谷先生には大学の時、寺山修司で卒論を書かせてもらいました。今年、第九歌集!「うたがたり」を上梓され、歌も批評も学問も益々盛ん!)
さて、批評会は『ラビッツ・ムーン』の中から、好きな歌を五首選び、そこから感想や意見をいただくスタイル。
一番、票が集まった歌は

水のようなドレスが着たい月の夜 光目指して烏賊昇ります

ちょっとメルヘンな感じですが…烏賊は私には身近でこの歌となりました。かつて父は、烏賊漁に毎晩出航しました。船の上ではかなりの光をたき、それにひかれて烏賊は上がってきます。そこをとるわけです。なんだか烏賊には申し訳ないですが…。満月の夜は、明るいので、船上の電灯の効果は半減すると、父が言っていました。光に向かう烏賊はあの細長い形状が、水面をめざすので、独特で不思議な感じがします。月あかりにひかれて昇る烏賊の姿…水面を越せば死んでしまうけれど…そんな危うさを思いながら。

二番目は三首ありました。

ぬか床の釘はどこへやったかと祖母は時々夢で尋ねる
薪背負い山道何往復もした祖母の力は火を焚く力
火が水のにおいを連れてくるような蝋燭燃えるかまくらの中

祖母と火の歌です。明治生まれの祖母からは夜寝る前に、村にまつわる話や、家の話などいろいろ聞いたものです。民俗学の折口信夫にたしか「感染教育」という言葉をみたと覚えているのですが、つまり口述、口で伝えて感化していく様と理解しています。夜に聞くお話はまさにそうで、明治の祖母の話を聞いたからか、私には100年前の話も、嘘ではない、つい、そこにあるような気持ちに今もなります。毎夜、隣で寝てくれた祖母と対称的に、もう一人の祖母は師範学校の学生でテニスをするような人でした。こちらの祖母とは小さい時から文通をしていました。耳元で語る祖母と文を書いてくれる祖母。歌の祖母は前者ですが、明治生まれのタイプの違う二人の祖母は、何をする時にもどこかに今もいます。

三番目の歌

葉も花もつけないままに枯れてゆく木がある僕の真ん中にある
泥団子磨く子どもの手の中にふうわり生れる光があるよ

こちらは自分が子どもを持ってからの歌です。

さて、批評会で指摘されて、ああ、そうだったんだと思ったのは、「光」についての歌が多いということ。自分では意識してないのですが、確かにそうです。
関係ないかもしれないですが、息子達の通っていた、プロテスタント系の幼稚園のお祈りの言葉に「光の子らしく歩きなさい」というものがあります。私は宗教には疎いながらも、何かしらこの言葉は子育てする中で「お守り」のように働いていたのかもしれません。

参加いただいた皆さんは、周知の方ばかりで、だからこそ、有り難くて。特に私が歌を続けていられるのは、ヤママユ編集委員の喜夛隆子さんのおかげなので、御礼をいう時に、母のような姉のような喜夛さんと言いながら、感極まってしまいました。鬼の目にも涙?!でございます。

それから、こんなことを言ってくださった方も。「あなたは、その人物がとても面白いのに、歌にそれが出ていない。」…確かに。歌より人が面白いは嬉しくもあり、いや、歌人となると、それでは困る?!
ともあれ、本当に嬉しくて。お世話下さった皆様、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。



















スーパームーンの日に~歌集『ラビッツ・ムーン』の月

2016-11-14 | 短歌
11/14、今夜はスーバームーンとのこと。月が一番大きく見える夜ですが、奈良は雨…残念。何でも今年は68年ぶりに、月と地球が大接近するとかで、そうなると余計に気になるのですが…。雨雲の上のスーパームーンの輝きを想像するのは、まさに「歌」の世界かもしれませんね。
5月に出版した私の第一歌集「ラビッツ・ムーン」。「月の兎」なんですが、こんなタイトルにしたのは、いくつか理由がありますが、今日はその理由の一つを。
まず、「月に兎がいるよ」と思える暮らしの方が楽しいなということからのタイトルであります。科学万能の今、現実、兎が月にいないことなど周知の事実。だからといって、本当に「兎」はいないのか。私たちには、兎を見ることのできる「想像力」があります。現実には存在しない「兎」を、お話にしたり、歌うことの出来る力。
10年ほど前、下の息子が小学校に上がったばかりのころ、自転車の荷台に載せて、二人乗りをよくしていました。そんな昔、月がきれいな晩秋に、荷台に幼子を乗せたお母さんが後ろから近づいてきました。そのお母さんは、荷台の子に「ほら、見て、大きなお月さん。うさぎが見えるかな。」とお話しながら、自転車で通り過ぎていきました。
荷台のお子さんは、大きくなってそのことを覚えているかどうかはわかりません。ただ、夜に光る月を見よう、兎がいるかもしれないよ、とお話を聞く暮らしというのは、何かしら豊かなものに育まれている、と思うのです。その「豊かさ」は、物量で計れるものではない。けれども、そんな「豊かさ」が「歌」や「言葉」を育むのではと思います。
「月」に人間が降り立った1969年、私は小さくて覚えてませんが、それは大ニュースだったことでしょう。もちろん、宇宙開発が、米ソの覇権争いの舞台であったとしても、月にまで人間を送ることのできる科学の力に、これまでとは違った熱狂があったことは想像できます。
この月面着陸に対して、かの白洲正子は「それが何か?」と言ったとか。我が師、歌人、前登志夫は評論集『山河慟哭』(さんがどうこく)の中でアポロ着陸の月をこう言っています。
~「月が鏡であったなら」という唄があったが、もともと月はみずから発光するものではなく、水のような光を反映するものにすぎない。その意味では、月はどこまでも象徴的なものといえよう。アポロの月という科学の対象としての月でなく、夜の闇や木の葉やせせらぎとの関連の中に息づく月であり、われわれの内部に存在する月である。むろん、人間が到着したアポロの月と別だというのではない。万有の変容の中で、月の光は少しも汚されることなくすこやかなのである。」

21世紀、デジタル時代になり、2007年、探査機「かぐや」の月の映像がハイビジョンで鮮明に映された時、それはまことの月の姿だけれども、全部が見えて明らかになることで、われらの「月」は違ったものになってしまったような気持ちになったのを思い出しました。技術はどんどん進化し、何もかもをさらけ出し、もっと月は何物かを見せてくれることでしょう。けれども、かの昔、異国の地で「天の原ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」と詠んだ阿倍仲麻呂はじめ、「月」を歌った和歌が非常に多いことを、私たちは忘れてはならないと思います。1300年の和歌の月へのまなざし…。それがこれからの私たちにも「豊か」と思えるものになればいいのだけれど…と、歌の世界の端っこにいる者として願います。

最後に、歌集『ラビッツ・ムーン』の表紙の兎は、息子の友達が、小学生の時に描いたものです。この兎に、前先生の書かれた先の言葉、「万有の変容の中で、月の光は少しも汚されることなくすこやかなのである。」と声をかけたい私がいます。

『ラビッツ・ムーン』表紙原画




短歌往来9月号書評 『ラビッツ・ムーン』

2016-09-05 | 短歌
短歌の世界に入り驚いたことは、短歌結社の数が多いことと、(劇団数くらいある?!)月間の短歌誌も割合多いということ。全く短歌を知らない人には、へえ、こんなに歌を詠む人がいるんだ!という印象を持つかもしれないですね。
さて、そんな月刊誌の一つが『短歌往来』。こちらの最新号、9月号に私の歌集『ラビッツ・ムーン』の書評を、歌人の村島典子さんが書いてくださいました。
村島さんは、琵琶湖の近くに住み、詩的イメージ豊かな歌を発表されています。村島さんは私の芝居を昔からよく観てくださっている方の一人。なので、今回の書評も緊張というよりは、わくわく、拝見しました。「宇宙へのノスタルジー」と題して評してくださった村島さん。『ラビッツ・ムーン』の核心に触れてくださり、本当に有り難く。一部抜粋します。「(歌集は)手塚治虫のSF漫画「鉄腕アトム」を題材にした「アトムの子」で始まる。(略)科学とコンピューターの時代、現代ははやSFを越えたかのように錯覚するけれども、実際は、1951年に書き始められた「アトム」時代の展開を再認識せよとうたっている気がする。(略)歌集の中の時空は、昭和初期に止まらず、ずっと生命の発生にまで遡っていく気配がする。」村島さん、ありがとうございました。以下、村島さんの歌集よりの歌と、『ラビッッ・ムーン』より「アトムの子」から。

語らむと水辺に寄ればことばみな忘れてそよぐわれも水草    村島典子 『タブラ・ラサ』より

白足袋を履きてねむりて夏の夜をわれもやさしき獸のなかま     〃  『遊子』より

こんなにも小さき地面でありけるを十数本は森を成しゐき      〃  『地上には春の雨ふる』


アトムは原子 むかし原っぱで転がり飛んで跳ねていた子ども  おの・こまち 『ラビッツ・ムーン』より

心持つロボットアトム苦悩するアトムほどにも悩まぬかわれら    〃

肌色の胸張りアトム飛んでゆく 息をいっぱいしたい青空      〃