弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

空き地の思想(第一回?)

2006年10月18日 | 環境と文明
 またまた職場の近くの話。別にどこにでもある話なのだけど、たまたま。

 駅から職場に向かう途中の住宅地で、ある古い木造アパートが火事になった。焼けたのは一階部分だけだったが、結局全部取り壊すことにしたらしい。保険金も下りるだろうし、もともと住人がいるのかどうか怪しいくらいのボロアパートだったので、家主にとってはさほど痛手だったとは思えない。もちろん本人に聞いたわけではないけれど。とにかく、ある日通りかかると、土むき出しの空き地になっていた。たしか7月の頃である。
 数日後通りかかると、空き地の上にはぽつぽつと雑草が生えていた。また数日後通りかかると、雑草は大きくなり、種類も増えていた。その時はまだ、ああ夏だから成長が早いな、くらいの感想しか出てこなかった。
 さらに数日後、ついに空き地は生い茂る草花で一杯になっていた。1m近い高さにまで成長した草もある。
 感動的な光景だった。別に、そんな空き地は日本国中(よほどの寒冷地を除いて)どこでも見ることができるし、僕自身無数に見てきた。ただ、今回はたまたま、さら地になってから草ぼうぼうになるまでの過程を逐一見ていた、それが予想外に早いペースだったので、感動したのである。
 緑の草だけでなく、赤やら黄色やら紫やら、色とりどりの花が咲き乱れる様はちょっとした見物だった。僕はデジカメなど持っていないので、記録できなかったのが残念だが、撮り方によってはそのままPCの壁紙に使えるくらいのあでやかさだったと思う。
 ざっと数えただけで、そこには16種類の草花があった。詳しい人がちゃんと調べれば多少違う数え方になるのかもしれないが、ともあれ「雑草」と一口に言ってしまうのは乱暴すぎると、素人の僕でさえ分かるほどの種類の豊富さである。誰も種を蒔いたわけではない、世話をしたわけでもないというのに。
 この豊かさ、生命力、土壌力。日本はなんて恵まれた国なんだろう、とつくづく思う。塩分の濃い、石ころだらけの乾燥した土地で、細々と耕作している西アジアや北アフリカの農民からすれば、放っておいても草が生えるなんて、天国のような場所に見えるのではないだろうか。
 もちろん、農業をやる立場の人からすれば、日本には日本の苦労がある。雑草をひんぱんに取らなければならないのも、苦労の一つだ。でも取った雑草は、堆肥にするなどの使い道もある。飢饉の際には、飢えをしのぐのに役立つ雑草もあっただろう。とにかく、世界の基準からすれば、暑すぎもせず寒すぎもせず、件の空き地のような光景が当たり前に存在する国が、農業に向いていないなどということはありえない。

 そんな今更な感慨に耽っていたある日、突然すべての「雑草」が刈られ、空き地は再びむき出しの土に戻っていた。その翌日には砂利が敷き詰められ、そのまた翌日には一面アスファルトで覆われた、クルマ五台分の駐車場になっていた。
 K・ヴォネガットならこういう場合「そういうものだ(So it goes)。」と書くのだろう。まったくのところ、そういうものだと言うしかない。こんなことはありふれている。
 しかし、…都市住民が普通に歩いているこのアスファルトというやつの下に、必ず豊かな力を秘めた「土」というものがあるのだということは、時々思い出したっていい。「土」の立場からすれば、「農地」とそうでない土地との区別などない。区別したのはあくまで人間だ。都会の土地を、文字通り一皮向けば、そこには農地と変わらない豊かな「土」がある。
 「空き地」は、そのことを垣間見させてくれる。郊外の住宅地の空き地で遊んで育ったということから始まって、何か自分の中にはそういう「空き地」に対するシンパシーが延々流れているような気がする。そこから、大げさに言えば「空き地の思想」というべきものを汲みだせないものだろうか。・・・・なんてことも、今後少しずつ、書いていけたらと思っている。

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