eです。
6月24日~26日まで、仙台でJIL総会が開催され、参加してきました。
私、実は3.11の後、被災地を訪れたことがないのです。
原発もちゃんと見ておきたい。
津波跡地もちゃんと見ておきたい。
今回のJIL総会のカリキュラムの中で、
呼吸器ユーザーの地域生活を社会に広めるために作った
映画「風はいきよという」の完成上映会も組まれていたことから、
監督の宍戸さんも一緒に仙台入りしました。
宍戸さんは、宮城出身で、震災の跡地で撮影もしていたことから、
現地のことならなんでも知っています。
私が、被災地を見たいー…と呟いていたら、
「案内しましょうか?ぜひちゃんと見ておいてほしいです。
僕、運転しますから。」
と申し出てくださったので、
CIL東大和組みんなで被災地ツアーに出かけることに。
レンタカーに乗り込み仙台出発。
相馬のサービスエリアでアイス食べて気合注入。
ツアーには、ガイガーカウンターを持って行きました。
仙台では、0.04マイクロシーベルトくらい。
南相馬辺りから徐々に数値が上がり始め、0.1くらい。
人が住めない原発周辺の双葉町に入ると、
急激に数値が上がり、3~5マイクロシーベルトに。
カウンターのアラーム鳴りっぱなしです。
原発近くの大熊町に入ると、
カウンターもどんどん上がる。
そして、原発ギリギリまで近づいて、その距離1.5km。
「ようこそ」とか、ふざけんなよ。
ちなみに、看板の裏面はこんな。
「出会いに感謝」とか、よく言えるよ。
警備員に止められた場所では、9マイクロシーベルト。
閉めきった車の中にいてこの数値なので、
きっと外に出たら20マイクロシーベルトくらいになるのでしょう。
仙台の、500倍の放射性物質が飛び交っているということ。
外にいる警備員さん達、大丈夫なのかなぁ。
そんな中、福島第一原発の煙突は静かにたたずみ、
汚染物質を吐き出し続けていました。
あの圧倒感というか、威圧感というか…。
同時に、原発の煙突達が、淋しそうにも見えました。
好きで汚染物質撒き散らしている訳じゃない。
止めたくても暴走を止められない。
誰も助けられないのは、原発も同じ。
原発という建築物自体も、被害者のように感じたのです。
帰りに、南相馬の小高の海岸で、津波跡地も見てきました。
海の、あんな傍に家があったら、逃げようもない。
基礎だけが残った家、
1階が抜け落ちた家、
壁や窓側なくなり柱ばかりになった家…。
津波でさら地になったその場所は、
今の季節、草が青々と茂っていて、草原のように見えるのですが、
その中にぽつりぽつりと崩れた家が残された風景は、
余計に悲壮感を引き立てていました。
周辺の双葉町、大熊町は廃虚と化し、
ボロボロの錆びた建物達だけが取り残され、
通り過ぎる車に乗っているのは、マスク姿の作業員ばかり。
時折広がる平地には、
除染した後の廃棄物でいっぱいになった黒々としたビニール袋が、
行き場もなく山と積まれ、放置されていました。
なんか、除染のゴミの山と廃虚の街を見て、
政府にとっては、フクシマは、
とっくに過去のこととして片付けられてるんだなぁ…と思いました。
臭いものにはフタをする、というか、
めんどくさいものは見なかったことにする、
という日本の文化が象徴されているのです。
さらにはオリンピックなんか招致して、
いかにも「日本は回復しました!悲劇を乗り切った!」
みたいなパフォーマンスで、
ただでさえ人々の記憶から消えかけているフクシマを、
完全に消し切るつもりでいる。
「原子力明るい未来のエネルギー」
「看板撤廃絶対反対。負の遺産として残すべき」
めんどくさいものにはフタをされる感じ。
障害者問題も同じだなぁ。
原発問題も、沖縄問題も、障害者問題も、根本は一緒。
あらためて、そんなことをしみじみ実感できました。
一日中運転して、被災地ツアーに協力してくれた宍戸さんに感謝。
貴重な体験でした。
追記。
被災地ツアーの翌日、喉がチクチクして、
なんか、喉の奥の柔らかい部分から、血の味がするのです。
「風邪かな?やだなー。」と思いましたが、
後日、宍戸さんから
「それ、低線量被爆の症状のひとつです。
僕も、被災地撮影とかした後、喉が痛くなります。
風邪の初期症状っぽいやつです。」
と言われ。
(°□°;
「セシウムが、埃とかとくっついて粘膜に付着すると、
粘膜の組織をただれさせるらしいです。
5シーベルトとか、高線量被爆だと、死んじゃったりしますが、
低線量被爆って、そういう感じなんですよね。
個人差有りますけど。」
(°□°;
(°□°;
「でも、翌日には治ったよ!?」
「そうです、離れていれば、すぐ治るんですよ。
だから、子どもの保養期間とか、重要なんですよね。」
はー・・・。
6月24日~26日まで、仙台でJIL総会が開催され、参加してきました。
私、実は3.11の後、被災地を訪れたことがないのです。
原発もちゃんと見ておきたい。
津波跡地もちゃんと見ておきたい。
今回のJIL総会のカリキュラムの中で、
呼吸器ユーザーの地域生活を社会に広めるために作った
映画「風はいきよという」の完成上映会も組まれていたことから、
監督の宍戸さんも一緒に仙台入りしました。
宍戸さんは、宮城出身で、震災の跡地で撮影もしていたことから、
現地のことならなんでも知っています。
私が、被災地を見たいー…と呟いていたら、
「案内しましょうか?ぜひちゃんと見ておいてほしいです。
僕、運転しますから。」
と申し出てくださったので、
CIL東大和組みんなで被災地ツアーに出かけることに。
レンタカーに乗り込み仙台出発。
相馬のサービスエリアでアイス食べて気合注入。
ツアーには、ガイガーカウンターを持って行きました。
仙台では、0.04マイクロシーベルトくらい。
南相馬辺りから徐々に数値が上がり始め、0.1くらい。
人が住めない原発周辺の双葉町に入ると、
急激に数値が上がり、3~5マイクロシーベルトに。
カウンターのアラーム鳴りっぱなしです。
原発近くの大熊町に入ると、
カウンターもどんどん上がる。
そして、原発ギリギリまで近づいて、その距離1.5km。
「ようこそ」とか、ふざけんなよ。
ちなみに、看板の裏面はこんな。
「出会いに感謝」とか、よく言えるよ。
警備員に止められた場所では、9マイクロシーベルト。
閉めきった車の中にいてこの数値なので、
きっと外に出たら20マイクロシーベルトくらいになるのでしょう。
仙台の、500倍の放射性物質が飛び交っているということ。
外にいる警備員さん達、大丈夫なのかなぁ。
そんな中、福島第一原発の煙突は静かにたたずみ、
汚染物質を吐き出し続けていました。
あの圧倒感というか、威圧感というか…。
同時に、原発の煙突達が、淋しそうにも見えました。
好きで汚染物質撒き散らしている訳じゃない。
止めたくても暴走を止められない。
誰も助けられないのは、原発も同じ。
原発という建築物自体も、被害者のように感じたのです。
帰りに、南相馬の小高の海岸で、津波跡地も見てきました。
海の、あんな傍に家があったら、逃げようもない。
基礎だけが残った家、
1階が抜け落ちた家、
壁や窓側なくなり柱ばかりになった家…。
津波でさら地になったその場所は、
今の季節、草が青々と茂っていて、草原のように見えるのですが、
その中にぽつりぽつりと崩れた家が残された風景は、
余計に悲壮感を引き立てていました。
周辺の双葉町、大熊町は廃虚と化し、
ボロボロの錆びた建物達だけが取り残され、
通り過ぎる車に乗っているのは、マスク姿の作業員ばかり。
時折広がる平地には、
除染した後の廃棄物でいっぱいになった黒々としたビニール袋が、
行き場もなく山と積まれ、放置されていました。
なんか、除染のゴミの山と廃虚の街を見て、
政府にとっては、フクシマは、
とっくに過去のこととして片付けられてるんだなぁ…と思いました。
臭いものにはフタをする、というか、
めんどくさいものは見なかったことにする、
という日本の文化が象徴されているのです。
さらにはオリンピックなんか招致して、
いかにも「日本は回復しました!悲劇を乗り切った!」
みたいなパフォーマンスで、
ただでさえ人々の記憶から消えかけているフクシマを、
完全に消し切るつもりでいる。
「原子力明るい未来のエネルギー」
「看板撤廃絶対反対。負の遺産として残すべき」
めんどくさいものにはフタをされる感じ。
障害者問題も同じだなぁ。
原発問題も、沖縄問題も、障害者問題も、根本は一緒。
あらためて、そんなことをしみじみ実感できました。
一日中運転して、被災地ツアーに協力してくれた宍戸さんに感謝。
貴重な体験でした。
追記。
被災地ツアーの翌日、喉がチクチクして、
なんか、喉の奥の柔らかい部分から、血の味がするのです。
「風邪かな?やだなー。」と思いましたが、
後日、宍戸さんから
「それ、低線量被爆の症状のひとつです。
僕も、被災地撮影とかした後、喉が痛くなります。
風邪の初期症状っぽいやつです。」
と言われ。
(°□°;
「セシウムが、埃とかとくっついて粘膜に付着すると、
粘膜の組織をただれさせるらしいです。
5シーベルトとか、高線量被爆だと、死んじゃったりしますが、
低線量被爆って、そういう感じなんですよね。
個人差有りますけど。」
(°□°;
(°□°;
「でも、翌日には治ったよ!?」
「そうです、離れていれば、すぐ治るんですよ。
だから、子どもの保養期間とか、重要なんですよね。」
はー・・・。