chuo1976

心のたねを言の葉として

教育基本条例について

2012-02-27 06:16:59 | 教育
教育基本条例についてその1
2012.02.07 ( Tue ) 18:58:54 | 元おちぶれ教員 | URL | Edit



教育基本条例については、すでに多くの人々から意見が出され、反論がつきている感がありますが、私なりの観点で記してみたいと思います。ツイッターのような短文は苦手で、少し長くなりますので、何度かに分けて投稿します。内容の乏しい私の意見で貴重なネット空間を使うことの失礼をお詫びします。
 意見は主に一般高等学校を視野において述べています。ただ、私は長く一般高校で勤務した後養護学校(近年支援学校と名称変更)で7年勤務、一昨年退職した経歴のため、近年の一般高校の様子から遠ざかっており、少し的はずれの部分があるかもしれません。
 私が主張したいことの第一は、日本の学校はあまりにも多くの任務をかかえすぎているということです。ざっと考えても、1、教科指導(国語・数学・体育など)、2、人格形成指導(人権教育、自治集団づくりなど)、3、学校行事づくり(修学旅行、文化祭など)、3、部活動、4、生活指導(遅刻・欠席、服装、髪型などより飲酒・喫煙等の違背行為への対応など)、5、進路指導(就職生への企業斡旋、進学先情報など)、6、生徒間の人間関係(いじめ問題など)、その他いろいろ。とにかく、学校の教員のすべき任務は多彩です。日本にもいろいろの職場がありますが、これほど多彩な任務を同一人がしている(一部任務分担はあっるが)職場はあまりないと思います。そのため、正直なところ、「教育目標」どころの話でなく、毎日、目の前の課題に追われ、それをこなすのが精一杯といったところです。
 橋下氏は「教育は2万パーセント強制」と仰ったそうですが、教員にとって、子どもたちにいろいろと強制して教育をすすめられたら、そんな楽なことはありません。「自律的な市民」となることを期していろいろと要求をするのですが、なかにはそれに従わない子どももいて心の葛藤を感じながら厳しくしかりつけたりする毎日です。ある集会で「橋下氏は自身が高校生の時清掃当番を徹底してしなかった」という噂話が語られていましたが、事実なら、担当の先生はどんなにか歯がゆかったでしょう。逆に、橋下青年が「強制」されていたら、青年どういうふうに成長していったのでしょうか。
 「教育は強制」どころか、社会の動きによって教育現場がふりまわされている現実があります。ケイタイを例にとります。子どもたちを販売先としかみない業者によってここ十数年でケイタイはほとんど全員といってよいほど子どもに普及しました。社会の全貌もまだ十分わからず、メディアリティラシーも不十分なまま、子どもは通話・メールだけでなくさかんにウエブ利用をしています。ケイタイをめぐって学校は困りはてています。学校は「ケイタイ禁止強制」したいところです。

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