chuo1976

心のたねを言の葉として

「中村屋のボース」の苦悩          関川宗英

2022-12-28 09:10:36 | 歴史

「中村屋のボース」の苦悩          関川宗英




 「中村屋のボース」とは、1915年、日本に密かに入国し、新宿中村屋に逃げ込んだこともある、インドの革命家R・B・ボースのことである。

 中島岳志が2005年に著した『中村屋のボース』は、ずっと読みたいと思っていた本だった。2022年のこの冬、やっと読むことができた。『中村屋のボース』は、時代に翻弄されながら、革命を目指し、1945年に日本で客死した男の生涯をまとめた力作である。

 イギリスからインドを解放するために、日本を拠点にして独立運動を展開したR・B・ボース。イギリスの帝国主義を批判するR・B・ボースだが、日本の中国や朝鮮に対する帝国主義的な振る舞いは容認した。インド独立のために日本の軍事力を利用しようとしたのだ。矛盾を抱えながらインドの革命を画策するボースの姿には、胸を打つものがあり、考えさせられるものも多々あった。

 この記事ではR・B・ボースの苦悩の一面を少しでもまとめたいと思っている。




 

1 R・B・ボースの豹変

 

 1926年、R・B・ボースは日本の中国政策を批判している。

 我らの最も遺憾とする所は、声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級の諸公にして、猶中国人を侮蔑し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は生来、白人に劣るの素質を有するが如くに解することこれである。従来の支那通なる人々を点検するに比々皆然り。真に自らを知り、同時にアジアを認識するの士は暁の星の如く実に寥々たるものである。(1926年『月刊日本』3月号)

 この日本批判は、玄洋社をはじめとするアジア主義者たちに向けられたものだ。アジアの解放、アジアの団結を唱えながら、「中国人を侮蔑し、支那を侵略すべしと叫び」、中国を帝国主義的に支配しようとしていると率直に批判している。




 このR・B・ボースの日本批判は、孫文の「大アジア主義演説」(1924年)につながるものである。

 「中国革命の父」と呼ばれる孫文。日本に二度も亡命しながら、その志半ばで病に倒れている。その死の前年、神戸で行われた演説が「大アジア主義演説」だった。

 孫文は、欧米列強の中国に対する特殊権益や不平等条約の撤廃を目指していた。右翼の大物、アジア主義を掲げていた頭山満に対し、日本が対華二十一か条要求を取り下げることなどを期待して神戸のホテルで会見する。しかし、頭山満は孫文の期待をはぐらかすように、満州をロシアの侵略から守ったのは日本の犠牲があったからだとしたうえで、次のように言った。

 依って同地方(満州 筆者注)に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還付すべきであるが、目下オイソレと還付の要求に応じるが如きは、我が国民の大多数が承知しないであらう。(藤本尚則『巨人頭山満伝』)

 孫文は自らの要求を見抜かれ、動揺の色を隠せなかったという。帝国主義から東アジアの解放を主張し、辛亥革命の時も孫文を支援してきた玄洋社の頭山満が、満州など大陸への進出をはっきりと正当化した。孫文は、日本がアジアの新たな帝国主義国家になろうとしている現実を目の当たりにして、大きなショックを受けただろう。孫文は頭山と議論することなく会見を打ち切り、その三日後の1924年11月27日、神戸高等女学校で行われた演説が「大アジア主義演説」である。

 貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。(「孫文選集」1966)

 

 

 R・B・ボースは、1915年に日本入国後、すぐに孫文と面識を得ている。そして、孫文を通して頭山満とつながりを持つ。新宿中村屋への逃亡生活は玄洋社の頭山満や大川周明の助けによるものだった。1926年のR・B・ボースによる日本の中国政策批判は、孫文や玄洋社のメンバーから受けたアジア主義の影響が背景にあることは十分考えられる。

 また、イギリス帝国主義に民族の自由と誇りを奪われ、独立運動のために処刑された同胞たちの命を思えば、日本の帝国主義的振る舞いも当然容認できることではなかったはずだ。

 




 しかし、1931年満州事変が勃発すると、R・B・ボースは中国が英国に引きずられていると非難し、日本の政策を擁護する論陣を展開する。

 日本は従来この意識(アジア人種的意識 中島岳志)に基づいて、日支共存共栄の為に尽して来た。然るに支那は昔ながらの以夷制夷の術策を採り、白人の勢力を引いて、日本の勢力を打壊せんとした。そこで隠忍に隠忍を重ねてきた日本をして、遂に堪忍袋の緒を切らしめ遂に今回の満州事変が勃発したのである。(1932年『Voice of India』1月号)

 1926年の日本批判から、1932年のこの日本擁護の豹変はどう理解すればいいだろうか。



 まず考えられるのは、当時の日本の、政治的な緊張の高まりがある。1923年甘粕事件、1925年治安維持法、1928年張作霖爆死事件、1930年統帥権干犯問題、など凄惨な事件、権力の発動が続き、日本は不穏な空気に支配されていた。その中で日本の軍事力を利用しながらインド独立をいかに成し遂げるか、政治的な発信をどのようなポジションで行なっていくか、それは難しい判断だったろう。

 

 一方中国国内の混乱した政治状況も考えられる。

 GHQ焚書である長野朗の『支那三十年』によれば、満州事変当時の中国の排日運動について次のような記述がある。

 英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路をとった。

 一つは支那の民族運動として、満州の漢人化となり、満州からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満州事変を起こさせるに至った。一つは経済的の現われで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んできたのである。

(長野朗『支那三十年』)

 1930年当時の中国については、英、米、露、そして日本、列強諸国のさまざまな思惑が錯綜していた。パワーバランスの結果どの方向に磁場が傾くか、その予測は誰にもつかなかっただろうが、R・B・ボースにとってイギリスの関与はともかく看過できないことだっただろう。

 

 また『中村屋のボース』で中島岳志が指摘しているように、「インド独立の実現を最優先するプラグマティストとして日本の帝国主義的動きを追認した」(p-255)という人物像についても考えなければならないだろう。

 若き日のR・B・ボースは、インドの森林研究所で働きながらイギリス官僚の信頼を得て営林署の署長にまで出世している。彼はこの地位を利用して、爆弾製造に必要な部品や酸を入手していた。そして「ハーディング爆殺未遂事件」などのテロを引き起こす。そんな彼を「目的と手段が乖離するというアイロニーを、避けて通ることのできない宿命と認識していた」(p-332)と中島岳志は分析する。R・B・ボースは、家族思いで情に篤く、人間的な魅力にあふれていたという人物像とともに、革命のためならどのような手段も厭わない非情な一面もあったのだ。

 





2 大東亜戦争突入

 1941年12月8日、大東亜戦争突入。

 R・B・ボースは次のような発言を残している。

 此の大東亜戦争の目的は何であるか、私は熟々此の点に就て考へました。勿論政治的に経済的に文化的に大東亜の諸国を完全な独立国にしなければならぬのであります。併し其の後は何であるか、私が思ふには大東亜として、つまり日本から印度までの諸民族が一緒になって偉大なものを一つ生みださなければならぬのであります。偉大なものを生みだして、それに依って真の世界平和を確立し、人類を幸福にしなければならぬのであります。(上野精養軒「ボース氏激励会」1942年3月20日)

 八紘一宇、欧米列強の帝国主義的支配からアジアを開放し、大東亜共栄圏を作る、その先頭に日本が立つ。R・B・ボースの言葉は、大東亜戦争の大義名分をなぞっている。

 大東亜戦争突入後すぐ、日本はマレー半島を制圧する。日本軍は僅か二か月でイギリス軍の無条件降伏を勝ち取り、シンガポール陥落(1942年2月15日)を成し遂げたが、その裏にはマレー半島におけるインド人工作の成功があった。イギリスに植民地支配されていたマレー半島には多くのインド系移民がおり、またこの地域のイギリス軍には大量のインド兵が組み込まれていた。日本軍は日英戦争勃発に備え、インド独立連盟の組織拡大、インド兵への懐柔策など様々なインド人工作を展開していた。それが功を奏し、マレー半島は日本の統治下に組み込まれたのだった。

 大東亜共栄圏の当初の構想に、インドは入っていなかった。しかしマレー半島の情勢の変化により、インドは大本営作戦の重要課題として注目され始めた。

 シンガポール陥落の二日後、東条首相は、「インドの独立を期待している」と貴衆両院本会議(1942年2月17日)で演説している。

 東条首相のインド演説によって、インド独立に向けた大きな足がかりが得られたとR・B・ボースは歓喜したに違いない。

 印度人は今回ほど日本の偉業に驚いてゐることはない。印度の独立はこの際を外しては二度となく得られないと思って居ります、そのためには真の死の覚悟も辞さないつもりです。(『国民新聞』1942年2月23日)

 このようにR・B・ボースはインド独立の決意を新たにしているが、先に引用した上野精養軒におけるR・B・ボースの言葉も、東条首相のインド発言を受けたものである。



 しかし、事はうまく運ばない。

 インド独立へ向けて、インドや日本の関係者による東京山王会議(1942年3月28日)、バンコク会議(1942年6月15日)が続けて開催された。しかし、独立への機運は高まるどころか、事態の難しさを露わにするばかりだった。

 イギリス軍から投降したインド兵は「インド国民軍」として再編成されたが、その数は数万人を超えていた。このインド国民軍をどのように統率、維持していくのか。

 一方、バンコクでインド独立運動を組織していた「インド独立連盟」と、「インド国民軍」との主導権争いが表面化する。

 また、インド独立後、インド国民軍を日本軍と同等の扱いをせよという要求が出されたが、それを認めたがらない日本政府。

 さらに、インド国内で独立運動を展開している「インド国民会議派」の承認問題。

 インド独立への動きは、空回りするばかりだった。

 ビルマ側からインド国民軍がインドに進攻すれば、多くのインド国民が雪崩を打つように合流し、インド独立は成し遂げられる・・・現実のものとして見え始めたインド独立だが、その実現までにはまだまだ道は遠かった。

 

 R・B・ボースは、インド国民軍とインド独立連盟の対立を抑える調停役に徹する。そして、日本政府とインド側の橋渡し役として奔走した。しかし事態の混乱が長引くにつれ、R・B・ボースは次第に「日本軍の操り人形」と見なされるようになる。

 R・B・ボースは苦悩を深め、病気がその体を蝕み始めていた。

 

 1943年6月、インドの革命家、国民会議派議長のチャンドラ・ボースが来日する。日本軍はR・B・ボースに見切りをつけ、インド工作のためにチャンドラ・ボースの招致を画策していたのだ。

 R・B・ボースは、チャンドラ・ボースの来日を歓迎したそうだ。

 シンガポールで行われたインド独立連盟の大会(1943年7月4日)では、「東京から素晴らしいお土産を持って来た」とチャンドラ・ボースを紹介し、自らインド独立連盟の代表をチャンドラ・ボースに譲ると宣言する。会場からは喝采を浴びた。

 

 この大会の後の1943年9月18日、R・B・ボースはチャンドラ・ボースと面談している。

 チャンドラ・ボースは早期にインドへの軍事侵攻を模索していた。これに対して、R・B・ボースは、日本軍の各地での苦戦の実情を伝える。大東亜戦争開戦直後の日本軍の勢いは既になく、ガダルカナル島に続き、アッツ島の戦いにおいても日本軍は敗走していた。そしてインド国民軍と日本軍合同のインド進攻作戦など無謀だと訴えた。

 

 しかし、1944年2月、インパール作戦は強行された。

 

 そして、1945年1月21日、R・B・ボースは58歳の生涯を閉じた。




 

3 R・B・ボースが大切にしたかったこと

 

 1905年、インドで「ベンガル分割問題」が起きた。

 当時、インドでは独立運動が拡大していた。そこでイギリスは、ヒンドゥーとムスリムの対立をあおり、反植民地ナショナリズムを切り崩そうとした。この政策が、「ベンガル分割問題」である。しかし、イギリスの思惑は外れ、インド側の反発、特にヒンドゥーの反発を受ける。インド独立の声はさらに高まることになる。

 イギリス側はこの運動を徹底的に弾圧した。中心的な指導者たちは軒並み逮捕され、運動は低迷期に入る。

 その低迷期、爆弾を用いたテロ事件が散発的に発生するようになる。その中で最大の爆弾テロが、1912年の「ハーディング総督爆殺未遂事件」だった。

 この爆弾テロを引き起こしたのが、R・B・ボースである。

 R・B・ボースはこの事件により、イギリスに追われる身となる。そして1915年、偽名を使って、日本に密入国する。R・B・ボースは29歳だった。

 それから30年、1945年に59歳の生涯を閉じるまでR・B・ボースは日本でインド独立運動を展開する。一度も、インドに帰ることはなかった。



 R・B・ボースはインド独立のためにその生涯を捧げたが、さて、インドの独立を勝ち取った後、彼が夢見ていたインドとはどのようなものだったのだろうか。

 

 R・B・ボースは「物質的な共産主義から精神的な共産主義へ」の移行を論じていたという。

 近代西洋社会は「利己主義に基づいているため、契約社会にならざるを得ない」とし、逆に伝統的東洋社会を「人間も自然の一部」という観念に基づく、「利他主義的社会」として評価している。そして、西洋のナショナリズムを「個人的主我主義が拡大したもの」と捉え、「他民族に対して権力的・侵略的」にならざるを得ないと厳しく批判した。これに対して東洋のナショナリズムは「母を愛する情の如く、自然の愛」に基づいており、「すべての生命の根源は一なるもの」であるという思想が共有されていたとする。

 その一方で、西洋が生み出したデモクラシーという制度を高く評価し、リンカーンを褒め称え、アジア主義的理想が西洋を排斥するものであってはならないと述べていたという。(『中村屋のボース』p-226)



 

 

 

 中島岳志の『中村屋のボース』は、R・B・ボースの波乱万丈の人生をまとめたものだ。今こうしてその中身を整理していると、一番印象に残っているものとして何度も想起されるシーンがある。それは、1930年の山形県酒田の一節である。

 R・B・ボースは、インド独立のために日本各地で講演を行なっていた。その講演のひとつ、大川周明の生まれ故郷の酒田を訪れた時、酒田の田園風景に深い感銘を受けたという。

 遠くに聳ゆる大小の山を背景とし、パノラマの如く眼前に展開せられたる規則正しく区画された広芒たる田野を見て、私は故国印度の光景を想起せざるを得なかった。翌日の午後、私は友人大川君の家の二階から、又世にも美しき風景を眺める事が出来た。一方には海岸から飛び来る砂を防ぐ為の松林が長城の如く連り、一方には中空に聳ゆる美しき鳥海山の麓まで田野遠く展けて居た。然かも翌日私が友人と共にモーターボートで日本海に乗り出した時、酒田の壮美は其極に達した。私は幾度か太平洋で日の出を見た、が日本海で日没を見たのは今回が初めてである。私は此時の自然の美しさを生涯忘れぬであらう。(1930年『月刊日本』9月号)

 そしてR・B・ボースは、日本海の夕日を見つめながら「寂しい」と叫び、船底に身を伏せて慟哭したという。

 

 「暴力」を独立のための手段として肯定するR・B・ボースだが、独立後は、多くの人々の平穏な日々を夢見ていたことだろう。

 20世紀はナショナリズムが吹き荒れた時代だった。激しい時代の波にさらされながらインドの独立に奔走したR・B・ボース。彼も、あの時代のうねりの中、ナショナリズムに翻弄された一人だったが、何よりも願っていたのは、独立の戦いの後の、人々の平穏な日々だったと思われる。

 1947年、インドは独立した。しかしパキスタンとの分離独立だった。それから75年、ヒンドゥーとムスリムの対立は深まるばかりだ。そして、インドとパキスタンは核兵器を持って対峙している。

 21世紀の今、インドは急激な発展を遂げている。中国の次はインドだ!、世界がインドの技術や経済に注目している。

 2022年、インドはロシアから大量の原油を買うなどしたたかな外交を繰り広げながら、大国の仲間入りを果たそうとしている。

 このようなインドをR・B・ボースは望んだのだろうか。グローバルな金融資本主義、新自由主義的な競争の渦に巻き込まれ、物の豊かさ、金の力に支配される社会。自然の愛に満ちた、利他主義的社会とは程遠い。





 

4 満州の夢とその末路

 

 満州に行って、自分たちだけの国をつくるんだ

 何もかもが平等で、貧乏人も金持ちもいない、共存共栄の理想郷だ

 映画『菊とギロチン』(2019年 瀬々敬久)の中で、アナキスト中濱鐵(東出昌大)が叫ぶ言葉だ。映画は1923年の関東大震災後、大正末期を舞台としているが、当時満州はすでに、アナキストやアジア主義者たちにとっても夢の場所だった。



 二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は、日本の生命線以外のなにものでもない

 これは満州事変当時、対中国強行外交を推進した政治家、森恪の言葉だ。日露戦争の勝利とは裏腹に多くの日本人の血が流れた。国内にはその代償を求めるナショナリズムが高まっていた。そして資源のない日本が、欧米列強に伍していかに国をつくっていくか。満州を支配していくことは、日本の進むべき道を決める大きな選択の一つだった。

 

 頭山満もR・B・ボースも、日本の帝国主義的路線を追認する。これも時代の流れの一つの現れだったのだろうが、そこには多くの日本人の熱狂的な支持があった。

 半藤一利は『B面昭和史1926〜1945』で、満州事変当時の国民の熱狂を次のように伝えている。

 この新聞とラジオの連続的な、勝利につぐ勝利の報道に煽られて、国民もその気になっていく。その熱狂は日ましに高まっていく。満蒙は日本の生命線、この生命線を自衛のための戦争でしっかり守りぬく。そしてその勝利を突破口に、昭和に入っていらいのもう行きづまりのような不況を打開することができる。国民の間にはつらい緊張ではなく、意気軒高たる緊張がみなぎったのである。事変後、一週間もたたないうちに、日本全国の各神社には必勝祈願の参拝者がどんどん押し寄せ、憂国の志士や国士からの血書・血判の手紙が、陸軍大臣の机の上に山と積まれた。

 そして、右翼の論客、文芸評論家杉山平助の言葉を引用している。

「本来賑かなもの好きな民衆はこれまでメーデーの行進にさえただ何となく喝采をおくっていたが、この時クルリと背中をめぐらして、満州問題の成行に熱狂した。驚破こそ帝国主義的侵略戦争というような紋切型の非難や、インテリゲンチャの冷静傍観などは、その民衆の熱狂の声に消されてその圧力を失って行った」(『文芸五十年史』)

 

 しかし満州の熱狂は、日本の敗戦により悲惨な末路を迎える。60万人以上の日本兵がソ連に連行された。日本軍がいなくなり取り残された日本人は満州だけでも150万人以上いたそうだ。敗戦後日本人の引き揚げが始まるが、それは十年以上に及ぶ。記録によれば、舞鶴港だけでも引き揚げた人は66万人に上っている。

 そして日本軍の力の行使は、日本人だけでなく、アジアの多くの人の命を奪った。その数は2千万人以上に上る。

 

 酒田の田園風景に、もう15年も帰っていないインドを想起したというR・B・ボース。

 酒田での彼の涙を思うと、美しい自然の中で、家族や友人と耕作する日々、そんな平和な日常こそが尊いものだと思えてくる。

 そして、ナショナリズムに振り回されて、武器を手に取ることなどいかに空しいことかと思われてくる。

 また、戦争や武力による勝利は禍根を残すだけだという、人類が幾度も経験してきた歴史をあらためて思い出させてくれる。

 季節を感じながら、家族や友人と過ごせる平穏な日々を大切にしたい。

 歴史を鏡とし、人を敬い、人権と平和の蹂躙には怒りの声をあげながら、つつましく生きていきたい。

 『中村屋のボース』は、そんな思いをまた深くさせられる作品だった。

 

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閣議決定が歴史を書き換える      関川宗英

2022-08-23 16:48:20 | 歴史

閣議決定が歴史を書き換える      関川宗英





1 旧統一教会問題と閣議決定

 

 つい先日の8月15日、岸田内閣は、「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)と閣僚ら政務三役の関係について「個人の政治活動に関するもので、調査を行う必要はない」とする答弁書を閣議決定した。

 

 8月21日、毎日新聞の世論調査では、岸田内閣の支持率が36%、不支持54%となった。

 旧統一教会問題は安倍晋三銃撃事件から連日メディアを賑わしており、その火消を図ろうとしたのか岸田総理は内閣人事を刷新したが、この問題の報道は加熱するばかりだ。

 旧統一教会の問題を曖昧にして、疑惑に対して「調査を行う必要はない」などと閣議決定をしているようでは、不支持はますます広がっていくだろう。





2 「そもそも」閣議決定

 

 第2次安倍政権は、閣議決定を連発した。

 「集団的自衛権の行使」から、「安倍昭恵夫人は私人」など枚挙にいとまがない。

 

 「そもそも」という言葉の意味をめぐる閣議決定もあった。

 

 国会が紛糾した2017年の「共謀罪」法案(組織的犯罪処罰法案)の審議の折だった。

 安倍首相が共謀罪の対象について「そもそも犯罪を犯すことを目的としている集団でなければならない。これが(過去の法案と)全然違う」と答弁した。

 野党から「オウム真理教はそもそもは宗教法人だから対象外か」と問われた。首相は「『初めから』という理解しかないと思っているかもしれないが、辞書で念のために調べたら『そもそも』には『基本的に』という意味もある」と主張した。

 しかし、どの辞書にもそんな意味は載っていないと質問主意書で指摘されると、政府は閣議決定で次のようにまとめたのである。

 

〈「大辞林(第三版)」には、「そもそも」について、「(物事の)最初。起こり。どだい。」等と記述され、また、この「どだい」について、「物事の基礎。もとい。基本。」等と記述されていると承知している〉

 

 「そもそも→どだい→基本」という三段論法で、「そもそも」という言葉には「基本的に」という意味があるという日本語の新解釈が閣議決定された。








 

3 閣議決定が教科書の記述をすべて変えた

 

 2022年春、社会科の全ての教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」の言葉が消えたそうだ。

 95年度の申請時には教科書会社の7社すべてが『従軍慰安婦』もしくは『慰安施設』と『強制連行』を記載していた。

 なぜ「従軍慰安婦」「強制連行」の言葉が消えたのか。それは閣議決定のためだという。



「従軍慰安婦」「強制連行」 教科書会社5社の訂正申請を承認

2021年9月8日 NHKニュース 

慰安婦問題や太平洋戦争中の徴用についての用語に関する政府の閣議決定を受けて、文部科学省は、教科書会社5社から「従軍慰安婦」と「強制連行」という用語の削除や変更の訂正申請があり、承認したことを明らかにしました。

政府はことし4月、慰安婦問題をめぐり誤解を招くおそれがあるとして「従軍慰安婦」ではなく「慰安婦」という用語を、太平洋戦争中の「徴用」をめぐっては「強制連行」や「連行」ではなく「徴用」を用いることが適切だとする答弁書を閣議決定しています。

これを受け文部科学省は、社会科の教科書を発行する会社を対象に記述の訂正申請に関する異例の説明会を開き、例として6月末までに申請する日程を示していました。

文部科学省は、その後、教科書会社5社から合わせて29冊の記述について「従軍慰安婦」や「強制連行」という用語の削除や変更の訂正申請があり、承認したと、8日発表しました。

この中では、中学の歴史で「いわゆる従軍慰安婦」の記述が削除されたものや、高校の日本史で「強制連行」が「政府決定にもとづき配置」という記述に変更されたものもありました。

教科書の記述をめぐっては、2014年の検定基準の改正で、歴史や公民などで政府の統一的な見解がある場合はそれを取り上げることなどが盛り込まれています。





 菅内閣が慰安婦問題と強制連行をめぐる答弁書を閣議決定したのは2021年4月27日だった。答弁書の文言は以下の通りである。

 

慰安婦~「従軍慰安婦」または「いわゆる従軍慰安婦」ではなく、単に「慰安婦」という用語を用いることが適切

強制連行~朝鮮半島から内地に移入した人々の移入の経緯は様々であり、「強制連行された」もしくは「強制的に連行された」または「連行された」と一括(ひとくく)りに表現することは、適切ではない

 

 

 慰安婦が、日本軍に強制的に連行された人たちなのか、それともプロの売春婦だったのか。戦時中日本にいた朝鮮人の労働者は、強制的に連行されたのか、新たな仕事を求めた移住だったのか。従来から議論されてきた問題だ。

 「従軍慰安婦」「強制連行」の閣議決定は、この議論の結論ではない。議論となっていることについて、一方的な解釈に陥ることを「適切ではない」としたものだ。

 

 閣議決定には法的な効力はない。あくまでも政府の意思を確認したものである。

 その閣議決定がなぜ、教科書の記述をすべて変えることにつながったのだろうか。そのあたりの文科省と教科書会社のやり取りの一端は、以下の新聞記事から窺える。

 

 

「従軍慰安婦」「強制連行」の記述 教科書7社なぜ訂正 どう変わる

2021年10月31日 朝日新聞

文科省、異例の説明会 「用語制限に違和感」の声も

 中学社会や高校の地理歴史、公民の教科書をめぐっては、第2次安倍政権時の2014年、検定基準に「政府見解がある場合はそれに基づいた記述」をすることが定められた。文科省によると、検定済みであっても、誤字・脱字や学習上の支障が生じるおそれがある記載を見つけた場合、必要な訂正をしなければならない。文科省は今年5月、教科書会社約20社を対象に説明会を開き、4月の閣議決定の内容を伝え、配布資料で「6月末まで(必要に応じ)訂正申請」と示した。

 ある社の担当者は「訂正申請はこれまでは自主的に判断して出してきた。こうした説明会は初めてで、判断を見直すきっかけになったのは間違いない」と話す。別の社は「説明会をプレッシャーには感じなかった」としつつ、「社会科の教科書は様々な研究に基づいて自由に編集してきた。閣議決定で、使う用語を制限されることには違和感がある」と答えた。




 閣議決定がなぜすべての教科書の記述の訂正につながったのか、その理由を私なりに整理すると、つぎの三つになる。

 

 一つ目は、閣議決定がなされたという事実。

 教科書の記述をめぐる閣議決定は二つある。

①2014年の閣議決定~「政府見解がある場合はそれに基づいた記述」をすることが検定基準に定められた

②2021年の閣議決定~「従軍慰安婦」「強制連行」という言葉は使わない

 

 二つ目は、教科書の記述に疑義が生じた場合、訂正しなければならないという制度の問題だ。

 検定済みであっても、誤字・脱字や学習上の支障が生じるおそれがある記載を見つけた場合、必要な訂正をしなければならないという制度がある。今回は、閣議決定とこの制度を結びつけた説明会が実施された。

 

 そして三つ目は、行政職員の責務の問題だ。

 閣議決定はあくまでも、政治を行うトップ、内閣の意思決定にすぎない。

 閣議決定に法的な効力はない。

 しかし法的効力はないとはいえ、各行政機関の職員(都道府県職員、市役所職員など)はこの意思決定に従って仕事を行う責任がある。

 すべての行政機関の職員は、行政のトップである内閣に従わなければならない。

 行政の末端である文科省の職員は、閣議決定に従って、その責務を果たしたということだ。

 

 この三つがからまって、すべての教科書から「従軍慰安婦」などの言葉が消えたという事態が生まれた。

 

 

 

4 教科書問題の本質

 

 教科書の訂正を文科省が直接指示したわけではないというやり方、極めて慌ただしい日程の記述訂正だったことも問題だ。

 

 文科省の説明会は異例だったという。

 しかも説明会はオンラインで5月18日に実施されたが、4月27日の閣議決定から三週間ほどしか経っていない。

 さらに、例として6月末までに申請する日程が示されたというが、2021年の検定申請締め切りは同年5月中旬で、各教科書会社とも既に編集を終えていた。

 そのため、「政府見解に基づいていない」や「生徒が誤解するおそれのある表現」といった検定意見を受け修正する形で、「教科書会社8社が同年9~12月、文科省に対し、既に検定に合格していた高校と中学の教科書計44点で記述の訂正申請を出し、いずれも承認された」(2022年3月30日 東京新聞)。先に引用したNHKニュースが2021年9月8日だから、その後も訂正申請が相次いだことになる。

 このように閣議決定から記述訂正まで慌ただしく流れるのだが、文科省は記述の訂正を指導したわけではなく、あくまでも説明会を開催したというのが事実だ。

 一方教科書会社にすれば、言葉の使用(不使用)を強制されたわけではない。これまでも様々な研究に基づいて自由に編集してきた。今回の記述変更も、教科書会社からの、自主的な判断による訂正申請である。

 

 

 今回の教科書の記述変更は、教科書検定制度の骨抜きという事態を露わにした。

 また、過度な自主規制は、検閲があるのと同じ結果を招いているともいえる。

 国定教科書の反省から、教科書検定制度は生まれ、自主的に編集された教科書が使われてきた。その教科書が、政治的な圧力にさらされている。


 

日本の学校は心を育てるところではない。政府が選んだ事実や認められた思想のみが教えられる。教育の目的は、同じように考える子どもの大量生産である

 

 これは2022年に公開されたドキュメンタリー映画『教育と愛国』(斉加尚代監督)の冒頭に流れる英語のナレーションだ。太平洋戦争末期、アメリカで作られた国策映画の一部を切り取ったものだが、日本の戦時教育の学校の様子が映し出される。

 現在の日本の教育現場も、他国の人には同じように映っているのかもしれない。

 

映画「教育と愛国」予告編




 

 ともかく、2022年春、すべての教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」の文字は消えた。

 

 この教科書で学んだ高校生たちは、「従軍慰安婦」の議論を知る機会がなければ、ただ「慰安婦が戦争中にいた」という理解で終わってしまうのだろう。

 

 「表現の不自由展」がなぜあのような騒ぎになったのか。

 ニューヨークやベルリンになぜ慰安婦像があるのか。

 その背景を知ることもなく、「パヨクが騒いでいる」といったSNS上の言葉に触れるだけの毎日ならば、高校生の歴史認識はその程度で刻まれていくのだろう。

 二十年後の日本には、「慰安婦」の議論などなくなっているのかもしれない。

 歴史修正主義者たちの戦略が、また一つ進められたとほくそ笑む声が聞こえてくるようだ。



 閣議決定には、法的効力はない。

 しかし、その影響力はやはり大きい。

 「そもそも」の言葉の意味なんか・・・と笑っていられない。

 閣議決定は、歴史を変える公器にもなりうるということだ。

 それだけの重みがある。

 

 安倍、菅、岸田という十年にもなる政権の、日本会議の動きと連動した右傾化の流れはしっかり検証しなければならない。

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沖縄復帰50年と密約      関川宗英

2022-06-12 16:48:30 | 歴史

沖縄復帰50年と密約      関川宗英




 2022年5月15日は、沖縄復帰50年だった。

 復帰50周年記念式典で、岸田総理は「世界の平和と沖縄のさらなる発展を祈念」すると述べた。

 しかし、沖縄には今も、日本の米軍基地の70%以上が集中している。

 太平洋戦争では捨て石とされ、戦後はアメリカに占領されてきた。

 1972年日本復帰を果たすが、沖縄はいつもないがしろにされてきた。

 世界の平和と沖縄の更なる発展を願うなら、まずは沖縄の人々が被ってきた思いというものを、日本人として振り返る必要があるだろう。





1 うやむやにされた沖縄密約問題 

 

 1969年11月、佐藤栄作とニクソンの日米首脳会談。佐藤は、「核抜き・本土並み」での沖縄返還に合意したと宣言した。

「1972年中に沖縄が核兵器の全く存在しない形で我が国に返還され、事前協議につきましても、何ら特別の例外をもうけないということであります」

 と佐藤栄作は言ったが、緊急時にはアメリカは沖縄に核を持ち込めるという「密約」が、正式な取り決めとは別に交わされていた。



  沖縄返還の際、交わされた密約は大きく言って二つある。核に関するものと、お金に関するものの二つだ。

 沖縄密約が最初に明るみになったのは、お金に関わるものだった。

 

 1972(昭和47)年3月27日の沖縄返還をめぐる国会審議でそれは明らかとなる。社会党の横路孝弘と楢崎弥之助が、外務省極秘電文のコピーを手に、公式の発表ではアメリカが支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、日本政府が肩代わりしていた、と自民党を追及した。

 機密情報は、毎日新聞記者の西山太吉によって社会党議員にもたらされていた。外務省から情報を持ち出したのは、外務省の女性事務官だった。

 密約問題は大きな反響を呼んだが、国会の質疑から一週間後の4月4日、西山と女性事務官は外務省の機密文書を漏らしたとして、国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕、起訴された。

 起訴されると、西山は情報を得るために、外務省女性事務官に近づき、酒を飲ませ、無理やり男女関係を結んだうえで機密情報を盗んだということが明るみになる。

 西山と外務省の女性事務官を公務員法違反で起訴した検察が、起訴状の中で「密かに情を通じ」という言葉を使って、西山と女性事務官の間の男女関係にことさらに焦点を当てた。西山も女性事務官も既婚者だった。メディアでは情報の入手手段に対する一斉攻撃が始まったわけだ。

 倫理感に欠けた取材方法に対する非難が、女性週刊誌やワイドショーで連日展開されるようになった。



 西山は「報道の自由」を主張し、毎日新聞は大規模な「知る権利キャンペーン」を展開したが、低俗な男女関係の批判にかき消されていく。

 国家の体制維持に影響を及ぼすような密約問題を、スキャンダラスな問題にすり替える、この巧妙な世論操作は、当時の東京地検だった佐藤道夫によるものだったという。

 

この事件を当時担当した東京地検の佐藤道夫氏がその後、参院議員に転じてテレビ討論などで、外交密約の存在が問題になると政治混乱が避けられないこと、言論弾圧と騒いでいる知識層やメディアの論調をかわす必要がある、との判断から突如、女性と情を通じて機密の電信コピーを入手したのはけしからん、という形での世論誘導を思いついた、と述べている。

(経済ジャーナリスト牧野 義司 https://kenja.jp/1010_20180214/)

 

 佐藤道夫の世論操作は成功した。沖縄の密約問題の追及は、立ち消えとなった。

 1972年5月15日、沖縄返還は実現された。

 西山と女性事務官は、1976年までに国家公務員法違反で有罪が確定する。




2 やっぱり密約はあった

 

 それから四半世紀後の2000年ごろ、アメリカ側の機密が解除されたことで、再び沖縄の密約問題はメディアを賑わすようになる。

 アメリカの公文書から、密約は実際に存在したことが明らかになった。

 西山が掴んでいた400万ドルという情報も事実であることが判明した。が、実際に動いたお金はそれをはるかに上回るものだった。

 

 返還協定に明記された日本政府が払うとされた金額は、3億2千万ドルだった。しかしアメリカが最終的に得た財政的な利益は6億8千5百万ドルに上る。その中には、「アメリカの求めに応じ移転、施設改善の名目で2億ドルを日本が負担する」というその後の”思いやり予算”の原型となったものもあった。

 

 沖縄返還にかかわるアメリカの戦略については、NHKのBS世界のドキュメンタリー「沖縄返還と密約」(2010年05月16日放送)が詳しく報じている。

 1972年の沖縄返還直後にアメリカ政府がまとめた報告書「沖縄返還ケース・スタディ」をもとに、返還交渉の過程を検証した48分の番組である。

 「核抜き本土並み」を実現したい佐藤栄作、沖縄の基地を自由に使いたいアメリカ、日本の高度経済成長と膨らむ対米貿易黒字、ベトナム戦争・・・、さまざまな要素が沖縄返還の密約を生んでいく。

 番組のラスト、沖縄返還に関わったアメリカ関係者モートン・ハルペリンの次の言葉が印象的だ。

「沖縄が返還されて40年が経とうとしているが、アメリカは沖縄を軍事基地としか見ていない」

 そして、沖縄返還はアメリカ外交史上希に見る成功例と位置づけているという「沖縄返還ケース・スタディ」の報告で番組は締めくくられる。

 アメリカの外交戦略のしたたかさを見事に描き出した48分だった。





3 次々に明らかになる密約、軍事行動

 

 明るみになった密約は、沖縄に関するものだけではなかった。

 沖縄返還前後の核に関する密約も、アメリカの公文書公開から次々に明らかになる。そして、日本の政府関係者の手記や証言も表に出るようになり、核密約の詳細が次第に明らかになってきた。



 1960年につくられた「討議の記録」という密約文書がある。

 1960年の日米安保条約改定の直前、岸信介内閣の外務大臣だった藤山愛一郎とアメリカのマッカーサー駐日大使によって作られたものだ。

 「討議の記録」の内容について、『知ってはいけない2』(矢部宏冶)の要約を引用する。



ここでその「討議の記録」という密約文書の驚くべき内容を、ごく簡潔に紹介しておこう。

 

1960年1月6日、安保改定の調印(同19日)から約2週間前、岸政権の藤山外務大臣とアメリカのマッカーサー駐日大使(有名なマッカーサー元帥の甥)によってサインされたその文書には、次の4つの密約条項が明記されていた(以下、著者による要約。〔 〕内は補足説明部分)。

 

A〔日本の国土の軍事利用について①〕:「核兵器の地上配備」以外の、兵器に関する米軍の軍事行動については、日本政府との事前協議は不要とする

B〔他国への軍事攻撃について①〕:日本国内から直接開始されるケース以外の、米軍による他国への軍事攻撃については、日本政府との事前協議は不要とする〔=沖縄(当時)や韓国の米軍基地を経由してから攻撃すれば、問題はない〕

C〔日本の国土の軍事利用について②〕:Aの「核兵器の地上配備」以外で、旧安保条約時代に日本国内で認められていた米軍の軍事行動については、基本的に以前と変わらず認められるものとする

D〔他国への軍事攻撃について②〕:米軍の日本国外への移動については、日本政府との事前協議は不要とする〔=一度国外に出たあと、米軍がどんな軍事行動をとろうと日本政府は関知しない〕

(矢部宏冶 「なぜ日本は、アメリカによる「核ミサイル配備」を拒否できないのか」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58278?page=2)






 1960年の「討議の記録」の前後、この密約に連なるように、様々な軍事行動が明らかになっている。時系列に沿って、そのいくつかを取り出してみる。

 

 朝鮮戦争末期の1953年(昭和28年)10月15日、核を搭載した空母オリスカニが横須賀に入港した。

 

 1954年(昭和29年)、海上自衛隊が出来た。これは、アメリカの空母を守ることが使命だった。空母オリスカニは60個の核兵器を積んでいた。これは、中国やソ連との全面核戦争を想定したものだった。海上自衛隊は、日本海を封鎖して、ソ連の潜水艦を日本海に封じ込め、アメリカの空母が自由に動けるよう またソ連に見つからないように、協力していた。

 

 空母オリスカニについては、2008年11月9日放映のNHKスペシャル「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、生々しく紹介された。

 

 1963年(昭和38年)、「ライシャワー駐日大使が当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録が、1999年(平成11年)にアメリカの外交文書の中に発見された。

 

 1966年(昭和41年)、ベトナム戦争の渦中、「返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあった」、「1966年の少なくとも3か月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していた」というライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長の証言が、読売新聞や毎日新聞に報道された。2010年のことである。

 

 朝鮮半島有事の場合、沖縄だけでなく、日本本土にある基地の自由使用を「ほとんど肯定する」と日本政府は約束した。さらに、台湾での有事の場合についても「前向きに応じる」としていた。沖縄返還50年の今年、5月15日のNHKスペシャル「証言ドキュメント “沖縄返還史”」が報じている。

 

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「朝鮮半島、それから台湾の安全というのは、日本の安全保障と密接な関係があるという認識を、そこで表明するということで、法律的な約束はしないけれども、政治的な心証としては、日本はアメリカが事前協議をしてくれば、まずほとんど間違いなく『イエス』と言うでしょう、という心証を与えるということによって、手を打ったわけですね」

(NHKスペシャル「証言ドキュメント “沖縄返還史”(後編)」 2022/5/15放送)






4 「密約」は1952年の吉田内閣時代から

 

 2022年2月、ロシアがウクライナに進攻した。

 もしロシアと同じように、中国が台湾に進攻したらどうなるのか。

 台湾有事の時は、米軍は日本の基地を自由に使用できる。そのようにはっきりと文書は交わしていないが、そのようなニュアンスを与えることで、日米交渉は決着したと、栗山尚一(条約局条約課 調査官)は述べている。

 このような曖昧な交渉、さまざまに解釈できるような言葉で、国の重要な方針が決められていく。これは、1952年の日米安保条約締結、吉田内閣の時にもあった。

 

 GHQの占領下にあった日本の独立は、吉田茂の悲願だった。日本の独立は、サンフランシスコ講和条約の締結により実現されるが、それは日米安保条約とセットだった。

 吉田茂の日米安保条約は、アメリカが日本の安全の責任を全面的に負う、そのかわり日本は基地を提供するというものだ。しかし、その基地をどこに置くのか、その基地使用の期限はいつなのかといったことは書かれていない。さらに、いざというときの事前協議についても条約には書かれていなかった。

 軍事占領下にあった沖縄について、ダレス国務長官は、「主権は日本に残されている」と言いつつ、「戦略的必要に基づいて管理する」という言葉も残している。吉田茂は講和条約受諾演説で、「これらの地域の主権は日本に残されている」と述べたが、それは言外に〝戦略的必要以外〟という注があったということだ。

 このように、1952年、朝鮮戦争のさなか、日本は曖昧な譲歩を重ねながら、日本の独立を表向き成し遂げた。次の年の1953年には、核を積んだ空母オリスカニが朝鮮に向かう前、日本に立ち寄っていることを考えると、日本の主権回復は、軍事的な緊張をアメリカと共有することで実現されたともいえる。



 佐藤栄作の「核密約」は、吉田茂の安保条約、それに続く岸内閣の「討議の記録」をみれば、歴代内閣が引き継いでいることは明らかだ。

 日米の様々な密約は、吉田内閣のときから始まっている。

 

 かつて沖縄県知事だった翁長雄志は「日本は、憲法の上に日米地位協定があり、国会の上に日米合同委員会がある」 と語ったが、「討議の記録」をはじめとする一連の密約は、GHQの占領、吉田茂の安保条約調印、そして岸信介の新安保条約と続く流れの中で、国家主権をないがしろにされてきた戦後政治の欺瞞を象徴するものだ。

 

 しかし、アメリカの公文書から様々な密約問題が明らかになっても、日本政府は密約について否定を続けてきた。

 2009年の政権交代で鳩山由紀夫が総理大臣に就任すると、外務省内に調査委員会が設置され、2010年3月に密約の存在が公に認められた。





5 まとめ

 

 1974年、佐藤栄作は非核三原則などの制定が評価され、ノーベル平和賞を受賞する。

 核兵器を「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則は1967年12月に、当時の佐藤栄作首相が衆院予算委で表明した。その後、唯一の被爆国日本の「国是」として扱われるようになった。

 しかし、1970年前後に「沖縄密約」「核密約」を推進し、核の寄港・通過を認めた佐藤栄作が、ノーベル平和賞を受賞するということは、ベトナム戦争の北爆を推進したキッシンジャーのノーベル平和賞と同じく、平和を願い、穏やかな暮らしを築こうとする人々の努力をないがしろにするものでしかない。

 

 太平洋戦争では日本で唯一地上戦の場となった沖縄。

 敗戦後、米軍基地としての使用を昭和天皇によって明言された沖縄。

 そして今も沖縄には、70%もの米軍の基地がある。

 沖縄はいつも、日本の犠牲となってきた。

 沖縄の犠牲によって、今の日本の張りぼてかもしれない繁栄と平和があることを忘れてはならないだろう。

 沖縄返還50年に際し、沖縄の人々が被ってきた思いというものを、私たち日本人は振り返る必要がある。

 

 


2017年  沖縄戦没者追悼式



沖縄返還50周年 岸田首相の式辞(2022年5月15日)

 

これからも日米同盟の抑止力を維持しながら 、基地負担軽減の目に見える成果を一つ一つ着実に積み上げていく。

復帰から50年という大きな節目を迎えた今日、私は沖縄がアジア太平洋地域に、そして世界に力強く羽ばたいていく新たな時代の幕が開けたことを感じている。

復帰から今日に至る沖縄県民のたゆまぬ努力と先人たちのご尽力に改めて敬意を表するとともに、世界の平和と沖縄のさらなる発展を祈念し、私の式辞とする。





沖縄少女暴行事件(1995年)

 

 1995年9月、沖縄県警捜査一課と石川署は、小学生女児に暴行したとして、同県にある米軍基地所属の米兵3人について逮捕監禁と婦女暴行容疑の逮捕状を取り、米軍側に身柄引き渡しを要求した。

 3人は車で基地外に遊びに出掛けた際に、沖縄本島北部の住宅街で買い物帰りの小学生を発見。無理やり車に押し込み、ガムテープで目や口をふさぎ、手足をしばるなどして、約1・5キロ離れた場所まで連れて行き、車内で乱暴した疑い。

 米軍当局が3人を基地内に拘束したため、県警は逮捕状を取って身柄の引き渡しを求めたが、日本駐留米軍人の法的地位などを定めた日米地位協定で「日本側が起訴するまで米軍側が身柄を拘束することを認めている」ことを理由に拒否された。のち、那覇地検は逮捕監禁と婦女暴行の罪で3人を那覇地裁に起訴。米軍側は3人の身柄を日本側に引き渡した。

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天皇の戦争責任 マッカーサーの報告     関川宗英

2022-04-30 15:59:14 | 歴史

天皇の戦争責任 マッカーサーの報告     関川宗英



「ウクライナ政府、日本に外交ルートで謝罪。昭和天皇の写真を「ファシズム」と… 外務省が動画に削除要請」(2022/4/25 BuzzFeed Japan)というニュースが報じられた。

 ロシアのウクライナ侵攻から2か月余り、思わぬところから日本の戦後処理が特殊なものであることが露わとなった恰好だ。  

  以下、そのニュース記事を引用しておく。

 

ウクライナ政府、日本に外交ルートで謝罪。昭和天皇の写真を「ファシズム」と… 外務省が動画に削除要請

外務省としてもツイートの問題は独自に把握しており、申し入れは日本時間の4月24日に実施。同日中に外交ルートで謝罪があり、すぐに削除対応をされたという。

公開 2022年4月25日

by Kota Hatachi 籏智 広太  BuzzFeed News Reporter, Japan

 

ウクライナのTwitter公式アカウントが4月24日夜(日本時間)、日本に対して「心からお詫び」をした。「友好的な日本の人々を怒らせるつもりはなかった」などとしている。

ロシアの侵略に関する動画で過去の「ファシズム」と「ナチズム」について触れる際、昭和天皇の写真が用いられていたことから、一部のユーザーを中心に批判が集まり、国会議員らも反発していた。

外務省欧州局も大使館経由で抗議と削除を申し入れたという。ウクライナ政府からは、外交ルートを通じて謝罪があったとしている。

ウクライナの公式アカウントは200万人以上のフォロワーを持つ。もともとの動画は4月1日に公開されているもので、ロシアやプーチン政権をファシズムやナチズムになぞらえて批判するメッセージが込められていた。

その中で用いられていたのが、昭和天皇の写真だった。「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」として、第二次世界大戦中の敗戦国である日本、ドイツ、イタリアに言及。ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ形となっていた。

これに対し、ツイッター上では一部ユーザーから批判が噴出。自民党外交部会長の佐藤正久・参議院議員ら、国会議員からも抗議の声があがっていた。こうした動きとあわせ、セルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ大使もTwitter上で、対応を求めていた。

ウクライナの公式アカウントは4月24日夜、「間違いを犯したことを心よりお詫び申し上げます。日本の友好的な人々を怒らせるつもりはありませんでした」などと説明。昭和天皇の写真がなくなった動画が再公開されている。

外務省欧州局中・東欧課の担当者はBuzzFeed Newsの取材に対し、「写真が不適切ということでウクライナの大使館から同国の大統領府に対して、ただちに削除するよう申し入れを行いました」と経緯を説明。

同課としてもツイートの問題は独自に把握しており、申し入れは日本時間の4月24日に実施。同日中に外交ルートで謝罪があり、すぐに削除対応をされたという。

どの点が「不適切」であると伝えたかの詳細などについては、「外交上の内容となるため、明らかにできない」としている。

削除の翌朝、在日ウクライナ大使館は「当館は把握しておらず対応が遅くなりましたがまずは削除となりました。ご指摘の皆様に感謝申し上げますと共にご不快に思われた日本の皆様にまずは深くお詫び申し上げます」とツイート。

さらに「アカウントは、現在はウクライナ政府と関係がありません」ともしているが、Twitterの当該アカウント(@Ukraine)には、ウクライナ政府と関係があることを示す「政府および国家当局」に関係するアカウントであることを示すラベルがつけられている。

この点について、外務省の担当者は、当該アカウントはウクライナ政府関連のものであるとの認識を改めて示した。大使館側の発信の背景などは把握していないという。             

 (https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/ukrine-emperor-photo)

 

 ファシズム、ナチズムと批判されたドイツ、イタリアからはこのような抗議はないという。

 日独伊三国軍事同盟が世界の中で、歴史的にどのように認識されているのか、その常識を踏まえていない今の日本が露呈された形だ。

 歴史的事実を踏まえず、歴史修正主義者たちの言説がメディアに乗る日本の異常を、私たちは改めて目の当たりにしている。




 天皇は国家の元首だった。

 大日本帝国憲法の第一条には、「主権については万世一系の天皇が大日本帝国を統治する」とある。

 天皇臨席の御前会議で、戦争の開戦、講和など国家の重大事件の決定がなされた。三国軍事同盟を決定したのも御前会議だ。

 天皇は通例、質問のほかは発言しないものとされているが、『あの戦争と日本人』(半藤一利)は、1941年(昭和16)9月5日の御前会議を次のように伝えている。

 

 さらに、近衛文麿『失はれし政治』(朝日新聞社)、『杉山メモ』(原書房)などの資料が伝える九月五日、この日の天皇と杉山元参謀総長との一問一答はあまりにも有名です。

 天皇「アメリカと戦争となったらならば、陸軍としては、そのくらいの期間で片づける確信があるのか」

 杉山「南洋方面だけは三ヵ月くらいで片づけるつもりであります」

 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時は、事変は一ヵ月くらいで片付くと申したが、四カ年の長きにわたっても片づかんではないか」

 杉山「支那は奥地が広いものですから」

 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって三ヵ月と申すのか」

 書き写していても情けなくなる杉山の出まかせの答弁。天皇の厳しい叱責に、杉山は「また天ちゃんに叱られちゃったよ」とペロリと舌をだした話が伝えられているくらいです。

(『あの戦争と日本人』 半藤一利)



 1945年(昭和20)8月14日の御前会議では、ポツダム宣言受諾を天皇の「聖断」により最終的に決定したとされている。

 御前会議は、大本営政府連絡会議、最高戦争指導会議の決定議案を追認するにすぎなかったというが、天皇臨席の場で戦争の開戦や講和など国家の重要事項を決定していた意味は大きい。

 ヒットラー、ムッソリーニ、そしてヒロヒト。第2次世界大戦の惨禍を、連合国側は同盟国側の戦争責任者を軸に総括している。

 しかし天皇ヒロヒトの戦争責任は、戦後日本の占領政策もからんで、東京裁判で扱われることはなかった。



 

 「ヒロヒトの国際法違反の証拠を集めよ」という司令をアメリカ政府は、連合国軍最高司令官マッカーサーに出している。昭和20年暮れのことだ。これを受けてマッカーサーは、昭和21年1月25日、次のように回答している。

 

 司令を受けて以来、天皇の犯罪行為について秘密裏に可能なあらゆる調査をした。過去10年間日本の政治決定に天皇が参加したという特別かつ明白な証拠は発見されなかった。可能な限り完全な調査から、私は終戦までの天皇の告示関連行為はほとんど大臣、および天皇側近者たちの進言に機械的に応じてなされたものであったとの印象を受けた。もし天皇を戦犯として裁くなら占領計画の重要な変更が必要となり、そのための準備が必要となる。天皇告発は日本人に大きな影響を与え、その影響は計りしれないものがある。天皇は日本国民統合の象徴であり、彼を破壊すれば日本国は瓦解するであろう。

(『戦後占領史』竹前栄治)

 

 昭和20年10月、11月の頃、アメリカ世論は「天皇を戦犯裁判にかけるべし」という声が圧倒的だったという。連合国内部でも、オーストラリア、中国、ソ連、フィリッピンなどにも天皇戦犯論は強まっていたそうだ。

 しかしアメリカ政府は、天皇を東京裁判にかけることの得失を、現実的な目で、冷静に計算していた。アメリカの国務省、陸軍省、海軍省の三省からなる三省調整委員会は、天皇を戦犯裁判にかけるよりむしろ占領目的に役立つ限り天皇を利用する方が望ましい、という方向を昭和20年末には打ち出していた。(『昭和史 七つの謎』 保阪正康)

 

 東京裁判は、連合国の側に人類史にふさわしい真理があることを、世界に示し、公式な歴史に残す大変重要なステージだった。

 東京裁判は、日本陸軍を中心とした軍国主義者が、共同謀議により、侵略的な政策を進めたというストーリーの元、進められた。そこには、天皇の戦争責任は問わない、大本営の責任は問わない、という論理が沈潜していた。



 日本は、太平洋戦争をきちんと総括できていない。

 天皇の戦争責任を含め、侵略の歴史を曖昧なままに過してきた。

 そのつけが、「ウクライナ政府、日本に外交ルートで謝罪。昭和天皇の写真を「ファシズム」と… 外務省が動画に削除要請」などという、日本の恥をさらすような今回の事態を引き起こしたといえる。

 

 2022年春、社会科の全ての教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」の言葉が消えたそうだ。

 95年度の申請時には教科書会社の7社すべてが『従軍慰安婦』もしくは『慰安施設』と『強制連行』を記載していた。

 歴史修正主義者の声がますます大きくなり、歴史をゆがめている日本だが、アジアの人々は日本の侵略の歴史を忘れていない。

 

 1940年(昭和15)8月、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱のなかで、大東亜新秩序の建設をうたった。「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基」づくと述べた。

 「八紘一宇」のスローガンのもと、大東亜共栄圏、アジアの建設が叫ばれたが、それは日本のアジア侵略を正当化するものだった。

 日本の侵略戦争によるアジアの犠牲者は2000万人以上にもなるという。

 「八紘一宇」のもともとの意味が人々を救済する理想郷をうたうものだったとしても、侵略の歴史的な事実は覆らない。

 アジアの人々は、日本が皇国史観のもと、侵略を進めたことを忘れていない。




 「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。」と魯迅は書いている。

 歴史に真摯に向き合い、歴史から謙虚に学ぶことを忘れてはいけない。

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孫文そしてウクライナ   関川宗英

2022-04-03 17:46:11 | 歴史

孫文そしてウクライナ   関川宗英

 

 台湾の高校では、「軍事訓練」がカリキュラムに組み込まれているそうだ。芥川賞作家の李琴峰が朝日新聞(「国家に領有される個人」2022/3/29)に書いていた。

 毎朝の朝礼では、国歌を斉唱し、国旗掲揚式を行う。そして、国旗と孫文の肖像画が掲げられている「司令台」から、教師の長い話がある。

 また、高校では「三民主義」という授業があって、孫文の思想を学ぶのだという。

 

 中国の革命家、孫文。中国建国の父として、台湾でも中国でも崇められている。中国国民党が台湾を建国してから、有事に備え、ナショナリズム発揚のために孫文は称えられてきたのだろう。

 かつて孫文は日本にも亡命し、アジア主義を唱える多くの日本人革命右翼とともに行動して資金を集め、中国の革命を成し遂げようとしていた。

 孫文は中国の革命を実現する前に病没してしまうが、その死の前年、神戸で行われた「大アジア主義」の講演は、今の日本の混迷を予言するような言葉があり、今なお考えさせられるものだ。

 




孫文の「大アジア主義」

 

 講演は、1925年12月28日、県立神戸高等女学校で行なわれた。

 当時、孫文は西洋のアジア支配に対抗するために、中国、朝鮮、日本が連帯して新しい国づくりを進めるアジア主義を掲げていた。アジア主義に賛同する宮崎滔天や頭山満など日本の思想家も、亡命中の孫文を助け、資金集めに協力していた。しかし日本は、1910年の「日韓併合」、1915年の「対華二十一か条要求」など、覇権主義的な動きを見せるようになっていた。資源のない日本が、近代国家を実現するために、中国などの資源に活路を見出そうとしたためだ。

 一方、中国国内では1919年の「五=四運動」など反日ナショナリズムが渦巻くようになる。

 そんな情勢下の講演だったが、孫文はまず日本を礼賛することから始める。 

 

然し乍ら、それより十年を過ぎて日露戦争が起り、其の結果日本が露国に勝ち、日本人が露西亜人に勝ちました。これは最近数百年問に於けるアジア民族の欧州人に対する最初の勝利であったのであります。此の日本の勝利は全アジアで影響を及ぼし、アジア全体の諸民族は皆有頂天になり、そして極めて大きな希望を抱くに至ったのであります。

 

 「日露戦争は西洋の進出にブレーキをかけたという点で、世界史的な大事件であった。第2次世界大戦後、新たに独立した国々の指導者の中には、若いころに日露戦争における日本の勝利を知り、発奮した人が多かった。」と北岡新一も書いていた(『日本政治史』)。

 「アジアで初めてロシアに対する圧力をかけ始めたのが日本です。引き続きその継続をお願いします」とゼレンスキー大統領も3月23日の国会演説で訴えている。

 当時、日本はアジアの希望だった。孫文も中国の革命を目指す中、日本に期待するものは大きかっただろう。

 しかし、日本は、西洋の帝国主義に対抗するアジアの一国ではなく、欧米列強に比肩しうる新たな帝国として覇権主義的振舞いを露骨にするようになっていた。

 孫文は、次のような言葉で講演を締めくくった。

 

貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。(「孫文選集」1966)

 

 日本が「西洋覇道の鷹犬」となるか、「東洋王道の干城」となるか。孫文の願いは叶わず、日本は帝国主義的な支配をアジアで実現していく。太平洋戦争下、2000万人以上ものアジアの人々の命を奪った。その末路は、1945年の敗戦だったが、それは日本の「西洋覇道の鷹犬」となった成れの果てだった。

 それから80年、日本は奇跡的といわれる経済復興を成し遂げたが、本質的に「西洋覇道の鷹犬」のままだ。

 竹内好はそんな日本を、西洋近代を何の抵抗もなく受け入れた「優等生文化」、「主体性の欠如」と切り捨てた。

 一方、封建的な清国を倒し、貧困に苦しむ人のいない平等な社会を目指していた孫文だが、今中国の共産主義と中華思想による覇権主義が国際秩序を脅かしている。習近平の中国は、100年以上前の「屈辱の清算」を国家戦略の基本とし、政治、経済ばかりでなく、国際社会が築き上げてきた自由や民主主義への脅威となっている。




火炎瓶で抵抗するウクライナの人々

 

 ロシア軍によるウクライナ侵攻が2月24日に始まってから1カ月余りが過ぎている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表によれば、ウクライナから近隣国への避難民は3月29日時点で400万人を超える。そのほとんどは女性と子供だ。

 ウクライナは「国民総動員令」を発令し、18~60歳男性の出国を禁止している。多くのウクライナの人々が、国を守るために戦っている。ウクライナの国防省は火炎瓶の作り方を紹介し、敵を無力化して欲しいと市民に訴えているという。

 

 冒頭の朝日新聞の記事で李琴峰は、現在のロシアによるウクライナ侵攻について、次のように書いている。

 

 安全なところにいながら「ウクライナは徹底抗戦しろ!」と煽(あお)るのも、「これ以上犠牲を出さないためにウクライナは降伏すべきだ」とすまし顔で論じてみるのも、無責任極まりないだろう。

 

 そのうえで、「国家とは一種の信仰だ」「国家は共同幻想」と述べている。

 

 「ウクライナとロシアは歴史的に一体だ」というロシアの主張も、「台湾は中国の神聖にして不可分の一部だ」という中国の主張も、その類の物語だ。

 

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、連日の戦況を伝えるニュースは、中国と台湾のような国の緊張を否応なく高める。もし台湾有事となれば、「西洋覇道の鷹犬」日本はどのような立ち位置をとるのか。安倍政権時、集団的自衛権行使を可能とした日本は、自衛隊を出動させるのか。

 

 李琴峰は朝日の記事で、「私が信仰しているのは自由だ」と書いている。国を信仰することより、個人の尊厳を大切にしたいということだろう。

 そしてさらに書く。

 

 自由を信仰するのは、国家を信仰するより遥かに難しい。

 

 李琴峰の言葉は今回のロシアの暴挙に対して、戦略的な解を提示しているわけではない。しかし、彼女の言葉は、勇気を与えてくれる。そして、市民社会は、自由を求める多くの人々の意志と行動に支えられていることを思い起こさせる。

 アルジェの戦いは、多くの犠牲者が独立を勝ち取ったことを教えてくれる。八紘一宇、皇国史観のもと、最後は竹槍、本土決戦を叫んでいた国があったことも私たちは知ってる。

 誰にとっても大切なものは、平穏な毎日だろう。大切な人とすごすことや美しい音楽に心ときめく時間など、そんな平穏な毎日は、自由と平等を求める多くの人の願いと努力によって実現される。

 国を守ること、民族を守ることの大切さ。一方、ナショナリズムに翻弄されることの愚かさ。私たちは、歴史を鏡にして、考え続けなければならない。

 

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関東大震災の朝鮮人虐殺 ラムザイヤーと藤野裕子

2021-07-16 17:12:46 | 歴史

関東大震災の朝鮮人虐殺 ラムザイヤーと藤野裕子             関川宗秀



 1923年9月1日、関東大震災が発生した。

 映画監督の黒沢明は当時13歳だった。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂が近所に広がっていた。白墨のしるしがある井戸が目印だという。ところがその印は以前、黒沢少年が落書きしたものだった。黒澤明本人が語った、関東大震災の思い出話だ。

 

 ハーバード大学ロースクールのジョン・マーク・ラムザイヤー教授という政治経済の学者が、1923年関東大震災の朝鮮人虐殺事件を歪めた論文を発表していると、ノンフィクション作家加藤直樹が指摘している。(2021年7月5日の朝日新聞「論座」

 ラムザイヤーの問題の論文は、“Privatizing Police:Japanese Police,the Korean Massacre,and Private Security Firms”(「民営化する警察:日本の警察、朝鮮人虐殺、そして警備会社」)というタイトルで、2019年6月に書かれている。加藤によれば、ラムザイヤーは次のように、1923年の朝鮮人虐殺の史実を歪めているという。



 朝鮮人虐殺事件に対するラムザイヤーの関心は、以下の引用部分にまとめられている(以下、本連載ではラムザイヤーの論文からの引用はグレー地の囲みで表記する)。

 「問題はこれ(朝鮮人の重大犯罪と自警団の虐殺:加藤注)が起きたかどうかではない。どれだけの規模で起きたかだ。より具体的には、(a)震災の混乱の中で、朝鮮人はどのくらい広範に犯罪を行ったのか、そして (b)自警団は実際に何人の朝鮮人を殺したのか――である

 彼は、震災時に流言で語られたような朝鮮人の重大犯罪やテロが実際にあったと主張しているのである。その上、自警団の虐殺を朝鮮人の犯罪に対する「報復殺人」と規定している。

 「朝鮮人による破壊行為の範囲を割り出そうとする際に陥る証拠の泥沼は、日本人による報復殺人の範囲を割り出そうとする際にも当てはまる」「彼ら(新聞)は朝鮮人の犯罪に関する異常なほど恐ろしい話や、日本人の報復に関する同様に恐ろしい話を報じた

 といった具合だ。

 これに加えて、殺された朝鮮人の人数を推測する試みも行っているのだが、いずれにしろ、もはや論文のテーマからは完全に「逸脱」しているのはお分かりだと思う。

 朝鮮人が重大犯罪やテロを行ったのは事実であり、自警団の殺人はこれに対する正当防衛だった――という議論は、ネット上でしばしば見受けられる。私はこれを「朝鮮人虐殺否定論」と呼んでいる。ホロコースト否定論という言葉が、単に「ガス室はなかった」という主張だけでなく、ホロコーストという歴史的事実の意味を、事実を歪めて矮小化しようとする試みを含めて名指す言葉として使われていることに倣ったものだ。ラムザイヤーの主張内容が、そういう意味で「朝鮮人虐殺否定論」であることは間違いない。



 ラムザイヤーの論文の巻末には97本の参考文献が挙げられているが、うち6本が匿名の個人ブログだそうだ。美空ひばりのスキャンダルを取り上げた誰とも知れぬファンブログや、「大阪ニュース」「暴力団ニュース~ヤクザ事件簿」といったタイトルで新聞記事をまとめたものなどである。この点について、加藤直樹は次のように書いている。



 先行研究の無視ということで言えば、参考文献で挙げられている震災関連の資料のなかに、山田昭次、姜徳相、琴秉洞、田中正敬、松尾章一といった虐殺研究の第一人者たちの、日本語による研究文献が一冊も含まれていない。山田の英文論文が一つ入っているだけだ。虐殺問題をめぐって日本政府がどう動いたかを検証した宮地忠彦『震災と治安秩序構想』(クレイン)も当然、入っていない。ラムザイヤーは、先行研究に学ぶことで得られる基本的な知識を欠いたままで、虐殺の様相や当時の日本政府の動向について議論を展開しているのである。その結果として、決定的な部分も含む至るところに一次史料の誤読が散見されるし、推論のみで提示される無理な主張も多い。参考文献の問題性としては、主張に関わる重要な数字の出典として匿名の個人ブログを挙げていたりする。



 ラムザイヤーの論文は、先行研究の基本的な知識を欠き、一次史料の誤読、推論による無理な主張も多く、論文の体をなしていないと、加藤の指摘は手厳しい。

 

 

 先日、『民衆暴力』(藤野裕子 2020年 中公新書)を読んだ。

 世直し一揆や秩父事件、日比谷焼き討ち事件、関東大震災の朝鮮人虐殺など、江戸末期から大正期までの歴史的な民衆の暴力を、その行為者に即して理解を試みながら、権力への抵抗だったという安易な称揚にも与せず、「過去の民衆暴力を見る視線を研ぎ澄ませれば、現在を見る眼も磨かれる」という著者の思いに貫かれた良書である。

 

 この本の第4章と第5章は朝鮮人虐殺にあてられている。地震の直後、「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸の毒を入れた」「放火した」などという噂が日本人の間に広まり、東京や神奈川で民間の自警団が2000以上できたそうだ。しかし、その噂はデマであり、実態のない想像上の産物に過ぎないと藤野裕子は断言している。

 

 それでは、流言は本当に誤りだったのだろうか。これまでの研究は、この点についても丁寧に検証している(山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺』)。

 司法省の「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」のうち、罪を犯したとされる朝鮮人は140人いる。そのうち、氏名不詳・所在不明・逃亡・死亡とされる者が約120人、86%にのぼる。

 後述するように、東京では自警団が各地域に検問所を設けて、通行人を誰何し、教育勅語を言わせるなどして、朝鮮人かどうかを判断した。裏返せば、そうでもしない限り、朝鮮人か日本人かを見た目だけで判断することは困難だった。この司法省の発表に対し、同時代のジャーナリスト石橋湛山は、「所謂鮮人の暴行は、漸く官憲の発表する所に依れば、殆ど問題にするに足らぬのである。〔中略〕官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく、多分は氏名不詳、たまたまその明白に氏名を掲げあるものも、現にその者を捕まえたるは少ない。かくては、その犯罪者が果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである」と批判している。(『東洋経済新聞』1923年10月27日)。犯人の名前がなく、捕まってもいないのに、朝鮮人の犯罪として統計に数えられていることが、同時代にも批判されていた。

 残りの20人ほどのうち、3人は判決が確定してなく、残る16人、15件が有罪となっている。罪状は窃盗・横領・贓物(ぞうぶつ)運搬などである。東京市だけでも、震災後三ヵ月間で約4400件の窃盗があったというから、そのうちの15件が朝鮮人の犯行だったとしても、それだけで朝鮮人が暴動を起こそうとしていた証拠にはならない。(『民衆暴力』P148)

 

 朝鮮人暴動はなかったという論証に続いて、その誤情報を政府が流していた事実が記されている。警察を管轄する内務省警保局は、「震災を利用し、朝鮮人は各所に放火し不逞の目的を遂行せんとし現に東京市内で爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり」と全国の地方長官に通達を出している。この通達は9月3日のことだ。

 政府は震災翌日の9月2日、東京市と周辺地域に戒厳令を施行している。この戒厳令の目的は「人心の安定」であり、「朝鮮人暴動」への対応ではなかったとする説もあるそうだが、流言が広まる中、警察が出動し、全面的に治安の維持を担ったことで、朝鮮人が暴動を起こしているという噂に信憑性を与え、「軍隊・警察・民衆が朝鮮人を殺害することへのためらいが払拭された」と藤野裕子は書いている。

 そして9月5日、山本権兵衛内閣は、一転して事態の収拾を図るべく、朝鮮人迫害を諫める告諭(「民衆自ら濫に鮮人に迫害を加ふるが如きこと」を戒める)を発出する。その告諭の中には、「諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず」という文言もあったという。そして告諭は、地方長官に対して流言を流布する新聞記事の差し止め・差し押さえを命じている。

 さらに、虐殺された朝鮮人を焼くときに「数がわからないようにしろ」という埼玉県本庄署などの隠蔽工作まで『民衆暴力』は教えてくれる。

 このような政府の対応を追っていくと、朝鮮人の暴動というデマの肥大化に政府が加担していたこと、そして政府の混乱ぶりがよくわかる。

 

 『民衆暴力』は、膨大な一次史料、二次史料から、歴史の検証を行っている。藤野裕子は本書のあとがきで、「大学生にも手に取ってもらえるように願って書いた」と述べているが、新書版ながら本書の内容は研究書としても堪え得る、読み応えのあるものだ。



 ラムザイヤーを論難する加藤直樹の記事に対し、「論座」に投稿された読者のコメント見ると、朝鮮人虐殺について正しい歴史の検証を求める声が多いように感じる。が、「従軍慰安婦問題を捏造した」などというステレオタイプの言葉で、加藤の記事を批判しているものも散見され、うんざりする。

 

  『民衆暴力』のあとがきで著者は、そもそも本書をまとめる決意のきっかけは、「前著の刊行以後、歴史修正主義が行政にまで入り込んでいることを痛感せざるを得なかったこと」だと書いている。

 「前著」とは『都市と暴動の民衆史』(有志舎 2015年)という専門書である。

 2015年といえば、憲法の解釈を変え、集団的自衛権を可能とした安保法制が作られた年だ。

 また、この2015年は、戦後70年談話(安倍談話)が発表された年でもある。50年談話(村山談話)、60年談話(小泉談話)などで使用された4つのキーワード(「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」)を安倍晋三も使用したが、それは日本がこれまで繰り返し反省とおわびを表明してきたことを間接的に引用したものだった。

 そして、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と明記している。今後、際限なく謝罪を続けることはない、という意思表示も明確に行った。

 さらに、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とした。これは、日本の対外侵略の歴史を修正し自己肯定的にとらえようとするものだ。

 

 その前年の2014年1月に、新しくNHKの会長に就任した籾井勝人が、就任会見で、旧日本軍の従軍慰安婦について、「戦争をしているどこの国にもあった」などと発言して、物議を醸していた。

 

 2017年、東京都の小池百合子知事が、毎年9月1日に開催されている「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に、知事名の追悼文を送らない決定をした。過去の知事は送ることが通例となっており、それを覆すことの政治性が問題になった。2020年の追悼式まで連続4年、小池百合子知事は追悼文を送っていない。(追記 小池百合子は2021年も追悼文を送らなかった)

 

 2015年ごろを少し振り返っても、歴史修正主義者たちの動きは、藤野裕子の言葉の通り、より露骨になってきていると言わざるを得ない。

 

 私たちは、さまざまな、今日的な課題に直面している。

 そのとき、私たちに示唆と勇気を与えてくれるのは、書物や芸術作品など、先人の知的営為だろう。

 先人が、逆境の中にあって、その諸問題といかに取り組み、思考していったのか。先人の学問的、芸術的な取り組みは、困難な事態に立ち向かい、未来を志向しようとする者に、様々なことを教えてくれる。

 

 藤野裕子の労作も、そんな先人たちの知的営為の積み重ねのその先端で、2021年の今、震えている。

 

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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf