夜店より呼びかけらるることもなし
大串 章
秋葉原事件とガンディー 中島岳志
ダルマ~自分の果たすべき役割
トポス~ここに生きていて意味があると感じられるような場所
私はおそらく今の日本社会はこの「ダルマとトポス」を欠いてしまった世界であり、そのことが多くの問題を生み出していると考えています。
以前、『秋葉原事件』(2011)という本の中で書きましたが、今日本で急速に拡大している非正規雇用、特に派遣労働というのは、まさに「自分がここにいることの意味」を喪失した労働形態です。「あなたでなくても、同じ仕事をこなしてくれれば誰でもいい」と、人間を駒として扱うわけですから。そうした仕事に、しかもネットカフェから通うような生活は、「自分は何のために生きているのか」という意味づけを失わせます。
よく「俺たちの時代は貧乏で大変だった」という話をされる年配の方がいます。もちろん、それはそれで大変だったのでしょうが、そこにはある意味での「豊かさ」があったように思います。いくら貧乏な生活をしていても、仕事が大変でも「頑張れば田舎の家族を食べさせられる」「もっと楽な生活をできる」といった、「苦労する意味」「生きている意味」が明確に見えていたはずです。
今の若者たちが生きる世界は、そうした「意味」を見いだせない世界です。それはつまり、自分の「役割」や「生きる場所」--ダルマやトポスを欠いてしまっている世界だといえます。ガンディーなら、「それでは人間は生きられない」というでしょう。
ガンディーは、人間は誰でもダルマの中に生きなければいけない、その自覚を持つべきだと述べました。
各人がそれぞれ自分の光にしたがって真理を求めるのは、少しも間違ったことではあり ません。事実、そうすることが各人の義務(つとめ)です。
(『獄中からの手紙』 p14)
「100分de名著『獄中からの手紙』ガンディー」 中島岳志
「100年かけてやる仕事」書評 ルーツを読み解く 土台の言葉
ISBN: 9784833423151
発売⽇: 2019/03/13
サイズ: 20cm/301p
2013年にイギリスで100年以上の年月をかけて完成した「中世ラテン語辞書」。生きているうちに完成を見ない仕事に、時間と精力を注ぎ込んだ人たちの営みから、人間の「働く意味…
100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む [著]小倉孝保
2013年、連合王国(英国)で100年の年月をかけて『中世ラテン語辞書』が完成した。当時、ロンドンに駐在していた著者は「時を超える」働き方に興味を持つ。自分たちの生きている時代に完成しそうもない、自分たちが使うあてもない辞書をつくることになぜそれほど精力を傾けたのか。こうして取材が始まった。それが本書である。
マグナ・カルタもニュートンの論文も中世ラテン語で書かれている。第一、中世ラテン語は現在のヨーロッパ諸国のアイデンティティーのルーツを読み解く鍵なのだ。辞書編集はハチが花の上を飛ぶのに似ている。図書館が森、書棚が樹木、文献が花、編集者はハチ。西欧とそれ以外の世界を分ける基準がラテン語。連合王国の歴史は中世ラテン語によって記録されてきたので、この辞書の完成は、自分たちの歴史を理解する道具を手に入れたことになる。つまり必要だったから、多くの人が自分の時間の何分の1かを後世のために使ってきた。それは「青銅よりも永遠なる記念碑」なのだ。
翻って日本はどうか。日本の辞書は中国語を説明する形式から9世紀にスタートした。公(英国学士院)が関与した中世ラテン語辞書とは異なり、日本の辞書づくりは私(民間)の仕事であって、国が作った辞書は一冊もない。『言海』しかり、『大漢和辞典』しかり、『広辞苑』しかりなのだ。日本の言葉に対する危機感の薄さに、ある識者は警告を発する。「土台の言語を失った言語は脆弱になる」「アイヌ語を守らなくてはいけない。アイヌ語の絶滅は将来、日本語の存続を脅かすことを知るべきだ」と。中世ラテン語は土台の言葉なのだ。
現代の日本は、市場原理主義、スピード重視で何よりも効率を最優先する社会だ。しかし、市場経済では計れない価値が芸術や文化の世界には厳存している。働くことの意味を考えさせてくれる一冊だ。
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おぐら・たかやす 1964年生まれ。毎日新聞編集編成局次長。『柔の恩人』で小学館ノンフィクション大賞など。